岩波文庫『百人一首』を読む(96) 藤原公経
96 花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆく物は我身なりけり 入道前太政大臣
【訳】桜花を誘って散らす山風が吹きおろす庭に散り降る花片の雪、それではなくて、年とともに古くなってゆくものは、他ならぬこの私の身体だったのだ。
【出典】新勅撰集・巻十六・雑一・1052
落花をよみ侍ける
【解釈の要点】
①「入道太政大臣」は藤原公経。『百人秀歌』では全101首の最後、巻軸の歌である。
②「花さそふあらし(風)」はこれまでも歌に詠まれてきている。新後拾遺集・春下114「花さそふ風は吹くとも九重のほかにはしばし散らさずもがな」(謙徳公)は一条摂政伊尹の真作かあやしい。和泉式部から見え、院政期和歌には多くなる。和泉式部続集「花さそふ春のあらしは秋風の身にしむよりもあはれなりけり」、金葉集・春57「花さそふあらしや峰を渡るらん桜波よる谷川の水」(源兼雅)、正治初度百首「花さそふあらしに春の空さえて枝よりつもる庭の白雪」(惟明親王)、新古今集・春下145「花さそふなごりを雲に吹きとめてしばしはにほへ春の山風」(藤原雅経)など。公経の「花さそふあらし」はこれらの影響下にあるか。
③「花さそふあらしの庭の雪」は、凝縮した表現。「あらしの庭」という句は、玉葉集に一例ある。「庭の雪」は多い。「ふり」は「降り」「古り」の掛詞。「花」とわが「身」とに掛けて「ふりゆく」といった人としては、これ以前に定家がいた。新古今集・雑上1455「春を経てみゆきに馴るる花の陰ふりゆく身をもあはれとや思ふ」。これ以前にも「ふりゆく身」という句は、斎宮女御集「いま幾日ありとも見えぬ年よりもふりゆく身こそかなしかりけれ」、後拾遺集・雑四1074「いにしへにふりゆく身こそあはれなれ昔ながらの橋を見るにも」(伊勢大輔)などと、女性たちによって詠まれている。
④「我身なりけり」の句も、多くの歌人に詠まれてきた。『和泉式部集』に「あはれなる事」の句に始まる五首の連作群があるが、その最初に「あはれなる事をいふにはいたづらにふりのみまさるわが身なりけり」と詠んだ歌が、公経のこの歌に通う。道因の新古今集・冬586「晴れ曇り時雨はさだめなき物をふりはてぬるはわが身なりけり」も、公経の記憶にあったか。
⑤下河辺長流の『三奥抄』に「ふり行は、雪のゑん、亦雪につけて、黒かみのかはる色をもそへよめる成べし」と考え、その頭書に「あらしの庭とつづきたるは、いかにぞやきこゆ。あらしはいづくに吹まじからねど(「吹まじきにはあらねど」の誤りか)、庭には似あひても聞えず。花さそふ庭の春風とつづきたるは、これにはまさるべきを、それさへ庭の春風は利口(冗談、興言の意)なるものを」と批判する。契沖の『改観抄』は「ふり行は、雪のゑん……」のあたりを踏襲し、頭書での批判も、「嵐の庭とある詞すこし後の連歌めきて聞ゆるにや」という。賀茂真淵の『宇比麻奈備』はこれを受けて、「実にさること也」と支持する。また、『改観抄』は定家の『千五百番歌合』での詠、新古今集・春下134「桜色の庭の春風跡もなし訪はばぞ人の雪とだに見ん」の初句を「花さそふ」と誤って引き、「これより出でたるやうに見ゆ」と考え、『宇比麻奈備』は「あらしの庭」の句の批判に続けて、やはり定家の「権大納言(藤原基家)家卅首」での「旅宿 山かげやあらしのいほのささ枕ふしまちすぎて月もとひこず」(拾遺愚草・中)の歌を引き、「定家卿は、かかることをこのみて、山陰や嵐の庵のささ枕ともよまれしなり」という。香川景樹『百首異見』は、「二句の嵐の庭、むげに詞をなさざるより、初句より三句に、花さそふ、雪ならでとひびく語脉ありて、理りおのづからたじろぎ侍る也」と批判して、新古今集・春上72に採られた「高瀬さす六田の淀の柳原みどりもふかく霞む春かな」の歌などが「世にこえたる御歌なるべき」という。
⑥文字通り落花狼藉の庭に佇んで、功成り名を遂げた大相国が、わが身に迫る死の陰を予感している。「あらし」は北山から吹きおろすのだろうか。
⑦寛喜三年(1231)、病によって出家後、覚勝の法名で翌貞永元年の『洞院摂政家百首』の「雪」五首中に「いたづらにわが身ふりゆく白雪のつもればこれも老となりけり」と詠んでいる。業平の古今集・雑上879「おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老となるもの」の本歌取りである。「花さそふ」の歌はこの「いたづらに」の詠と時間的にさほど隔たらないうちに詠まれたか。
【蛇足】
さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回の訳にも変更がありました。學燈社『百人一首必携』執筆時には、三句目の「雪」が「散り降る落花の雪」とありましたが、今回は「散り降る花片の雪」となっております。「花片」には「はなびら」と読み仮名が振ってあります。さらに四句目の「ふりゆく物は」も、『必携』では「古りゆくものは」とそのままでしたが、今回は「古くなってゆくものは」と言い換えてありました。また、五句目の「我身なりけり」を今回は「この私の身体だったのだ」としていますが、『必携』では「このわが肉体であったのだ」となっていました。それ以外は『必携』から特に変更の必要がなかったということです。その特徴を見ると、二句目の「あらし」を「山風が吹きおろす」と訳し、「雪ならで」という三句目を、「散り降る花片の雪、それではなくて」と「それ」という指示語に雪を置き換えて訳しています。また、四句目の「ふりゆく」は花が「散り降る」と身体が「古くなってゆく」と二重に訳出してあります。「散らす」「「吹きおろす」「散り降る」「それ」「年とともに」「他ならぬこの」など、随所に言葉を補ってある点も目立ちます。
次に、解釈と称する解説の部分は、作者が藤原公経であることや、百人秀歌では最後の101番目にこの歌があることを指摘する①は、今回の書下ろしです。「花さそふあらし」の先例を考証する②、「花」と「身」を受けて「ふりゆく」を掛詞として詠んだ歌人が定家であることを指摘する③は、『必携』から受け継いだものです。ただし「ふりゆく身」が女性たちに詠まれてきたという点は今回の加筆です。「我身なりけり」の先行例を挙げる④、契沖や真淵・景樹が上の句の表現に対して批判的であることを紹介する⑤も今回の書下ろしです。これに対して、歌の内容を落花狼藉の庭で死の影を予感しているとまとめる⑥は『必携』から受け継がれていますが、詠作時期を出家後の貞永元年(1232)の頃ではないかと推定する⑦は今回書き下ろされたものです。
あまりこれまでの注釈書では指摘されてきていないようですが、この歌の四句目は実は散文なら冒頭にあるべきものかと思います。念のため、四句目を最初に持ってきて、句読点を施して散文のように処理すると次のようになります。
〇ふりゆくものは、花さそふ嵐の庭の雪ならで、わが身なりけり。(散文化)
こうしてみると分かりますのは、「~ならで」を使った構文というものがあるようで、基本的には、「〇〇なものは、Aならで、Bなりけり」という形式の構文のようです。これを整理しますと、質問に対する正解がBでありまして、Aが不正解の例として示されているわけです。公経の歌の上三句というものは、別に「ふりゆく」に続くと見るほどの修飾句ではないはずなのです。「花ならで」「月ならで」が初句に位置する歌というのが結構あったり、出題部分が今回のように冒頭にない歌もあったりするため、質問と解答の形式が明瞭ではないものがありますので、著者も公経の歌の構文をあまり意識してはいないようです。「花ならで折らまほしきは難波江の芦の若葉に降れる白雪」(後拾遺集・春上49)を、散文化すると「折らまほしきは、花ならで、難波江の芦の若葉に降れる白雪(なりけり)。」となりましょうか。
『新勅撰集』巻第十六・雑一 1052番
落花を詠み侍りける 入道前太政大臣
花誘ふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり
上三句を簡単に言えば「花吹雪」ということなのであります。以前取り上げた北原白秋が句意の所で解説していますけれども、西園寺公経の上の句は語順を巧妙に入れ替えていますから、普通に理解しようとすると、よく分からないところがあります。
〇花さそふ あらしの庭の雪
〇嵐が花を誘つて吹き散らす庭は、雪が降るやうに見える
「花がさそふあらし」「花があらしをさそふ」ではなくて、「花をさそふあらし」ということですから、「あらしが花をさそふ」というふうに主語と目的格がひっくり返っているわけです。上の句を、単純に「花吹雪」と置き換えると、この西園寺公経の歌は、俳句にする事ができるでしょう。
花吹雪 ふりゆくものは 我が身なり(粗忽謹製)
実は西園寺公経の歌は、三句目で「雪ならで」と花吹雪を否定していますので、それを繰り入れて俳句にしてみると、次のようになるかもしれません。和歌を元にして遊ぶと結構面白いということが分かります。
花吹雪 ならでふりゆく 我が身かな(粗忽謹製)
ついでに、この上の句に対して、連歌風に下の句を付けると、こんな感じでございましょうか。実は、案外簡単でありまして、江戸時代の連歌俳諧などは、結構参加型のイベントとして人気があっただろうなということが分かります。
花吹雪 ならでふりゆく 我が身かな さそふあらしの 庭をなげきて(粗忽謹製)
今回の作者は、作者名を見ると太政大臣でありますから、めちゃめちゃえらい人であります。この地位は「大相国」とも呼びますけれども、平清盛がそう呼ばれていたことをご存じの方もいるでしょう。こちらの太政大臣は、藤原公経という方で、承久の乱後に太政大臣に命じられているのであります。その家柄を西園寺家というんですが、鎌倉幕府寄りのお公家さんの代表でありまして、京都側は実は親幕派の貴族の方が多かったんです。えらい人なんですが、実はこの人のお姉さんが、藤原定家さんの奥様でありますから、なんと藤原定家さんは太政大臣の義兄に当たる人なのであります。定家さんが後鳥羽院とそりが合わなくても仕方ない側面もあったということです。ともかく、奥さんの弟が歌がうまくて、『百人一首』に選んでも恥ずかしくない歌人なんですが、それが太政大臣なら胸が張れますね。今なら、義弟だよって紹介して出てきたのが、野球の上手い大谷翔平さんとか将棋の強い藤井聡太さんってことです。歌は、非常にいい感じでありまして、初老に入った人なら、今後の愛唱歌はこれでありましょう。前半の落花の光景もゴージャスですし、後半の老境のつぶやきもかなりさまになります。
既に指摘しましたが、井上宗雄氏が『百人一首を楽しく読む』(笠間書院・平成15年1月)のなかで指摘する通り、語順が入れ替わると分かりやすいのであります。四句目が一番前だと、散文として自然になると言うことです。つまり、「ふりゆくものは、(何かというと)Aならで、Bなりけり」という構文であると考えてもよいでしょう。「我が身」に対比されているのは、「嵐の庭の雪」なんですけれども、その雪は本当の雪ではなくて「嵐に誘われた花の雪」なのでありまして、言い換えてしまうと、散るのは花ではなくて我が身であるよ、と言っているのであります。「ふりゆく」のところは、駄洒落がかましてありまして、「降り行く」という表現は今でも分かりますが、じつは年老いるという意味の「古りゆく」が掛けてあることになっております。この歌の出典は、何かというと『新古今集』ではなくて『新勅撰集』でありまして、雑上巻の1052番なんですが、たぶん「落花」の題で詠んだ題詠であります。
ふりゆくは 嵐の誘ふ 花ならで 頭に雪の 我が身なりけり(粗忽改案)
※「頭に雪の」は「かしらにゆきの」と読みまして、「白髪」を意味しています。
年を取る、古くなるという意味の「古り行く」がよく分かりませんね。怪しいと思います。「旧り行く」と表記したりしますが、当て字には違いありません。「老りゆく」というふうに当て字をした方がいいくらいではないかと思ったりいたします。
この「古り」というのは、連用形なんですけれども、一般には上二段動詞であると説明されております。「ふり(ず)/ふり(たり)/ふる/ふるる(時)/ふるれ(ど)/ふりよ」と活用するはずなんであります。こういう活用は、現代では上一段動詞に合流しましたので、もしこの言葉が現代に残っていれば、「ふりる」という言葉のはずなんですけれども、そんな物は影もかたちもないのであります。これは怪しいのであります。ちょっとやってみると、たとえばこんな具合の動詞のはずなのです。「ふり(ない)/ふり(ます)/ふりる/ふりる(時)/ふりれ(ば)/ふりろ」となるはずなのですが、どうでありましょう? 許せない感じのする言葉でありますね。現代語だと、車から「降りる」というような言葉と同じ活用をするということです。「おり(ない)/おり(ます)/おりる/おりる(時)/おりれ(ば)/おりろ」で、これは何も問題なく、しっくりするのではないかと思います。
実は、『万葉集』などでは、連用形の「ふり」しか使われなくて、活用がそろわなかったようなのであります。考えてみたら「古びる」という言葉がありまして、これは元は上二段動詞「古ぶ」でありますが、これが平安時代から使われております。「古ぶ」と「古る」の関係はどうなっているのか、にわかに分かりません。というように疑惑はありますが、藤原公経さんの歌は、悪くはないのであります。『百人秀歌』だと、この歌がしんがり(漢字表記すると「殿」)でありまして、一番最後の最後、101番の歌なのであります。幕府の大物であった宇都宮蓮生のために選んだなら、最後が親幕派のこの方でいいわけなのでしょう。
なお、源実朝が暗殺されて源氏の将軍が途絶えた後というのは、あまり話題にならないのですが、四代目からは京都から派遣されます。鎌倉幕府第四代征夷大将軍は、藤原頼経という方ですが、摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられたので摂家将軍、あるいは九条頼経とも呼ばれます。この方の母上が西園寺公経の娘でありますから、公経は第四代将軍の祖父だったのです。西園寺公経が死去した寛元二年(1244年)に、将軍職を嫡男の頼嗣に譲っていますので、実はこの祖父が摂家将軍頼経の後ろ盾だったということでしょうか。……、ということは定家は第四代鎌倉幕府征夷大将軍の義大伯父(=祖父の義兄)ということなんでしょうけれど、さてそんなことを耳にしたことがありません。言い換えると、定家の義弟の孫が鎌倉の将軍様だったということなんです。何か勘違いでしたら、のちのちここは削除いたします。
『101匹ワンちゃん』という映画がありましたが、珍しい数字であります。考えてみたら、素数でありまして、101は、それ自身と1以外に約数がないのであります。どう考えても、色紙にして貼り付けると、余りが出てしまうわけで、それは具合が悪いことだろうと思います。ちなみに、36だと、2×2×3×3ですからいろいろと融通が利くわけで中古三十六歌仙というのもありました。さらに108なんかも、2×2×3×3×3ですから、煩悩の数などと言って除夜の鐘に突きますけれども、約数が多いという数学的な配慮が働いているかもしれません。それなら「百八人一首」にした方が、何かと便利ということでしょう。『百人秀歌』の101人に、後鳥羽院と順徳院を足すと103人ですから、あと5人、入れ替えも含めて10人くらいエントリーしてもいいかもしれません。
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