岩波文庫『百人一首』を読む(101)『百人秀歌』53 藤原定子

秀53 夜もすがら契りしことを忘れずは 恋ひん涙の色ぞゆかしき  一条院皇后宮


【訳】お上が夜通しお約束なさいましたことをお忘れでないのでしたら、私を恋い偲んでお流しになる涙の色を拝見いたしとうございます。


【出典】後拾遺集・巻十・哀傷・536

   一条院の御時、皇后宮かくれ給ひてのち、帳の帷の紐に結び付けられたる文を見付けたりければ、内にもご覧ぜさせよと覚しがほに、歌三つ書き付けられたりける中に 


【解釈の要点】

①一条天皇の皇后藤原定子の遺詠である。定子は、長保二年(1000)十二月十五日の夜、媄子内親王を出産直後、二十四歳で急逝した。『後拾遺集』の詳しい詞書は、あるいは『栄花物語』巻七「とりべ野」に拠ったか。

②生前の定子が帳台の紐に結び付けておいたのを見ると、三首の歌が書かれてあった。その最初の歌がこの詠で、「知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎ立つかな」、「煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ」と続いていた。三首目の歌により、火葬ではなく、鳥部野に霊屋を作り十二月二十七日葬送が行われた。その夜は大雪になった。一条天皇は寝もやらず、「野辺までに心ばかりは通へどもわがみゆきとも知らずやあるらん」と思いながら夜を明かした。この歌は、『後拾遺集』第十哀傷543に、第二句「心ひとつは」、第四句「わがみゆきとは」として載った。「みゆき」は「行幸」に「深雪」を掛けている。

③山中玲子は、一条天皇のこの歌を引いて、穢れを忌んで葬列に加われなかった帝が、心だけは鳥辺野までついて行き定子を見送っているが、降り積もる雪が私の行幸だと最後の言葉を贈ったのであり、帝の愛が雪となって降りしきるように見える、と想像している。『枕草子』で語られる定子は三歳年下の一条天皇の精神的成長を見守っていたが、後には天皇が定子を大きく包み込む側に回っていて、運命を静かに受け入れる潔さや強さが感じられると述べている。

④定子がした行為は、『古今集』哀傷857に載る、閑院の五の皇女に倣ったもの。閑院の皇女が亡くなった時に、帳の帷子の紐に「かずかずに我を忘れぬものならば山の霞をあはれとは身よ」という歌を書いた文が結い付けてあった。

⑤「夜もすがら契りしこと」という表現で連想されるのは、白楽天の『長恨歌』のおわり近くの句、「七月七日長生殿 夜半無人私語時 在天願作比翼鳥 在地願為連理枝」である。定子以前に村上天皇と藤原師尹女芳子が贈答歌に読み込んでいる。

⑥「恋ひん涙の色」の「恋ひ」の主語は一条天皇。「涙の色」は紅涙を意味する。『長恨歌』では、楊貴妃が殺された時のことを「君王掩面救不得 迴看血涙相和流」と叙している。『栄花物語』の異本は、定子の遺詠として「なき床に枕とまらばたれか見てつもらん塵をうちも払はん」という歌を伝える。『続古今集』哀傷1468に「悩み給ける頃、枕の包み紙に書き付けられける」という詞書を付して載せられた。『長恨歌』の「旧枕故衾誰与共」の句を意識したもの。定子は儀同三司母(高階貴子)の漢才を受け継いでいた。


【補足】

2022年に青簡舎から出た『百人一首の現在』の中に「『百人秀歌』を読む」(中川博夫氏)として、注釈されています。そこに、定子が意識した可能性のある歌として、後撰集・恋四817「濃さまさる涙の色もかひぞなき見すべき人のこの世ならねば」(読人不知)が指摘されています。なお、説話集の『十訓抄』には、初句を「よとともに」としてこの歌が紹介されていまして、「心ばへふるまひともに優なるためし」として出ています。


【蛇足】

さて、ここからは、『百人一首』にはない『百人秀歌』という秀歌撰にあった四首の歌を、岩波文庫本に従って読んでまいります。今まで通り、読んだ感想は「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、冷泉家時雨亭文庫所蔵の『百人秀歌』を底本とした旨が断ってあります。実は、著者の久保田淳氏には1987年ほるぷ出版から出た「日本の文学 古典編27」『百人一首 秀歌選』という本がありまして、その中に今回の歌が解説されています。その解説と今回の岩波文庫版の解説を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回の訳と『百人一首 秀歌撰』版で若干の相違がありました。訳の初め「お上が」という主語の部分は、「御門がわたくしに対して」とありました。また、訳の真ん中に「わたくしなきのち」という補いがあり、「涙の色」の訳が、今回「涙の色を」とありますが、「涙がどんな色の涙か」とありました。ほかにも微妙に手が加えられています。ともかく、訳の特徴を考えると、「契りし」「忘れず」「恋ひ」の主語を、一条天皇を指す「お上(おかみ)」と加えております。四句目と五句目にまたがる「涙の色」は、解釈と称する解説部分で「紅涙」「血涙」と説明がありますが、訳出ではそのまま「涙の色」としてあります。

次に、解釈と称する解説の部分は、この歌が皇后藤原定子の遺詠であることを指摘する①、遺詠発見から葬送の夜の一条天皇の追悼の歌を紹介する②、一条天皇の追悼の歌の解読と一条天皇の人間性に関する研究者の見解を紹介する③、定子の遺詠の処置について先蹤があることを指摘する④、歌の上の句の表現が『長恨歌』を連想させることを指摘する⑤、「涙の色」も『長恨歌』の「血涙」を連想させ、別の遺詠も『長恨歌』に関連する所から、母高階貴子譲りの漢才にたけた定子像を指摘する⑥、すべて今回の書下ろしですが、③を除いて、内容的には『百人一首 秀歌撰』とほぼ同じです。なお、『百人一首 秀歌撰』には、「この歌は『百人秀歌』には選ばれていた。小倉山荘色紙和歌で最終的に除かれたのは、あるいはその哀傷の深さがこの百首歌の世界が担うべき装飾性という機能と矛盾すると感じられたからでもあろうか」という、示唆に富む推測が記されていました。


ええ、こんな歌あったっけ?と思った方は、『百人一首』をそらんじている立派な方でありまして、これはよく見ていただくと分かる通り、『百人秀歌』という藤原定家の秀歌撰の一つにある歌であります。この『百人秀歌』という秀歌撰は、101人の各一首、計101首から出来ておりまして、その97首が『百人一首』と共通しているというものであります。どうやら、藤原定家が宇都宮頼綱という武士から依頼されて制作したものは、この『百人秀歌』のようでありまして、このことは『明月記』という藤原定家の日記と照合しても確実であります。

おそらくこの『百人秀歌』が先に出来ておりましたが、あとで4首を除き、3首を加えてできたのが『百人一首』なのであります。除かれたのは、一条院皇后宮・権中納言国信・源俊頼朝臣そして権中納言長方の歌でありますが、あとで加えたのは源俊頼朝臣・後鳥羽院・順徳院の歌であります。つまり、源俊頼に関しては歌を差し替えただけですが、鎌倉時代の天皇を二人加えるために、除かれてしまった平安時代の歌人が三人いたということなのであります。一条院皇后宮というのは、藤原定子さまのことでありまして、実は『百人一首』には皇后の歌というか天皇の后妃の歌がありませんから、あったら大変な名誉であったわけです。ここから、四首ほど、『百人一首』に落選した歌を紹介してみようという趣向であります。定子さまの歌は、『百人秀歌』の53番目にあるものです。元の歌に、主語や目的語などの言葉を補うとすると、つぎのようになることでしょう。


(帝が我と)夜もすがら 契りしことを (我亡き後も帝が)忘れずは (我を)恋ひむ(帝の)涙の 色(を何色かと)ぞ(我は)ゆかしき


『枕草子』に出て来る中宮定子さまというのが、この一条院皇后宮であります。学校で習いますと、『枕草子』というのは上品な優雅なお姫様のやんごとなきお話として習ってしまうんですが、多分そうではなくて、この方は当時最先端のウィットをもって会話をしていた人でありまして、駄洒落とか冗談が大好きだったのであります。それを表現する形容詞が「をかし」でありまして、この単語は「面白おかしい・愉快・楽しい」ということのはずであります。「をかし」を「趣深い」と教えることがありますが、1975年あたりで専門家はその解釈を破棄し、「面白おかしい」に乗り換えたんですが、知らないと共通一次やセンター試験では点が取れませんでした。

定子さまが一条天皇のもとに参りましたのが永祚二年(990)のことでありまして、亡くなったのが長保二年(1000)のことでありますが、足掛け約11年に及ぶ結婚生活は、前半はおおむね幸福でありますが、後半はこれはもう不幸の極みでありました。父の中関白道隆の死、兄弟の伊周・隆家の失脚、母の高階貴子(『百人一首』第54番歌の儀同三司母)の病没、いいことは何もなかったかも知れません。三番目の子を出産しまして命を落としましたが、死後に御帳の帷の紐に結んであった文に辞世の歌が三首書かれていたのだそうです。その中のひとつがこの歌というわけです。『後拾遺集』の哀傷の巻頭に載った歌なのであります。


「ゆかし」という言葉のニュアンスがなかなか難しいかも。これは「見たくて仕方ない」というニュアンス。現代語の「奥床しい」に残っていますが、そんな上品なニュアンスの言葉ではなくて、強い欲求を示すのが「ゆかし」という形容詞です。


やっぱり、助詞や助動詞が難しいのでありまして、「し」が過去の助動詞であることは簡単ですが、「ずは」は打消の入った仮定条件でありまして、全体が未来時制になるのであります。「む」は推量・婉曲の助動詞ではありますが、いっそ仮定条件に訳してしまうのがいいのかも知れません。「夜通し愛し合ったことをお忘れにならないなら、死後も私を恋い慕って下さるでしょう。もしそうなら、帝の流す追慕の紅涙を、悲しみの証しとして、ぜひとも見とうございます」というようなことを言っているのでありまして、なんとも壮絶な歌なのであります。自分の死を悲しまなかったら許さないわよ、というような強烈な愛情表現だと私は思います。

『百人一首』が完成版であるという立場に立つと、『百人秀歌』にあって脱落した4首より、あとで入れた3首が上ということになりますけれども、私はへそ曲がりですから、もうちょっと違う事を考えます。『百人一首』に仮に特定の受取人、すなわち読者がいたとして、その人に合わせての入れ替えでありますから、藤原定家が自分の趣味趣向を抑制して、相手に迎合して伏せてみたんじゃないでしょうか。だとすれば、これは愛唱歌で、次なる贈り先の相手には、あまり知られたくなかった大好きな歌だったとも言えるでしょう。なぜなら、お后様が、死んでも帝に興味を持ち続ける愛着は、実は尋常ではありません。


どう考えても、天皇のもとに大臣家から入内するというのは、政略結婚の要素が大きいわけでありまして、優秀な頭脳と研ぎ澄まされた感性を持つ女性であれば、そういうことは十分わきまえているはずなのであります。さらには、天皇のもとには続々と后妃がお輿入れしてくるはずですし、添い臥しと呼ばれるようなお相手だって事欠かないわけでありまして、にもかかわらず相思相愛になるなんてことは、実は確率的には非常に低かったことだろうと思います。この歌は、余裕をもって鑑賞することのできる人であることを確認してから渡さないと、人間関係に亀裂が入るような、非常に微妙な歌ではないかと思います。『百人一首』に改定する際に除いたなら、それを見る人はあまり幸福な結婚生活を営んでいない人だと知っていたってことかもしれません。 


夜もすがら契りしことを忘れずは 恋ひん涙の色ぞゆかしき  

   (『百人秀歌』第53番 一条院皇后宮)

夜もすがらもの思ふころは明けやらぬ ねやのひまさへつれなかりけり

   (『百人一首』第85番 『百人秀歌』第85番 俊恵法師)


こうして並べてみると、俊恵法師の歌というのは、皇后定子の歌に対する一条天皇の立場での返歌の趣でありまして、初句の「夜もすがら」の一致というのが、たまたまではないと考えられるでしょう。そして、「ねやのひま」を諸注釈は「閨の隙間」とか「閨の板間の隙間」と解するんですけれども、これは「閨の暇」すなわち「訪問者が来てくれない独り寝」のことでありまして、ましてや相手が故人なら、二度と解消することのない「閨の暇」は「つれなかりけり」と嘆くのも道理ということになります。ひょっとすると、大手柄を挙げたのかもしれないという予感がいたします。

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