岩波文庫『百人一首』を読む(103)『百人秀歌』76 源俊頼

秀76 山桜咲きそめしより久方の 雲井に見ゆる瀧の白糸  源俊頼朝臣


【訳】山桜が咲き始めてからは、空に白糸を懸けたように滝がかかって見えるよ。

【出典】金葉集・巻一・春・50

   (宇治前太政大臣家歌合によめる)


【解釈の要点】

①「滝の白波」という句は『万葉集』巻三313でも「み吉野の滝の白波知らねども語りし継げばいにしへ思ほゆ」(土理宣令)のように詠まれているが、「滝の白糸」は平安時代になってから詠まれるようになった歌句か。比較的早い例は紀貫之の『拾遺集』雑春1004「春くれば滝の白糸いかなれや結べどもなほ泡に見ゆらん」など。俊頼の家集『散木奇歌集』ではこの歌の他にも、「君恋ふと名には流れて音無の滝の白糸さは絶えねとや」、「山姫の峰の梢にひきかけてさらせる布や滝の白糸」など。

②『金葉集』の詞書にいう「宇治前太政大臣家歌合」は、寛治八年(1094)八月十九日前関白太政大臣藤原師実が主催した『高陽院七番歌合』である。その桜・七番の左は摂津君(皇后宮摂津)の「散りつもる庭をぞ見まし桜花風より先に尋ねざりせば」で、右が俊頼のこの歌であった。勝負は持、判者は俊頼の父帥大納言経信で、判詞に「左の歌は、いと心ばへをかしう侍めり。右の歌きららかによまれたるやうに見給ふれば、持とこそは申さめ」という。

③山桜が咲き始めてから空に見える滝というのは、山桜のことなのだと直ちにわかる。『後撰集』春下118「山桜咲きぬる時は常よりも峯の白雲立ちまさりけり」(読人不知)は、『亭子院歌合』での詠で作者は紀貫之とも藤原興風とも定かではない。俊頼はこの歌が「山桜」の「山」と「峯の白雲」の「峯」とが歌学でいう歌病の同心病になることを、『俊頼髄脳』で指摘している。この古歌を意識しつつ、病を避けてのびのび詠んだ歌か。


【補足】

2022年に青簡舎から出た『百人一首の現在』の中に「『百人秀歌』を読む」(中川博夫氏)として、注釈されています。そこでは、俊頼の歌に影響されて詠まれた「滝の白糸」の例が挙げられ、歌合の判者だった俊成が苦言を呈したことが指摘されています。また、定家が『初学百首』で詠んだ「水上に花や散るらむ吉野山にほひをそふる滝の白糸」を紹介しています。


【蛇足】

さて、『百人一首』にはない、しかし『百人秀歌』という秀歌撰に採られていた四首の歌を、岩波文庫本に従って読んでいますが、その三首目がこの俊頼の歌です。今まで通り、読んだ感想は「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、冷泉家時雨亭文庫所蔵の『百人秀歌』を底本とした旨が断ってあります。著者の久保田淳氏には1987年ほるぷ出版から出た「日本の文学 古典編27」『百人一首 秀歌選』という本がありまして、その中に今回の歌が解説されています。その解説と今回の岩波文庫版の解説を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

『百人一首 秀歌撰』版では「山桜が咲き初めてからというものは、空にさながら白糸の滝がかかって見えるよ」とありましたので、若干の相違があります。二句目の終わりにある格助詞「より」の訳が、「からというものは」から「からは」と直訳になっています。五句目の「瀧の白糸」を「さながら白糸の滝がかかって」とありましたが、今回は「白糸を懸けたように滝が掛かって」と微妙に手が加えられています。ともかく、訳の特徴を考えると、末句の連体止めを倒置法とみなしているようですが、「瀧の白糸の、雲井に見ゆる」ではなくて、「雲井に、瀧の白糸の、見ゆる」と解しています。

次に、解釈と称する解説の部分は、「瀧の白糸」という表現の使用例を探り、俊頼の家集にもあと二首見出せることを指摘する①、歌合でこの歌が引き分けに終わったものの判者であった父の経信が「きららかによまれたる」と評したことを紹介する②、『亭子院歌合』に見える「山桜」の歌に影響を受けたとしつつ、その歌の歌病を避けて詠みおおせたことを考証する③、すべて書下ろしですが、②に関しては『百人一首 秀歌選』でも指摘していた内容です。『百人一首 秀歌選』では、この歌が実朝に送った『近代秀歌』に秀歌例として示されていることを指摘していました。


『百人秀歌』というのは、どうやら『百人一首』の原形らしいと言うことで結論が出ているものであります。存在する伝本はたった数本ということでありますが、藤原定家の日記である『明月記』と照らし合わせても、どうもこちらが宇都宮頼綱(法名蓮生)から依頼された嵯峨山荘の障子にあしらう色紙形和歌のもとであろうと言われておりまして、それが『百人一首』と似て非なる所があるものですから、非常に面白いのであります。久保木秀夫氏によると、『百人秀歌』の現存伝本は四本(宮内庁書陵部蔵本、久曽神昇蔵本、冷泉家時雨亭蔵本二本)ですが、『百人秀歌』配列型の『百人一首』というものも存するそうです。


成立順を『百人秀歌』が先、『百人一首』を後とすると、歌人の入れ替えに関しては三人を省き、新たに後鳥羽院と順徳院を加えましたので意図は明瞭であります。加えなければならない二人の席を空けるために、お好みの三首の歌を切り捨てたとも言えましょう。それよりも問題なのは、歌人はそのままに歌の差し替えをしたことです。つまり、『百人秀歌』から『百人一首』へと変更を敢行したとみなした時の、源俊頼の扱いが焦点なのであります。

簡単に言うと、入れ替える前の「山桜」の歌は、ある人物に対して、藤原定家が「人前で発表する時はこう詠みましょう」と推薦した歌であります。晴れの場に歌を提出するなら、こう詠まなくちゃというような見解でありまして、定家さんの考える晴れの歌の代表と考えるのが、この場合の筋と言うものです。一方、入れ替えたあとの「うかりける」の歌は、ある人物から「定家ってやつはこう言うのが好きなんだぜ」と指摘された歌であります。ということは、妙ちくりんな歌なのに、あの定家という奴はこういうのが好みと言うか、趣味趣向なんだよと指摘しておりまして、現在で言うと「定家は変態なんだよ」と暴いたのであります。つまり、俊頼の二首の歌というのは、どちらもいわく因縁がありまして、それが幕府と朝廷の大物に関わることでありますから、事は重大なのであります。もったいぶらずに言うと、前者は源実朝でありますし、後者は後鳥羽院でありますから、なんとも恐れ入るようなキャスティングでありますね。


それにしても、この「山桜」の歌は、あっけらかんとした比喩・見立ての歌でありまして、山桜が滝のように空にあるよと言っているだけなのであります。豪快と言えば豪快、イマジネーションによる桜の歌であります。

山桜が咲き始めましたら、空に白糸のような滝が出現した、というような歌なのであります。そんなところに滝はなかったはずなんだが、一体あれはなんなのだろう?というような歌でありまして、そりゃあもちろん、山の彼方の山桜が咲き誇る姿が、滝のように見えるわけなのであります。一幅の掛け軸のような、ちょっとした由緒あるお寺のふすま絵のようなものでありまして、「ひさかたの」という枕詞も趣を添えまして、なかなか良い歌なのであることは誰もが認めることでしょう。


山桜 咲きそめしより ひさかたの 雲居に見ゆる 滝の白糸(粗忽謹製)


実は私も「山桜」の歌を作ってみました、ほれこのように。そう言って見せても、誰もこの歌が私が適当に作った歌だと疑わないのではないでしょうか。けっこう上手ですよね。ちゃんとした古典の歌に見えませんか? こう言うからには、実はこれは私の作品ではなくて、「粗忽謹製」というのは冗談で、源俊頼が寛治八年(1094)に詠んだ歌なのであります。安定感抜群のいかにもな歌でありまして、通常はこちらが源俊頼の代表作なんでありますね。この歌人は、きちんとした和歌も詠めたんでありますが、あの「うかりける」のような変な歌を流行らせた人なのであります。例えると、ピカソみたいなものでありましょう。普通に写実的に描けるのに、ある時から抽象画になっちゃったというようなことであります。俊頼はピカソだったのか。


『金葉集』といいますのは、勅撰和歌集で言うと五番目に位置するものなんでありますが、作れと命令しましたのは白河院でありまして、撰者は実はこの源俊頼自身ということなのです。白河院というのは、もちろん白河天皇が引退して上皇になってからの呼び名でありますけれども、よぼよぼのお爺さんであるとか、隠居して盆栽いじりをしている好々爺を思い浮かべてはいけないのであります。この方の父帝である後三条天皇という方が、改革を目指した政治好みの天皇でありまして、その後を受けてそれまでの摂関政治体制を変革してしまったわけです。白河院は息子の堀河天皇を即位させまして、上皇として政治に介入したんですね。これが、院政と呼ばれる政治体制として固まりまして、強力なリーダーシップを帝王が発揮するという、何とも勇ましいものができあがったわけです。そうなると、どうなるのかということですが、たとえば矢継ぎ早に勅撰和歌集を作れ作れと命じることになります。白河院は、四番目の『後拾遺集』(撰者は藤原通俊)を作らせたんでありますが、これを時の歌壇の大御所である源経信という歌人が激烈に非難しまして、非難はしたんですが、その激しい批判精神が時代のぴりぴりした空気にはぴったりはまりましておそらく大評判となったんですね。この源経信というのが、実は源俊頼朝臣のお父さんであります。


源経信ジュニアが次なる勅撰和歌集の撰者に選ばれて、お父さんの努力は最高の形で報われた、というように見えたのです。


めでたし、めでたしかと思いきや、それがそうは問屋が卸さないのであります。源俊頼は自分好みの新風の歌をかき集めて新しい勅撰集を提出するんですが、たぶんお父さんの例の批判の件がありますから、一応白河院の意向と言うことにはなっているんですけれども、この内容ではまかり成らんということで、却下されてしまいます。「駄目だ駄目だ、作り直せ」って言うんですね。今で言うなら、もはやイジメでありまして、うるさいオヤジの息子を餌食にしようというような、壮絶な宮廷社会の報復であります。仕方ないんで、ジュニアは素直だから受け容れまして、伝統的な昔の歌を今度はかき集めたようでありまして、それなら大丈夫かというと、これまた駄目なのであります。またまた作り直しだったようです。そりゃあそうでしょう。イジメるのが目的なんだから、一度ごめんなさいをしたって、許すはずがない。紆余曲折の果てにできあがったのが、『金葉集』なのであります。三度目の正直というわけですね。源俊頼と言う人は、実はお父さんとは性格が似ていなかったようでありまして、穏やかで温厚な人柄だったみたいなのです。歌は新しいんですが、とてもいい人だったみたいで、だから白河院とは衝突しないのであります。この辺の親子関係が、ちょうど藤原俊成・定家親子と逆なのであります。つまり俊成は温厚なのでありますけれども、そのジュニアの定家が、いつか紹介したように気むずかし屋の天才肌なのとは、ちょうど逆なんであります。しかし、二代目ジュニアという共通点は、おそらく定家さんの俊頼びいきには影響がはなはだあったはずなんです。


「山桜」の歌は、歌合に提出したもので、じつは判者はお父さんの源経信さん。さて大御所の判定は? というかジュニアに対する経信パパの判定やいかに。


歌合というのは、歌人を二手に分けまして、それでもって一対一の勝負を付けるという、なかなかハードな催しなのであります。文学における格闘技なのであります。たぶん、総合的に勝利を収めた方が、宮廷における名誉はもちろん、用意された金銀財宝の褒美を手に入れますから、なかなか厳しい戦いなのでありますね。「山桜」とペアにして勝負を競ったのは、皇后宮摂津という女流歌人の歌なんですが、お父さんの判定は引き分けなのであります。ただし、息子の歌について、この厳しいお父さんは、「きららかに詠まれたる」と評しておりまして、じつはベタホメなんであります。えこひいきに見えないように引き分けにしたんですけれども、実はジュニアの歌はお父さんの目にはとても上手に見えたようなんですね。源俊頼朝臣は、相手の歌と自分の「山桜」の歌を並べてそのまま『金葉集』に入れていますから、これは自画自賛、いわゆる自讃歌として胸を張って入れたわけでありまして、お父さんの「絢爛豪華に詠まれている」という賞賛の言葉を胸に刻んで、感謝の気持ちで並べたに違いないわけなのであります。勅撰和歌集というのは、ある意味生臭いと言いますか、政治的などろどろの部分があるんですが、これを体よく言い換えると温もりの感じられるものなのでありますね。


新人戦 勝ち初めしより ひさかたの 彼方に見える 全国大会(粗忽)


私の悪戯の方は、親子鷹の歌であります。お父さんがコーチと言いますか監督さんの野球部やサッカー部を考えていただくといいんですけれども、チームの柱は監督さんのジュニア。そう言うケースで甲子園なり、全国大会に駒を進めてきたチームというのは結構あるわけなのであります。私の世代で思い浮かぶのは、原貢・原辰徳親子でありまして、東海大相模高校の原貢監督が率いたチームは主砲が原辰徳さんでありまして、これはもう親子共々大変な人気になりました。こういう組み合わせの親子というものは結構たくさんおりましたね。


うかりける 人を初瀬の 山下ろしよ 激しかれとは 祈らぬものを

  (『百人一首』74番 源俊頼朝臣)

うかれける 人や初瀬の 山桜 (芭蕉)


「うかりける」の歌が、どうして百人一首のへそなのか、ということはもうだいたい分かったのではないでしょうか。かいつまんで言うと、晩年の藤原定家は、地位が累進しまして経済的にも潤うのであります。後鳥羽院とケンカしたのがよかったわけで、承久の乱後に後鳥羽院が隠岐の島に流されまして、京都は親幕勢力がのし上がりますが、定家の主家筋である九条家、定家の奥さんの実家である西園寺家がそれなんでありますよ。だから、中納言に昇進でき、京極に邸宅を新築して、「京極中納言」と称されるわけです。そこに、生涯二度目の勅撰集の撰者の名誉が転がり込みまして、できたのが第九代『新勅撰和歌集』であります。しかし、世の中はすさみにすさみましてひどい有様、大地震こそ無いのですが、災害は引きも切らず、風紀の乱れ治安の悪化は世紀末の様相を呈したわけです。


それもこれも、島流しにあった名前を言ってはいけないあの人の祟りである。恨んでいる。復活する。


後鳥羽院は、もうほとんど、『ハリー・ポッター』のヴォルデモートのような存在でありまして、やっぱり恐いんでありますね。昔の歌人仲間は、相変わらず後鳥羽院の復活を信じていますから、藤原定家は勅撰集を作るのにも、後鳥羽院の歌を入れるかどうか、悩んだことでしょう。入れたら入れたで鎌倉幕府は放置しないし、主家筋の九条家やら西園寺家は自己規制を要求し、「削れ削れ」となるのであります。そうした中の、『百人一首』の成立なんですが、この辺は日記が不完全というか、記事が存在しないところもあって、いまでも憶測するしかないのであります。というか、『明月記』という定家の日記の欠損部分は、意図的に誰かが隠し持っているような気がいたします。世の中というのは、そういうものなのだと思います。


鎌倉幕府ににらまれないように、そして後鳥羽院に祟られないように、細心の綱渡り。サーカスよろしくアクロバットな演技を要求されるわけです。                                            


藤原定家さんというのは、子だくさんな一族でありまして、特にお父さんの藤原俊成さんにお嬢さんがたくさんいたのは有名なことではないかと思います。3人とかではありません。30人くらいいたそうです。定家の息子の為家さんのところも子だくさんでありまして、あとで相続をめぐってもめたことも有名であります。堀田善衛さんの書いた『定家明月記私抄続篇』を見ておりましたら、定家さんは、晩年もかなりお元気だったみたいで65歳の時に生まれたお子さんがいるんですね。何ともすごいんです。ところで、その本を読んで、今回教えられたのは、藤原定家と後鳥羽院の間には、柳をめぐる因縁話がありまして、前にさくらの話は紹介したんですが、柳の方にはさくらよりも根深いものがあるようなのであります。


みちのべの 野原の柳 したもえぬ あはれ嘆きの 煙くらべに

    (『拾遺愚草』)


なんでも、建保元年(1213)の正月の月末頃なんですが、後鳥羽院が藤原定家の邸宅の柳の木二本を欲しがりまして、検非違使を使って掘り取っていたんですね。引っこ抜いて持って行ってしまったんだそうです。それから、七年ほど経ちました承久二年(1220)二月十三日に歌会があるというので歌を提出せよと順徳天皇から頼まれまして、定家はこれをなぜか断るんでありますね。それでも「出せ出せ」というから、二首の歌を詠んだら、いきなりそれを見た後鳥羽院が怒りまして、「今後一切歌会に出てはならない」と勅命による勘当、要するに歌人としての活動を停止されてしまったというわけなのです。歌を見てけしからんと怒ったようにも見えますが、勘繰ると歌人活動の邪魔をするために歌を出させたとも言えるでしょうね。権力と言うのはそういうものです。堀田善衛さんは、歌を適切に解説しつつ、詠んだ定家と怒った後鳥羽院の両者を吟味していますが、力関係では藤原定家は勝てませんから、渋々帝王の仰せに随うわけです。『拾遺愚草』というのは、藤原定家師匠の私家集(つまり個人歌集)でありまして、そこには「野外柳」という題に従って詠んだ事情も書いてあります。


これが後から考えると非常によかった。この後、承久の乱が生じて、敗れた後鳥羽院は隠岐に流され、二度と再起できません。パワハラ上司が消えたわけです。


桜と柳なんでありますね。それをめぐって、この二人は度々もめ事を起こしたわけです。そうしたもめ事の最後の仕上げが百人一首なんであります。例の「うかりける」の歌は、百人一首のへそであると申しましたが、まさしく二人はそのへそをめぐって火花を散らした形跡があるんであります。歌道をバックに宮廷文化の頂点に立った藤原定家と、朝廷が崩壊して滅び行く時に治天の君となった後鳥羽院、二人がチャンバラをした形跡が残っているんでありますね。すごく真面目に書いているように見えますが、ほんの思いつきの気まぐれな物言いであります。ただ、以上の話には種もあります。オリジナルなことは何も言っていませんからね。


芭蕉は、まるで『百人秀歌』から『百人一首』への、俊頼の歌の差し替え事件を知っていたかのように、俳句を作ったわけです。「うかりける人を初瀬の山おろしよ」から「うかれける人や初瀬の」と持ってきまして、「山おろしよ」を「山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸」から「山桜」と差し替えたというわけです。そして、「初瀬」には「外せ」が掛かっているように見えるのは、私だけでありましょうか。少なくとも、芭蕉は「初瀬」に「外せ」を読み取っていたように思われますが、いかがでございましょう。ちなみに、従来「初瀬」の掛詞に「外せ」を主張したのは私だけだと思います。


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