足利将軍撰『新百人一首』を読む(1) 文武天皇

1 龍田川 もみぢみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなん  文武天皇


【標註】龍田川云々、古今に題しらず読人不知とありて、左註に此歌は或人奈良の帝の御歌なりとなん申すと註せり。


【出典】

古今集・巻第五・秋下283 題知らず 読人しらず

   龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん

      この歌は、ある人、奈良の帝の御歌なりとなむ申す

古今集・仮名序

古よりかく伝はるうちにも、平城の御時よりぞ広まりにける。かの御代や歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麻呂なむ歌の聖なりける。これは君も人も身を合はせたりといふなるべし。秋の夕、龍田川に流るる紅葉をば帝の御目には錦と見給ひ、春の朝、吉野の山の桜は、人麻呂が心には、雲かとのみなむ覚えける。(省略)平城の帝の御歌 龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ。 人麿 梅の花それとも見えず久方の天霧る雪のなべて降れれば


【語釈】

〇龍田川 生駒川が大和川と合流する付近の呼び名。万葉集には「龍田山」の歌は出てくるが、「龍田川」は出てこない。〇もみぢ 秋になって色づいた草木。落ち葉。〇みだれて いろいろな色が混じり合う様子。〇めり 視覚による推定を表す。〇わたらば 「渡る」はここは橋を使わないで川の対岸に行くこと。「未然形+ば」は仮定条件。〇錦 様々な色の糸で織った絹織物。〇たえなん 下二段動詞「絶ゆ」は途中で切れること。「たえ」は連用形。「な」は強意の助動詞「ぬ」の未然形。「ん」は推量の助動詞の連体形で係助詞「や」の結び。〇奈良の帝 「奈良」は「平城」や「なら」と表記されている時がある。奈良時代は、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の七代の天皇がいた。なお新日本古典大系『古今和歌集』の脚注は、「平城天皇とする説もあるが、奈良に都した文武天皇から平城天皇までのいずれかと広く解することもできる」と述べている。

【作者】

〇文武天皇 天武12年(683)草壁皇子を父、元明天皇を母として生まれる。持統天皇の譲位により、文武元年(697)即位、第42代天皇。大宝律令を制定し、施行した。聖武天皇の父。慶雲4年(707)24歳で崩御。 

【訳】

龍田川に赤や黄色の紅葉が入り乱れて流れてゆくようだ。それはさながら美しい錦の織物であるが、今向こう岸へと渡ったならば、その錦の織物は途中で切れるだろうか。


【参考】『大和物語』150段は「昔、ならの帝につかうまつる采女ありけり」で始まる猿沢の池入水事件ですが、人麻呂と帝が哀悼の歌を寄せています。これを受けた151段は、

  おなじ御門、竜田川のもみぢ、いとおもしろきを御覧じける日、人麻呂、

    竜田川もみぢ葉流る神なみの三室の山に時雨ふるらし

  御門、

    竜田川もみぢ乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん

  とぞあそばしたりける。


【蛇足】

今回テキストにいたしましたのは、『標註七種百人一首』という明治二十六年(1893)にでた本で、著者は佐々木信綱となっています。発行元は東京日本橋区本町三丁目の博文館となっておりまして、これだけの情報でもいろいろと面白い点があると思います。まず、佐佐木信綱博士は、明治5年(1972)現在の三重県鈴鹿市生まれの国文学者ですが、家訓で宮仕えしないというので、大学の教授にならなかった人ではないでしょうか。苗字は本来「佐々木」と記しましたが、明治三十六年信綱32歳のとき訪中した折、中国には「々」の字が存在しないことを知り、「佐佐木」と改めたというのは有名な話かもしれません。博文館は紆余曲折の末、現在は博文館新社とか、神田の東京堂書店というような形で残っているようです。所在地の日本橋区本町は、現在は中央区になっておりまして、日本銀行のあるあたりということです。日本橋三越のお隣と言った方が分かりやすいかもしれません。


『古今集』で奈良帝の歌として入っているのは、巻第二・春下90の「平城帝の御歌 故里となりにし奈良の都にも色は変らず花は咲きけり」でありますが、これは平城帝の歌であります。しかしながら、出典となる『古今集』秋下283の左注に出てくる「なら(奈良・平城)の帝」というのは、平城天皇でいいのかというと、これを仮名序の言うところと突き合わせると、どうやら文武天皇を指す可能性もあるようです。そうではないと、若い将軍が選抜した秀歌撰は、最初の歌から作者違いという問題を抱えることになるわけです。なるほど、この『新百人一首』には、最初の歌に地雷が仕込まれていたということなのかもしれません。

気を落ち着けて検証してみると、文武天皇というのは、即位するときに非常に微妙な問題があって、異例の若さで抜擢されたというような話であります。即位する前は軽皇子と呼ばれていたようですが、その時に随行して歌を詠んでいたのが柿本人麻呂でありまして、そうすると『古今集』の仮名序や、大和物語の150段・151段あたりは信じてよさそうということになります。人麻呂の詠作活動の時期というのは、早いものが天武9年(680)、最も遅いものは大宝元年(700)でありまして、これは文武天皇の生きていた時代に重なるわけです。

足利義尚は一条兼良に学んでいたという話がありますので、仮に和歌をきちんと教わっていたとするなら、おそらく『古今集』あるいはそれを含んだ三代集を習ったはずです。すると、その際に仮名序について講釈を聞いたとすれば、仮名序の伝える和歌史というものを吸収したはずでありますから、人麻呂が仕えた文武天皇に興味関心を抱いたことでしょう。若くして異例の抜擢で帝位についた文武天皇について知ったなら、同じような若さで将軍職を継いだ自分と似ていると感じて、親近感を抱いたかもしれません。だとすれば、『百人一首』を真似た秀歌撰の始まりを、文武天皇にすることは不思議でも何でもないことなのでしょう。むしろ、この「龍田川」の歌を文武天皇のものだとする指摘に触れて、いろいろと見えてくることがありまして、面白いなあと思いました。

この歌のいいところを指摘してみたいと思います。上三句が情景描写でありまして、龍田川の水面を紅葉が埋めて流れている光景です。「みだれて」という修辞が、何となく否定的に響きまして、不穏な感じを醸しております。さらに、「めり」という推定の助動詞が使われていまして、これは「~と見える」というような表現ですから、眼前の光景について断定できない、優柔不断な感じであります。一転して、下の句では「今河を渡ると錦が途切れるかも」と言い出しまして、ここに眼前の光景を「錦」に見立てていたことが明らかになります。というか、詠作主体は眼前に繰り広げられていたものを、「錦」と認識していたのであって、「ひょっとすると川か?」という言い方でありまして、つまり、現実として認知したのは「錦」、それを「紅葉乱れて流るる龍田川」かもと推測したという、認知の逆転が主題のようです。ちっとも素朴な歌ではなくて、美しい景色を見て、「絵葉書みたい」とか「AI画像かと思った」というようなことでありまして、どう見ても「錦」に見えてしまうよね、というようなことを表現している歌です。


  渡りなば 錦のころも 乱るめり 絶えぬ龍田の 川のもみぢ葉(粗忽) 

【訳】次から次へと絶えることなく流れて寄せてくる、まるで錦が織りなすような美しい龍田川の紅葉の無数の落ち葉よ。この龍田川を向う岸へと渡ろうものなら、ちはやぶる神代の昔から山姫が織って作るという、せっかくの錦の衣が私のせいで乱れてしまうと思われる。

※三句切れ、倒置法。「なば」は強意の助動詞に仮定条件の接続助詞。「めり」は推定の助動詞。「錦の衣」は、三室山の山姫が秋になって染めたり織ったりして仕立てた、目にも鮮やかな衣という見立て。   


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