岩波文庫『百人一首』を読む(98) 藤原家隆
98 風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりけり 従二位家隆
【訳】風が楢の広葉を吹きそよがせる、上賀茂の御社の御手洗川、楢の小川のほとりの夕暮れは、さながら秋を思わせる涼しさ。みそぎをしているのが、かろうじて夏であることのしるしだ。
【出典】新勅撰集・巻三・夏・192
(寛喜元年女御入内屏風) 正三位家隆
【解釈の要点】
①『百人秀歌』の作者名は「正三位家隆」である。
②「ならの小川」は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境内を浅く流れる御手洗川。昔、楢(奈良)社という社があって、その後を流れるので名付けたらしい。歌の景としては、両岸に立ち並ぶ葉広な「楢の葉柏」を思い描いてよいだろう。『古今六帖』第一に見え新古今集・恋五1376に入る「みそぎするならの小川の川風に祈りぞわたる下に絶えじと」(八代女王)を本歌としつつ、後拾遺集・夏231「夏山の楢の葉そよぐ夕暮はことしも秋の心地こそすれ」(源頼綱)をも念頭に置いた月次屏風、六月祓の歌。
③下河辺長流の『三奥抄』は「みそぎする」の歌を引き、契沖の『改観抄』はそれに「夏山の」の歌を加えた。賀茂真淵の『宇比麻奈備』、香川景樹の『百首異見』は『改観抄』に同じ。寛喜元年(1229)十一月十六日、関白藤原(九条)道家女竴子が後堀河天皇の女御として入内した。定家は道家に命じられてその際の屏風歌の撰定に関わり、家隆の屏風歌について、『明月記』に「六月祓許尋常也」(十一月十四日条)と書いている。
④摂関家の慶事を飾る屏風歌は「晴」の歌である。爽涼感の横溢するこの歌は、その点で申し分ない。家隆の家集『玉吟集』には「述懐歌あまたよみ侍りし時」という詞書の作品群中に「水無月の神もうけずやなりぬらんけふのみそぎはする人もなし」という一首がある。「けふ」は、たとえ実際にその日に詠まれたのではないとしても、承久三年(1221)六月晦(二十九日)を意味することは前後から明らか。承久の兵乱に東軍を率いる北条時房・泰時が六波羅館に進駐したのは六月十六日のことであった。『吾妻鑑』によれば二十九日は安東光成が六波羅に着いて、「洛中城外謀反之輩可被断罪条々」を具申し、時房・泰時らは「関東事書」を読んで、人々と評議をしている。
⑤『京極中納言相語』によれば、家隆は晩年、定家の門弟の藤原長綱に、自分が俊成に歌を見てもらったら、「今は御歌おもしろからじはや。風情ないたくあそばしそ」と言われたと語っている。相当若いころから俊成の指導を受けていた。歌人として出発した時は六条藤家に近かった。西行が文治二年(1186)「二見浦百首」を勧進した際には家隆も声を掛けられたから、二十九歳ころには定家らのグループに参加していた。翌文治三年春には殷富門院大輔勧進の百首を定家・藤原公衡・寂蓮らと共に詠み、冬には定家と二人で「閑居百首」を試みた。建久年間の九条家での催しでは常連とはなっていない。後鳥羽院の院政が始まると、院は定家の歌に心酔し、家隆の存在をも認める。『後鳥羽院御口伝』での、「家隆卿は、若かりし折は聞えざりしが、建久の頃ほひより殊に名誉も出できたりき」との家隆評はほぼ当っている。
⑥家隆は、娘の小宰相が土御門院に仕えていた。土御門院がひそかに詠んだ堀河百首歌に感嘆した家隆は、手紙を添えて定家へ送った。定家は「秋の色を送り迎えて雲の上に馴れにし月も物忘れすな」という「懐旧」の歌を読んで作者が誰かを悟った。
⑦建保三年(1215)順徳天皇が群臣に詠進させた『内裏名所百首』に関連して、定家が家隆に送った消息の断片を写した、『名所百首歌之時与家隆卿内談事』があるがお互いの草稿についての意見や定家の自讃などが率直に記されている。二人が詠歌を通じて心を通わしていた有様が伝わってくる。
⑧承久二年(1220)二月十三日の内裏歌会で定家が詠進した「野外柳」の歌が禁忌を冒しているとして、後鳥羽院は順徳天皇に、以後定家を歌合に召すなと命じた。その一年後の五月承久の乱が勃発し、京方は北条勢にあえなく敗れて、後鳥羽・順徳、そして土御門の三院は遠島に遷された。隠岐の後鳥羽院と音信を続けた家隆と、後鳥羽院の院勘を許されぬまま、隠岐での院の詠歌活動を都で支える家隆を気にし続けた定家との関係も変化した。
【蛇足】
さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回の訳には若干の変更がありました。學燈社『百人一首必携』執筆時には、五句目の「しるしなりける」の訳が「しるしだよ」とありましたが、今回は「しるしだ」となっております。『必携』では「ける」の詠嘆を「よ」と表現していましたが、それを削っています。それ以外はそのままですから、『必携』から特に変更の必要がなかったということです。その特徴を見ると、上三句の訳の後に「さながら秋を思わせる涼しさ」という下二句の趣旨を補い、そこで句点を付けています。その後で、下二句の直訳も加えるというような工夫を施しています。二句目の「なら」は、樹木の「楢」と「楢の小川」の掛詞として処理し、「広葉を吹き」「上賀茂の御社の御手洗川」「ほとりの」「かろうじて」などと言葉を補って訳しています。五句目の「しるし」は、多くの注釈書は「証拠」と訳出しますが、「しるし」のままです。
次に、解釈と称する解説の部分は、『百人秀歌』での位階表記が『新勅撰集』と同じ「正三位」であることを指摘した①は、今回の加筆です。「ならの小川」についての解説と、本歌の紹介、ならびにこの歌が屏風歌である指摘をする②は、『必携』から受け継いだものですが、『必携』にあった詳しい位置情報は今回省かれています。③の本歌を指摘する近世注釈書の紹介は今回の書下ろしですが、定家の日記『明月記』に出てくる家隆のこの歌を「尋常」とする記事の話題は『必携』にもありました。ただ、日記の記事にあった定家の世間への思惑や屏風歌選定の内幕についての記事の詳細は今回割愛されています。④以降は今回の書下ろしです。④では、晴の歌である今回の屏風歌には感じられない家隆の個人的な感懐を、家隆の家集から拾い出しています。⑤は、定家の陰に隠れて知られていない家隆の歌人としての履歴をまとめています。⑥は歌人としての土御門天皇の発見に家隆が立ち会ったことを紹介するものです。⑦では承久の乱以前の家隆と定家に詠歌を通じての親しい交流があったことを指摘し、⑧では承久の乱の直前から二人の立場に溝が生まれた状況をまとめています。
万葉集・巻第四・626
八代女王献天皇歌一首
君尓因 言之繁乎 古郷之 明日香乃河尓 潔身為尓去
一尾云、龍田超 三津之濱邉尓 潔身四二由久
八代女王の天皇に献れる歌一首
君により 言の繁きを 古郷の 明日香の川に みそぎしに行く
一尾に云はく、龍田超え 三津の浜辺に みそぎしにゆく
著者は特に指摘もしておりませんが、八代女王の万葉集に出て来る歌はここにあげた明日香川の歌一首でありまして、古今和歌六帖にある歌は作者未詳でありまして、そちらの「ならの小川」の歌が新古今集で八代女王の歌として採録されております。伴信友が、上賀茂神社の本殿に奈良社という社があるから「ならの小川」なのだと述べているらしい(角川ソフィア文庫)のでありますが、万葉歌人が山城国の地名を歌に詠んだとするのも不思議なことでありまして、諸注釈はそのあたりの追及はまったくしておりません。
『新勅撰集』巻第三・夏 192番
寛喜元年女御入内屏風 正三位家隆 ※『百人一首』では、従二位。
風そよぐ 楢の小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
藤原家隆さんというのは、もちろん『新古今集』の撰者の一人でありまして、奥州の玄関口に当たる白河の関というところを訪問しますと、松平定信公が江戸時代にここが昔の白河の関蹟だろうと認定した神社があるんですけれども、その白河神社という神社の境内の中に、この藤原家隆さんがわざわざ京都から贈ってきたという「従二位の杉」というのがあるんであります。本当なら樹齢800年と言うことになりまして、あるいは二代目なのかもしれませんが、ともかくそういうことを示す掲示板が存在するのであります。従二位というのは相当に身分が高く、『新古今集』の撰者たちというのは、たとえば『古今集』の撰者の代表であった紀貫之などが望めない高位高官なのであります。島津忠夫氏が、角川ソフィア文庫で、この人は寂蓮の女婿であるという指摘をしていまして、寂蓮という方は一時俊成さんの養子でしたから、要するに俊成ファミリーの人だったわけであります。
もちろん俊成さんのお弟子の中でも傑出した人であることは間違いなく、定家のよき相棒、定家がマイケル・ジョーダンなら、この人はスコティ・ピッペン氏に間違いないわけで、定家よりも遙かに好人物という印象があるのであります。2011年段階なら、1990年代にNBAでシカゴ・ブルズが6回優勝した時の主力の二人ジョーダンとピッペンは充分通用いたしましたが、今となってはちょっと古いかもしれません。直近の2010年代を考えるなら、定家はステフィン・カリー、家隆はクレイ・トンプソンかもしれません。家隆は「かりゅう」でありまして、こっちが「カリー」ってことでしょうかね? というようなことを書き付けていたら、成績不振のクレイ・トンプソンは別のチームに放出されて、コンビは解消してしまいました。2025年現在だと、例えるに相応しいデュオが存在しませんので、削除しようかとも思いましたが、そのまま掲載しておきます。
風そよぐ 楢の小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
(『百人一首』第98番・従二位家隆)
みそぎする ならの小川の 川風に 祈りぞわたる 下に絶えじと
(『新古今集』巻第十五・恋五 1376番 八代女王「題知らず」)
夏山の 楢の葉そよぐ 夕暮れは 今年も秋の 心地こそすれ
(『後拾遺集』巻第三・夏 231番 源頼綱朝臣
「俊綱朝臣のもとにて、晩涼如秋といふこころをよみ侍りける」)
二句目の所に掛詞があると言われても、ピンと来ないわけです。樹木の楢の間を風がそよいでいるんですが、みそぎをしている川が、「ならの小川」という川でありまして、これが賀茂神社のそばの御手洗川の別名のようなのであります。納得は行かないのですが、根拠となる歌を見ますと、なるほどとおもうわけで、これは本歌取りのお手本のような歌なのであります。まず、『新古今集』恋五の「みそぎするならの小川の川風に祈りぞわたる下に絶えじと」という歌が本歌でありまして、家隆の歌のなかのみそぎする人というのが、恋の成就を願って「ならの小川」で水浴びしているという光景であることが明らかになります。次に、『後拾遺集』夏の「夏山の楢の葉そよぐ夕暮れは今年も秋の心地こそすれ」という平凡な夏の歌が本歌でありまして、なるほど、こちらの末句が隠し味になっていまして、賀茂神社の夏の夕暮れは「秋の心地こそすれ」みそぎをするからには夏なんだね、というふくらみが生じるんですね。
天皇に入内する女御のための屏風歌であったそうですが、だからこれも題詠であります。
詠まれた場を考えると、絵が先か歌が先かは分かりませんが、題を与えられたはずで、家隆は詠んだ後で定家に相談したそうです。だから、実感というわけではありませんが、洗練された見事な夏の歌であります。「そよぐ」という触覚があり、「みそぎ」を遠望する視覚があり、みそぎする人物の祈願の内容が恋の成就であるという、想像力がありまして、これに風にそよぐ楢の葉擦れの音、ならの小川のせせらぎの音、みそぎの水音、などの聴覚があり、夕暮れによってモノトーンになって沈んでゆく光景には、昼間の京都市中の暑さと、賀茂神社境内の涼感が対比されて、なかなかいい歌です。すっきりまとまって、天皇や女御が屏風を見ても、すぐに理解できますし、慶事にふさわしい恥ずかしくない歌であります。
ちなみに、注釈書を見ると誰もがこの歌を誉めるんですが、本当にいい歌だからここにあるのか非常に疑問です。もちろん、現在上賀茂神社の中で復元されている「ならの小川」のフォトなどを見ると、とてもきれいに管理されていて、いにしえもそうなら、夏の終わりに御禊のためにそこで水を浴びてもいいなと思わせるところがありまして、京都の夏の終りの気分を自然と想像して、涼しさを誰もが満喫したのだろうと思ったりいたします。
沢村貞子さんという女優さんが昔おりまして、映画にもたくさん出たんですが文章も冴えていて、有名な方でした。その方のエッセイの中に、近頃は暑くてかなわないと出てきまして、どんなかと思ったら、最高気温が28度もあって汗が出る、昔はこんなじゃなかったとあって、驚いたことがありました。2010年代以降の夏の最高気温38度なんてのがどんなに異常なのか分かります。時代によって暑さ寒さの変遷があるということなんですね。旧暦夏の終りは今のお盆位の時期ですから、普通の年であれば、昼間は暑くても、夕暮れは涼しくて秋めいたものだったのでしょう。
元の屏風歌は、寛喜元年(1229)に企画されたものですが、鎌倉幕府の第四代征夷大将軍となった藤原頼経の姉妹であった竴子という方が、御堀河天皇にお輿入れする時の屏風のためのものでした。頼経や竴子の父は藤原道家ですが、母は藤原公経の娘でありまして、『百人一首』のこのあたりの歌の周辺は関係者で固められております。面白いのは、歌を選ぶにあたって家隆は定家に相談して見せているんですが、定家の『明月記』には家隆の持って来た歌が出来が悪いというようなことが書いてありまして、最後に七首選んだけれど、いいのは「ならの小川」の歌だけだと言っていたわけです。このあたりは、藤原定家を研究していた石田吉貞さんの『百人一首評解』が詳しく書いていて、面白いのであります。晩年になって、権力の中枢に座った道家や公経と、歌道の大家である定家や家隆が協力して、慶事を切りまわしているんですけれども、そこでも心配事は尽きないのでありまして、相棒の家隆の詠作が低調なのを気にしていたのであります。「しょうがないなあ、いいのはこれだけか」って、ため息が聞こえます。
前宮内卿(=家隆)七首、……今度宜しき歌、唯だ六月祓いばかり尋常なり。
(藤原定家『明月記』寛喜元年十一月十四日)
それにしても、日記にあれこれ日々の感想をしたためていたために、こんなことまで知れてしまうというのは、さすがに驚かされます。
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