岩波文庫『百人一首』を読む(104)『百人秀歌』90 藤原長方

秀90 紀の国の由良のみさきに拾ふてふ たまさかにだに逢ひ見てしがな  権中納言長方


【訳】紀伊の国の由良の岬で拾うという美しい珠、その珠ならぬたまにでもいいから、あの人に逢いたいなあ。

【出典】新古今集・巻十一・恋一・1075

   (題しらず)


【解釈の要点】

①『百人秀歌』の集付が「新」なので、伝冷泉為相筆『新古今和歌集』の和歌本文を引くと、「きのくにやゆらのみなとにひろふてふたまさかにだにあひみてしがな」で、一、二句が『百人秀歌』と異なる。撰者名注記のある本によれば、有家・定家・家隆の三名が記されている。家集『長方集』の和歌本文は「きの国やゆらのみさきにひろふてふたまさかにだにあふよしもがな』で、初句と第五句が『百人秀歌』と異なる。「恋」と題する歌群中の一首である。

②「紀の国の由良のみさき」は現在の和歌山県日高郡由良町。『百人一首』46番曽禰好忠(『百人秀歌』47番)の歌に「由良の門」が出てきた。『万葉集』巻七の題詞「羇旅作」の作品群中に、1220「妹がため玉を拾ふと紀伊の国の湯羅の岬にこの日暮らしつ」(作者未詳)の歌がある。長方はこれを本歌とするような意識で「紀の国の由良のみさき(又は「みなと」)に拾ふてふ」と詠んだか。定家も『五代簡要』に「きのくにのゆらのみさき たまひろふ」と抄出しているから、関心を抱いていた歌枕であったと知られる。

③上句が「たまさかに」を導く序詞となっている。「拾ふてふたま」から「たまさか」へと続けた。「たまさか」は、思いがけないさま、偶然の意。『万葉集』巻九1740の長歌「水江の浦の島子を詠みし一首」に「わたつみの 神の娘子に たまさかに(邂尓) い漕ぎ向かひ……」(高橋虫麻呂歌集)と詠まれている。

④「逢ひ見てしがな」の「てしがな」は「……したいものだな」の意の連語。奈良時代には「てしかな」と清音だったという。『古今集』雑体・誹諧歌に「耳なしの山のくちなし得てしがな思ひの色の下染めにせむ」(読人不知)の例がある。

⑤長方が建久二年(1191)53歳(52とも)で死去した時、定家は30歳だったから、長方の動静が『明月記』に記されることは多くない。その子宗隆・長兼や兼高に関する記事は多いし、『尊卑分脈』には載っていたないが、(貞永二年1233二月二日条に「其鴻才有識超于兄弟長于詩句」)彼等の姉の老尼の存在も知られる。拙著で定家が長兼をどう見ていたか論及したことがある。実務官僚としての長方については、「長方は有能な実務官僚であり、柔軟な政治姿勢を持ち、歌筵を院近臣と囲んだものの、俊成の甥でありながら歌風が御子左的ではなかった」とする中村文の研究書がある。

⑥長方は、『千載集』に四首、『新古今集』に四首、『新勅撰集』に十首入集した。『千載集』秋上292「八百日ゆく浜のまさごをしきかへて玉になしつる秋の夜の月」は、『拾遺集』恋四889の読人しらず「八百日行く浜の真砂とわが恋といづれまされり沖つ島守」の本歌取り。この本歌は、笠女郎が大伴家持に送った『万葉集』巻四596相聞「八百日行く浜の沙も我が恋にあにまさらじか沖つ島守」の異伝歌である。古歌のもとの形を知った上で、恋の歌を月の歌に変えたか。『新勅撰集』夏163「荒れにける高津の宮のほととぎすたれとなにはのこと語るらん」は、長方が「故郷郭公」の題を詠んだ歌。承安三年(1173)『三井寺新羅社歌合』の中納言の君「難波潟朝こぎゆけば時鳥声を高津の宮に鳴くなり」を意識しつつ、『金葉集』秋197の源師頼の歌「いにしへの難波のことを思ひ出でて高津の宮に月のすむらん」からもヒントを得たか。『新勅撰集』恋三850「恋をのみすまの潮干に玉藻刈るあまりにうたて袖な濡らしそ」は、『万葉集』巻九1726の「難波潟潮干に出でて玉藻刈る海人娘子どもが汝が名告らさね」(丹比真人)に拠ったが、「恋をのみす」から「須磨」へと、「海人」から「余りに」へとの言葉続きは、技巧が過ぎる。

⑦長方の家集を『栂納言集』と呼ぶが、それは「梅納言集」の誤字と言われる。『尊卑分脈』で嫡男の宗隆に「号梅小路中納言」と注すから、長方もそう呼ばれたことがあったか。家集の祖本は定家が書写した本であるという。定家は歌人としての長方に関心を抱いていた。


【補足】

2022年に青簡舎から出た『百人一首の現在』の中に「『百人秀歌』を読む」(中川博夫氏)として、注釈されています。そこでは、本歌と目される『万葉集』巻七1220の作者を藤原卿としてあげています。また、『紫式部日記』の播磨守「紀の国の白良の浜に拾ふてふこの石こそは巌ともなれ」、『貫之集』「ぬき乱る涙もしばしとまるやと玉の緒ばかり逢ふよしもがな」、『古今六帖』から「陸奥にありといふなる玉川のたまさかにても逢ひ見てしがな」(作者不記)を類例として挙げています。さらに、定家が『新勅撰集』1312に「陸奥に」の歌を、下の句を「たまさかにだに逢ひ見てしがな」と長方の歌と同形にして撰入したことを指摘しています。


【蛇足】

さて、『百人一首』にはない、しかし『百人秀歌』という秀歌撰に採られていた四首の歌を、岩波文庫本に従って読んでいますが、その四首目がこの長方の歌です。今まで通り、読んだ感想は「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、冷泉家時雨亭文庫所蔵の『百人秀歌』を底本とした旨が断ってあります。著者の久保田淳氏には1987年ほるぷ出版から出た「日本の文学 古典編27」『百人一首 秀歌選』という本がありますが、その『秀歌選』にもこの歌は取り上げられていません。ただ、著者の角川ソフィア文庫『新古今和歌集』に注釈がありますので、それも参照して、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

ソフィア文庫版では、初句二句が「紀の国や由良の港に」とありまして、『百人秀歌』と異同があります。「玉を拾ふ」のだとすると、「湊」ではなくて「岬」のほうがよさそうでありますが、異同の理由は不明のようです。訳の特徴を考えると、上三句は「珠」を導く序詞という扱いで、四句目のところが「珠」と「たまさかに」の掛詞という扱いのようです。これを「~拾うという美しい珠、その珠ならぬたまに」と処理しています。「その珠ならぬ」というのは、ソフィア文庫版では「その珠ではないが」とありますが、「その~ならぬ」「その~ではないが」という表現は、序詞が歌の主旨に関与しないことを示す常套表現と言えるでしょう。要するに、言いたいことは下の句だけですが、掛詞になっているところが強調されていることになります。「たまさかに」は現代では通じませんが、「たまに」という意味です。訳を見ると、「逢いたいなあ」の前に「あの人に」と補っていますが、ここは二人称で「あなたに」でも通じるかと思います。

次に、解釈と称する解説の部分は、本文異同を考証する①、『万葉集』にこの歌枕の本歌があることを指摘し、定家も歌学書に抜き書きしていることを紹介する②、序詞を指摘し「たまさか」という表現が『万葉集』に見えることを言う③、「てしがな」を解説し、『古今集』に見えることを言う④、従兄ながら年の差があって『明月記』には長方の記事が少ないことを指摘する⑤、勅撰集から長方の三首の歌を引いて、その本歌などを指摘する⑥、長方の家集は定家が書写した本が粗笨であることを紹介する⑦、というような構成です。


この方は、藤原定家の従兄弟に当たる人でありまして、ただし年齢は長方のほうが年長でありまして、おじいさんが藤原俊忠という人であります。俊忠の三男が俊成さん、俊成の次男が定家さん、俊忠の娘が長方を生んでおりますことから、従兄弟と言うことであります。定家は応保二年(1162)生まれで、亡くなったのは仁治二年(1241)享年80歳、一方の長方さんは生まれが保延五年(1139)で、亡くなったのは建久二年(1191)53歳、23歳違いなので実は親子ほど離れております。簡単に言うと俊成さんの晩年の子が定家さんですから仕方ありません。私の母方の実家でも、長男の長男が、末っ子の叔父さんと結婚式を合同で執り行いました。兄弟が多いと世代がずれるわけです。俊忠さんという人も歌人でありまして、国信同様、堀河天皇の近臣だった人で歌合を主催したりしていた人なのであります。貴族がみんな歌が出来るかというと、そんなことはありませんので、さすがに定家の周辺は歌詠みの血筋であったと言うことなのでありましょう。


由良という地名は前に出てきまして、どこなのか諸説がありましたが、これはもう初句にちゃんと国名が明記されておりますので、紀伊の国に決まりであります。本歌もあるんですが、三句目までが序詞で、四句目の所に掛詞が仕掛けてあります。「玉(珠)」と「たまさかに」でありまして、これは難しくないですね。「たま」は真珠のことらしいのです。『新古今集』の恋一に入っておりますが、どうも初句と二句目に異同があるようで、「紀の国や由良のみなとに」となっておりまして、ちょっとの違いですが困りますね。ただ、真珠を見付けるなら、「湊(港)」ではなくて、「岬」のほうがいいのかもしれないという気がいたします。


紀の国の 由良のみさきに 拾ふてふ たまさかにだに 逢ひ見てしがな

   (『百人秀歌』第90番・権中納言長方)

妹がため 玉を拾ふと 紀の国の 由良のみさきに この日暮らしつ

   (『万葉集』巻七 1220番 藤原卿 ※後の歌の左注による)

陸奥に  ありといふなる 玉川の たまさかにだに 逢ひ見てしがな

   (『新勅撰集』巻十九 雑四 読人不知)


長方の歌には本歌が指摘されています。その本歌は、並べて示した『万葉集』の歌でありまして、作者は藤原卿とありますが、それが誰かは判然としないようであります。典型的な本歌取りの歌でありまして、歌の背景を『万葉集』から借りただけで、長方の歌の言いたいことは「たまに逢いたい」と言うことだけなのです。「てふ」が「といふ」の略でありますし、「てしがな」というのはこれで一個の終助詞と見なすもので、希望を表します。『新勅撰集』の歌は下の句を長方の歌と同じにして採録していますので、撰者の定家がうっかり直したのかもしれません。こうして見てくると、『百人秀歌』にあって『百人一首』に落選した歌は、非常に分かりやすい歌ばかりでありまして、単純な近代の歌は省いたのかも知れません。『百人秀歌』から『百人一首』に改訂するに当たって、落選した歌の位置を見てみると、53番(藤原定子)、73番(源国信)、76番(源俊頼)、90番(藤原長方)となるんですが、この数字の間に固定されて不動の歌人と、順序の入れ替えられた歌人がありまして、どうやら時代毎にまとまりがあるようなのであります。つまり史的な歴史を踏まえつつ、歌人を適切に配置しようと移動させる中で、脱落させるものを選んだようであります。『百人秀歌』で62番(大弐三位)と64番(紫式部)となっていた娘と母を、『百人一首』では母を先にして娘を直後に配するというように修正して、57番(紫式部)・58番(大弐三位)としましたから、二つの秀歌撰の改訂の順番はこれでほぼ決まりですね。誰もがご指摘のはずです。


藤原定家の年上の従兄弟に当たる藤原長方は、なかなかの硬骨漢であり、すぐれた政治家です。


梅小路中納言と世間は呼びますが、『続古事談』という本に、いい話があります。平清盛は、京都から福原へと遷都を実行しますが、これに不服の貴族が京都に居残るのであります。そう言う人たちを清盛が招集しまして、「古京と新京の優劣を比較せよ」と迫るんですね。命に関わりますから、みんなろくろく意見を述べないわけですが、この長方卿だけが新京の欠点を言いつのって、古京の利点をまくし立てたそうなんであります。その日のうちに還都が決定するんですが、同席していた他の貴族が、長方卿に聞くんであります。「還都に決まったからいいものの清盛が怒り狂ったらどうするの? Are you all right ? 」……ということは、殺されるところだったよと忠告したんですね。ところが、長方卿は落ち着いた態度でありまして、「あれはね、清盛の真意を見抜いたのさ。中国でも日本でも、悪いやつはよからぬ事を思い付くと誰にも相談しないが、後悔するとあれこれ人に訊くのだ。だから、さんざん言ってやったのさ」ということなんです。組織に属している方は、そういうことをたくさん経験していることでしょう。あれこれ悪事を働く奴は、「そうか、しまった」って思った時だけ、普段は無視している善意の人に相談するんですね。


「梅小路中納言の両京の定め」と呼ばれて、評判を呼んだようです。福原遷都は、治承四年(1180)6月のことでありまして、ほとんど都を造営することなく11月京都に還都しております。この時、長方は参議でありまして、翌年の12月に権中納言に昇進しております。


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