足利将軍撰『新百人一首』を読む(3) 藤原鎌足
3 玉くしげ御室戸山のさねかづらさねずは終に有とみましや 大織冠
【標註】
さねかつらは五味子にて、上句は只さねずといはん序なり
【出典】
〇続古今集・巻十三・恋三1146
だいしらず 大織冠
たまくしげみむろどやまのさねかづらさねずはつひにありとみましや
〇万葉集・巻二(国立国会図書館デジタルコレクション・西本願寺本)
内大臣(大織冠)藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首
93 玉匣覆乎安美開而行者君名者雖有吾名之惜毛
タマクシケオホフヲヤスミアケテイカハキミカナハアレトワカナノヲシモ
内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首
94 玉匣将見円山乃狭名葛佐不寐者遂尓有勝麻之目
タマクシケミムマトヤマノサネカツラサネスハツヰニアリカテマシモ
(或本歌曰玉匣三室外山乃)タマクシケムムロトヤマノ
〇古今六帖・巻六・草「さねかつら」3887
かまたりの内大臣
玉くしけみまとの山のさねかつらさねすはつゐにありとてまたん
【語釈】
〇玉くしげ 「くしげ」(櫛笥)は櫛や髪飾りを入れておく箱。「玉」は美称。枕詞として「見る」に掛かり、ここは「御室外山(みむろとやま)」を引き出す。また、「覆ふ」「開け」「蓋」などに掛かって、同音の言葉を引き出す。万葉集・西本願寺本の二文字目は「匣」の行書体である。これを「䢚」と誤って活字化している例がある。『万葉集』巻七「羇旅にして作れる歌九十首」1240「玉くしげみもろと山を行きしかば面白くしていにしへ思ほゆ」。〇御室戸山 中西進『万葉集辞典』(講談社文庫1985年)は「みむまどやま」(御馬処山)として掲げ、所在未詳とする。なお、京都府宇治市の「三室戸寺」は、宝亀元年(770年)光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建したものというが、この歌との関連は不明。〇さねかづら マツブサ科の常緑蔓性灌木。「サナカズラ」の転とも言われる。紅色の実をつける。茎の粘液は整髪に用い、「美男葛」という別名もある。『後撰集』巻十一・恋三700「名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」(三条右大臣)。なお、以前はモクレン科とされていた。「五味子」もマツブサ科の植物で、食用・薬用に利用される。〇さねずは 「さね」は、異性と寝る意味の「さぬ」の未然形。「ずは」は打消の仮定条件を表す。〇有とみましや 生きていられると思うだろうか、いや生きていられるとは思わない。「まし」は反実仮想の助動詞。「や」は反語。〇大織冠 古代の冠位の最高位。大化三年(647)7色13階を制定し、後に19階、26階となったが、最高位は大織冠のままであり、これを与えられたのは藤原鎌足のみであった。
【作者】
〇大織冠 藤原鎌足をさす。元々は中臣氏の一族で中臣鎌子だが、後に鎌足に改名。推古天皇22年(614)に生まれ、天智天皇八年(669)に56歳で没した。蘇我氏を滅ぼし、大化の改新を断行した。臨終に際して、天智天皇から大織冠とともに藤原姓を賜った。
【訳】
そなたの言う玉くしげを、開けて見るの「み」ではないが、御室戸山に実っているあのさねかづらでもないが、そなたと共寝をしなくなったら、この身は結局のところ生きていられると思うだろうか、いや私は生きていられるとは思わない。
【参考】
〇斎藤茂吉『万葉秀歌』(岩波新書1938年)
内大臣藤原卿(鎌足)が鏡王女へ贈つた歌であるが、王女が鎌足に『たまくしげ覆ふを安み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも』という歌を贈つた。櫛笥の蓋をすることが楽にできるし、蓋を開けることも楽だから、夜の明けるの『明けて』に続けて序詞としたもので、夜が明けてからお帰りになると人に知られてしまひませう、貴方には浮名が立つてもかまはぬでせうが、私には困ってしまいます、どうぞ夜の明けぬうちにお帰りください、というので、鎌足のこの歌はそれに答へたのである。
『玉くしげ御室の山のさなかづら』迄は『さ寝』に続く序詞で、また、玉匣をあけて見むといふミから御室山のミに続けた。或はミは中身のミだとも云はれて居る。御室山は即ち三輪山で、『さな葛』はさね葛、美男かづらのことで、夏に白つぽい花が咲き、実は赤い。そこで一首は、さういふけれども、おまへとかうして寝ずには、どうしても居られないのだ、というので、結句の原文『有勝麻之自』は古来種々の訓のあつたのを、橋本(進吉)博士がかく訓んで学会の定説となつたものである。(中略)この儘かうして寝てをるのでなくてはとても我慢が出来まいといふのである。
〇『万葉集』巻四484
難波天皇の妹の大和にいます皇兄にたてまつれる歌一首
ひと日こそ人も待ちよき長き日をかく待たゆるはありかつましじ
〇『万葉集』巻二95
内大臣藤原卿の采女安見児を娶きし時に作れる歌一首
われはもや安見児得たり皆人の得難にすといふ安見児得たり
【蛇足】
今回テキストにいたしましたのは、『標註七種百人一首』という明治二十六年(1893)にでた本で、著者は佐々木信綱、発行元は東京日本橋区本町三丁目の博文館です。
末句「有とみましや」は、『続古今集』の「ありとみましや」に従っていると思われます。『万葉集』の西本願寺本は、「有勝麻之目」とありまして、これを「アリカテマシモ」と訓じていますが、最後の「目」を「自」の誤りと考えて「ありがてましじ」と訂正したのが橋本進吉だと斎藤茂吉が指摘しています。「ましじ」については、橋本進吉の弟子である大野晋氏が、『岩波古語辞典』において、
「まじ」の古形で奈良時代に使われた。動詞・助動詞の終止形について「当然…すべきでない」「…することができないだろう」「…するはずがない」という否定の推量をあらわす。
と解説して、この『万葉集』94の鎌足の歌も例に挙げております。中西進『万葉集全訳注原文付』(講談社文庫)は、底本の「目」を「自」に改めたことを断りつつ、「ありかつましじ」と訓読して次のようにこの歌を解釈しています。
玉くしげを開けて見る、みむまど山のさな葛のような共寝を、しないでいることは、私にはできないだろう。
『新百人一首』を撰んだ足利義尚公は、テキスト自体は『続古今集』に従ったようですが、『万葉集』の原文を知っていたかどうかは、不明です。それにしても、藤原鎌足の歌というのは、『万葉集』に二首しかありませんので、そこに目をとめて修辞のきいた一首を採用したということになるでしょうか。もう一首は【参考】に挙げましたが、この歌は勅撰集などには入っていない歌です。というか、率直過ぎて歌になっていないようにも思われます。
それから、西本願寺本の「玉匣」という表記ですが、この「匣」の行書体を見誤って、あまり意味のない漢字にして掲載している本がありまして、さて、これは迂闊にこうしてしまったのか、それとも意図的に誤字を入れておいて剽窃をあぶりだす作戦だったのか、つまらないことを考えてしまいました。しんにょうに「更」の字というのは、ないことはないんですけれども、まったく意味をなしませんので、しんにょうの漢字を漢和辞典で色々調べ、さらには『くずし字解読辞典』(近藤出版社1970年)まであれこれ眺めましたが、ふと「匣」の崩しじゃないのかと思いつきまして、あっさり解決しました。つまり、はこがまえの筆順は、匚を最初に書くのではなくて、上の横棒を書いてから、中の造りの部分(この場合なら甲)を書きまして、それから残りのエル字を書くんですね。そのエルの部分(L)が、崩し字だとしんにょうに見えるということなのです。ちなみに、はこがまえの漢字は「匠・匣」くらいがポピュラーなもので、「区・匹・医」というようなおなじみの漢字ははこがまえではありません。これらは「かくしがまえ」というかまえになるようです。
万葉集 西本願寺本 ながむれば 「匣」の行書と 思ひ至りぬ(粗忽)
まんえふしふ にしほんぐわんじぼん ながむれば 「くしげ」のぎやうしよと おもひいたりぬ
【訳】鎌足の歌のために、万葉集の西本願寺本をつらつら見てみると、何も問題はなくて、「匣」を行書体で書いてあると、気が付いたよ。
さらに今回、ちょっと驚いたのは「筆順」という言葉は存在するんですが、「書き順」という言葉は本来の日本語には存在しないようです。少なくとも1990年くらいまでに出た辞書には、「かきじゅん」という言葉は掲載されていないようです。つまり、『筆順の手引き』(文部省1958年)という指導書によって漢字の筆順があるかのように啓蒙されましたが、その結果世間に「書き順」という言葉が生まれたのでしょう。行書体や草書体のことなどを考えたら、楷書の筆順というのは意味をなさないはずですが、入試で筆順を出題した大学も昔あったと思います。ちなみに、『学研漢和大辞典』(藤堂明保編1978年)によると「筆順」は日本で作られた造語だそうです。日本特有の意味・用法だったようであります。ネットで調べてみると、「書き順」でちゃんと検索できまして、「筆順」のことだよと出てきますので、近年の辞書には載っているのかもしれません。横着なので、そのうち、調べてみたいと思います。
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