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岩波文庫『百人一首』を読む(57) 紫式部

57  めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし夜はの月影  紫式部 【訳】空を行きめぐり、それかともはっきりと見定めないうちに、雲の中に隠れてしまった夜半の月――ちょうどそのように、たまたま出会ったのが本当に幼友達のあなたなのか、定かに見分けられないうちに、あなたは姿を隠してしまいましたね。 【出典】新古今集・巻十六・雑上・1499    早くよりわらは友だちに侍ける人の、年ごろ経てゆきあひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひて帰り侍ければ 【解釈の要点】 ①『紫式部集』は自撰家集と考えられるが、この歌はその巻頭歌である。新古今集の詞書は『紫式部集』のそれとほとんど同じで、撰者たちがそのまま伝えようと努めた。ただし、家集では「十月十日」とする。香川景樹『百首異見』が「家集に十月とあるは七月の誤写なるべし」と述べ、家集での次の歌との関連によって「七月十日」が正しいとする説がある。実践女子大学本『紫式部集』では、この巻頭歌と次の歌の間に一行分の空白があり、脱文かもしれない。 ②詞書の「年ごろ」は、多くの年。「月にきほひて」は、沈もうとする月と競争するかのように。「めぐり逢ひて」の「めぐり」は、月が天空を運行することから、「月影」の縁語。「わかぬまに」は、底本「宮内庁書陵部蔵堯孝筆」では「しらぬまに」。冷泉家時雨亭文庫本『百人一首』や新古今集によって改めた。「くもがくれにし」の雲は「月影」の縁語。「月影」は月の光。また単に月を意味する。家集の陽明文庫本では「月かな」。 ③拾遺集・雑上470に「忘るなよほどは雲居になりぬとも空行く月のめぐりあふまで」の歌を、「橘忠幹が人のむすめにしのびて物言ひ侍ける頃、遠きところにまかり侍とて、この女のもとに言ひつかはしける」と詞書を付して収める。『拾遺抄』巻第十・雑下528にも採られているが、その詞書では「人のむすめ」ではなく、「人のめ」とする。同じ歌は『伊勢物語』11段に「昔、男、あづまへ行きけるに、友だちどもに、道よりいひおこせける」として載せられた。橘忠幹は長盛の子で、駿河介になったが、天暦九年(955)賊に殺されたという。下河辺長流『三奥抄』は「伊勢物語に」として、紫式部がこの歌を本歌にしたと考え、契沖『改観抄』はただ「本歌」として挙げる。賀茂真淵『宇比麻奈備』や香川景樹『百首異見』では、「忘るなよ」の...

岩波文庫『百人一首』を読む(56) 和泉式部

56  あらざらんこの世の外の思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな  和泉式部 【訳】こんなに病が重いのですから、わたしはきっと死んでしまうでしょう。来世での思い出として、もう一度あなたにお逢いしとうございます。 【出典】後拾遺集・巻十三・恋三・763    心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける 【解釈の要点】 ①底本は56の歌と57の作者名を誤ってとばし、行間に細字で、歌は片仮名交りに補う。ここでは、片仮名を平仮名に改める。 ②榊原本『和泉式部集』の詞書「ここちあしきころ、人に」によって、「例ならず」がここでは「あしき」を意味することがわかる。生命の危険を感ずる病気になっていたのであろう。 ③下河辺長流の『三奥抄』が、『文選』陸士衡の「歎逝賦」の終り近く、「精浮神淪、忽在世表、寤大暮之同寐」の部分を引き、「世のほかは、此本をおもひて、よめるなり」と断じ、契沖『改観抄』も同じ部分を引き、「あらざらん此世の外、めづらしくよめり」と評する。賀茂真淵『宇比麻奈備』、香川景樹『百首異見』とも、「歎逝賦」には言及しない。和泉式部が『文選』に親しんだか否かは何とも言い難い。 ④名詞としての「思ひ出」は、古今集・賀346「わが齢君が八千代に取りそへてとどめおきては思出でにせよ」(読人不知)が早い例か。拾遺集・別350「思出でもなきふるさとの山なれど隠れゆくはたあはれなりけり」(弓削嘉言)の歌は長徳二年(996)の藤原伊周の配流に関係するから、和泉式部の時代とほぼ同じ頃の詠である。賀茂真淵『宇比麻奈備』は「おもひ出とは、さきによき事の有りしを、後に思ひ出て、身のむかしかかる事も有しぞとおもひなぐさみとすること也」という。思い出を昔体験したよいこと、嬉しかったことなどに限定するのはどうかと思うが、万葉集で思い出す対象は、たとえば巻十一2521「かきつはた丹つらふ君をゆくりなく思ひ出でつつ嘆きつるかも」(作者未詳)のように、専ら恋人であるから、来世での思い出に恋人と逢うことを願うのは極めて自然な感情である。 ⑤「いまひとたびの」の句は、26貞信公の歌にもあった。『和泉式部日記』では帥宮敦道親王が石山詣でをした和泉式部に「あさましや法の山路に入りさして都の方へ誰さそひけん」と言い送ったのに対して、彼女は「山を出でて暗き道にぞ辿り来し今ひとたびの逢ふことにより」と返し...

岩波文庫『百人一首』を読む(55) 藤原公任

55  瀧の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほきこえけれ  大納言公任 【訳】この滝の流れは涸れ、水音がとだえてからもうかなりの歳月が経ったが、みごとな滝だったという噂は世に流れ、今なお言いはやされているよ。 【出典】千載集・巻十六・雑上・1035    嵯峨大覚寺にまかりて、これかれ歌よみ侍けるによみ侍ける 前大納言公任 【解釈の要点】 ①この滝は、嵯峨の大覚寺の大沢の池の北側に作られた滝である。嵯峨天皇の離宮だった嵯峨院を、皇女の正子内親王が貞観十八年(876)寺院としたもの。古今集・秋下275に紀友則が「大沢の池の形に菊植ゑたるをよめる 一本と思ひし菊をおほさわの池の底にもたれか植ゑけむ」と詠んでいる。滝のために滝殿という建物も作られていた。『今昔物語集』巻二十四・五話には名人の絵師百済河成のことが語られているが、その冒頭に「滝殿の石も此川成が立たる也けり」と語る。 ②公任がこの歌を詠んだのは一条天皇の長保元年(999)九月十二日のことである。三蹟の一人藤原行成の日記『権記』によれば、藤原道長は誠信・公任・行成・俊賢らを伴い、大覚寺の滝殿、栖霞観を訪れ、大堰河畔に到った。ここで「処々尋紅葉」の題の和歌を詠み、馬場に帰って「初到滝殿」の題を詠じた。行成はその時の公任の歌だけを「滝音能、絶弖久成奴礼東 名社流弖、猶聞計礼」と書き留めている。道長の『御堂関白記』にもこの日の記述があるが、「出西山辺、見紅葉、返参院、馬場殿有和歌事」という簡単なものにすぎない。 ③拾遺集と千載集に重出しながら、初句は拾遺集では「たきの糸は」、千載集では「たきのおとは」とする。『百人秀歌』は初句を「たきのおとは」、結句を「なをとまりけれ」とし、集付に「拾」と記すので、そのような本文の拾遺集も存在したらしい。拾遺集では雑上449で、詞書は「大学寺に人々あまたまかりたりけるに、古き滝をよみ侍ける」、作者名は「右衛門督公任」とする。 ④藤原俊成は、拾遺抄を尊重して拾遺集を軽視していたらしい。この歌は、拾遺抄には見出されないから、拾遺集に採られていることに気付かず選んだか。定家は拾遺集の面白さを自身発見したように書いている。百人一首の出典としては拾遺集としたいところだが、定家本拾遺集では初句を「滝の糸は」とする。一応千載集を出典としておく。 ⑤拾遺集で公任のこの歌の前に並ぶ三首...

岩波文庫『百人一首』を読む(54) 高階貴子

54  忘れじの行末まではかたければ けふをかぎりの命ともがな  儀同三司母 【訳】「忘れまい」とおっしゃる遠い将来まで、あなたのお心が変わらないのは到底期待しにくいことですから、いっそお逢いした今日だけの命であってほしい、今宵限りで死んでしまいとうございます。 【出典】新古今集・巻十三・恋三・1149    中関白通ひそめ侍けるころ 【解釈の要点】 ①新古今集の詞書にいう「中関白」は、藤原道隆である。53右大将道綱母で言及した藤原兼家の嫡男に当たる。道隆と作者高階貴子との間に伊周(儀同三司)が生まれたのは天延二年(974)だが、その時道隆には藤原守仁女との間に四歳になる一男道頼がいた。 ②「忘れじ」や「忘れず」は、男が女にいう殺し文句である。拾遺集・恋四922「忘れじよゆめと契りし言の葉はうつつにつらき心なりけり」(読人不知)は、「忘れじよ、ゆめ」が男から女への誓いの言葉。後拾遺集・恋二707「忘れずよまた忘れずよ瓦屋のした焚くけぶり下むせびつつ」(藤原実方)の歌は全体が誓言で、相手は詞書によれば清少納言。『敦忠集』には「忘れじと結びし野辺の花すすきほのかにも見でかれぞしぬべき」などとある。契沖『改観抄』が引くように、後代の歌人にも、新古今集・恋四1303「忘れじの言の葉いかになりにけんたのめし暮は秋風ぞ吹く」(宜秋門院丹後)他の例がある。 ③「忘れじの行末まではかたければ」という現実認識は覚めていて、大人の女という感じがする。しかし、「けふをかぎりの命ともがな」は激しい。命について「けふをかぎり」といった例には、藤原季縄の新古今集・哀傷854「くやしくぞのちにあはんと契りけるけふをかぎりといはましものを」という歌もある。季縄は高階貴子よりは前の作者。 ④下河辺長流の『三奥抄』頭書や契沖『改観抄』は、後拾遺集・恋二711の「今宵さへあらばかくこそ思ほえめけふ暮れぬまの命ともがな」(和泉式部)、712「あすならば忘らるる身になりぬべしけふを過ぐさぬ命ともがな」(赤染衛門)の二首を引く。和泉式部の歌は「夜ごとに、来むといひて夜がれ」した男へ送った歌。赤染衛門の歌は「けふを限りにて、またはさらに音せじ」と言いながら昼やって来た男への歌。女性たちにこのような思いをさせた男たちは罪深い。 ⑤道隆は、「忘れじ」との誓言を曲がりなりにも守った男とみてよい。『枕草子』正暦...

岩波文庫『百人一首』を読む(53) 藤原倫寧女

53  歎きつつひとり寝る夜の明くるまは いかに久しきものとかは知る  右大将道綱母 【訳】あなたの訪れのないまま、溜息をつきながらひとりさびしく寝る夜が明けるまでの間は、どんなに長いものか、御存知ですか。 【出典】拾遺集・巻十四・恋四・912    入道摂政まかりたりけるに、門を遅く開けければ、立ちわづらひぬと言ひ入れて侍ければ 【解釈の要点】 ①拾遺集の詞書にいう「入道摂政」は東三条摂政太政大臣藤原兼家である。この歌が詠まれた天暦九年(955)には27歳で、冬従五位上に昇階した。 ②「ひとり寝る夜」は、後撰集・冬449「吹く風は色も見えねど冬来ればひとりぬる夜の身にぞしみける」(読人不知)が先行例。「明くるま」は、藤原伊尹に「帳褰げの君」が『一条摂政御集』で「明くる間も久してふなる霧の世にかりの心も知らじとぞ思ふ」と返歌した。「いかに久しきものとかは知る」の類句は、『和泉式部続集』に「まどろまで明かすと思へば短夜もいかに苦しき物とかは知る」、『馬内侍集』に「かくてこそよそに経れどもささがにのいかに恋しきものとかは知る』など、男に答える女性歌人たちの作例がある。 ③『蜻蛉日記』天暦九年(955)八月末、作者は初産で苦しんだ末、道綱を生んだ。夫兼家に愛人がいると感付いた作者は、「内裏に用事がある」と帰ってゆく夫の車を家のものにつけさせると、車は町の小路の女性の家に止まった。二三日して「暁方に門を叩く時あり。さなめりと思ふに、憂くて開けさせねば、例の家と覚しき所にものしたり」。拾遺集の詞書とは違って、作者は兼家に締出しを食わせた。翌朝、「なほもあらじと思ひて」彼女の方から、色変わりした菊に付けて、普段よりは改まって書いて送ったのがこの歌で、それに対する兼家の返歌は、「げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸も遅く開くるはわびしかりけり」という。 ④『蜻蛉日記』の二首のやりとりを、贈答歌として読むと、冷静さを装いながらじつは難詰しているひたむきさと、鷹揚に応和しつつ事実をはぐらかしてしまおうとする男の狡さとが鮮かに対比されている。 【蛇足】 さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろし...

岩波文庫『百人一首』を読む(52) 藤原道信

52 明けぬれば暮るる物とは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな  藤原道信朝臣 【訳】夜が明けてしまえばいずれは暮れるものとはわかっていながら、それでもやはり恨めしく思われる朝ぼらけですね。 【出典】後拾遺集・巻十二・恋二・672    女のもとより雪降り侍ける日帰りてつかはしける  藤原道信 【解釈の要点】 ①通い婚は夜が明ければ恋人同士も別れなければならない。また逢えるとはわかっているものの、夜が明けるのは恨めしい。古今集・恋三637「しののめのほがらほがらと明けゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき」(読人不知)、古今集・恋三640「しののめの別れを惜しみわれぞまづ鳥より先に泣きはじめつる」(寵)、拾遺集・恋二732「いつしかと暮を待つ間の大空は曇るさへこそうれしかりけれ」(読人不知)、拾遺集・恋二722「日のうちに物をふたたび思ふかなとく明けぬると遅く暮るると」(大江為基)などの歌とともに味わうべき作であろう。 ②『岩波古語辞典』は、「あさぼらけ」という語について、「夜がほんのりと明けて、物がほのかに見える状態。また、その頃。多く秋や冬に使う。春は多くあけぼのという」と解説する。この歌は詞書から、雪の朝と思われる。『百人一首』には「朝ぼらけ」で始まる歌が、31坂上是則と64権中納言定頼と二首あるが、いずれも冬の歌である。 ③「女のもとより雪降り侍ける日帰りてつかはしける」という詞書は、この歌の直前の後拾遺集・恋二671「帰るさの道やはかはるかはらねどとくるにまどふ今朝の淡雪」に付けられたもの。作者はやはり道信である。 ④『道信朝臣集』では、この歌は連続して載るが、順序は「明けぬれば」の歌が前、「帰るさの」の歌が後で逆である。「明けぬれば」の詞書は、その前の「たえなむと君がしけるを知らずしてまた昔とも思ひけるかな」という歌の詞書の「ある女」を受けて「おなじ女のもとよりかへりて」とある。「帰るさの」の詞書は「女のもとよりゆきのふりけるあしたにかへりて」で後拾遺集の詞書と同内容である。こうなると二首での女性は同一人物ではない可能性も生ずる。「明けぬれば」の歌が詠まれた季節にも関係する。 ⑤『落窪物語』巻三に正月の歌に「朝ぼらけ霞みて見ゆる吉野山春や夜の間に越えて来つらむ」とある。後撰集・春下130にも「朝ぼらけしたゆく水は浅けれど深くぞ花の色は見えける」(紀貫之)と...

岩波文庫『百人一首』を読む(51) 藤原実方

51 かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを  藤原実方 【訳】このようにあなたを恋していると口に出して言うでしょうか。言わなかったから、そうとも知らないでしょう。伊吹山の艾がくすぶり燃えているような、わたしのあなたに対する恋の思いの火を。 【出典】後拾遺集・巻十一・恋一・612    女にはじめてつかはしける 【解釈の要点】 ①『実方朝臣集』では、詞書は「人にはじめてきこえける」。 ②「えやは言ふ」から「伊吹」へと言い掛け、「伊吹のさしも草」が「さしも」を起こす有意の序となる。下句は、普通ならば「燃ゆる思ひをさしも知らじな」という文章を倒置したもので、副詞「さしも」は本来は上にある「燃ゆる思ひ」を承けて、そうだともの意にいう。「知らじな」は、知らないだろうなと、相手の心を推量して言う。「燃ゆる思ひ」は激しい恋情。「思ひ」には「火」を掛け、「燃ゆる」とともに、「さしも草」の縁語となる。 ③「伊吹のさしも草」という表現は、実方と同時代の和泉式部も恋の歌で用いた。新古今集・恋一1012の「題しらず けふもまたかくや伊吹のさしも草さらばわれのみ燃えやわたらん」という歌だが、実方の歌との先後関係はわからない。 ④『古今六帖』第六「草」の「ざふの草」に「さしもぐさ」と注記して、「あぢきなや伊吹の山のさしも草おのが思ひに身をこがしつつ」、「なほざりに伊吹の山のさしも草さしも思はぬことにやはあらん」、「下野やしめつの原のさしも草おのが思ひに身をや焼くらん」などの歌を載せる。これによれば、「言ふ」と「伊吹」の掛詞、「さしも草さしも」という続け方、「さしも草」に「思ひ」を取り合わせることなどは、いずれも「さしも草」の歌でのパターンに沿った歌い方であったと知られる。 ⑤顕昭の『袖中抄』第二に実方のこの歌を引いて、「顕昭云……このいぶきの山は、みの近江のさかひなる山にはあらず。下野国のいぶきの山なり。能因坤元儀に出也」と断言する。能因は旅の歌人として知られるが、『能因歌枕』の著者とされ、同書は広本・略本二種の伝本が存する。そしてそれとは別に『能因坤元儀』という著作もあったらしいが、これは散佚した。顕昭はこの本の記述を信頼していたようで、自身の著述にもしばしば引用している。『能因歌枕』の広本には「国々の所々名」として、国ごとに歌枕を記すが、その「しもつけの国」に「いぶき...

岩波文庫『百人一首』を読む(50) 藤原義孝

50 君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな  藤原義孝 【訳】あなたに逢うためならば惜しくなかったこの命までも、やっと逢えたこの翌朝は、長生きしていつまでも逢い続けたいと思いました。 【出典】後拾遺集・巻十二・恋二・669    女のもとより帰りてつかはしける  少将藤原義孝 【解釈の要点】 ①冷泉家時雨亭文庫藤原為家相伝本『後拾遺和歌集』では、第五句は「おもひぬるかな」、同蔵『百人秀歌』でも「思ぬるかな」。同蔵承空本『義孝朝臣集』にも「人のもとよりかへりて」として収める歌で、第五句は「おもひけるかな」。同蔵『義孝集』では、詞書は「人のもとより返て、つとめて」、第五句は「思ひぬるかな」。同蔵『百人一首』は、第五句は「おもひけるかな」。ここでは底本のままとする。 ② 恋人に逢うためならば命も惜しくないという歌は少なくない。古今集・恋二615「命やは何ぞは露のあだものを逢ふにしかへば惜しからなくに」(紀友則)、もっといじらしいのになると、拾遺集・恋一686「あはれとし君だにいはば恋ひわびて死なん命も惜しからなくに」(源経基)などという純情なのもある。 ③下河辺長流の『三奥抄』頭書は、新古今集・恋三1152の「人の許にまかりそめて、朝につかはしける 昨日まで逢ふにしかへばと思ひしをけふは命の惜しくもあるかな」(廉義公藤原頼忠)の歌をこの義孝の歌の注として引き、契沖『改観抄』も、同じく頼忠の歌を引いて、それが友則の歌を採ったもので、義孝の歌の「類歌」であるという。どちらが先に詠まれたかは微妙である。 ④恋に命を代えるのは、恋死にの場合だけではなかった。主ある女に通う場合も命がけだった。拾遺集・雑恋1227「男持ちたる女をせちに懸想し侍て、ある男のつかはしける 有りとても幾世かは経る唐国の虎臥す野辺に身をも投げてん」(読人不知)という大仰な歌もある。『三奥抄』や『改観抄』は、『文選』巻二十一の司馬遷の言葉「人固有一死、或重於太山、或軽於鴻毛」(報任少卿書)を引いていて、『三奥抄』は「逢事にかへんとおもひし命は、鳥の毛よりもかろくして、後の命は、太山のおもきがごとく、おしまるる也」と論じ、藤原家隆の「逢ふ事は虎臥す野辺を分け来ても帰る朝に身をや惜しまむ」(玉吟集・初心百首)を引いて、義孝の歌の心に同じだとしている。女と逢えたのちには、いつまでも生きていたいと願...

岩波文庫『百人一首』を読む(49) 大中臣能宣

49 御垣守衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつ物をこそ思へ  大中臣能宣朝臣 【訳】皇居を守護する衛士の焚く火が、夜は炎々と燃えさかり、昼は消えるように、わたしは夜は恋の思いに燃え、昼は心も消え入るほどに思い悩んでいるのだ。 【出典】詞花集・巻七・恋上・225    題不知 【解釈の要点】 ①能宣の家集には見えず、『古今六帖』第一「火」に「君がもるゑじのたくひのひるはたえよるはもえつつ物をこそ思へ」という、作者未詳の似た歌が載る。初句に「みかきもり」という異文があり、三句目の「たえ」に「きえて」という異文がある。『詞花集』には初句を「御垣守る」とする三春秋田家本もある。 ②「御垣」は宮中の垣の意。「衛士」は諸国の軍団から毎年交替で上京し、宮城の門その他を警護した兵士をいう言葉だから、「御垣守」と同義ということになる。『村上御集』に「御垣守る衛士のたく火のわれなれやたぐひまたなき物思ふらん」、『和漢朗詠集』下・禁中に無記名の「御垣守る衛士のたく火にあらねどもわれも心のうちにこそ思へ」という類想歌もある。 ③「夜は燃え昼は消えつつ」に類する対比した表現は、古今集・恋一470の「音にのみきくの白露よるはおきて昼は思ひにあへず消ぬべし」という素性の歌にも見られた。 ④衛士というと、『更級日記』の武蔵国の衛士と皇女の話が思い出される。宮殿の庭を掃く衛士が独り言で、酒壺にさしわたしたひさごのことをつぶやいていた。聞き付けた皇女が衛士に武蔵国へ連れて行ってひさごを見せろと命じると、衛士は皇女を背負って武蔵国へ逃げ帰った。天皇の使者が出向くと、皇女はこの地に住む「宿世」があったのだと告げた。衛士に武蔵国を預ける宣旨が下された。その屋敷が竹芝寺となった。その事があったので火焼屋には女性がいるのである。 ⑤下河辺長流の『三奥抄』は頭書で『令義解』や『延喜式』の、衛士が夜火を焚くことについての記述を引く。契沖の『改観抄』はそれを受けて、『和漢朗詠集』の「御垣守る」の歌や定家が『新勅撰集』恋三859に自選した「暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ室の八島も都ならねば」の歌を挙げる。賀茂真淵の『宇比麻奈備』は、後撰集・恋一581「かく恋ふる物と知りせば夜は起きて明くれば消ゆる露ならましを」(読人不知)を第四句を「昼は消ぬる」として引く。『和漢朗詠集』の歌も「中務家集に」として引くが、『中務集...

岩波文庫『百人一首』を読む(48) 源重之

48 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ 砕けてものを思ふころ哉  源重之  【訳】風が烈しいので岩を打つ波が自分だけ砕けて、岩のほうはびくともしないように、つれないあの人のために心も千々に砕けて思い悩む今日このごろだなあ。 【出典】詞花集・巻七・恋上・211        冷泉院春宮と申しける時、百首歌たてまつりけるによめる 【解釈の要点】 ①詞書の冷泉院は村上天皇の皇子、諱は憲平、冷泉天皇。天暦四年(950)誕生、康保四年(967)践祚、安和二年(969)弟の円融天皇に譲位、寛弘八年(1011)に62歳で世を去った。 ②詞書の「百首歌」は、家集『重之集』の巻末に収められている、四季各二十首、恋・恨み各十首で計百首の歌。百首歌として初期の作品である。この歌は恋十首の三首目。帯刀長だった重之が三十日の休暇を賜わるために詠じたもの。なお、帯刀は春宮坊、舎人監の役人、帯刀して皇太子の警護をした。 ③初句を「風吹けば」とする他はこの歌と全く同じ歌が西本願寺本『伊勢集』にも載るが、重之の歌が混入したものとみなしてよい。『伊勢集』に別の古歌集が混入した歌群中の一首である。 ④「風をいたみ」の「み」は接続助詞、以前は接尾語とされてきた。形容詞の語幹に付き「体言+を+形容詞語幹+み」の形で「……が……なので」と原因・理由を表す。「いた」は形容詞「いたし」の語幹で、甚だしい、ひどい。「風をいたみ」は、風が烈しいのでの意。万葉集・巻十一2736の寄物陳思の歌にも「風をいたみいたぶる波の間なく我が思ふ君は相思ふらむか」(作者未詳)がある。初句・二句が有意の序となっている点、重之の歌に通うものがある。重之の作が古風ということを意味する。 ⑤「砕く」という動詞で、恋人を思って乱れる心を表現した歌は、万葉集・巻十一2716の寄物陳思の歌に「高山ゆ出で来る水の岩に触れ砕けてそ思ふ妹に逢はぬ夜は」(作者未詳)があり、古今集・恋一550には「あは雪のたまればかてに砕けつつわが物思ひのしげきころかな」(読人不知)、拾遺集・恋三813には凡河内躬恒の「かの岡に萩刈る男縄をなみねるやねりその砕けてぞ思ふ」がある。また、重之の歌の下句「砕けてものを思ふころ哉」と一致する歌として、曽禰好忠が「山賤のはてに刈り干す麦の穂のくだけてものを思ふころかな」と詠んだが、天禄二年(97...

岩波文庫『百人一首』を読む(47) 恵慶法師

47 八重むぐら茂れる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり  恵慶法師 【訳】河原院にて、荒れたる宿に秋来るといふ心を人々よみ侍りけるに 【出典】拾遺集・巻三・秋140 【解釈の要点】 ①「八重むぐら」「むぐら」はすでに万葉集に詠まれている。巻十一2824「思ふ人来むと知りせば八重むぐら覆へる庭に玉敷かましを」(作者未詳)、巻十九4270「むぐら延ふ賤しきやども大君しまさむと知らば玉敷かましを」(橘諸兄)。「むぐら」は蔓を延ばして物にからむ野草の総称で、代表的なものはアサ科のカナムグラやアカネ科のヤエムグラ。 ②紀貫之が三条右大臣(藤原定方)家の屏風歌で「訪ふ人もなき宿なれど来る春は八重むぐらにもさはらざりけり」(貫之集・新勅撰集・春上8)と詠んだ。下河辺長流の『三奥抄』はこの歌を恵慶の詠の「本歌」とし、契沖の『改観抄』も「これを取れる歟。同じ心なり」という。『貫之集』に「やもめなる人の家」という詞書がかかる歌で「八重むぐらしげくのみこそなりまされ人目ぞ宿の草木ならまし」、後撰集・夏194に「八重むぐら繁き宿には夏虫の声よりほかに問ふ人もなし」などもある。 ③「人こそ見えね」という句は、曾禰好忠も「けぶり絶えものさびしかる庵には人こそ見えね冬は来にけり」と詠んでいる。「人こそ見えないが」「人こそ訪れないが」という逆接の条件句である。類句「人こそなけれ」は、恵慶が「故貫之がよみ集めたる歌を一巻借りて、返すとて 一巻に千々の黄金をこめたれば人こそなけれ声は残れり」(恵慶集・後拾遺集・雑四1084)と詠んでいる。 ④「秋は来にけり」は和歌で多く詠まれる句である。八代集には13例。「春は来にけり」は10例、「夏は来にけり」は1例、「冬は来にけり」は4例である。古今・後撰・拾遺いわゆる三代集の「秋は来にけり」は恵慶の歌を含めて4例、他は古今集・秋上184「木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり」(読人不知)、後撰集・秋下384「葦引の山の山守もる山も紅葉せさする秋は来にけり」(紀貫之)、拾遺集・雑秋1110「庭草に村雨降りてひぐらしの鳴く声聞けば秋は来にけり」(柿本人麻呂)である。 ⑤「河原院」は、河原左大臣源融が鴨川の六条河原近くに営んだ豪奢な邸宅で、王朝文学にしばしば描かれる名所であった。『拾芥抄』に「河原院六条坊門南万里小路東八町云々。融大臣家。後寛平...

岩波文庫『百人一首』を読む(46) 曾禰好忠

46 由良の門を渡る舟人梶を絶え ゆくへも知らぬ恋の道かな  曾禰好忠  【訳】由良の海峡を漕ぎ渡る舟子が梶を失ってどこへ行ってよいかわからないように、どうしてよいか途方にくれる恋の道だなあ。 【出典】新古今集・巻十一・恋一・1071        (題しらず) 【解釈の要点】 ①第四句の「ゆくへ」は、底本「行衛」を『新古今集』で改めた。第五句の「みちかな」は『新古今集』では「みちかも」、『百人秀歌』は底本に同じ。 ②「由良の門」は歌謡に「枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 振れ立つ 漬の木の さやさや」と歌われた。『古事記』仁徳天皇の条や『日本書紀』応神天皇の条に載る。「枯野」は官船の名。「海石」は暗礁。「漬の木」は未詳。この「由良の門」は現在の紀淡海峡と考えられ、和歌山県側にも淡路島側にも由良の地名がある。 ③下河辺長流の『三奥抄』は由良の門の所在地には言及しない。「此歌の上の句、ことごとく比なり。おとこの身を舟になぞらへ、女をその泊りになぞらへ、楫は媒によせ、迫門のこしがたきところをば、云よるあたりの難儀なるにたとへたり。……ことに由良の門をいふは、なみにゆらるる舟のやすからぬをいはんとてなり」という。それを契沖の『改観抄』は踏襲しつつ、「(好忠は)丹後掾にてうづもれ居たることを述懐してよめる歌おほければ、此由良は丹後の由良にて」、表は男女の恋の形で、実は自身の歌才を天皇に奏上する人がいないので沈淪していることを諷したかと考える。 ④賀茂真淵の『宇比麻奈備』は、万葉集・巻九1670「朝開き漕ぎ出て我は湯羅の先釣する海人を見て帰り来む」(作者未詳)の歌を引いて、由良は紀伊国であるとする。丹後国、京都府宮津市にも由良の地名がある。栗田湾にそそぐ由良川の河口は近世まで由良の門と呼ばれていた。好忠の歌はこの地を歌ったとする辞書もある。好忠は、紀伊・丹後二国の由良の門を兼ねて歌ったかもしれない。 ⑤『宇比麻奈備』は、古今集・恋二611の凡河内躬恒の歌「わが恋はゆくへも知らずはてもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ」を引き、「……あふを限りとといへるとはことにて、ここは由良のわたりのわた中に楫を失ひたらん舟は、ゆくかたもしられず、命限りの大事なるべき事を序としていへる様、譬へをもかねたりと見ゆれば、こ...

岩波文庫『百人一首』を読む(45) 藤原伊尹

45 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな  謙徳公 【訳】かわいそうと当然言ってくれてもよい人がいるとは思われないので、この身は空しくなってしまいそうです。 【出典】拾遺集・巻十五・恋五・950        もの言ひける女の、後につれなく侍て、さらに逢はず侍ければ 一条摂政 【解釈の要点】 ①謙徳公は一条摂政藤原伊尹の諡名。その家集『一条摂政御集』の巻頭歌である。「言ひ交しけるほどの人は、豊蔭にことならぬ女なりけれど、年月を経て返り事をせざりければ、負けじと思ひていひける あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな 女からうじて、こたみぞ 何事も思ひ知らずはあるべきをまたはあはれとたれかいふべき 早うの人はかうやうにぞありける。今様の若い人は、さしもあらで上手めきてやみなんかし」。 ②「思ほえで」は、自然にそう思われないでの意。下句に近い句を有する先行歌として、契沖の『改観抄』は凡河内躬恒が「比良の山」を詠み入れた『躬恒集』の「かくてのみわが思ふひらのやまざらば身もいたづらになりぬべらなり」を挙げる。 ③女の返しは、「恋とか愛とか、そんな面倒なことは何もわからないでいるのがよいですから、どうしてあなたのことをかわいそうなどと、誰が言うものですか」ぐらいの意味か。『拾遺集』・恋五984には、「数ならぬ身は心だになからなん思ひしらずは怨みざるべく」とある。物事に敏感に反応する心など持たなければ、人を怨めしく思うこともない筈だ。だから彼女は自分が苦しまないために、あなたのことなど何とも思っていませんと開き直っている。哀願調に訴えた男に対して、高飛車な姿勢を保とうとしている。 ④「豊蔭」は伊尹がわざと「大蔵史生倉橋豊蔭、くちをしき下衆なれど」と自身をやつした仮名である。 ⑤「豊蔭にことならぬ女」というこの女は、本当に伊尹には身分的に釣り合わない、源氏物語の帚木の巻に言うような「中の品のけしうはあらぬ」女か。あるいはあとで泣きを見たくない自衛本能からこんな返しをしたか。 【蛇足】  さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づ...

岩波文庫『百人一首』を読む(44) 藤原朝忠

44 逢事の絶えてしなくは中々に 人をも身をも恨みざらまし  中納言朝忠 【訳】恋しいあの人に逢うということが全くないのならば、なまなかにあの人をもまたわが身をも恨めしく思わないであろう。一度は逢ったからこそ、今は逢えないことがこうも恨めしく思われるのだ。 【出典】拾遺集・巻十一・恋一・678        天暦御時歌合に 【解釈の要点】 ①詞書にいう『天暦御時歌合』は、40兼盛の「しのぶれど」や41忠見の「恋すてふ」と同じく、天徳四年(960)に催された『天徳内裏歌合』で、この歌は「恋」の題の十九番左歌である。藤原元真の右歌「君恋ふとかつは消えつつ経るものをかくても生ける身とや見るらむ」と合されて勝った。判者左大臣藤原実頼は、判詞に「左右歌いとをかし。されど左の歌は言葉清げなりとて、以左為勝」という。 ②二句目の「し」は副助詞。強意の助詞と言われることが多いが、『岩波古語辞典』や『古典基礎語辞典』では、基本的には不確実・不確定な判断を表すという。「は」は係助詞で、条件を提示する働きを持つ。「中々に」は、中途半端、なまじっか。万葉集・巻三343「中々に人とあらずは酒壺になりにてしかも酒に染みなむ」(大伴旅人の讃酒歌十三首)、古今集・恋二594「東路の小夜の中山中々に何しか人を思ひそめけむ」(紀友則)、古今集・恋四679「いその神布留の中道中々に見ずは恋しと思はましやは」(紀貫之)などと詠まれている。 ③「人をも身をも」は、新古今集・恋四1322「わが恋は庭のむら萩うら枯れて人をも身をも秋の夕暮」(慈円)、定家は「閑居百首」で「うくつらき人をも身をもよししらじただ時のまのあふこともがな」、「老若五十首歌合」で「身をしれば人をもよをもうらみねどくちにしそでのかはく日ぞなき」と詠んだ。すべて朝忠のこの歌を意識している。 ④「恨みざらまし」の「まし」は反実仮想の助動詞と呼ばれる。もし……ならば……であろうに、実際はそうでないという意味を表す。 ⑤下河辺長流の『三奥抄』は、「ひとたび人にあひて後、また逢事のこころにまかせぬより、ひとをうらむるこころも、かへつて相ぬさきのうらみに増り、身をうしとおもふことも、其はじめにはまさるがゆへに、中々あはずしてやまむものを」と通釈し、古今集・春上53在原業平の「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのど...

岩波文庫『百人一首』を読む(43) 藤原敦忠

43 逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔は物も思はざりけり  権中納言敦忠 【訳】あの人と逢って愛し合ったのち、いやまさる恋心に比べれば、それ以前は思い悩むなどといううちには入らなかったのだなあ。 【出典】拾遺集・巻十二・恋二・710        (題しらず) 【解釈の要点】 ①底本の宮内庁書陵部蔵(函号五〇三-二三六)堯孝写『百人一首』では四句目の「物も」を「物を」とするが、『拾遺集』や『敦忠集』に従って改めた。冷泉家本『百人秀歌』では「ものを」の「を」をミセケチにして「も」とする。 ②『源氏物語大辞典』などを参照すると、古語としての「逢ひ見る」は、単に人と人とが顔を合わせることの他に、男と女が会う、夫婦生活を営むなどの意で用いられることが少なくない。ここでも、顔を合わせただけではない。ここでいう「昔」は、自身がそういう体験をする前と考えればよい。「物も思はざりけり」とは、「物を思ふ」と言えるような状態ではなかったとわかったことをいう。「物を思ふ」は、兼盛の「物や思ふ」の「物思ふ」と同じく恋しいと思い悩むこと。 ③『拾遺抄』では、この歌には詞書がなく、直前の大中臣能宣の歌に「はじめて女のもとにまかりて、又の朝につかはしける」と記されている。敦忠の歌もほぼ同じ状況で詠まれたか。冷泉家時雨亭文庫本『敦忠集』では、この歌の前に「御匣殿の別当」と呼ばれた女性のもとにこっそり通うことを、女性の親が聞きつけて制したと聞いて詠んだという「いかにしてかく思ふといふ事をだに人づてならで君にしらせん」の歌があるので、それと同様の状況で詠まれたか。この「いかにして」の歌は、「忍びて御匣殿の別当にあひ語らふと聞きて、父の左大臣の制止侍りければ」の詞書を付して後撰集・恋五961に入り、『大和物語』92段では「かくいひいひて、つひにあひにけるあしたに」として「けふそへに暮れざらめやはと思へども堪へぬは人の心なりけり」という歌がある。この歌も後撰集・恋四882に載り、詞書に「御匣殿に初めてつかはしける」という。 ④御匣殿別当の父左大臣は枇杷左大臣藤原仲平で、明子といい、『尊卑文脈』では「中納言敦忠室」と注する。『敦忠集』に「みくしげ殿とは君達の母よ」とある。仲平は敦忠の叔父で、仲平は若い甥に娘を委ねることをためらったのであろう。敦忠には明子以外にも、参議源...