岩波文庫『百人一首』を読む(95) 慈円

95 おほけなく憂き世の民におほふ哉 我立つ杣にすみぞめの袖  前大僧正慈鎮


【訳】身の程知らずなことに、わたしは国家を鎮護する比叡山に住み、墨染の衣をまとう身の僧として、その衣の袖で、広く現世の衆生を覆い包むのだ。

【出典】千載集・巻十七・雑中・1137

   題不知 訪印慈円 


【解釈の要点】

①『百人秀歌』では作者名を「前大僧正慈円」とする。『百人一首』での「慈鎮」は慈円の諡号(贈り名)である。

②「おほけなく」は形容詞「おほけなし」の連用形。「おほけなし」は、身の程知らず、また、似合わしくないの意。散文での用例が多く、歌語としての用例は少ないか。勅撰集では本例の他には、拾遺集・雑下・長歌574に載る、藤原兼家(東三条太政大臣)が「円融院御時、大将はなれ侍て後、久しく参らで奏せさせ侍ける」の詞書を有する述懐の長歌の、「……玉の光を 誰か見むと 思心に おほけなく 上つ枝をば さし越えて 花咲く春の 宮人と なりし時はは いかばかり しげき蔭とか 頼まれし……」のみ。

③「我立つ杣に」は、新大系『千載集』や『慈鎮和尚自歌合』では「わがたつそまの」。「杣に」だと第二句の「民に」と揃うのを避けて改めたか。『拾玉集』では「杣に」なので、ここでも改めなかった。時雨亭文庫本『百人一首』も「そまに」。『百人秀歌』は「そまの」の「の」を消して、「に」とする。

④「我立つ杣」は、伝教大師(最澄)が「比叡山中堂建立の時」の詠、新古今集・1920「阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわがたつ杣に冥加あらせたまへ」により、比叡山の意。「我立つ杣」の用例は、勅撰集では『千載集』の本例を初めとして、計14例。「わがたつ杣木」が1例。中世、十三代集から多くなる歌語。「(わがたつ杣に)住み」から「墨染」へと続ける。「墨染の袖」は、黒く染めた衣服の袖、また、黒衣、僧衣や喪服をさす歌語。「墨染の衣」「墨染の袂」とも。後撰集・哀傷1404「墨染の濃きも薄きも見る時は重ねて物ぞかなしかりける」(京極御息所)のように、単に「墨染」ともいう。「立つ」に「袖」の縁語「裁つ」を響かせる。

⑤袖で何かを覆って保護するという発想は、後撰集・春中64「大空におほふばかりの祖でもがな春咲く花を風にまかせじ」(読人不知)、源氏物語・澪標「ひとりして撫づるは袖のほどなきに覆ふばかりの陰をしぞ待つ」(明石上)などの作に見られた。「ひとりして」は「大空に」の歌を意識したもので、光源氏の「いつしかも袖うちかけむをとめ子が世を経て撫づる岩の生ひ先」への返歌。「袖うちかけむ」とか「ひとりして撫づる」「陰をしぞ待つ」といわれている対象は、二人の間に生まれた明石姫君(後の中宮)である。

⑥下河辺長流の『三奥抄』は、「大空におほふばかりの」の歌を「本歌」として引き、「袖をおほふと云は、父母のいときなき子をはぐくみ立るとて、風にも雨にもあてじとて、袖をおほひきするよりいふなり。万民を安からしめんとて、天下のいのりをする、おなじこころなればなり」と言い、また『法華経』普賢菩薩勧発品第二十八の「若有受持。読誦。正憶念。修習。書写。是法華経者。(中略)当知是人。為釈迦牟尼仏。手摩其頭。当知是人。為釈迦牟尼仏。衣之所覆」の法文を引き、「法師品にも、おなじごときの文有。慈円僧正、台宗にて、殊に此本文をおもひて読るなるべし」と論じた。契沖の『改観抄』はそれを踏襲する。これらの考えに対しては、真淵・景樹も異を唱えていない。

⑦鎮護国家を標榜する天台一山の貫主らしい抱負の表白だが、この歌を詠じた時点では、慈円は未だ一度も天台座主に就任していない。この歌は五巻本『拾玉集』第一の「日吉百首和歌」の最後の歌で、この百首は文治二年(1186)から文治四年夏以前の詠と考えられる。建久七年(1196)十一月末の政変で、九条家に連なる人々は突如逼塞させられた。建久九年(1198)頃成立した『慈鎮和尚自歌合』の大比叡の二番右に自選し、左は「志賀の浦に五の色の浪立てて天降りけるいにしへの跡」。判者釈阿(藤原俊成)は、「此右の歌は初めの五文字より心大きに籠りて、末の句までいみじくをかしく侍を」と称揚しつつ、「志賀の浦の浪の色、殊に身にしむ」として左を勝としたが、千載集には「おほけなく」の歌を採った。「志賀の浦に」の歌は定家が新勅撰集・神祇558に入れた。

⑧西行が自歌合、『御裳濯河歌合』『宮河歌合』を伊勢神宮に奉納するという、生涯で最後の念願を実現する際に、料紙を用意し能筆に依頼するなど、慈円は大いに協力した。また西行の入滅が文治六年(1190)二月十六日未時であったこと、西行の自嘆歌(自讃歌)が新古今集・雑中1615「風になびく富士のけぶりの空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな」だと語ったことも、慈円は家集『拾玉集』に書き残した。鎮護国家の信念とともに、西行という歌の巨人の足跡を長く残すことをも自身の責務だと慈円は自覚していた。


【蛇足】

さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は訳にかなりの変更がありました。學燈社『百人一首必携』執筆時には、初句の「おほけなく」の訳が「おおけないことにも」と古語のままでしたが、今回は「身の程知らずなことに」となっております。さらに二句目の「憂き世」も、『必携』では「憂き世」とそのままでしたが、今回は「現世」と言い換えてありました。また今回「その衣の袖で」とあるところは、『必携』では「その墨染の袖で」となっていました。それ以外は『必携』から特に変更の必要がなかったということです。その特徴を見ると、初句はそのままですが、二句目と三句目の前に、四句目・五句目を先に訳していますから、下の句を倒置法と見ていることが分かります。五句目の「すみぞめの袖」は、「住み」と「墨染」の掛詞と見ている点や、四句目の「我立つ杣」を比叡山とする点は、解説でも触れられています。興味深いのは、比叡山の修飾句として「国家を鎮護する」を補っていることで、これによって「袖で衆生を覆う」ということの意味するところを表現しています。

次に、解釈と称する解説の部分は、①と②③は今回の書下ろしです。①は百人一首の作者名が諡名であることを指摘しています。②は「おほけなし」が散文に使われる言葉で、歌語ではないことを指摘しています。③は、四句目の「杣に」に「杣の」という異文があることを指摘し、その理由を推測したものです。下の句の「我立つ杣」や「墨染の袖」という表現に関して解説する④は、『必携』から大幅に加筆されています。これらに対して、袖で何かを覆うという発想の古歌を指摘する⑤、近世注釈書の指摘する本歌や典拠となる経典を紹介する⑥は『必携』を受け継いでいます。⑦のこの歌の詠作時期をめぐる考証は『必携』よりも詳しくなされておりまして、勅撰集への俊成や定家の扱いは今回書き下ろされています。⑧は慈円が西行を手厚く遇したことを紹介しておりまして、非常に興味深い内容です。


「墨染」に「住み初め」もしくは「住み染め」の掛詞を認めて、慈円の歌を散文にすると次のようになるのでしょう。三句切れですので、四句目・五句目を先に、初句以下を後で訳すことで、解釈はわかりやすくなります。


われが拠つて立つ杣であるところの比叡山に、我は早くより住みそめしが、身にまとわせた墨染の衣の袖をもって、われはおほけなくも、この憂世の民に対し、覆ひ尽くすやうに、わが法力に拠つて憂世の民を救済せむと祈る覚悟なるぞかし。(粗忽謹訳)


さて、こうして訳の特徴を分析しているうちに、わけの分からない慈円の歌も、何となくありがたい青年僧の決意の歌として理解できまして、頭に滲みこみ始めました。慈円は久寿二年(1155)の生まれですから、『千載集』が文治三年(1187)か翌年に完成したとされていますので、この歌が勅撰集に掲載されたときには33歳くらいで、それよりもっと若い時に詠んだ歌のようです。慈円が初めて天台座主になったのは建久三年(1192)38歳だそうですから、偉くなる人はそうなる前から人間ができていたということでよろしいかと思います。


『千載集』巻第十七・雑中 1137番

       題知らず    法印慈円

おほけなく 憂き世の民に おほふかな 我が立つ杣に 墨染めの袖


『千載集』では法印慈円ですが、『百人一首』だと前大僧正慈円とでてきまして、仏教界の格付けはよく分かりませんが、どんどん偉くなった方なのだろうと分かります。それにしても前の雅経の歌が非常に分かりやすいのに比べて、慈円の歌は、なんとなく最初から疎遠なものを感じます。よく考えてみると、私は「憂き世の民」でありますから、覆われているわけですけれども、そりゃありがたいと思うかというと、何だか迷惑なような気がしてしまうんですね。「おほけなく」というようにいくら謙遜されても、歌のサイズが大きいというか、特大の僧衣を着たお坊さんでありまして、慈円がウルトラマンのような巨大サイズに感じてしまいまして、いいえけっこうです、迷える衆生はなんとか自分なりにやっております、ほっといて下さいというような気持ちがしてくるのであります。慈円さんは、後鳥羽院をいさめるために『愚管抄』を書いた人でありまして、生まれも藤原摂関家でありますから、身分も高いが実力も充分の立派な人なのであります。


三句切れの歌であります。句切れがあるということは、実は歌が倒置法によってひっくり返っていることが多いわけで、そのために解釈が難しくなるのであります。何遍も繰り返し口ずさんでいるうちに、倒置が元通りになって、主旨が見えたりいたします。つまり、「墨染めの袖(を)おほけなく憂き世の民におほふかな」となりまして、生意気にも衆生を救済しようとするのだ、というような決意でありまして、お坊さんとしての決意を表明しているのであります。「おほけなく」という言葉は、語源も不明でありまして、現在は使わないのでありますが、「身の程知らずに生意気にも」という意味であることは、なんとなく認めていいでしょう。そうでないと、この歌はバランスを欠いてしまいます。問題は、「杣」でありまして、これは材木をとる山であるところの「杣山(そまやま)」の事なんですが、じつは「我が立つ杣」というのは、比叡山に根本中堂を建てた伝教大師の次の歌によって、比叡山を指すのだそうであります。僧侶の人材育成所たらんことを比喩したのでありましょうか。五句目の所に掛詞があるために、四句目五句目は、「我が立つ杣に住み初め」となり、「比叡山に住み始めて以来」という意味が隠れていまして、ようやく全体が分かりました。


『新古今和歌集』巻第二十・釈教・1920

      比叡山中堂建立の時    伝教大師

阿耨多羅 三藐三菩提の 仏たち 我が立つ杣に 冥加あらせたまへ

あのくたら・さんみゃく・さんぼだいの ほとけたち わがたつそまに みやうがあらせたまへ


慈円という人は、慈鎮和尚ともいいますけれども、なかなか人徳のあった人物でありまして、『徒然草』の226段に登場いたしますが、兼好法師の伝える『平家物語』の成立に関わる有名な話なんですけれども、これを慈円を軸にして考えるとちょっと違って見えるような気がします。それはどんな話かというと、こんな話でございます。後鳥羽院の時代に、学問が出来ると評判の信濃の前司行長は、御前で『白氏文集』を論じた時にヘマをしまして、それが原因で学問を捨てて遁世したのだそうです。慈鎮和尚は、一芸ある者を好んだので、この行長を食客にして手厚くもてなしました。食客というのは、おそらく「居候」のことでありましょうね。悪く言うと寄生虫みたいなものと思います。ともかく、この食客だった人物が作って、盲目の生仏という人に語らせたのが『平家物語』でありまして、だから『平家物語』は比叡山のことがめちゃめちゃ詳しく、登場人物の情報量に偏りがあるとまで兼好法師は指摘しております。


兼好法師が持ち出す『徒然草』の情報というのは、誤りがないということを耳にしたことがあります。エビデンスがしっかりしているというようなことなのでありましょうか。「エビデンス」という言葉の使い方も正しい意味も分かりませんので、我ながら「おほけなく」気取っているだけのような気持がしてしまいます。ともかく、とっておきの情報が『徒然草』に書き込まれているのだとすると、慈円に関する話も信憑性があるということでありましょう。だとしたら、『平家物語』というのは、慈円の膝元で温めたものと言っていいわけなのでありますね。どうもこの和尚さんは、これだけではなくて、いろんなことに手を貸していた名プロデューサーのようなのです。だったら、『百人一首』におけるこの和尚さまの歌の格調の高さというものは、すんなり理解できます。藤原定家も一目置いていて、四季の歌でもない、恋の歌でもない、仏教徒の高尚な決意をよしとしたのでありましょう。


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