岩波文庫『百人一首』を読む(54) 高階貴子

54  忘れじの行末まではかたければ けふをかぎりの命ともがな  儀同三司母


【訳】「忘れまい」とおっしゃる遠い将来まで、あなたのお心が変わらないのは到底期待しにくいことですから、いっそお逢いした今日だけの命であってほしい、今宵限りで死んでしまいとうございます。

【出典】新古今集・巻十三・恋三・1149

   中関白通ひそめ侍けるころ


【解釈の要点】

①新古今集の詞書にいう「中関白」は、藤原道隆である。53右大将道綱母で言及した藤原兼家の嫡男に当たる。道隆と作者高階貴子との間に伊周(儀同三司)が生まれたのは天延二年(974)だが、その時道隆には藤原守仁女との間に四歳になる一男道頼がいた。

②「忘れじ」や「忘れず」は、男が女にいう殺し文句である。拾遺集・恋四922「忘れじよゆめと契りし言の葉はうつつにつらき心なりけり」(読人不知)は、「忘れじよ、ゆめ」が男から女への誓いの言葉。後拾遺集・恋二707「忘れずよまた忘れずよ瓦屋のした焚くけぶり下むせびつつ」(藤原実方)の歌は全体が誓言で、相手は詞書によれば清少納言。『敦忠集』には「忘れじと結びし野辺の花すすきほのかにも見でかれぞしぬべき」などとある。契沖『改観抄』が引くように、後代の歌人にも、新古今集・恋四1303「忘れじの言の葉いかになりにけんたのめし暮は秋風ぞ吹く」(宜秋門院丹後)他の例がある。

③「忘れじの行末まではかたければ」という現実認識は覚めていて、大人の女という感じがする。しかし、「けふをかぎりの命ともがな」は激しい。命について「けふをかぎり」といった例には、藤原季縄の新古今集・哀傷854「くやしくぞのちにあはんと契りけるけふをかぎりといはましものを」という歌もある。季縄は高階貴子よりは前の作者。

④下河辺長流の『三奥抄』頭書や契沖『改観抄』は、後拾遺集・恋二711の「今宵さへあらばかくこそ思ほえめけふ暮れぬまの命ともがな」(和泉式部)、712「あすならば忘らるる身になりぬべしけふを過ぐさぬ命ともがな」(赤染衛門)の二首を引く。和泉式部の歌は「夜ごとに、来むといひて夜がれ」した男へ送った歌。赤染衛門の歌は「けふを限りにて、またはさらに音せじ」と言いながら昼やって来た男への歌。女性たちにこのような思いをさせた男たちは罪深い。

⑤道隆は、「忘れじ」との誓言を曲がりなりにも守った男とみてよい。『枕草子』正暦五年(994)二月の積善寺供養の段には、中関白家一族の繁栄ぶりが回想されている。そのおわり近くの場面で上機嫌の道隆は冗談を連発して、「絵にかいたるやうなる御さまどもかな。いま一まえは、今日は人々しかめるは」と、貴子を顧みている。道隆の急死が、貴子を不幸に陥れた。

⑥飲水病を患っていた道隆は、長徳元年(995)四月十日に死去した。権力は、道隆の子の伊周ではなく、叔父の道兼に移り、道兼の急逝後は叔父の道長によって占められてゆく。さらに、伊周・隆家兄弟は花山法皇襲撃事件の罪を犯し、筑紫と出雲に流された。貴子は伊周の車に山崎まで同乗したが、配所が播磨・但馬に軽減され、貴子は都へ帰された。病に患う貴子に会うため、伊周は播磨を抜け出して入京するが、発覚して大宰府に流された。間もなく貴子は死亡したと『栄花物語』は伝える。


【補足】

204ページ、8行目から9行目にかけて、『枕草子』の積善寺供養の段から道隆の貴子に投げかけた言葉の引用がありますが、この部分は写本の本文がいろいろあるようで意味が通りにくいような気がいたします。「まえ」は「まへ」とする本文もあるようです。


【蛇足】

さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は訳には変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈については、この歌では変更する必要がなかったということです。その特徴を考えてみると、初句・二句の「忘れじの行末までは」を、「忘れまいとおっしゃる遠い将来まで、あなたのお心が変わらないのは」と言葉を補って具体化しています。また三句目の「けふ」を「お逢いした今日」と具体化しまして、詞書の「通ひそめ」を意識したものとなっています。また下の句については、「いっそお逢いした今日だけの命であってほしい」という直訳と、「今宵限りで死んでしまいたい」という意訳によって二重に訳しています。

解釈と称する解説部分に関しては、「忘れじ」「忘れず」という表現が男の殺し文句であったとして例を引く②、上の句が覚めた認識を示すのに対して、下の句は激情であると指摘する③、この歌を贈られた道隆が「忘れじ」を守ったとして『枕草子』の積善寺供養の章段の中にその証拠を見出す⑤は、『必携』から受け継がれたものです。詞書の「中関白」を藤原道隆と指摘する①、契沖が引用する和泉式部や赤染衛門の「命ともがな」の類歌を引用する④、晩年の貴子の不幸を『栄花物語』などから描出する⑥は今回加えられたものです。


さて、この歌を見ておりますと、初句と末句の部分の表現が、言葉足らずというか、かなり表現が窮屈ということは指摘できるかと思います。ただ、窮屈だから理解不能かというとそうでもなくて、言いたいことの方向はよく分かるという表現なのでありましょう。告白された今この瞬間に命が尽きたら最高よ! というような内容の歌ですから、初句・末句の省略が切迫感として感じられて、悪くはない恋の歌と考えられていたのでしょう。


「忘れじの」は、「(汝が我を永遠に)忘れじ(と誓ひし言の葉)の」と補うことは可能でしょう。ありふれた愛の誓いを相手が述べたことを省略して示したと考えてよさそうです。「命ともがな」は、「もがな」という終助詞が、「~があるといいなあ」という存在を希求する表現でありますから、「命と(言ふこと)もがな」とでも補うべきで、これを「命と言ふこともあらばうれしからまし」などと言い換えると分かりやすいのかもしれません。著者の訳をもう一度見てみると、下の句を「いっそお逢いした今日だけの命であってほしい」という直訳と、「今宵限りで死んでしまいたい」という意訳によって二重に訳して、万全を期しています。


ところで、この「儀同三司母」という作者名を見ても、誰なのかさっぱり分かりません。この儀同三司というのは、准大臣という地位なんですが、歴史的にはこれが藤原伊周さんのことであります。伊周というのは「これちか」と読むらしいんですが、古典が相当好きでないと、この貴族が誰かも分からないと言うことがあるでしょう。『枕草子』なら誰もがご存じですが、その作者は清少納言であります。清少納言がお仕えしたのが藤原定子というお姫様で、この人は一条天皇のお后だった人であります。『枕草子』というのは、この藤原定子のことを書いた随筆でありまして、この定子様のお兄さんが藤原伊周なのです。ということは、歌の作者である儀同三司母というのは、定子様のお母さんと言うことです。


つまり、「儀同三司母」というのは、高階貴子というまるで現代人のようなお名前が知られている人でありまして、たぶん高階氏は学者の系統で、定子や伊周などの知的な側面はこの母方の影響もあったはずであります。高階貴子は漢詩文が作れた稀有な女性らしいのでありまして、とびきりの才女だったと思っていいわけです。伊周が花山院襲撃事件の犯人として逮捕され流刑に処せられた時に、逢いたい逢いたいと切望して、結局播磨国から京都に潜入して再逮捕される原因を作ったお母さんがこの人であったはずですね。流刑に処せられた息子に逢いたいという点だけなら、子離れの出来ない権力者の妻というような人物像から一歩も踏み外していません。わがままなんですけれども、漢詩文をものする女性というフィルターを掛けると、このわがままを周囲は諫められません。優秀な人であるがゆえに晩節を汚すという、なんとも切ない人物でありましょう。


『百人一首』においては前にも出てきましたが、「もがな」という終助詞が曲者でありますね。諸注は、この歌に関して基本的には「命ともがな」を「命であって欲しい」と訳すんですけれども、特に否定する根拠もないのでありますが、積極的に肯定する気持ちにもなりません。というのも、そうなると格助詞の「と」の働きは雲散霧消しているわけで、何となく適当に訳しているという感じはぬぐえないのであります。「と」がどういう働きなのか鮮明にすればいいのに、という気がいたします。


「と」は「言ふ」とか「思ふ」とか、そういう言動を引用するのが基本であります。上にも解説しましたが、「もがな」というのは、無い物ねだりの語法でありまして、「~があるといいなあ」とか「~がいるといいなあ」というような、わがままを披露するんであります。そうすると「今日を限りの命と(言ふこと)もがな」などと補うと、恋の不安におののく心情がくみ取れるんじゃないでしょうか。常識として、ここでいきなり死ぬことなんてありえないけれど、愛の告白を受けたところで命が絶えるなんてことがあるといいなあと常識はずれが成立することを希求するわけです。「と」を無視して訳していても、「永遠の愛が無理なら死んじゃいたい」ということには違いがないと、言えば言えるんですけれども、「と」があることによって、理性と感情の間で揺れ動く雰囲気が出て来るように思います。


歌の内容が直感的に分かってしまうので、細かいところの解釈が従来の注釈は雑なのでしょうね。


この「ともがな」の問題に対しては、小田勝氏『百人一首で文法談義』(和泉書院、2021年刊)も取り上げていて、それによると「と」は断定の助動詞「たり」の連用形の「と」であると説明されておりまして、その根拠についても例を挙げてあります。「とあり」から「たり」という形になったという断定の助動詞でありまして、だとすると諸注釈がここを「であってほしい」と訳すのも別にかまわないという結論になりそうです。気になるのは、「たり」という断定の助動詞は漢文脈で使われるものであったはずで、それが和歌の中に出て来てしまって大丈夫なのかと言う点と、もう一つは「とあり」から来て「たり」の連用形として残存した「と」だと見るわけですが、そうなるともともとは格助詞ということですから、格助詞と説明してはいけないのかどうかということかもしれません。念のため、「と」を「たり」の一部だとするなら、次のように考える必要があるということかもしれません。補う「ある」の代わりに「言ふ」を使うと、解釈の結論は同じ事に成りそうですが、そう考えてはいけないのかどうか。ラ変動詞の「あり」というのは、「言ふ」に置換え可能だったはずでありまして、こういうのを代動詞用法と呼んだりしたはずです。


忘れじの 行末までは 難ければ 今日を限りの 命と(あること)もがな 

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