岩波文庫『百人一首』を読む(102)『百人秀歌』73 源国信
秀73 春日野の下もえわたる草の上に つれなく見ゆる春の淡雪 権中納言国信
【訳】春日野の下で一面に萌え出ている若草の上に、関りのない様子で消えずに残っている春の淡雪よ。
【出典】新古今集・巻一・春上・10
堀河院御時百首歌たてまつりけるに、残りの雪の心をよみ侍りける
【解釈の要点】
①春日野は大和国、奈良市で若草山・三笠山の西麓に広がる台地をさす。「下もえわたる」の「下」は、意味的には第五句の「淡雪」の下をさす。「もえ」は草木が芽ぐむ意の動詞「萌ゆ」の連用形。「わたる」はここでは「もえ」に付いて「一面に……する」「……し続ける」という意を表す。同じ『堀河百首』で藤原公実が「早蕨」の題で「春日野の草は焼くとも見えなくに下もえわたる春のさわらび」と、同じ発音の「下燃えわたる」を掛けて詠んでいる。「下燃えわたる」の句は火に関して、「夜もすがら下もえわたる蚊遣火に恋する人をよそへてぞ見る」(能宣集)と詠まれ、恋を連想することが可能だが、国信のこの歌でも同じ連想は働いているか。次の「つれなく見ゆる」の「つれなく」は「連れ無し」を原義とする形容詞「つれなし」の連用形で、さりげない、関りがないという意味とともに、何も感じない、無情だという意味も持つようになる。「春の淡雪」は歌題の「残雪」を表すが、それは降り積もってもまもなく消えてしまう雪である。
②『堀河院御時百首』、略して『堀河百首』の成立や全体の組織などについては、『百人一首』72祐子内親王家紀伊の項で述べた。(参考のため、一部を要約して引用すると次のようなことが指摘されていました。)藤原俊成が撰進した千載集の序文では三代集などの勅撰集と同様に重視されている最初の組題百首での作である。組題とはセットされた歌題を全作者が詠む方式のこと。本百首は堀河天皇の長治元年(1104)末頃から嘉承元年(1106)前半頃までに成立したらしい。『一宮紀伊集』はそれに最も深く関わった人として俊頼の名を挙げていて重要である。堀河天皇に献じられたこの百首は、作者は十六人に及び、女房では紀伊は肥後・河内らと共に出詠している。
③『堀河百首』を進献された堀河天皇は嘉承二年(1107)七月に29歳で崩じた。天皇の側近で母方の叔父にあたる国信は天皇を偲んでこの百首から「祝詞」の題を除き、雑題を多く変えて、「恋昔百首和歌』を詠んだ。『源中納言懐旧百首』ともいう。その「残雪」の題では、「さても猶なごりなかりしわかれかなはるひに消えぬゆきもあるよに」と、天皇との「なごりなかりしわかれ」を嘆いている。
【補足】
2022年に青簡舎から出た『百人一首の現在』の中に「『百人秀歌』を読む」(中川博夫氏)として、注釈されています。そこでも、「夜もすがら下もえわたる蚊遣火に恋する人をよそへてぞ見る」(能宣集)を引いて、「恋の情趣を読み取るのが一般的である」と指摘されています。また、『新古今集』にこの歌を選んだのは定家・家隆・雅経で、『定家八代抄』に採録され、『定家十体』の「有一節様」に配されていることも指摘があります。さらに、後鳥羽院が『時代不同歌合』に撰入し、『新古今集』隠岐本にも残した点を付け加えています。
なお、説話集の『十訓抄』(岩波文庫)「第一可定心操振舞事」22には、源中納言国信卿家の歌合で源俊頼が判者を務めた時の話題が出てきます。
【蛇足】
さて、『百人一首』にはないけれども、『百人秀歌』という秀歌撰にはあった四首の歌のうちの二首目になる源国信の歌を、岩波文庫本に従って読んでまいります。今まで通り、読んだ感想は「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、冷泉家時雨亭文庫所蔵の『百人秀歌』を底本とした旨が断ってあります。実は、著者の久保田淳氏には1987年ほるぷ出版から出た「日本の文学 古典編27」『百人一首 秀歌選』という本がありますけれども、その『秀歌選』にも今回の歌は漏れております。岩波文庫版の解説に従って、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回の訳の特徴を考えると、「もえわたる」を「一面に萌え出ている」と訳しまして、叙景歌としてのみ訳しています。「草」については「若草」と具体化してあります。四句目の「つれなく」については、「関りのない様子で」と訳していますが、「もえわたる」のに関係なく「消えずにのこっている」という理解と見ていいでしょう。「消えずにのこっている」という補いによって、歌題の「残りの雪」を意識した訳になっています。
次に、解釈と称する解説の部分は、「春日野」「もえわたる」「つれなく」という表現の解説をする①、詞書の『堀河院御時百首』について72紀伊の歌で既出であることを指摘する②、堀河天皇と国信の関係に言及し、堀河天皇を追悼する歌を紹介する③、すべて今回の書下ろしです。なお、著者には『新古今和歌集』を全て注釈した仕事もあります。
春日野の 雪間をわけて おひいでてくる 草のはつかに 見えし君はも
(『古今集』巻十一・恋一478 壬生忠岑)
有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり うき物はなし
(『古今集』巻十三・恋三625 壬生忠岑)
淡雪の たまればかてに 砕けつつ 我が物思ひの しげきころかな
(『古今集』巻十一・恋一550 読人不知
春日野の 若菜もいまは 生ふらめど ひとよりさきに 雪ぞ降り積む
(『能宣集』66)
こうして並べて見ますと、やはり壬生忠岑の『古今集』二首の影響が感じられまして、『能宣集』に見える「下もえわたる蚊遣火」の歌とともに、「春日野の若菜もいまは」という歌も、参考にして国信は詠んだのかという気も致します。
春日野の 下もえわたる 草の上に つれなく見ゆる春の淡雪
(『百人秀歌』73番 源国信)
『新古今集』の巻頭に近いところに出てくる歌ですが、これが『百人秀歌』にあって『百人一首』にはない歌であります。『新古今集』の春上の他の歌に比べても、なかなかいい歌であります。言ってみれば、「春の雪」を詠んだ歌でありまして、三島由紀夫の小説『豊饒の海』四部作の『春の雪』を思い起こしてしまいますが、三島由紀夫がこの歌を知っていたのかどうか、それは不明でありますが、『百人一首』に入っていたら、あの人気作家に強い影響を与えていたことでしょう。ただその場合は、小説の筋立てが変質し、主人公の松枝清顕がクールな官僚志向の人物に描かれ、綾倉聡子の愛情をかわして破滅に追い込むというふうに主題が変形してしまったかも知れません。ちょっとした和歌の宗匠の匙加減が後世の文学を変化させたかも知れないという、つまらない妄想を申しております。
いや、三島由紀夫なら「春の雪」くらい徹底的に調べて、その上であの小説を構想するくらいのことはやれることでしょう。
作者の国信は決して有名な人ではありませんが、実は和歌の歴史の流れの中では重要な役割を果たした人のようであります。源氏の右大臣顕房の子息でありますから、大変なお坊ちゃまでありますが、この人は堀河天皇の忠臣でありまして、『堀河百首』という和歌の近代化といいますか、革命的な催し物を企画した人物ではないかと推測されているのであります。まさに、そうした催しを思い付く人の歌にふさわしいのでありまして、この歌は新しいところがあるのであります。『新古今集』の春上の巻・10番に位置しておりまして、たぶん定家をはじめとする新古今歌人たちに評価されていた歌と言うことであります。
「つれなく」は、「関係ない」「そっけない」「冷淡だ」ということでありますけれども、そう「見ゆる」だけなら、本当は草の上で融けてしまうわけで、これって「ツンデレ」ということでしょうね。恋の歌や、その詞書なんかに出てくる恋愛用語であります。
この国信の歌は、改めて確認すると、『新古今和歌集』という、元久2年(1205)成立の第八代勅撰集に採用されたものです。藤原定家が撰者の一人を務めたものですから、きっとこの歌を入れようと積極的に主張したことでしょう。国信さんが詠まれたのは、じつは長治二年(1105)ころですから、詠まれてから百年ほど経ってから高く評価されたものであります。百年と一口に言いますけれども、そんな昔の縁もゆかりもろくにない源氏の、泡沫歌人といってもいい人の歌を評価するというのは、よく考えると大変なことであります。詞書きに「堀河院御時百首歌たてまつりけるに、残りの雪の心を詠みはべりける」とありまして、「残りの雪」では「残雪」ってことになりかねないのですが、この歌の場合は「淡雪」ですから要するに「残雪」ではなく「なごり雪」をよんだものでありまして、早春の季節の歌であります。おそらく、迂闊な注釈をする人なら、早春の景色を巧みに詠んだ秀歌で、生命の息吹を感じさせる清明な歌柄とかなんとか、叙景歌として褒めることでしょう。(このあたり2011年ころの文章ですから、気に障ったらどうかご容赦ください。)
ところが作者の国信さんは、これに巧妙な仕掛けをほどこしているのであります。まず、「もえわたる」のところでありまして、野の草なんですから「萌えわたる」つまり「一面に生え初める」という風景であることは間違いありませんが、その裏に「燃え渡る」で、男性側なら恋に燃えて通いつめる、女性側なら胸を焦がして待ちわびるというニュアンスが隠れているのであります。何をそんなうがったことをと思う方は、和歌の伝統が平安時代の終わり頃に大変な変質を遂げたことをご存じないと言うことです。つまりこの歌は、季節の歌の中に、男女の恋愛が仕込んでありまして、だからこそ「つれなく見ゆる」と来るわけです。年ごろになった女性の所に、さりげなく訪問する男の様子を歌の中から読み取るのは難しくありません。「春日野」に「かすか」がちらつき、「淡雪」のつれない薄情そうな感じと照応するわけで、旧都奈良を舞台にした季節の歌が、それとなく恋の情緒に彩られているんであります。
「春日野」(かすがの)に形容動詞の「かすかなり」の語幹が響いていたり、「しかすがに」という副詞が微妙に響きます。「淡雪」はすぐに「溶ける」ものですから、「つれなく見ゆる」のは最初だけで、やがて気を許し合うというのが前提になる事でしょう。もはや、恋の情緒を汲み取るしかない歌ではないかと思います。久保田淳氏は、角川ソフィア文庫『新古今和歌集』で「春日野の下の若草と上の残雪を対比させ、草と雪を擬人化し、恋愛関係にあるようにとりなした」と述べていまして、「つれなく」を「そしらぬ様子で」と訳していました。田中裕氏も新日本古典文学大系『新古今和歌集』で「草と雪とを男女に擬える」と指摘しておりまして、「つれなく」を「さも冷然と」と訳していました。
作者は源国信でありますが、「くにざね」と呼ぶのがいいみたいであります。父が右大臣だった源顕房なんでありますが、姉が白河天皇の中宮であった藤原賢子でありまして、この人が堀河天皇をお産みになりましたから、源国信は堀河天皇の叔父さんなんであります。ここまでの記述を読んで、「変だ」と思った方は鋭い。源氏の娘がどうして藤原氏なのか、おかしな事があるものです。もっと言うと、賢子のお母さんも源氏ですから、おかしいんですけれども、これは左大臣だった藤原師実が養子にしたのだそうです。まったく理解の外でありまして、『栄花物語』にも記事がありましたが、読んでも意味が分かりませんでした。ともかく、国信さんは堀河天皇と仲がよかったみたいで、聡明なる天皇の和歌に関することはこの人が手配していたようです。歌の方は、奈良公園の鹿の群れ遊ぶ春日野でありまして、密かに萌え始めた一面の草の上に、春の淡雪が春などお構いなしに降り積もっている、というような光景であります。それなのに「かすか」「もえわたる」「つれなく見ゆる」という恋の言葉が躍ります。「康和時勢粧」というような評価の言葉がありましたが、この歌をそういう言葉で押さえていいのかどうか、私の手に余る事柄です。ただ、もはや『古今集』の壬生忠岑の歌とは異質でありまして、『新古今集』の中に並べて見劣りしないというような歌ですから、和歌の歴史が国信のあたりで大きく旋回していたと言えるでしょう。
そして、『新古今集』の歌風から脱却した定家は、これを『百人一首』から省いてしまおうと決意したのでありましょう。ちょっときらきらというか、ぎらぎらというか、早春の何気ない光景が青春の恋愛ドラマにしか見えないのは危ういわけで、ちょっと控えようと思ったことでしょう。
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