足利将軍撰『新百人一首』を読む(0) はじめに

 新企画ということです。暇で暇でしょうがないということが、その最大の動機でありまして、無鉄砲にもほどがあると自覚しています。


さて、『新百人一首』を読むと題しまして、足利義尚という方が撰んだ秀歌撰を読んでみたいと思います。『百人一首』についてあれこれ考えておりますと、時々、この『新百人一首』というものが話題の中に入ってくるのでありますけれども、よく考えてみると、見たこともないものでありまして、どんなものなのか五里霧中なのであります。『百人一首』については、藤原定家の日記『明月記』に歌を撰んだ記事があるわけで、どうもそれが『百人秀歌』という形で伝わっているとされます。それを改訂したものが『百人一首』で、江戸時代以降はかるたとして世の中に普及したわけです。例えば、夏目漱石の『こころ』を読むと、主人公とその友人Kと下宿のお嬢さん、その三人が『百人一首』のかるた取りに興じるところが出てきまして、物語の中の非常に重要な場面を構成していたりするわけです。近年も、『ちはやふる』という漫画がアニメ化され、さらに実写ドラマ化もされまして、世間に『百人一首』やらその競技かるたの様子が広く認知されているわけです。ただ、気になるのは、かるた取りをして遊んだとしても、和歌そのものが理解されるまでには至らないことです。考えてみたら古典でありますから、『源氏物語』や『枕草子』と同じで、学校で習うのはほんの少しでありますし、もともと古典文法という壁が立ちはだかるわけです。今では子供向けの解説書やら啓蒙書も出ておりますから、多少は手に取ってみたという人は多いことでしょう。


というような状況で、15年位前にあの震災をきっかけにして、芭蕉の俳句を知り、それが絶妙に『百人一首』の源俊頼の歌をもぢっておりましたので感銘を受けました。じゃあ、自分もやってみようと試みたら、案外簡単だったのであります。五七五七七を五七五に改めて見たら、元の和歌に対する理解が自分の中でぐんと進む感じがありまして、さらにその五七五に下の句の七七を付けてみると、これも楽しむことができたのであります。そして、従来の注釈が何となく物足りなくなりまして、だんだん深みにはまったのであります。


実は、若い学生の頃に水道橋の日本書房という古書店の棚に、『百人一首』の注釈書がまとめて出ているのに目をとめまして、10冊くらいを廉価で手に入れました。すると、その中の一冊、佐佐木信綱博士の『百人一首講義』という本がありましたが、そこに封筒を切って作った栞が挟んでありまして、ちょうど封筒の宛名部分から、栞の作り手が元東大教授の五味智英氏であると分かりました。五味先生が亡くなってすぐのころで、五味先生の蔵書が古書店で売りに出ていたわけです。思いがけず、明治以降の専門家が関わった注釈書が手に入ったものの、それらは私の本棚で死蔵されていたということになります。それらを生かしたいなあということで、その中で一番薄い北原白秋の注釈をこのブログで紹介いたしました。


今年になって、岩波文庫に『百人一首』が登場しましたので、七月から一首ずつ読み進めてみたわけですが、気になるのは、本当にこれが最上の秀歌撰なのかどうかということでありまして、結論としてはどれも悪くはないのでありますけれども、もうちょっと有名な歌、有名な歌人はいるのかもしれないという気がしまして、何となく落ち着かないのであります。そこで、丸谷才一さんの『新々百人一首』などを手に取ると、『新百人一首』と名付けようと思ったら、そういう本は既にあるので遠慮してこんな名前にした、というようなことが出てきます。これまでも『百人一首』に挑戦した人は多いらしいのですが、それらが普及したかというと、丸谷さんの『新々百人一首』も含めてあまり評判にはならなかったのではないかと思います。与謝野晶子も昔、『女人百人一首』というような企画を試しましたが、同じ歌を採るというようなミスを犯して、企画自体が白けてしまったというのを何かで読んだことがあります。『百人一首』を真似たものを、「異種百人一首」と呼ぶそうですが、調べると必ず『新百人一首』の話題が出てきます。一番最初に『百人一首』にチャレンジしたものがどういう内容か、気になるんですが、それを扱った書籍がろくに世間にないということに気が付きました。念のため、『新百人一首』がどいうものか、示してみたいと思います。


新百人一首(しんひゃくにんいっしゅ)〘室町期秀歌撰〙常徳院撰和歌集とも。足利義尚撰。文明十五1483年成立。三条西実隆が依頼されて序文を記したのは10月24日である。続群書類従375・歌学大系別巻6所収。国会図書館本・内閣文庫本などがある。定家撰の小倉百人一首にならって、これにとられなかった、文武天皇から花園天皇までの百人の歌人の歌各一首を撰んだもの。大半は平安歌人で、万葉歌人・新古今歌人をも含む。恋の歌が少なく、叙景歌が多い。【参考文献】『中世歌壇史の研究 室町前期』井上宗雄(改訂新版昭59風間書房)『和歌大辞典』(明治書院1986)


ついでに、グーグルのAIに聞いてみた結果は次のような答えです。


「新百人一首(しんひゃくにんいっしゅ)」とは、一般的に知られる藤原定家の『小倉百人一首』とは別に、後世に選定された歌集を指します。主なものとして以下の2つの作品が有名です。

1. 室町時代の『新百人一首』 

室町幕府第9代将軍、足利義尚(あしかが よしひさ)によって文明15年(1483年)に成立した私撰和歌集です。 

内容: 『小倉百人一首』に選ばれなかった著名な歌人の和歌を、勅撰和歌集から1人1首ずつ、計100首選定したものです。

特徴: 異種百人一首の中で最古の作品とされています。『新古今和歌集』からの採録が最も多く(36首)、当時の武家の歌人評価や美意識を反映しています。 

2. 丸谷才一の『新々百人一首』

作家の丸谷才一が1999年に発表した現代の撰集です。 

目的: 勅撰和歌集を日本文学の心髄と捉え、定家の撰に漏れた名歌を独自の基準で選んでいます。

構成: 春・夏・秋・冬といった季節や恋、旅などの部立て(ジャンル分け)で構成されており、恋歌に偏った定家の撰に比べ、四季のバランスが取れた正統的な構成になっています。

その他(異種百人一首)

これら以外にも、歴史上の人物を扱った『武家百人一首』や『英雄百人一首』など、特定のテーマに沿って100人を選んだ「異種百人一首」が数多く存在します。 

AI は不正確な情報を表示することがあるため、生成された回答を再確認するようにしてください。


さらに、Wikipediaを覗くと、とりあえず『新百人一首』の100首が掲示されておりまして、「注解刊行本」という項目もありますが、そこには日本歌学大系別巻6と丸谷才一氏の著作が挙げてあるだけですから、100首のラインナップを知ることができる程度です。参考文献の項目は、雑誌論文が挙げてありますが、公開されていないようで、残念ながらネットでアクセスはできませんでした。


国立国会図書館デジタルコレクションに、活字の本としては佐佐木信綱編『標註七種百人一首全』(博文館1893年)が入っておりまして、写本も『新百人一首』(837-36)というものがありまして、どちらも公開されています。それらを元にして、100首読んでまいりたいと思います。なお、写本の方には『新百人一首』が世に出た経緯を三条西実隆が書いておりますので、それを翻字してみたいと思います。『和歌大辞典』では「序文」ということでしたが、研究者の指摘通り巻末にありますので「跋」ではないかと思います。


百人一首とて、大津の宮のそのかみ、かりほの露のふるごとよりはじめて、承久の百敷の軒のしのぶのことのはにいたるまで、世の中につたはれるは、京極中納言みづからの山里の障子に書きおかれけるを、今の代までのもてあそびとせるならし。しかあるを、この比柳の絲のよりよりに、其の外の歌仙の哥どもを、更に色ことなる紙どもに書き出だしましましたるを、見奉るべきよしおほせごと侍りし。御筆のいきほひ・すみつき、此の世のものともみえず、めなれぬさまなど心・詞も及びがたく、是ぞ千とせの寶に侍るべきと、おろかなる心のうちにも有りがたくおもひ奉りて、さるは、えらび出だされたるおもむきもたぐひなく、めでたき御事に侍れば、ひろくすゑの代にもつたへまほしくて、御中書を申しいだしてまかでたりし。これもまた石の文筥・壁の中にもをさめおき侍るべきは、たやすくひらき見るべきにしあらざれば、更にかたのやうにうつしおきて、これを明けくれまくらもとにすべしとや。

  小倉山しぐれふりにしいにしへの あとにもこゆることのはぞこれ

文明十五年神無月下四日、ともしびのもとにて筆を染めをはりぬ   沙門(花押) 


〇大津の宮 天智天皇の皇居。〇かりほの露 天智天皇の「秋の田の仮庵の庵の苫を荒み我が衣では露に濡れつつ」を指す。〇承久 順徳天皇時代の年号。〇百敷の軒のしのぶ 順徳天皇の「百敷や古き軒端のしのぶにも猶余りある昔なりけり」を指す。〇京極中納言 藤原定家を指す。〇山里の障子 百人一首は宇都宮頼綱の嵯峨の中院山荘の襖を飾る色紙として染筆された。〇柳の絲の 「よりより」を導く序。〇中書 草稿と清書との間にする中間的な書写のこと。〇文筥 文箱。書状などを入れておく箱。〇壁の中 秦の始皇帝時代の孔子の家の壁の中に隠された文書が漢代に発見されたことから、貴重な文書を秘蔵する場所。〇まくらもと 枕頭。枕頭の書。亡くなるまで手放さない愛読書を言う。〇小倉山 『拾遺愚草』2392「小倉山時雨るるころの朝な朝な昨日は薄き四方の紅葉ば」 〇沙門 出家者を指す。実隆の出家は永正13年1516なので、文明15年1483にはまだ「沙門」と呼べない点が、従来問題となっている。なお、三条西実隆の日記『実隆公記』では、文明15年10月24日に「御中書申出之退出、可謂末代之鴻宝也」云々とあり、書写のため借りたのは間違いない。


【解釈】

『百人一首』と呼んで、天智天皇の「秋の田の」の古歌から始まり、順徳天皇の「百敷や」の歌に至るまでの、世間に伝わっている秀歌撰は、京極中納言定家卿ご自身が、嵯峨の山里の障子にしたためたのを、現代まで賞玩するものだろう。しかしながら、義尚公が近頃折に触れて、百人一首の歌人以外の歌仙の歌々を、特別に色鮮やかな料紙に選んで書きなさったものを、私に拝見せよとお命じになりました。その筆勢や墨の濃淡のご様子は、この世の物とも見えず、ありふれていないさまなどは想像もできず、表現もできないほどのすばらしさで、これこそ未来永劫の宝物に違いありませんと、鑑賞眼もない私の心中でもすばらしいと思い申し上げて、それこそ、百首を撰出なさった義尚公のご興味ご関心も他に例もないほど、すばらしいものでございますから、世間の隅々まで末代まで伝えたくて、草稿の書写を願い出まして御前を退出いたしました。この秀歌撰もあるいは石の文箱や壁の中に秘蔵しましたら、容易に開いてみることもできませんので、特別に秀歌撰の形式で書写して、これを朝夕枕頭の書とするのがよいと思います。

   小倉山……(=これこそ、京極中納言定家卿の撰んだ秀歌撰をも超える秀歌撰である。)

文明十五年十月二十四日、灯火の下で書写し終えました。 沙門(花押)


当代一流の歌学者であった三条西実隆が絶賛して、家に持ち帰って書写しているわけですから、これは内容に関しては太鼓判が押されたものであることは間違いありません。義尚公は、寛正6年(1465)11月23日、八代将軍・足利義政の五男として誕生、母は正室の日野富子。第九代征夷大将軍になったのは文明5年(1473)9歳、亡くなったのは長享3年(1489)25歳です。『新百人一首』を撰んだ時には、なんと数えの19歳という若さだったということになります。三条西実隆は、康正元年1455に生まれまして、内大臣まで至った人ですが、宗祇から古今伝授を受けた人でありまして、歌学者と呼ぶのがふさわしく、亡くなったのは天文六年1537年享年83歳。義尚公よりは10歳上ですが、『新百人一首』を書写した時には29歳ですから、これも若いのであります。



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