岩波文庫『百人一首』を読む(100) 順徳院

100 百敷や古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり  順徳院御製


【訳】宮殿の古い軒端に生えている忍草を見て往時を懐古するにつけ、いくら偲んでも偲びきれない昔だなあ。

【出典】続後撰集・巻十八・雑下・1205

   (題しらず) 


【解釈の要点】

①「百敷や」の「ももしき」は、「大宮」にかかる枕詞「ももしきの」から転じて、「宮中」「内裏」の意。古今集・雑下1000「山河の音にのみ聞くももしきを身をはやながら見るよしもがな」(伊勢)はその例。「や」は詠嘆の間投助詞。「しのぶ」は羊歯植物、ウラボシ科の草の軒忍。古今六帖・第六・しのぶぐさ「ひとりのみながめ古屋のつまなれば人をしのぶの草ぞ生ひける」、周防内侍の金葉集・雑上591「住みわびてわれさへのきの忍草しのぶかたがたしげき宿かな」のように、動詞「偲ぶ」を掛け、「古屋」との連想を呼ぶことの多い草。「あまりあり」は、「……しきれない」の意。催馬楽「東屋」に「東屋の 真屋のあまりの その雨そそき」と歌われ、軒の突出した先を「あまり」というので、「軒」の縁語。

②家集『紫禁和歌草』で、建保四年(1216)秋頃試みた無題の「二百首和歌」の前半最後の歌である。ただし、実際は170首で、前半71首と後半99首の二群からなる。後鳥羽院の「人もをし」の歌と同じく、真観の私撰集『万代集』に入り、次いで為家が勅撰集の『続後撰集』に載せたのだが、『万代集』では巻十五雑二に詞書「百首御歌中に」、作者は「建保御製」、三句「しのぶぐさ」、『続後撰集』では巻十八雑下に、詞書は直前の源国信の歌の「題しらず」が掛かる形で、作者名は「順徳院御製」として載った。

③『続後撰集』・雑下の巻頭歌は、弟順徳天皇に譲位後の土御門院が詠んだ堀河百首題の百首歌での詠、1203「秋の色ををくりむかへて雲のうへになれにし月もものわすれすな」で、その題は「懐旧」である。それに続く国信の1204「てる月の雲井のかげはそれながらありし世をのみ恋わたる哉」の歌も、堀河院なき後にその治世を懐かしんだ『源中納言懐旧百首』の詠だった。従って順徳院のこの歌も、為家は懐旧の歌と解して、このように並べたのだろう。

④契沖の『改観抄』は同じく家集『紫禁和歌草』の「百敷や花も昔の香をとめて古き梢に春風ぞ吹く」という建保二年二月の歌を『新千載集』春下102から引き、「これもいにしへをしのびおぼしめす心ふかし。但まだ事なきさきの御歌どもなれば、先表めきても聞ゆる歟」というから、契沖はこれらが共に承久の乱以前の詠であろうことは知っていた。しかし、父院の「人もをし」の歌と共に、この歌を載せない『百人秀歌』の存在そのものを知らなかったから、『三奥抄』を殆ど引き写して、「秋の田の御歌は治まれる世の声にして、百しきの御歌はかなしびて以て思ふこころを顕はせり。詩人歌人の尤嘆くべき時なれば、黄門の心ここに有べし。本に二帝の御歌をすゑて、末に両院の御うたを載らる。これまた一部の首尾なり」としめくくる。賀茂真淵の『宇比麻奈備』は上句を比喩と解し、「古歌のごとく一筋にのたまひ入させ給へる大御歌」と評し、香川景樹の『百首異見』は上句と下句との関係を「後世のふり」と見、作者の心中を推察して慨嘆しつつ筆を擱く。

⑤佐渡での二十一年間の間に詠まれた和歌は、纏まっては『順徳院御百首』しか残っていない。父後鳥羽院と定家の二人が加点し、定家は評語も加えた。乱後の三人の心情も探れそうな作品群である。たとえば、「いかがせん奥も隠れぬ笹垣のあらはに薄き人の心を」は恋の歌として詠まれ、後鳥羽院と定家が加点した。「笹垣」は『散木奇歌集』で、肥後が旅先から源行宗に送った「草枕笹垣薄き蘆の屋は所せきまで袖ぞ露けき」という歌を見て、源俊頼が半ば冷やかす心もあって肥後に送った「笹垣の薄き蘆屋の露けさにしをれにけりと見えもするかな」の歌の二首に用いられた歌語で、後鳥羽院は建保四年(1216)群臣に詠進させた百首でこの言葉を「風吹けば深山にそよぐ笹垣のいたづら起きの暁ぞ憂き」と、やはり恋の歌として詠んだ。これは『後鳥羽院御集』にある。順徳院の作で「人の心」をも形容する「薄き」の形容詞は、肥後と俊頼の歌では専ら「笹垣」の形容に用いられていた。想像するに、後鳥羽院は自身が比較的珍しいと感じたこの歌語を順徳院も用いたことを喜びつつ、その歌が内乱後の人心を嘆いた歌とも読めるように思われて、共感したのではなかったか。

⑥順徳院の『八雲御抄』での地名の考証と関わりのありそうな歌もある。百首の雑歌に「海松布干す浜の真砂の白妙に日影もなびくをみの浦風」という一首がある。一方、『八雲御抄』では「をみの浦」を伊勢国の歌枕とし、「鳴呼」とも書いて、作例は『万葉集』にあると注する。その歌は巻十五3610「安胡の浦に船乗りすらむ娘子らが赤裳の裾に潮満つらむか」(遣新羅使人)で、左注から柿本人麻呂が伊勢行幸の際詠んだ「あみ(鳴呼見)の浦」の歌『万葉集』・巻一40「鳴呼見の浦に船乗りすらむをとめらが珠裳の裾に潮満つらむか」とも関わる。すると、二人の加点を得た順徳院のこの歌は、中世における『万葉集』研究の一端を反映しているとも言える。


【蛇足】

さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回の訳にも変更がありました。學燈社『百人一首必携』執筆時には、初句の「百敷や」が「宮中の」とありましたが、今回は「宮殿の」となっております。さらに三句目の「しのぶにも」が掛詞として二重に訳してあるのは同じですが、『必携』では「忍ぶ草、偲ぶにつけ」と単純でしたが、今回は「忍草を見て往時を懐古するにつけ」と「偲ぶ」を「往時を懐古する」と言い換えてありました。また、四句目の「なほあまりある」を今回は「いくら偲んでも偲びきれない」としていますが、『必携』では「偲んでも余りある」と直訳風になっていました。さらに、五句目の「昔なりけり」を今回は「昔だなあ」としていますが、『必携』は「昔であるなあ」とありまして、微妙な改変です。『必携』では、元の和歌の表現で済ませていたところを、なるべく言い換えてみたようです。その特徴を見ると、「に生えている」「を見て」「往時を」「いくら偲んでも」といった言葉を補っている点が目立ちます。「古き軒端の」が植物の「シノブ」を導き出し、それが動詞の「偲ぶ」と掛詞になっているわけです。「古き軒端の忍」が単なる序ではなく、懐旧を催すきっかけとなっているという解釈です。

次に、解釈と称する解説の部分は、今回ほとんど書下ろしとなっています。「百敷」「や」「しのぶ」「あまりあり」などの語義や掛詞を紹介する①は、『必携』では主に「しのぶ」の解説でしたが、他は今回の加筆です。②も「二百首和歌」を出典とするという指摘は『必携』にもありましたが、『万代集』を経て『続後撰集』に入る経緯は今回の加筆です。為家が「懐旧」の作として『続後撰集』に配列したことを考証する③、近世注釈書のこの歌に対する評価を述べる④、佐渡で詠まれた歌が父後鳥羽院と定家に読まれた加点の跡があることを指摘する⑤、歌学書『八雲御抄』の筆者である順徳院らしい万葉集享受の形跡を考証する⑥、これらは今回の書下ろしです。なお『必携』では、この歌から順徳院が大内裏の復興を夢見た可能性を探っていましたが、今回そういった視点での叙述は存していません。


注釈書の多くは、後鳥羽院の歌においても、崇徳院の歌においても、その後の上皇の運命に引っ掛けて大げさに歌の内容を拡大解釈することがあるんですが、この歌の背景についても幕府の専横に対する鬱憤があるようだと指摘していたりします。はたして建保四年(1216)において二十歳未満だった順徳院が、幕府に鬱憤を懐いていたと言えるのかどうか、なんとなく通説に無理があるような気がいたします。それから、著者は『続後撰集』の配列を考証して、「懐旧」の歌であると考証しておりまして、これも通説の王道の衰微を嘆くという方向を示唆しているようです。しかしながら、歴史と伝統を感じさせる古い都に大満足していて、歌道の盛んな文化の都の帝王という立場で、延喜・天暦の昔を懐かしむというような歌として解する余地はなかったんでしょうか。建保期の歌壇動向を見ると、この若い天皇は大人気でありまして、専門歌人たちに囲まれて和歌の催しにも積極的だったように見えますから、そこからしたら衰微した朝廷などという発想はなかったのではないかと思います。どこをどうみると、この歌から憤懣などというものが読み取れるのか、非常に不思議です。著者は、『必携』には「帝都の衰微を嘆いた作には違いない」と述べていましたが、そうした見方を否定まではしていませんが、意見表明を回避したように見えます。碩学の気持ちを変えるような学術論文でも出ているんでしょうか?


2009年刊の『聞いて楽しむ百人一首』(創元社・兼築信行氏)には、「内裏の建物にしのぶ草が生えるさまを述べ、朝廷の衰退を嘆く」とありますし、2010年刊の角川文庫・ビギナーズ・クラシックス日本の古典『百人一首(全)』(谷知子氏)にも、「宮中の建物に生えた忍ぶ草を見て院は王権が衰微した現在を嘆き、最盛期の昔を追慕する思いに誘われている」とありますし、2014年刊の『絵でよむ百人一首』(朝日出版社・渡辺泰明氏)でも「忍草は荒廃した場所に生えるイメージがあり、天皇の権威が衰えた現在への嘆きが込められていると見られる」とあって、久保田淳氏より一世代若い研究者も「衰微を嘆く」とすることにためらいがありません。


この歌は、『順徳院御集』によって建保四年(1216)順徳院20歳のころに詠まれた歌だと従来から指摘されていますので、承久三年(1221)の承久の乱の5年前ですが、果たして「皇威が衰えた」という認識があったのかにわかに分かりません。この建保四年には、閏六月に『百番歌合』という催しが順徳院の元で開かれ、定家は「来ぬ人を」(『百人一首』97番)の歌なんかを提出しております。八月にも22日24日と連日のように順徳院を中心に歌合を開いていまして、どうも20歳の天皇が和歌の面白さに目覚めて詠作に励み、歌人たちを集めて興じていたのであります。


ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり

    (『百人一首』第100番・順徳院)


内裏の御殿よ、その古き軒端に生えているしのぶ草を見るにつけ、偲ぶにしてもにもやはり偲びきれない昔であるなあ。(粗忽試訳)


念のため、「しのぶ」の掛詞を、「しのぶ草」と「(昔を)偲ぶ」と二重にして解釈してみましたが、なんとなく、諸注釈の言うような衰微のニュアンスではなくて、「歴史と伝統によって長く盛んであった時代時代が」しのぶ草によって偲ばれて、というような20歳の青年天皇の前向きな気分が感じられるんですが、それではだめなんでしょうか。


内裏の御殿の古くなりて、衰へ頽れたる軒に垣衣草の生えぬるまでなりたる世なれば、偲びてもいよいよあまりあまりて、なほ慕はしきは、昔盛にありし帝の御代の事なり。(佐佐木信綱『百人一首講義』)


前に取り上げた北原白秋なども、この信綱の影響下でこの歌を考えているようですが、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』も同じ方向ですし、近代の注釈書もその範囲を超えないようであります。そこでご提案なんでありますけれども、四句目のはじめに出て来る「猶」という副詞を、「身に」という表現に差し替えたら、この歌の印象は劇的に変わるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。


百敷や 古き軒端の しのぶにも 【身に】あまりある 昔なりけり(粗忽改案)


内裏の御殿よ、その古き軒端に生えているしのぶ草を見るにつけ、栄えある歴史と伝統を偲ぶにしても、【身に】余りあるすばらしい昔であるなあ。(粗忽試訳)


諸注釈は、今が衰えているから、栄光の昔を偲んでも偲びきれない、というような落ちぶれたという自己認識なんですが、若干二十歳の上皇が名だたる歌人たちに囲まれて歌を詠んで楽しんでいる日々ということを考えると、嬉しくてしょうがない、「身に余る」歴史と伝統に震えるくらいの気持ちだったんじゃないでしょうか。建保四年の『百番歌合』からは定家の「来ぬ人を」の歌をはじめとしてたくさんの歌がのちの『新勅撰和歌集』に入集したそうですから、ひょっとすると第九番目の勅撰集は、戦乱が生じなければこの順徳院の下命で撰ぶことがあってもおかしくなかったんであります。そう考えると、建保四年の段階で、歴史と伝統の重さがよく理解できて、それをありがたく享受している帝王がちょっと謙遜して「身に余る」と歌に詠んだなら、定家をはじめとする廷臣は今後の和歌の道の将来を安堵したかもしれません。というようなことは、実は誰も思いつかず言わないのですが、それでいいんでしょうか?


だいたい、「往時を偲ぶ」というような時に、過去の遺物はうら寂れていたりしてもいいと思いますけれども、今現在の発話者の境遇は割と盤石なんじゃないでしょうか。今がそこそこ安泰だからこそ、「あまりある昔」というのが意味があるような気がいたしますがいかがでしょう。もしご賛同いただけましたら、身に余る光栄でございます。


『続後撰集』巻第十八・雑下 1205番

     題知らず        順徳院御製

ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり


順徳院の歌が『百人一首』のしんがりです。「しんがり」を漢字表記すると「殿」なんですが、今この表記を「しんがり」と読ませるのは無理がありそうですね。この方は、仁治三年(1242)に崩御されたのであります。佐渡院とも言いまして、後鳥羽院が隠岐に流されたように、こちらは佐渡に流されて現地で亡くなられたそうです。実は、藤原定家さんはその前年、仁治二年(1241)に亡くなっておりますが。何の根拠もなく思うのですが、『百人一首』を贈るのにふさわしいのは、この順徳院という『百人一首』の最後を飾る帝王ではないのか、という気がいたします。前にどこかで、左近の桜を藤原定家さんが伐りに行く話がありまして、その時許したのが順徳院でありまして、そういう点では巡り合わせのよい二人でありますから、この方にプレゼントするなら、『百人一首』の構成はふさわしいものでありましょう。それ以外にもらって喜ぶ人の顔が浮かばないのであります。いや、顔はもともと浮かばないので、喜ぶ人の名前が浮かばないと言い直しておきたいと思います。『百人一首』をもらって喜ぶのは、順徳院ただお一人のはずであります。


どうやら『百人一首』の末尾三首については、その歌人の人名表記が問題のようです。藤原家隆が従二位になったのが、文暦二年(1235)9月10日のことでありまして、これが嘉禎元年と改められます。嘉禎三年(1237)4月9日に家隆さんは従二位のまま亡くなりますけれども、この家隆さんが従二位の間に、『百人一首』が成立したという可能性が指摘されております。それ以前だと、三位でなければならないし、故人であったなら配列がもう少し前でないといけないようなのです。


ただし、そうなると問題なのが、後鳥羽院・順徳院という天皇の諡号でありまして、後鳥羽院と決定したのは仁治三年(1242)、順徳院の方が決定したは建長元年(1249)ですから、このそれぞれの諡号を藤原定家さんは知るよしもないわけです。なぜなら、前にも述べたようにすでに仁治二年(1241)8月20日に亡くなっているわけでありまして、誰かが死後に歌人名表記を二人の上皇に関しては改めたということなのであります。ともかくすっきりしない問題が残ると言うことだけは指摘されております。


だから、『百人一首』は定家が撰んだんじゃない、誰かほかの人が撰んだのだと密かに考える人は多いのでありまして、そうなると百人の顔ぶれがおかしいとか、それぞれの代表作にしては物足りないとか、そういう話になって収拾がつきません。しかしながら、それながら、『百人秀歌』から『百人一首』を作るとして、三人抜いて二人加えたんだけれど、四首落として三首加えるというような操作を、定家以外の誰がするのかという問題があるでしょう。配列はもっと大胆に入れ替えられておりまして、伝統を重んじる歌道家の子孫が(先祖を無視して)やりおおせるような変更ではないと思うのですが、どうなんでありましょうか。本人なら、微調整も大幅修正も意のままでありましょう。

ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり

    (『百人一首』第100番・順徳院)


「ももしき」というのが、皇居を指すというのが、なかなか難しいのであります。初句の末尾の「や」というのは、「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」などという歌が思い浮かびますが、「や」の前後が緊密に結びついていたりするのであります。「ももしきの古き軒端の忍ぶ」が、「昔」の実景として浮かぶような仕掛けなんですけれども、当然「忍ぶ」が、シダ植物の「シノブ」と、過去を追憶する「偲ぶ」の掛詞となって、歌の主旨は懐旧にかられた述懐ということなのであります。「偲ぶにもなほ余りある昔」というのは、いくら思いを寄せても足りないくらいの感慨深い過去ということで、実は何をそんなに思っているのか、はっきりしないのであります。よって、上の句の表現を生かして、昔の御代、古代の聖主の時代という解釈に至るようです。順徳院の家集によれば、弱冠二十歳の時の作品であると井上宗雄先生が指摘してますが、だとすればこの帝王は帝王教育を受ける中で、中国の下降史観を勉強なさったと言うことで、先人は高くそびえ、後代の者はなかなか及ばないというような発想が表現されていると言うことでしょう。それほど特殊な考えや、当時の政治状況の反映など関係がなさそうでありまして、お勉強のできる方が、上手に歌をまとめたように思います。


とりあえず『百人一首』100首全部、今回は久保田淳氏の岩波文庫に導かれてあれこれ考えることができました。昨年は桑田明氏の超分厚い著作に導かれて読みました。かつては、北原白秋の注釈の御蔭で読み終えたこともありました。ともかく今回は学問の巨人の肩におじゃました勢いで、最後まで読めてしまったようです。


まだまだ言い足りないこともあるのでありますが、自分の解釈だけを取り上げたら、とてもとても続かないはずでありますが、共感してみたり、反発してみたり、自分の分からないところ、足りないところを、むしろ取り柄にしまして古典中の古典である『百人一首』を読んだわけですが、今回も案外面白い物であると感じました。言い忘れておりましたが、最後の順徳院の歌もこれを恋の歌に見なすことは出来るわけでありまして、「しのぶ」は思いを寄せる「偲ぶ」でも人目を避ける「忍ぶ」でも、恋の情調をかもします。二人の昔は、余りあるほど幸福な日々だったねえと、過ぎ去った恋を慈しむんでありますね。


さて、『百人一首』を再度読み通してみての感想は、前回も同じことを書きましたが、今回もなるほどなかなかいいという微温的な気分であります。


たぶん、世間の大方の人は、名作しか読んだことが無いのであります。やはりこれは名歌揃いの秀歌撰でありますから、ホテルのバイキングのような物なんであります。今回もこの感想は変りありません。どれもおいしいのでありますが、やはり、ローストビーフとカニと、スイーツが人気というような具合でありまして、実は平凡なエビチリも、コンソメスープも普通よりはずっとおいしいのであります。下手な古歌を我慢して読むような経験は、普通はありませんから、結局『百人一首』のなかでの好き嫌い、うまい下手を論じてしまいそうであります。少なくとも、絶対に秀歌とは認められないというような歌はありませんでした。昔、藤原定家さんの若い時の歌を先輩や師匠と輪読かなんかしましたときには、解釈の途方に暮れるようなおかしな歌ばかりで、何が言いたいのかさっぱり分からないものがたくさんあったのであります。それに比べたら、実に充実しておりまして、たしかにこれらの歌がとりあえず名歌であると言えるでしょう。


百人の ふるき昔の 歌見ても なほ余力ある 我が身なりけり(粗忽)


何度となく大手柄と自慢しましたけれども、そうした中で、やっぱり違うかなあと反省しているのは、西行さんの「かこち顔なる我が涙かな」であります。これはやっぱり、昔のままでいいんではないか、と思ったりしているんですが、いやいや待てよ、他にどんな証拠の歌があろうとも、涙が顔を持っているというのは無理ではないか、などと揺れているのであります。ということは、他のは本当に大手柄かも知れませんね。お勉強で困って検索している人がたまにいるんでありますが、今はまだ役に立ちませんよと言いたいのであります。30年、50年したら、あるいは定説になったりすると面白いことでありますね。もちろん、これもあれもすべて妄想であります。ともかく、分厚い岩波文庫に導かれて、長い長い旅でありました。以上が2025年の後半を費やして完了した今回の試みのまとめです。


以前住んでいた家の庭に「しのぶ草」が生えておりまして、ほっておくと鬱蒼としてすごいので、年に何度か刈り取りました。生命力が強くて、毎年復活して地面を蔽いましたが、あれが「しのぶ草」だと実はあまり認識していなくて、どうしてこんなところにシダがはびこっているんだろうと思っていたくらいです。とここまで書いていて、そうそう、順徳院の歌に出て来る「しのぶ草」は「のきしのぶ」というシダ科はシダ科でも、イラストにすると海藻みたいに見えるものだったと思い出しました。鬱蒼と生える方のシノブグサではなくて、岩とか苔のところに生えるせいぜい20センチになるかどうかとうようなものでした。それも以前住んでいた家の日当りの悪い塀の下にありまして、ユキノシタという植物と何となく一緒に生えている状態だったのです。注釈書でも間違っているのがありますから、それもイラストが命の本だったりしまして(笑)、うっかりしないようにご注意を。

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