岩波文庫『百人一首』を読む(94) 藤原雅経

94 み吉野の山の秋風さ夜ふけて 故郷寒く衣うつなり  参議雅経


【訳】夜がふけるにつれて吉野山から吹いてくる秋風は寒い。古都の里は冷え込んで、どこからともなく衣を打つ音が聞こえてくる。

【出典】新古今集・巻五・秋下・483

   擣衣の心を 藤原雅経    


【解釈の要点】

①家集の『明日香井集』によれば、建仁二年(1202)八月、33歳だった藤原雅経が詠んだ百首歌の秋二十首中の一首である。新古今集の詞書で「擣衣」の歌としたのは新古今集編集の段階で加えられたもの。百首そのものは応制和歌のような位署書きを伴っているが、実際に後鳥羽院に詠進されたかわからない。

②下河辺長流の『三奥抄』は古今集・冬325坂上是則の「み吉野の山の白雪つもるらしふるさと寒くなりまさるなり」が本歌であるとし、「本歌の古郷はならの京をいへり。此古郷は吉野の里のこころなり」と注し、さらに古今集・冬321「古里は吉野の山し近ければひと日もみ雪降らぬ日はなし」(読人不知)を引く。契沖の『改観抄』はそれを踏襲した。『三奥抄』はさらに「楽天が擣衣の詩に、北斗星前横旅鴈、南楼月下擣寒衣と作れる詞にもおのづから相かなへり」ともいう。『和漢朗詠集』上・秋・擣衣に載る詩句だが、作者は劉元叔で、「楽天」とするのは誤り。

③解釈上の問題点は、この「ふるさと」はどこかということである。近世での注釈はすべて吉野の里をさすという点では一致しているのだが、賀茂真淵の『宇比麻奈備』は「吉野にふる里といふは、吉野の蜻蛉野の離宮のあとの事也。此宮上つ代より有しを、斉明天皇造り改め給ひ、天武・持統のすべらぎも度度みゆきし給ひし也。それを今の京となりてはあらされしかば、よしのの古里とはいへり」、香川景樹の『百首異見』は「こは故郷のよし野の山とよめる故郷にて、きはめて山のあたりとすべし」など、ニュアンスはそれぞれ異なる。

④『宇比麻奈備』に、万葉集・巻一74「み吉野のあらしの風の寒けくにはたや今夜も我が独り寝む」(作者未詳、左注に文武天皇ともいう)の第二句を「山下風能」と訓んで引き、「……ともよみたるに、古里ならんはいとど哀なるべし」という。

⑤『野ざらし紀行』「碪打てわれに聞かせよや坊が妻」は、この雅経の歌に触発された芭蕉の句。前書に「ある坊に一夜をかりて」とある。

⑥雅経の生涯を思うと、改めて人生の不思議さを感じさせられる。源平の動乱が終結した後に、鎌倉の主頼朝は手柄を立てた弟の義経と不和になったが、雅経の父頼経はその義経に近いとの理由で伊豆に流された。そのために雅経は鎌倉に下るが、お家芸の蹴鞠が得意だったので、頼朝に気に入られ、幕府の要人大江広元の娘を妻とした。さらに朝廷でも蹴鞠に練達な人間は必要なので、彼は都に呼び戻され、後鳥羽院に仕えるようになった。その後まもなく皇子の土御門天皇に譲位した後鳥羽院は詠歌の楽しさに目覚めて、群臣に百首歌を詠進させ、しげしげと歌合を催した。雅経も『正治二年初度百首』には召されていないが、同年末の『第二度(後度)百首』には詠進し、新古今集撰者の一人にも加えられた。そして、関東に詳しいことから、後鳥羽院の使者として鎌倉に下り、将軍実朝に都の文化的所産をもたらすことにも力を貸した。雅経は承久三年(1221)5月15日に勃発した承久の乱の直前の3月11日に死去した。

⑦雅経は藤原定家とも親しかったし、栂尾高山寺の明恵とも交際があった。『明恵上人歌集』には雅経が関東に下向する際の明恵の餞の歌と彼の返歌も残されている。家集『明日香井集』には、関東下向の道中の歌枕の歌や、後鳥羽院とのやり取りを収めている。自身が世を去る二年前には娘に先立たれ哀傷歌を詠んでいる。代々の蹴鞠の家を守り、歌の家飛鳥井家の祖となった。『後鳥羽院御口伝』では「雅経はことに案じかへりて歌詠みし者なり。いたくたけある歌などは、むねと多くは見えざりしかども、手だりと見えき」とあったが、順徳院は『八雲御抄』第六用意部で、「凡雅経はよき歌人にてありしを、後京極摂政(藤原良経)の「人の歌をとる」といはれけるとききしを、さしもやとおもひしに」と述べ、藤原有家の言葉続きを真似たのは「いかなることにか」と批判している。


【蛇足】

さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は訳に変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に変更の必要がなかったということです。その特徴を見ると、三句目の「さ夜ふけて」を位置を変えて冒頭に訳し、述語のない二句目の「秋風」について「から吹いてくる秋風は寒い」と言葉を補って訳しています。四句目の「故郷寒く」は「古都の里は冷え込んで」と訳していますが、「寒く」を「秋風」と「故郷」の両方に兼ねるものと処理しているようです。また、五句目の「衣うつなり」は、「どこからともなく」という言葉を補い、「なり」を音響推定の用法とみなして、「音がきこえてくる」と訳しています。それぞれ、従来から議論のある所です。

次に、解釈と称する解説の部分は、家集では付いてない「擣衣」の題を新古今集の編集で付けたことを考証する①は、今回の書下ろしです。『三奥抄』や『改観抄』によって本歌・本説を指摘する②は今回の書下ろしです。『必携』では、是則の歌を本歌と指摘し、本居宣長が是則の歌より雅経の歌がよいと述べたことを紹介していました。近世の注釈書で「ふるさと」をどこと見るかで意見が割れていることを指摘する③、吉野と風の取り合わせの歌を万葉集から指摘する④、芭蕉の句に雅経の歌をもとにしたものがあることを指摘する⑤、これらはほぼ『必携』から受け継いだものです。鎌倉の頼朝、京都の後鳥羽院、その両者から重用された雅経の人生を紹介する⑥、明恵上人と雅経の関りや、後鳥羽院・順徳院の雅経の歌への評価などを指摘する⑦、これらは今回の書下ろしです。


この歌は、しばしば注釈が指摘していますが、「秋風」を受ける述語がなく、また「秋風」「さ夜」「故里」「衣」という名詞の直下にあるべき格助詞が欠けておりまして、注釈者泣かせの一面があるようです。試しに、格助詞や係助詞を補い、語句を移動したり補ったりしてこの歌が散文ならばどうなるかを示してみると、


故郷のみ吉野においては、 山より吹きおろす秋風は日毎に寒くなり、さ夜もやうやう更けて来れば、家々からは各々衣擣つ声はして、それが風に乗りて絶えず聞ゆることぞかし。(粗忽翻案)


というような事になるのでありましょう。本歌の「み吉野の山」と「故里寒く」という表現をそのまま摂取して本歌取りを明示した結果、出来上がった歌はぎこちないものになったんですが、定家などの本歌取りの規則の中に、摂取したと分るようにせよというものがありましたので、この歌は許容されるのでありましょう。ちなみに、次のように改造したら、とりあえず欠点はなくなりますが、はたして評価されるのか疑問であります。


吉野山 秋風寒し 小夜更けて なべて故里 衣擣つなり(粗忽謹製)


さて、しみじみとした歌でありまして、晩秋の吉野という歌枕を舞台にした夜の歌なのでありますけれども、果たしてそれだけの歌なのでありましょうか。本歌に砧の音を導入しまして、哀感を募らせた秀歌なんですが、どうやら漢詩の本説取りの指摘があるんですが、通説にはなっていないようです。『三奥抄』の指摘する漢詩には「秋風」の要素がありませんが、次に掲げるものは「秋風」が出てまいります。最初に指摘したのは、小高敏郎・犬養廉『小倉百人一首新釈』のようですが、以前取り上げた桑田明氏も、こちらが第一の本歌で、古今集の歌はその次だと主張しています。どうやら五言古詩という形式で、六句からなるもののようです。作者は李白で、作品名は『子夜呉歌』春夏秋冬四つの作品の連作だったみたいですが、その三番目、すなわち秋をテーマにしたものです。


李白『子夜呉歌』 四首 其三

長安一片月 万戸擣衣声 秋風吹不尽 総是玉関情 何日平胡虜 良人罷遠征

(書き下し)長安一片の月 万戸衣を擣つ声 秋風吹きて尽きず 総て是れ玉関の情 何れの日にか胡虜を平らげて 良人遠征を罷めん

(平仮名による書き下し)ちやうあんいつぺんのつき ばんこころもをうつこゑ しゆうふうふきてつきず すべてこれぎよくくわんのじやう いづれのひにかこりよをたひらげて りやうじんえんせいをやめん

(解釈)長安の都にぽつんと月が昇り、多くの家々から砧で衣を打つ音がする。秋風が吹き砧の音は尽きることもなく、すべてこの音は玉門関への思いそのものだ。いつ異民族を討伐して、夫は遠征を終えるのだろう。

※〇一片……「ひとひらの」の意。「一面の」とする説もあるが取りません。〇擣衣……「砧で衣を打つ」はここは冬支度で衣類の防寒性を高める事。〇不尽……語順を考慮して、「風が尽きない」ではなく、「砧の音が尽きない」と捉えます。〇是……この漢詩の主題である「擣衣の声」を指しますが、「月」「秋風」は含みません。〇良人……ここは「夫」の意。


まあ、こういう漢詩が、雅経の詠作のヒントになっていたのは間違いない事かと思います。この『子夜呉歌』の四句目に出て来る、「是」でありますが、ちょっと見た漢詩の解説では、この指示語を「月」と「擣衣声」と「秋風」を含むとする見解ばかりですが、間違っているような気がいたします。この「是」というのは、夫を待つ長安の妻たちの「擣衣声」を指すんでありまして、その妻の誰もがということを「総」が表現しているんじゃないでしょうか。妻たちは月なんか見ていないし、秋風にもさらされてはいないはずです。第三者の立場では、月が照り、秋風に乗って砧の音がしているんですが、その砧の音に妻たちの思いが籠っているということでなければいけません。なぜって、砧で打った衣は暖かくて冬に重宝するのでありまして、それは当然遠征から戻る愛しいあの人の為に着せる衣を打っているんであります。みなさん、はっきり言って読解が下手ですね。「是」っていうのは、前に来た事柄から断然何か一つを受けて、それを改めて主語として押し出すものじゃありませんか。それから、衣を戦地に送るとする解釈も見たんですが、そんな悠長な物でしょうか。妻が用意した私物が、転戦する夫の元に無事届くなんて、まったくのファンタジーでありまして、ただひたすら生き残って帰還してくれる日を待っているんじゃないでしょうか。


さて、そうなると、雅経の歌には、「夜寒をわびて衣を打つ音が身にしみじみと聞こえ」(白秋)とか「家々で衣擣つ砧の音がさびしく冴え冴えと聞えてくる」(桑田明氏)という補いはふさわしく無くて、それよりも「いとしき人を思ひてその人のために衣を打つ音がしみじみ聞こえ」(粗忽)という補いこそが必要になることでしょう。思いがけず、大手柄を挙げたのかもしれません。ちなみに、角川文庫ビギナーズクラシックス『百人一首(全)』は、李白の漢詩を出さずに、一般的な中国の話題として砧に触れ、「取り残された女の悲しみ」に着目しています。しかしながら、大事なのはそっちじゃなくて、砧で衣を打つ行為を考えたら、「愛しい人の為に心を込めて衣を柔らかくして、それを着せる冬を心待ちにしている」ってことだと思います。「ふるさと」は寒いんですけれども、「衣を打つ砧の音」は、当たり前ですが暖かいものでなければなりませんよね。だから、「寒く」を「衣打つ」の修飾語とする解釈は間違っていると断言しておきます。本説取りということも、忘れてはいけないことです。


『新古今集』巻第五・秋下 483番

      擣衣のこころを   藤原雅経

み吉野の 山の秋風 さ夜更けて 古里寒く 衣打つなり


作者は、飛鳥井雅経とも言うんですが、参議まで昇った人でありまして、『新古今集』の撰者の一人でもあります。鎌倉幕府までしょっちゅう出かけていた人で、フットワークが軽かったようであります。というよりも、鎌倉が本拠地みたいな人ですから、京都まで出張がお得意だったというべきでしょう。蹴鞠の飛鳥井家の祖でありまして、後鳥羽院と蹴鞠を蹴っていた人のはずであります。今だったら、お公家さんのサッカーチームのミッドフィルダーなどというポジションで活躍していたはずであります。藤原定家の息子の為家さんが、新人でフォワードを務めていたんじゃないかと思います。キーパーは後鳥羽院でありますね。紅い手袋を付けまして、手のひらを味方に振りかざして仁王立ちする姿が浮かびます。冗談はさておき、鴨長明を源実朝公に紹介したのもこの人、飛鳥井雅経ではなかったでしょうか。乱世を生き抜いた、たくましい人物なのです。要領がいい人で、本歌取りもうまいんですが、人の歌をいいなあと思うと、同時代人の歌でもかまわず本歌取りしてしまう人だったそうです。もちろん、この歌も本歌取りの歌でありまして、私はこの歌がわりと好きであります。和歌って、こうでなくちゃ、というような軽さであります。切れ味もあるんですね。たぶん、処世術に長けた憎めない人でしょうけれど、じゃあ信頼に値するかと言うと首をかしげます。なぜなら、彼に誘われてはるばる東国に行った鴨長明は、すぐに都に戻って、うじうじと恨みがましく翌年の春に『方丈記』を書きました。あれは、400字詰め原稿用紙なら10枚くらいですから、一晩で書けるものです。雅経の話に乗ったことを死ぬほど後悔したんだろうと、憶測いたします。


それから、雅経は承久三年(1221)の三月に52歳で亡くなったようですが、この逝去の時期が微妙な気がいたします。久保田淳氏も今回の岩波文庫版で指摘しています。五月には承久の乱が勃発し、七月には後鳥羽上皇が隠岐に流されているのであります。なお、雅経の妻は、鎌倉幕府を支えた大江広元の娘で、和歌や蹴鞠で雅経の後を継いだ子供は、広元の孫という関係です。ちなみに、雅経は俊成の弟子ですから、御子左家の一派だったわけですが、和歌を懐紙に書く時の作法が違っていたそうで、飛鳥井家が重んじられていたことが分かります。蹴鞠に関しては、兄の宗長は難波家、雅経が飛鳥井家の祖としてそれぞれ流派をなしています。


み吉野の 山の秋風 さ夜更けて 古里寒く 衣打つなり

    (『百人一首』第94番 参議雅経)

み吉野の 山の白雪 つもるらし  古里寒く なりまさるなり

    (『古今集』巻六・冬 325番 坂上是則)


雅経の歌は、『新古今集』の秋下483番に入っておりまして、どうやら百首歌を詠んだ中の一首です。つまり、これも別に実体験を歌にしたわけではなくて、当時宮廷で流行していた百首の歌を詠むなかで、当然の如く古歌を本歌取りして詠んだわけでありまして、今風に言うとパロディでありますが、古歌を脱構築して新たな趣向を提示しているわけで、なかなか面白いのであります。見ると、初句と四句目がまったく同じでありまして、二句目の「山の」という三文字も同じでありますが、利用した分量は規則ぎりぎり、ただし、季節が冬から晩秋に替えた程度では、ほとんど違いは無く、おそらく当時としては取り過ぎと思われたことでしょう。「なり」は本歌は断定の助動詞ですが、雅経の歌は推定の用法でありまして、「衣を打つ音が聞こえる」と訳したりするわけであります。なお、古今集の歌を摂取したと分るようにしたために、雅経の歌は「秋風」を受ける述語が不明瞭になってしまったようです。気持としては「秋風寒く」なんですが、出来上がった歌ではそうは理解できません。


そうなると、問題は歌を詠んでいる主体はどこにいるのか、どこで砧(きぬた)の音を聞いているのかと言うことでしょう。このことは、実は重大な問題であります。結論だけ言うと、詠作主体は女性になりまして、吉野の里にかくまわれている女性であります。しかし、京都からやってくる男は、訪問が途絶えがちでありまして、それは「秋風」に「飽き」を掛けて、夜が更け、「寒く」という道具立てで明らかなわけです。主人公は砧を打つような身分ではありませんから、独り寝の寂しい枕に、吉野の里の砧の音が聞こえてくるのであります。自分で考えたなら、もちろん大手柄と叫ぶところですが、そうではありません。主人公は山にいる、本歌では里にいるのを位置を変えた、というナイスな説があるのであります。出所は内緒。私は、やっぱり里にいるような気がしますけれどもね。隣近所じゃないと、風に乗った砧の音は聞こえてこないような気がいたします。それと、「秋風」だけではなくて、「衣を打つ」砧の音が「寒く」という理解がありますが、それは上にも記しましたが容易に否定できることでしょう。家族愛に満ちた砧の音は暖かく、それが独り寝の耳に入れば辛いだけです。


ここに、李白の『子夜呉歌』の本説取りという技法が絡むとすると、吉野の里で衣を打つのが女性たちだとして、彼女たちは家族の為に冬に向けて衣を打っているのであります。それは、外の忍び寄る寒気とは逆で、愛する人たちに少しでも肌ざわりのいいものを提供しようとする気持ちのこもった暖かい音なのであります。そうすると、その音を耳にする詠作主体は、もう疎遠になった都人の彼の事を思い出しまして涙にくれることでしょう。秋風は冷たく、眠れぬ夜は更け、幸福の象徴である砧の音が、寂しい独り寝の胸にずん、ずん、ずんと響くのであります。


『とりかへばや』という作品では、吉野に姫君がいるというような話だったかと思います。相当きわどい小説ですから、ここであれこれ言う必要もありません。吉野というのは、京都における政争を避けて隠棲するような土地でありまして、昔の首都圏である畿内の南の果てと考えるといいのでありましょう。西の果てが在原行平が住んでいた須磨で、『源氏物語』では光源氏が身を寄せたところでした。東は逢坂山からもう田舎でありまして、近江は「逢ふ身」でまだ京都に身近ですが、美濃・尾張までゆくとなんと「身の終り」であります。ともかく、吉野という行きどまりの土地に身を置いて、晩秋に聞く砧の音はどんなものなのでありましょうか。現代では、想像をたくましくしても聞えては参りません。

コメント

このブログの人気の投稿

岩波文庫『百人一首』を読む(81) 藤原実定

岩波文庫『百人一首』を読む(99) 後鳥羽院

足利将軍撰『新百人一首』を読む(6) 藤原菅根