足利将軍撰『新百人一首』を読む(2) 聖武天皇

2 妹にこひ 吾のまつ原 みわたせば 汐干の方に たづなきわたる  聖武天皇


【標註】

妹にこひ云々、万葉集に天平十二年伊勢に行幸ありし時の御歌とあり。吾の松原は、吾松原ゆの誤りにて初句はまつに係る枕詞なり。只松原よりといへるにて、地名にあらずと本居翁の説なり。


【出典】

新古今集・巻十・羇旅897

   天平十二年十月、伊勢国にみゆきしたまひける時  聖武天皇御製

いもにこひわかの松原みわたせばしほひのかたにたづなきわたる

万葉集・巻六

   十二年庚辰冬十月、依大宰少弐藤原朝臣広嗣謀反発軍、幸于伊勢国之時、

   河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首

1029河口之 野辺尓廬而 夜乃暦者 妹之手本師 所念鴨

   天皇御製一首

1030妹尓恋 吾乃松原 見渡者 潮干之滷尓 多頭鳴渡

   右一首、今案、吾松原在三重郡、相去河口行宮遠矣。若疑御在朝明行宮之時、

   伝者誤之歟。


【語釈】

〇妹 「いも」と詠む。妻。男が妻を言うときの呼称。〇こひ 特定の異性に身も心も惹かれて恋しく思うこと。「妹にこひ」「君にこひ」のように、格助詞の「に」を伴う。〇わかの松原 「あがの松原」とも言う。伊勢国の四日市市から三重郡にかけての海岸。河口行宮は現在の津市白山町で、万葉集の左注の指摘通りかなり遠い。「松」に「待つ」を掛けるか。〇みわたせば 万葉集・巻十七3890「我が背子を吾松原よ見渡せば海女乙女ども玉藻刈る見ゆ」(三野連石守)。万葉集・巻七1160「難波潟潮干に立ちて見渡せば淡路の島に鶴渡る見ゆ」(作者未詳)。〇しほひのかた 万葉集・巻十五3595「朝開き漕ぎ出てくれば武庫の浦の潮干の潟に鶴が声すも」(天平八年)左注に「右八首乗船入海路上作歌」とある新羅への使いの歌群の中の一首。〇たづなきわたる 万葉集・巻三271「桜田へ鶴鳴き渡るあゆち潟潮干にけらし鶴鳴きわたる」(高市黒人)。万葉集・巻六919「若の浦に潮満ちくれば潟を無み芦辺をさして鶴鳴き渡る」(山辺赤人)。『枕草子』「鳥は」に「鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴く声雲居まで聞こゆる、いとめでたし」とある。 


【作者】

〇聖武天皇 大宝元年(701)文武天皇の第一皇子として生まれた。母は藤原不比等の娘・宮子。神亀元年(724)24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位し、第45代天皇となった。皇后は不比等の娘光明子。天平12年(740年)9月には藤原広嗣の乱が起こり、乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま11月恭仁京へ遷都を行う。仏教を信仰し、全国に国分寺・国分尼寺を設置、東大寺を創建した。天平勝宝元年(749)譲位し、沙弥勝満と法号を称した。天平勝宝8年(756)56歳で崩御している。なお、恭仁京の造営は中止され、紫香楽宮や難波京を経て天平17年(745)に平城京に還都した。


【訳】

私の帰りを待つ愛しい最愛の妻を思って、この吾の松原を、遠くはるばる見渡すと、潮が引いた後の干潟に、(再会も間近いと告げるように)鶴が鳴きながら渡るのが見えることよ。


【参考】

萬葉集・巻六

   神亀元年甲子の冬十月五日、紀伊国にいでましし時に、山部宿祢赤人の作れる歌一首

   併せて短歌

917やすみしし わご大君の 常宮と 仕へまつれる 雑賀野ゆ 背向に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ尊き 玉津島山

   反歌二首

918沖つ島荒磯の玉藻潮干満ちてい隠りゆかば思ほえむかも

919若の浦に潮満ちくれば潟を無み芦辺をさして鶴鳴き渡る

   右は、年月を記さず。ただ玉津島に従駕すといへり。因りて今行幸の年月を検へ注して以ちて載す。


【蛇足】

今回テキストにいたしましたのは、『標註七種百人一首』という明治二十六年(1893)にでた本で、著者は佐々木信綱、発行元は東京日本橋区本町三丁目の博文館です。この本の最初の所に、「緒言」として序文がありますが、それを紹介いたします。途中に「えぞの千島・つくしの果」と出てきまして、これは「蝦夷の千島・筑紫の果」で、日本列島の最北端と最南端を表現しておりまして、時代を感じさせます。

百人一首のあまねく世に行はるる事は、今更にいふまでもなけれど、牛ひく童、糸くる少女の、一文字をだに知らぬものも、皆そらにうかべて忘るる事なきは、何時の頃よりか。一巻の書となし、絵をさへ加へて世にひろくなしつるに、おのづから目なれやすくて、童べの心にかなへる故なるべし。しかあるのみにあらず、かの歌がるたといふものをさへ調じいでて、こよなきもてあそびものとなせりしかば、いよいよますます都鄙に行なはれて、老若男女ともに、歌といへばまづ百人一首と心得るやうになり、えぞの千島・つくしの果にもゆきわたれるなりけり。さるに彼の百首に、名だたる人のもれたるがいと多く、はた後の世につぎつぎいできたる歌仙すくなからねば、それらの歌を撰びつどへたる新百人一首、後撰百人一首のたぐひありといへど、其の名をだに知る人少なき事、いといとあかぬ限りなれば、こたびさるたぐひにわが撰びしをも加へて、この七種百人一首を世に出しつるなり。いで今一種ごとに、いささかその解題をものせん。

まづ百人一首は、飛鳥井家の抄に云ふ、此の百首は京極黄門小倉山荘の障子の色紙の歌なり。それを世に百人一首と号するなり。(中略)

新百人一首は、常徳院義尚公の撰なり。聖護院道興法親王の奥書に、そのよしを記して、奥に「小倉山の時雨ふりにしいにしへの跡にもこゆる言の葉ぞこれ」。文明十五年神無月下四日燈のもとにて筆を染めをはりぬとあり。文明は後土御門天皇の御代の年号、義尚は足利九代の将軍なり。

(以下略)


さて、『万葉集』巻六にあった歌ですが、実は『古今六帖』にも平安時代の秀歌撰などにも採られることなく、『新古今集』に採用された歌であります。もとより、精査して言っていることではありませんので、間違っていたら訂正したいと思います。若き将軍義尚公は、どうしてこのようなマイナーな歌を採用したのか、あれこれと探ってみますと、なかなかどうして、この将軍様は『万葉集』の巻六などを愛読なさっていたのではないかと思います。そして、文武天皇の子であった聖武天皇の時代に、山部赤人や大伴家持という歌人たちを重用していたというような事実に関心を抱いて、家持と一緒に天平12年(740)に詠んだ歌を採用したということになります。そして、その歌のお手本は、即位して間もないころである神亀元年(724)に赤人が詠んだ「若の浦に」(万葉集919)という有名な歌でありますから、そうした背景を室町時代の将軍様がどういう形で誰から学んだのか、非常に興味を惹かれるものがあります。

参考に上げました神亀元年(724)の赤人の「若の浦に」の歌でありますけれども、たとえば斎藤茂吉の『万葉秀歌』(岩波新書1938年刊)などをみると、「この歌は、古来有名で、叙景歌の極致とも云はれ、遂には男波、女波、片男波の連想にまで拡大して通俗化せられたが」という解説がありまして、ああ、世間ではこれは叙景歌なのかと驚くわけです。即位したての天皇の行幸に供奉して詠んだ歌が、単なる叙景歌ということがあるのに腰を抜かします。人生に一度だけ腰を抜かしたことがあるので、実感を持って言えますけれども、驚いて意識が飛びます。満潮になると足場を求めて鶴が移動するわけで、そのとき声が響き渡るわけです。聖武天皇の即位によって、時が来たことを臣下が胸に刻んでいるという、寿ぎの歌ではないかと思いますが、いかがなものでしょう。だとすれば、天平12年(740)藤原広嗣の乱の終息を河口行宮で聞いたということですから、家持は「河口の野辺に廬りて夜の経れば妹が手本し思ほるゆかも」と詠みまして、ああこれで妻の手枕で眠れますと安堵して見せましたので、聖武天皇は赤人の歌を下地に、河口行宮から見えるはずもない「吾の松原」を持ち出して、私の帰りを待つ愛しい最愛の妻を思っていると自分も唱和して見せたのであります。臣下がふたたび自分のもとになびいてくれたらいいなというような、危機が去って安堵した心境ではないでしょうか。家持の歌も聖武天皇の歌も、単なる妻を慕う歌ではありませんし、そういう目で赤人の歌を吟味すると、これもまた純粋な叙景歌であるはずがないのであります。

  赤人に 寿がれしを なつかしみ 今家持と 落ち居ぬるかな(粗忽)

  あかひとに ことほがれしを なつかしみ いまやかもちと おちゐぬるかな

【訳】即位した身を、山部赤人に「たづなきわたる」と祝ってもらった昔を懐かしく思い出し、広嗣の乱が片付いたと今ようやく聞いて、家持と一緒に安堵して「たづなきわたる」と詠む余裕ができたことよ。ああ、命拾いをしたことだ。


『万葉集』の歌について考えたり、通説に茶々を入れる日が来るとは思いませんでした。ほんのひと時考えたことですが、当たっていたらどういたしましょうか。腰を抜かしたのは、那須連峰の茶臼岳が見えるような高原で、道端の栗の木が実っているのに気が付いて近付いた時に、その栗の木が大きく揺れました。熊だ、と思って腰を抜かしたのであります。実は局地地震だったみたいですが、地震報道があったわけでもなく、どうして揺れたのか本当の所は謎です。50年くらい前の話ですが、アスファルトの上にへたり込んだのを今でも思い出します。

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