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足利将軍撰『新百人一首』を読む(3) 藤原鎌足

3 玉くしげ御室戸山のさねかづらさねずは終に有とみましや  大織冠 【標註】 さねかつらは五味子にて、上句は只さねずといはん序なり 【出典】 〇続古今集・巻十三・恋三1146     だいしらず       大織冠   たまくしげみむろどやまのさねかづらさねずはつひにありとみましや 〇万葉集・巻二(国立国会図書館デジタルコレクション・西本願寺本)    内大臣(大織冠)藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首    93 玉匣覆乎安美開而行者君名者雖有吾名之惜毛   タマクシケオホフヲヤスミアケテイカハキミカナハアレトワカナノヲシモ    内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首 94 玉匣将見円山乃狭名葛佐不寐者遂尓有勝麻之目   タマクシケミムマトヤマノサネカツラサネスハツヰニアリカテマシモ    (或本歌曰玉匣三室外山乃)タマクシケムムロトヤマノ 〇古今六帖・巻六・草「さねかつら」3887      かまたりの内大臣   玉くしけみまとの山のさねかつらさねすはつゐにありとてまたん 【語釈】 〇玉くしげ 「くしげ」(櫛笥)は櫛や髪飾りを入れておく箱。「玉」は美称。枕詞として「見る」に掛かり、ここは「御室外山(みむろとやま)」を引き出す。また、「覆ふ」「開け」「蓋」などに掛かって、同音の言葉を引き出す。万葉集・西本願寺本の二文字目は「匣」の行書体である。これを「䢚」と誤って活字化している例がある。『万葉集』巻七「羇旅にして作れる歌九十首」1240「玉くしげみもろと山を行きしかば面白くしていにしへ思ほゆ」。〇御室戸山 中西進『万葉集辞典』(講談社文庫1985年)は「みむまどやま」(御馬処山)として掲げ、所在未詳とする。なお、京都府宇治市の「三室戸寺」は、宝亀元年(770年)光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建したものというが、この歌との関連は不明。〇さねかづら マツブサ科の常緑蔓性灌木。「サナカズラ」の転とも言われる。紅色の実をつける。茎の粘液は整髪に用い、「美男葛」という別名もある。『後撰集』巻十一・恋三700「名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」(三条右大臣)。なお、以前はモクレン科とされていた。「五味子」もマツブサ科の植物で、食用・薬用に利用される。〇さねずは 「さね」は、異性と寝る意味の「さぬ」の未然形。「ずは」は打消の仮定条件を表す。〇有とみ...

足利将軍撰『新百人一首』を読む(2) 聖武天皇

2 妹にこひ 吾のまつ原 みわたせば 汐干の方に たづなきわたる  聖武天皇 【標註】 妹にこひ云々、万葉集に天平十二年伊勢に行幸ありし時の御歌とあり。吾の松原は、吾松原ゆの誤りにて初句はまつに係る枕詞なり。只松原よりといへるにて、地名にあらずと本居翁の説なり。 【出典】 新古今集・巻十・羇旅897    天平十二年十月、伊勢国にみゆきしたまひける時  聖武天皇御製 いもにこひわかの松原みわたせばしほひのかたにたづなきわたる 万葉集・巻六    十二年庚辰冬十月、依大宰少弐藤原朝臣広嗣謀反発軍、幸于伊勢国之時、    河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首 1029河口之 野辺尓廬而 夜乃暦者 妹之手本師 所念鴨    天皇御製一首 1030妹尓恋 吾乃松原 見渡者 潮干之滷尓 多頭鳴渡    右一首、今案、吾松原在三重郡、相去河口行宮遠矣。若疑御在朝明行宮之時、    伝者誤之歟。 【語釈】 〇妹 「いも」と詠む。妻。男が妻を言うときの呼称。〇こひ 特定の異性に身も心も惹かれて恋しく思うこと。「妹にこひ」「君にこひ」のように、格助詞の「に」を伴う。〇わかの松原 「あがの松原」とも言う。伊勢国の四日市市から三重郡にかけての海岸。河口行宮は現在の津市白山町で、万葉集の左注の指摘通りかなり遠い。「松」に「待つ」を掛けるか。〇みわたせば 万葉集・巻十七3890「我が背子を吾松原よ見渡せば海女乙女ども玉藻刈る見ゆ」(三野連石守)。万葉集・巻七1160「難波潟潮干に立ちて見渡せば淡路の島に鶴渡る見ゆ」(作者未詳)。〇しほひのかた 万葉集・巻十五3595「朝開き漕ぎ出てくれば武庫の浦の潮干の潟に鶴が声すも」(天平八年)左注に「右八首乗船入海路上作歌」とある新羅への使いの歌群の中の一首。〇たづなきわたる 万葉集・巻三271「桜田へ鶴鳴き渡るあゆち潟潮干にけらし鶴鳴きわたる」(高市黒人)。万葉集・巻六919「若の浦に潮満ちくれば潟を無み芦辺をさして鶴鳴き渡る」(山辺赤人)。『枕草子』「鳥は」に「鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴く声雲居まで聞こゆる、いとめでたし」とある。  【作者】 〇聖武天皇 大宝元年(701)文武天皇の第一皇子として生まれた。母は藤原不比等の娘・宮子。神亀元年(724)24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位し、第45代天皇となった。皇后は不比等の娘光明子。天平...

足利将軍撰『新百人一首』を読む(1) 文武天皇

1 龍田川 もみぢみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなん  文武天皇 【標註】龍田川云々、古今に題しらず読人不知とありて、左註に此歌は或人奈良の帝の御歌なりとなん申すと註せり。 【出典】 古今集・巻第五・秋下283 題知らず 読人しらず    龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん       この歌は、ある人、奈良の帝の御歌なりとなむ申す 古今集・仮名序 古よりかく伝はるうちにも、平城の御時よりぞ広まりにける。かの御代や歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麻呂なむ歌の聖なりける。これは君も人も身を合はせたりといふなるべし。秋の夕、龍田川に流るる紅葉をば帝の御目には錦と見給ひ、春の朝、吉野の山の桜は、人麻呂が心には、雲かとのみなむ覚えける。(省略)平城の帝の御歌 龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ。 人麿 梅の花それとも見えず久方の天霧る雪のなべて降れれば 【語釈】 〇龍田川 生駒川が大和川と合流する付近の呼び名。万葉集には「龍田山」の歌は出てくるが、「龍田川」は出てこない。〇もみぢ 秋になって色づいた草木。落ち葉。〇みだれて いろいろな色が混じり合う様子。〇めり 視覚による推定を表す。〇わたらば 「渡る」はここは橋を使わないで川の対岸に行くこと。「未然形+ば」は仮定条件。〇錦 様々な色の糸で織った絹織物。〇たえなん 下二段動詞「絶ゆ」は途中で切れること。「たえ」は連用形。「な」は強意の助動詞「ぬ」の未然形。「ん」は推量の助動詞の連体形で係助詞「や」の結び。〇奈良の帝 「奈良」は「平城」や「なら」と表記されている時がある。奈良時代は、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の七代の天皇がいた。なお新日本古典大系『古今和歌集』の脚注は、「平城天皇とする説もあるが、奈良に都した文武天皇から平城天皇までのいずれかと広く解することもできる」と述べている。 【作者】 〇文武天皇 天武12年(683)草壁皇子を父、元明天皇を母として生まれる。持統天皇の譲位により、文武元年(697)即位、第42代天皇。大宝律令を制定し、施行した。聖武天皇の父。慶雲4年(707)24歳で崩御。  【訳】 龍田川に赤や黄色の紅葉が入り乱れて流れてゆくようだ。それはさながら美しい錦の織物であるが、今向こう岸へと渡ったならば、その錦の織物は途中で切れるだろうか。 ...

足利将軍撰『新百人一首』を読む(0) はじめに

 新企画ということです。暇で暇でしょうがないということが、その最大の動機でありまして、無鉄砲にもほどがあると自覚しています。 さて、『新百人一首』を読むと題しまして、足利義尚という方が撰んだ秀歌撰を読んでみたいと思います。『百人一首』についてあれこれ考えておりますと、時々、この『新百人一首』というものが話題の中に入ってくるのでありますけれども、よく考えてみると、見たこともないものでありまして、どんなものなのか五里霧中なのであります。『百人一首』については、藤原定家の日記『明月記』に歌を撰んだ記事があるわけで、どうもそれが『百人秀歌』という形で伝わっているとされます。それを改訂したものが『百人一首』で、江戸時代以降はかるたとして世の中に普及したわけです。例えば、夏目漱石の『こころ』を読むと、主人公とその友人Kと下宿のお嬢さん、その三人が『百人一首』のかるた取りに興じるところが出てきまして、物語の中の非常に重要な場面を構成していたりするわけです。近年も、『ちはやふる』という漫画がアニメ化され、さらに実写ドラマ化もされまして、世間に『百人一首』やらその競技かるたの様子が広く認知されているわけです。ただ、気になるのは、かるた取りをして遊んだとしても、和歌そのものが理解されるまでには至らないことです。考えてみたら古典でありますから、『源氏物語』や『枕草子』と同じで、学校で習うのはほんの少しでありますし、もともと古典文法という壁が立ちはだかるわけです。今では子供向けの解説書やら啓蒙書も出ておりますから、多少は手に取ってみたという人は多いことでしょう。 というような状況で、15年位前にあの震災をきっかけにして、芭蕉の俳句を知り、それが絶妙に『百人一首』の源俊頼の歌をもぢっておりましたので感銘を受けました。じゃあ、自分もやってみようと試みたら、案外簡単だったのであります。五七五七七を五七五に改めて見たら、元の和歌に対する理解が自分の中でぐんと進む感じがありまして、さらにその五七五に下の句の七七を付けてみると、これも楽しむことができたのであります。そして、従来の注釈が何となく物足りなくなりまして、だんだん深みにはまったのであります。 実は、若い学生の頃に水道橋の日本書房という古書店の棚に、『百人一首』の注釈書がまとめて出ているのに目をとめまして、10冊くらいを廉価で手に入れま...

岩波文庫『百人一首』を読む(104)『百人秀歌』90 藤原長方

秀90 紀の国の由良のみさきに拾ふてふ たまさかにだに逢ひ見てしがな  権中納言長方 【訳】紀伊の国の由良の岬で拾うという美しい珠、その珠ならぬたまにでもいいから、あの人に逢いたいなあ。 【出典】新古今集・巻十一・恋一・1075    (題しらず) 【解釈の要点】 ①『百人秀歌』の集付が「新」なので、伝冷泉為相筆『新古今和歌集』の和歌本文を引くと、「きのくにやゆらのみなとにひろふてふたまさかにだにあひみてしがな」で、一、二句が『百人秀歌』と異なる。撰者名注記のある本によれば、有家・定家・家隆の三名が記されている。家集『長方集』の和歌本文は「きの国やゆらのみさきにひろふてふたまさかにだにあふよしもがな』で、初句と第五句が『百人秀歌』と異なる。「恋」と題する歌群中の一首である。 ②「紀の国の由良のみさき」は現在の和歌山県日高郡由良町。『百人一首』46番曽禰好忠(『百人秀歌』47番)の歌に「由良の門」が出てきた。『万葉集』巻七の題詞「羇旅作」の作品群中に、1220「妹がため玉を拾ふと紀伊の国の湯羅の岬にこの日暮らしつ」(作者未詳)の歌がある。長方はこれを本歌とするような意識で「紀の国の由良のみさき(又は「みなと」)に拾ふてふ」と詠んだか。定家も『五代簡要』に「きのくにのゆらのみさき たまひろふ」と抄出しているから、関心を抱いていた歌枕であったと知られる。 ③上句が「たまさかに」を導く序詞となっている。「拾ふてふたま」から「たまさか」へと続けた。「たまさか」は、思いがけないさま、偶然の意。『万葉集』巻九1740の長歌「水江の浦の島子を詠みし一首」に「わたつみの 神の娘子に たまさかに(邂尓) い漕ぎ向かひ……」(高橋虫麻呂歌集)と詠まれている。 ④「逢ひ見てしがな」の「てしがな」は「……したいものだな」の意の連語。奈良時代には「てしかな」と清音だったという。『古今集』雑体・誹諧歌に「耳なしの山のくちなし得てしがな思ひの色の下染めにせむ」(読人不知)の例がある。 ⑤長方が建久二年(1191)53歳(52とも)で死去した時、定家は30歳だったから、長方の動静が『明月記』に記されることは多くない。その子宗隆・長兼や兼高に関する記事は多いし、『尊卑分脈』には載っていたないが、(貞永二年1233二月二日条に「其鴻才有識超于兄弟長于詩句」)彼等の姉の老尼の存在も知られる。拙著で定家が長...

岩波文庫『百人一首』を読む(103)『百人秀歌』76 源俊頼

秀76 山桜咲きそめしより久方の 雲井に見ゆる瀧の白糸  源俊頼朝臣 【訳】山桜が咲き始めてからは、空に白糸を懸けたように滝がかかって見えるよ。 【出典】金葉集・巻一・春・50    (宇治前太政大臣家歌合によめる) 【解釈の要点】 ①「滝の白波」という句は『万葉集』巻三313でも「み吉野の滝の白波知らねども語りし継げばいにしへ思ほゆ」(土理宣令)のように詠まれているが、「滝の白糸」は平安時代になってから詠まれるようになった歌句か。比較的早い例は紀貫之の『拾遺集』雑春1004「春くれば滝の白糸いかなれや結べどもなほ泡に見ゆらん」など。俊頼の家集『散木奇歌集』ではこの歌の他にも、「君恋ふと名には流れて音無の滝の白糸さは絶えねとや」、「山姫の峰の梢にひきかけてさらせる布や滝の白糸」など。 ②『金葉集』の詞書にいう「宇治前太政大臣家歌合」は、寛治八年(1094)八月十九日前関白太政大臣藤原師実が主催した『高陽院七番歌合』である。その桜・七番の左は摂津君(皇后宮摂津)の「散りつもる庭をぞ見まし桜花風より先に尋ねざりせば」で、右が俊頼のこの歌であった。勝負は持、判者は俊頼の父帥大納言経信で、判詞に「左の歌は、いと心ばへをかしう侍めり。右の歌きららかによまれたるやうに見給ふれば、持とこそは申さめ」という。 ③山桜が咲き始めてから空に見える滝というのは、山桜のことなのだと直ちにわかる。『後撰集』春下118「山桜咲きぬる時は常よりも峯の白雲立ちまさりけり」(読人不知)は、『亭子院歌合』での詠で作者は紀貫之とも藤原興風とも定かではない。俊頼はこの歌が「山桜」の「山」と「峯の白雲」の「峯」とが歌学でいう歌病の同心病になることを、『俊頼髄脳』で指摘している。この古歌を意識しつつ、病を避けてのびのび詠んだ歌か。 【補足】 2022年に青簡舎から出た『百人一首の現在』の中に「『百人秀歌』を読む」(中川博夫氏)として、注釈されています。そこでは、俊頼の歌に影響されて詠まれた「滝の白糸」の例が挙げられ、歌合の判者だった俊成が苦言を呈したことが指摘されています。また、定家が『初学百首』で詠んだ「水上に花や散るらむ吉野山にほひをそふる滝の白糸」を紹介しています。 【蛇足】 さて、『百人一首』にはない、しかし『百人秀歌』という秀歌撰に採られていた四首の歌を、岩波文庫本に従って読んでいますが、その三首目...

岩波文庫『百人一首』を読む(102)『百人秀歌』73 源国信

秀73 春日野の下もえわたる草の上に つれなく見ゆる春の淡雪  権中納言国信 【訳】春日野の下で一面に萌え出ている若草の上に、関りのない様子で消えずに残っている春の淡雪よ。 【出典】新古今集・巻一・春上・10    堀河院御時百首歌たてまつりけるに、残りの雪の心をよみ侍りける  【解釈の要点】 ①春日野は大和国、奈良市で若草山・三笠山の西麓に広がる台地をさす。「下もえわたる」の「下」は、意味的には第五句の「淡雪」の下をさす。「もえ」は草木が芽ぐむ意の動詞「萌ゆ」の連用形。「わたる」はここでは「もえ」に付いて「一面に……する」「……し続ける」という意を表す。同じ『堀河百首』で藤原公実が「早蕨」の題で「春日野の草は焼くとも見えなくに下もえわたる春のさわらび」と、同じ発音の「下燃えわたる」を掛けて詠んでいる。「下燃えわたる」の句は火に関して、「夜もすがら下もえわたる蚊遣火に恋する人をよそへてぞ見る」(能宣集)と詠まれ、恋を連想することが可能だが、国信のこの歌でも同じ連想は働いているか。次の「つれなく見ゆる」の「つれなく」は「連れ無し」を原義とする形容詞「つれなし」の連用形で、さりげない、関りがないという意味とともに、何も感じない、無情だという意味も持つようになる。「春の淡雪」は歌題の「残雪」を表すが、それは降り積もってもまもなく消えてしまう雪である。 ②『堀河院御時百首』、略して『堀河百首』の成立や全体の組織などについては、『百人一首』72祐子内親王家紀伊の項で述べた。(参考のため、一部を要約して引用すると次のようなことが指摘されていました。)藤原俊成が撰進した千載集の序文では三代集などの勅撰集と同様に重視されている最初の組題百首での作である。組題とはセットされた歌題を全作者が詠む方式のこと。本百首は堀河天皇の長治元年(1104)末頃から嘉承元年(1106)前半頃までに成立したらしい。『一宮紀伊集』はそれに最も深く関わった人として俊頼の名を挙げていて重要である。堀河天皇に献じられたこの百首は、作者は十六人に及び、女房では紀伊は肥後・河内らと共に出詠している。 ③『堀河百首』を進献された堀河天皇は嘉承二年(1107)七月に29歳で崩じた。天皇の側近で母方の叔父にあたる国信は天皇を偲んでこの百首から「祝詞」の題を除き、雑題を多く変えて、「恋昔百首和歌』を詠んだ。『源中納言懐旧...

岩波文庫『百人一首』を読む(101)『百人秀歌』53 藤原定子

秀53 夜もすがら契りしことを忘れずは 恋ひん涙の色ぞゆかしき  一条院皇后宮 【訳】お上が夜通しお約束なさいましたことをお忘れでないのでしたら、私を恋い偲んでお流しになる涙の色を拝見いたしとうございます。 【出典】後拾遺集・巻十・哀傷・536    一条院の御時、皇后宮かくれ給ひてのち、帳の帷の紐に結び付けられたる文を見付けたりければ、内にもご覧ぜさせよと覚しがほに、歌三つ書き付けられたりける中に  【解釈の要点】 ①一条天皇の皇后藤原定子の遺詠である。定子は、長保二年(1000)十二月十五日の夜、媄子内親王を出産直後、二十四歳で急逝した。『後拾遺集』の詳しい詞書は、あるいは『栄花物語』巻七「とりべ野」に拠ったか。 ②生前の定子が帳台の紐に結び付けておいたのを見ると、三首の歌が書かれてあった。その最初の歌がこの詠で、「知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎ立つかな」、「煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ」と続いていた。三首目の歌により、火葬ではなく、鳥部野に霊屋を作り十二月二十七日葬送が行われた。その夜は大雪になった。一条天皇は寝もやらず、「野辺までに心ばかりは通へどもわがみゆきとも知らずやあるらん」と思いながら夜を明かした。この歌は、『後拾遺集』第十哀傷543に、第二句「心ひとつは」、第四句「わがみゆきとは」として載った。「みゆき」は「行幸」に「深雪」を掛けている。 ③山中玲子は、一条天皇のこの歌を引いて、穢れを忌んで葬列に加われなかった帝が、心だけは鳥辺野までついて行き定子を見送っているが、降り積もる雪が私の行幸だと最後の言葉を贈ったのであり、帝の愛が雪となって降りしきるように見える、と想像している。『枕草子』で語られる定子は三歳年下の一条天皇の精神的成長を見守っていたが、後には天皇が定子を大きく包み込む側に回っていて、運命を静かに受け入れる潔さや強さが感じられると述べている。 ④定子がした行為は、『古今集』哀傷857に載る、閑院の五の皇女に倣ったもの。閑院の皇女が亡くなった時に、帳の帷子の紐に「かずかずに我を忘れぬものならば山の霞をあはれとは身よ」という歌を書いた文が結い付けてあった。 ⑤「夜もすがら契りしこと」という表現で連想されるのは、白楽天の『長恨歌』のおわり近くの句、「七月七日長生殿 夜半無人私語時 在天願作比翼鳥 在地願為連理枝...

岩波文庫『百人一首』を読む(100) 順徳院

100 百敷や古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり  順徳院御製 【訳】宮殿の古い軒端に生えている忍草を見て往時を懐古するにつけ、いくら偲んでも偲びきれない昔だなあ。 【出典】続後撰集・巻十八・雑下・1205    (題しらず)  【解釈の要点】 ①「百敷や」の「ももしき」は、「大宮」にかかる枕詞「ももしきの」から転じて、「宮中」「内裏」の意。古今集・雑下1000「山河の音にのみ聞くももしきを身をはやながら見るよしもがな」(伊勢)はその例。「や」は詠嘆の間投助詞。「しのぶ」は羊歯植物、ウラボシ科の草の軒忍。古今六帖・第六・しのぶぐさ「ひとりのみながめ古屋のつまなれば人をしのぶの草ぞ生ひける」、周防内侍の金葉集・雑上591「住みわびてわれさへのきの忍草しのぶかたがたしげき宿かな」のように、動詞「偲ぶ」を掛け、「古屋」との連想を呼ぶことの多い草。「あまりあり」は、「……しきれない」の意。催馬楽「東屋」に「東屋の 真屋のあまりの その雨そそき」と歌われ、軒の突出した先を「あまり」というので、「軒」の縁語。 ②家集『紫禁和歌草』で、建保四年(1216)秋頃試みた無題の「二百首和歌」の前半最後の歌である。ただし、実際は170首で、前半71首と後半99首の二群からなる。後鳥羽院の「人もをし」の歌と同じく、真観の私撰集『万代集』に入り、次いで為家が勅撰集の『続後撰集』に載せたのだが、『万代集』では巻十五雑二に詞書「百首御歌中に」、作者は「建保御製」、三句「しのぶぐさ」、『続後撰集』では巻十八雑下に、詞書は直前の源国信の歌の「題しらず」が掛かる形で、作者名は「順徳院御製」として載った。 ③『続後撰集』・雑下の巻頭歌は、弟順徳天皇に譲位後の土御門院が詠んだ堀河百首題の百首歌での詠、1203「秋の色ををくりむかへて雲のうへになれにし月もものわすれすな」で、その題は「懐旧」である。それに続く国信の1204「てる月の雲井のかげはそれながらありし世をのみ恋わたる哉」の歌も、堀河院なき後にその治世を懐かしんだ『源中納言懐旧百首』の詠だった。従って順徳院のこの歌も、為家は懐旧の歌と解して、このように並べたのだろう。 ④契沖の『改観抄』は同じく家集『紫禁和歌草』の「百敷や花も昔の香をとめて古き梢に春風ぞ吹く」という建保二年二月の歌を『新千載集』春下102から引き、「これもいにしへをしのび...

岩波文庫『百人一首』を読む(99) 後鳥羽院

99 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は  後鳥羽院御製 【訳】人もいとおしい、そして人も恨めしく思われる。世の成行きを思うがゆえに思い悩むこの身には。 【出典】続後撰集・巻十七・雑中・1202    題しらず  【解釈の要点】 ①「をし」は愛惜する気持ちをいう形容詞で、ここでは「いとおしい」の意。「あぢきなし」は、よくないとわかっていても自身ではどうしようもない状態などをいう形容詞。『源氏物語』須磨の巻で、源氏の須磨への退去を心の内では同情しながら、時の権威を恐れて源氏に近付かない人々のことを、源氏は「人わろく恨めしき人多く、世中はあぢきなきものかなとのみ、よろづにつけて思す」と語る。「世を思ふ」という句を釈教的な意味ではなく、国政に関わりそうな意で用いた歌は、西行の『山家集』巻末百首の「述懐十首」の内、「古りにける心こそなほあはれなれ及ばぬ身にも世を思はする」という一首などが思い合わされる。 ②建暦二年(1212)33歳になった後鳥羽院は、十二月の初めに四人の廷臣(藤原定家・同家隆・同秀能と不明の一名)に二十首歌を詠進させ、自らも春五首・秋十首・述懐五首の計二十首を詠み、廷臣たちの作品と合わせて、「五人百首」と称した。 ③「人心うらみわびぬる袖のうへをあはれとや思ふ山の端の月」、「いかにせむ三十あまりの初霜をうちはらふほどになりにけるかな」、「人もをし人もうらめし……」などの「述懐五首」の他、「春」でも「なれなれて雲井の花を見し春の木の間もりこし月ぞ忘れぬ」と、帝位に在った幼い日を懐かしみ、「秋」でも「去年よりも秋の寝覚ぞなれにけるつもれる年のしるしにやあらん」、「年ふれば秋こそいたくかなしけれつもれる年のしるしにやあらん」、「年ふれば秋こそいたくかなしけれ露にかはれる色は見えねど」などと、老いの自覚を深めていた。そして年を経て、「人もをし」の歌が宝治二年(1248)真観(藤原光俊)初撰の私撰集『万代和歌集』に入り、次いで建長三年(1251)十月、定家の男為家が後嵯峨院に奏覧した『続後撰和歌集』巻十七・雑歌中の巻軸歌として、「題しらず」の詞書を付して載せられた。 ④晋の潘岳と同じく、「三十あまりの初霜」を「いかにせむ」と二毛の嘆きをする院の心は、しばしば「人もをし人もうらめし」と反転を繰り返したのであろう。それを「世を思ふゆゑに物思ふ身」と...

岩波文庫『百人一首』を読む(98) 藤原家隆

98 風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりけり  従二位家隆 【訳】風が楢の広葉を吹きそよがせる、上賀茂の御社の御手洗川、楢の小川のほとりの夕暮れは、さながら秋を思わせる涼しさ。みそぎをしているのが、かろうじて夏であることのしるしだ。 【出典】新勅撰集・巻三・夏・192    (寛喜元年女御入内屏風) 正三位家隆  【解釈の要点】 ①『百人秀歌』の作者名は「正三位家隆」である。 ②「ならの小川」は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境内を浅く流れる御手洗川。昔、楢(奈良)社という社があって、その後を流れるので名付けたらしい。歌の景としては、両岸に立ち並ぶ葉広な「楢の葉柏」を思い描いてよいだろう。『古今六帖』第一に見え新古今集・恋五1376に入る「みそぎするならの小川の川風に祈りぞわたる下に絶えじと」(八代女王)を本歌としつつ、後拾遺集・夏231「夏山の楢の葉そよぐ夕暮はことしも秋の心地こそすれ」(源頼綱)をも念頭に置いた月次屏風、六月祓の歌。 ③下河辺長流の『三奥抄』は「みそぎする」の歌を引き、契沖の『改観抄』はそれに「夏山の」の歌を加えた。賀茂真淵の『宇比麻奈備』、香川景樹の『百首異見』は『改観抄』に同じ。寛喜元年(1229)十一月十六日、関白藤原(九条)道家女竴子が後堀河天皇の女御として入内した。定家は道家に命じられてその際の屏風歌の撰定に関わり、家隆の屏風歌について、『明月記』に「六月祓許尋常也」(十一月十四日条)と書いている。 ④摂関家の慶事を飾る屏風歌は「晴」の歌である。爽涼感の横溢するこの歌は、その点で申し分ない。家隆の家集『玉吟集』には「述懐歌あまたよみ侍りし時」という詞書の作品群中に「水無月の神もうけずやなりぬらんけふのみそぎはする人もなし」という一首がある。「けふ」は、たとえ実際にその日に詠まれたのではないとしても、承久三年(1221)六月晦(二十九日)を意味することは前後から明らか。承久の兵乱に東軍を率いる北条時房・泰時が六波羅館に進駐したのは六月十六日のことであった。『吾妻鑑』によれば二十九日は安東光成が六波羅に着いて、「洛中城外謀反之輩可被断罪条々」を具申し、時房・泰時らは「関東事書」を読んで、人々と評議をしている。 ⑤『京極中納言相語』によれば、家隆は晩年、定家の門弟の藤原長綱に、自分が俊成に歌を見てもらったら、「今は御歌おもしろから...

岩波文庫『百人一首』を読む(97) 藤原定家

97 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ  権中納言定家 【訳】淡路島。松帆の浦の夕暮れ時。わたしはいくら待ってもやってこないつれない恋人を待ち続ける。夕凪の空にまっすぐに立ち昇る藻塩焼く煙のように、身も恋心にじりじりと焦がれながら……。 【出典】新勅撰集・巻十三・雑三・849    (建保六年内裏歌合、恋歌)  【解釈の要点】 ①「来ぬ人を待つ松帆浦」と掛詞で下に続く。松帆の浦は万葉集・巻六935で笠金村が「名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘子ありとは聞けど……」と長歌に詠んだ。淡路島の北端、明石海峡を隔てて明石と対する所。 ②『百人秀歌』では実朝の「世の中はつねにもがもな」の次の歌が藤原家隆の「風そよぐならの小川の」の歌で、定家のこの歌はその次に位置する。『新勅撰集」では前内大臣(源通光)の歌の次で、従って詞書は「建保六年内裏歌合……」が掛かる。通光や定家の詠が披講された歌合は証本も存し、『順徳院御記』から建保四年(1216)閏六月九日、順徳天皇の内裏で催され、衆議判で定家が後日判詞を加えた全百番の歌合と知られる。定家は家集『拾遺愚草』でも「建保四年」の詠として載せている。『新勅撰集』の成立過程が曲折を極めた痕跡か、「建保六年」と誤っている。 ③この建保四年内裏歌合では、題は四季と恋各二首で、一人が十首を詠み、二十名の作者が左右に分かれ、作者の組み合わせは固定した方式だった。主催者の順徳天皇は左、定家は右で、定家のこの歌は九十一番右の歌、左の歌は「寄る浪の及ばぬ浦の玉松のねにあらはれぬ色ぞつれなき」、定家が記した判詞は「「及ばぬ浦の玉松」及びがたく、ありがたく侍る由、右方申し侍りしを、常に耳馴れ侍らぬ「松帆の浦」に勝の字を付けられ侍りにし、何ゆゑとも見え侍らず」というので、衆議判とはいうものの、天皇の発言で勝負が決まった。 ④定家は承元三年(1209)に撰した『五代簡要』の万葉集・巻第六で「あはぢしままつほのうら」と書抜いている。発想は藤原秀能の「夕恋」の歌、新古今集・恋二1116「藻塩焼く海人の磯屋のゆふけぶり立つ名もくるし思ひたえなで」にも酷似している。この秀能の作は定家・雅経が選歌している。『後鳥羽院御口伝』によると秀能を定家は見下していたらしいが、この後輩から影響されて...

岩波文庫『百人一首』を読む(96) 藤原公経

96 花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆく物は我身なりけり  入道前太政大臣 【訳】桜花を誘って散らす山風が吹きおろす庭に散り降る花片の雪、それではなくて、年とともに古くなってゆくものは、他ならぬこの私の身体だったのだ。 【出典】新勅撰集・巻十六・雑一・1052    落花をよみ侍ける  【解釈の要点】 ①「入道太政大臣」は藤原公経。『百人秀歌』では全101首の最後、巻軸の歌である。 ②「花さそふあらし(風)」はこれまでも歌に詠まれてきている。新後拾遺集・春下114「花さそふ風は吹くとも九重のほかにはしばし散らさずもがな」(謙徳公)は一条摂政伊尹の真作かあやしい。和泉式部から見え、院政期和歌には多くなる。和泉式部続集「花さそふ春のあらしは秋風の身にしむよりもあはれなりけり」、金葉集・春57「花さそふあらしや峰を渡るらん桜波よる谷川の水」(源兼雅)、正治初度百首「花さそふあらしに春の空さえて枝よりつもる庭の白雪」(惟明親王)、新古今集・春下145「花さそふなごりを雲に吹きとめてしばしはにほへ春の山風」(藤原雅経)など。公経の「花さそふあらし」はこれらの影響下にあるか。 ③「花さそふあらしの庭の雪」は、凝縮した表現。「あらしの庭」という句は、玉葉集に一例ある。「庭の雪」は多い。「ふり」は「降り」「古り」の掛詞。「花」とわが「身」とに掛けて「ふりゆく」といった人としては、これ以前に定家がいた。新古今集・雑上1455「春を経てみゆきに馴るる花の陰ふりゆく身をもあはれとや思ふ」。これ以前にも「ふりゆく身」という句は、斎宮女御集「いま幾日ありとも見えぬ年よりもふりゆく身こそかなしかりけれ」、後拾遺集・雑四1074「いにしへにふりゆく身こそあはれなれ昔ながらの橋を見るにも」(伊勢大輔)などと、女性たちによって詠まれている。 ④「我身なりけり」の句も、多くの歌人に詠まれてきた。『和泉式部集』に「あはれなる事」の句に始まる五首の連作群があるが、その最初に「あはれなる事をいふにはいたづらにふりのみまさるわが身なりけり」と詠んだ歌が、公経のこの歌に通う。道因の新古今集・冬586「晴れ曇り時雨はさだめなき物をふりはてぬるはわが身なりけり」も、公経の記憶にあったか。 ⑤下河辺長流の『三奥抄』に「ふり行は、雪のゑん、亦雪につけて、黒かみのかはる色をもそへよめる成べし」と考え、その頭書に「あら...

岩波文庫『百人一首』を読む(95) 慈円

95 おほけなく憂き世の民におほふ哉 我立つ杣にすみぞめの袖  前大僧正慈鎮 【訳】身の程知らずなことに、わたしは国家を鎮護する比叡山に住み、墨染の衣をまとう身の僧として、その衣の袖で、広く現世の衆生を覆い包むのだ。 【出典】千載集・巻十七・雑中・1137    題不知 訪印慈円  【解釈の要点】 ①『百人秀歌』では作者名を「前大僧正慈円」とする。『百人一首』での「慈鎮」は慈円の諡号(贈り名)である。 ②「おほけなく」は形容詞「おほけなし」の連用形。「おほけなし」は、身の程知らず、また、似合わしくないの意。散文での用例が多く、歌語としての用例は少ないか。勅撰集では本例の他には、拾遺集・雑下・長歌574に載る、藤原兼家(東三条太政大臣)が「円融院御時、大将はなれ侍て後、久しく参らで奏せさせ侍ける」の詞書を有する述懐の長歌の、「……玉の光を 誰か見むと 思心に おほけなく 上つ枝をば さし越えて 花咲く春の 宮人と なりし時はは いかばかり しげき蔭とか 頼まれし……」のみ。 ③「我立つ杣に」は、新大系『千載集』や『慈鎮和尚自歌合』では「わがたつそまの」。「杣に」だと第二句の「民に」と揃うのを避けて改めたか。『拾玉集』では「杣に」なので、ここでも改めなかった。時雨亭文庫本『百人一首』も「そまに」。『百人秀歌』は「そまの」の「の」を消して、「に」とする。 ④「我立つ杣」は、伝教大師(最澄)が「比叡山中堂建立の時」の詠、新古今集・1920「阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわがたつ杣に冥加あらせたまへ」により、比叡山の意。「我立つ杣」の用例は、勅撰集では『千載集』の本例を初めとして、計14例。「わがたつ杣木」が1例。中世、十三代集から多くなる歌語。「(わがたつ杣に)住み」から「墨染」へと続ける。「墨染の袖」は、黒く染めた衣服の袖、また、黒衣、僧衣や喪服をさす歌語。「墨染の衣」「墨染の袂」とも。後撰集・哀傷1404「墨染の濃きも薄きも見る時は重ねて物ぞかなしかりける」(京極御息所)のように、単に「墨染」ともいう。「立つ」に「袖」の縁語「裁つ」を響かせる。 ⑤袖で何かを覆って保護するという発想は、後撰集・春中64「大空におほふばかりの祖でもがな春咲く花を風にまかせじ」(読人不知)、源氏物語・澪標「ひとりして撫づるは袖のほどなきに覆ふばかりの陰をしぞ待つ」(明石上)などの作に見られた。「...

岩波文庫『百人一首』を読む(94) 藤原雅経

94 み吉野の山の秋風さ夜ふけて 故郷寒く衣うつなり  参議雅経 【訳】夜がふけるにつれて吉野山から吹いてくる秋風は寒い。古都の里は冷え込んで、どこからともなく衣を打つ音が聞こえてくる。 【出典】新古今集・巻五・秋下・483    擣衣の心を 藤原雅経     【解釈の要点】 ①家集の『明日香井集』によれば、建仁二年(1202)八月、33歳だった藤原雅経が詠んだ百首歌の秋二十首中の一首である。新古今集の詞書で「擣衣」の歌としたのは新古今集編集の段階で加えられたもの。百首そのものは応制和歌のような位署書きを伴っているが、実際に後鳥羽院に詠進されたかわからない。 ②下河辺長流の『三奥抄』は古今集・冬325坂上是則の「み吉野の山の白雪つもるらしふるさと寒くなりまさるなり」が本歌であるとし、「本歌の古郷はならの京をいへり。此古郷は吉野の里のこころなり」と注し、さらに古今集・冬321「古里は吉野の山し近ければひと日もみ雪降らぬ日はなし」(読人不知)を引く。契沖の『改観抄』はそれを踏襲した。『三奥抄』はさらに「楽天が擣衣の詩に、北斗星前横旅鴈、南楼月下擣寒衣と作れる詞にもおのづから相かなへり」ともいう。『和漢朗詠集』上・秋・擣衣に載る詩句だが、作者は劉元叔で、「楽天」とするのは誤り。 ③解釈上の問題点は、この「ふるさと」はどこかということである。近世での注釈はすべて吉野の里をさすという点では一致しているのだが、賀茂真淵の『宇比麻奈備』は「吉野にふる里といふは、吉野の蜻蛉野の離宮のあとの事也。此宮上つ代より有しを、斉明天皇造り改め給ひ、天武・持統のすべらぎも度度みゆきし給ひし也。それを今の京となりてはあらされしかば、よしのの古里とはいへり」、香川景樹の『百首異見』は「こは故郷のよし野の山とよめる故郷にて、きはめて山のあたりとすべし」など、ニュアンスはそれぞれ異なる。 ④『宇比麻奈備』に、万葉集・巻一74「み吉野のあらしの風の寒けくにはたや今夜も我が独り寝む」(作者未詳、左注に文武天皇ともいう)の第二句を「山下風能」と訓んで引き、「……ともよみたるに、古里ならんはいとど哀なるべし」という。 ⑤『野ざらし紀行』「碪打てわれに聞かせよや坊が妻」は、この雅経の歌に触発された芭蕉の句。前書に「ある坊に一夜をかりて」とある。 ⑥雅経の生涯を思うと、改めて人生の不思議さを感じさせられる。源平の...