岩波文庫『百人一首』を読む(55) 藤原公任

55  瀧の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほきこえけれ  大納言公任


【訳】この滝の流れは涸れ、水音がとだえてからもうかなりの歳月が経ったが、みごとな滝だったという噂は世に流れ、今なお言いはやされているよ。

【出典】千載集・巻十六・雑上・1035

   嵯峨大覚寺にまかりて、これかれ歌よみ侍けるによみ侍ける 前大納言公任


【解釈の要点】

①この滝は、嵯峨の大覚寺の大沢の池の北側に作られた滝である。嵯峨天皇の離宮だった嵯峨院を、皇女の正子内親王が貞観十八年(876)寺院としたもの。古今集・秋下275に紀友則が「大沢の池の形に菊植ゑたるをよめる 一本と思ひし菊をおほさわの池の底にもたれか植ゑけむ」と詠んでいる。滝のために滝殿という建物も作られていた。『今昔物語集』巻二十四・五話には名人の絵師百済河成のことが語られているが、その冒頭に「滝殿の石も此川成が立たる也けり」と語る。

②公任がこの歌を詠んだのは一条天皇の長保元年(999)九月十二日のことである。三蹟の一人藤原行成の日記『権記』によれば、藤原道長は誠信・公任・行成・俊賢らを伴い、大覚寺の滝殿、栖霞観を訪れ、大堰河畔に到った。ここで「処々尋紅葉」の題の和歌を詠み、馬場に帰って「初到滝殿」の題を詠じた。行成はその時の公任の歌だけを「滝音能、絶弖久成奴礼東 名社流弖、猶聞計礼」と書き留めている。道長の『御堂関白記』にもこの日の記述があるが、「出西山辺、見紅葉、返参院、馬場殿有和歌事」という簡単なものにすぎない。

③拾遺集と千載集に重出しながら、初句は拾遺集では「たきの糸は」、千載集では「たきのおとは」とする。『百人秀歌』は初句を「たきのおとは」、結句を「なをとまりけれ」とし、集付に「拾」と記すので、そのような本文の拾遺集も存在したらしい。拾遺集では雑上449で、詞書は「大学寺に人々あまたまかりたりけるに、古き滝をよみ侍ける」、作者名は「右衛門督公任」とする。

④藤原俊成は、拾遺抄を尊重して拾遺集を軽視していたらしい。この歌は、拾遺抄には見出されないから、拾遺集に採られていることに気付かず選んだか。定家は拾遺集の面白さを自身発見したように書いている。百人一首の出典としては拾遺集としたいところだが、定家本拾遺集では初句を「滝の糸は」とする。一応千載集を出典としておく。

⑤拾遺集で公任のこの歌の前に並ぶ三首を見ると、中務が446「君がくる宿にたえせぬ滝の糸はへて見まほしき物にぞありける」、貫之が447「流れくる滝の白糸たえずしていくらの玉の緒とかなるらん」、448「流れくる滝の糸こそ弱からし貫けど乱れて落つる白玉」など、滝を糸に見なして、その縁語を多く用いる。公任のこの歌も拾遺集での「滝の糸は」が下の「絶えて」を縁語とする意の通った歌である。中務は『中務集』で、「高山に雪降れるところ」という屏風絵を「滝の糸はみなとぢつらん吉野山雪の高さに音を変へつつ」とも詠んだ。公任自身、「糸」か「音」か、悩まなかったとは限らない。

⑥「音」と「糸」との違いは大きいが、前に記したように、行成は「音」と書き留めている。

⑦「滝の音は絶えて」でのタの頭韻は歯切れよく、「なりぬれど名こそながれてなほきこえけれ」でのナ行音とラ行音の反復は、滑らかで、あたかも水玉が岩肌をころがり落ちるようだ。

⑧定家は『百人秀歌』に選ぶまで、この歌を自身の秀歌選である『近代秀歌』自筆本の秀歌例や『定家八代抄』に載せていない。公任と時代を同じくする赤染衛門も、滝殿を見てはいた。後拾遺集・雑四1058「あせにける今だにかかり瀧つ瀬の早くぞ人は見るべかりける」と詠んでいる。そして遥か時を隔てて、西行も滝殿の後を確かめるために訪れた。『山家集』には「大學寺の瀧殿の石ども閑院に移されて、跡もなくなりたりと聞きて、見にまかりたりけるに、赤染が、今だにかかりととよみけん、思ひ出でられて、あはれに覚えければ 今だにもかかりといひし瀧つ瀬のそのをりまでは昔なりけん」という歌が残っている。あるいは、これらの歌にも助けられて、定家は公任のこの歌の、大袈裟にいえば文化史的意義を認めたか。


【蛇足】

さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は、訳に若干の変更がありました。五句目の訳が「今なお言いはやされているよ」とありますが、學燈社『百人一首必携』には「今でもやはり喧伝されているよ」となっていました。やや固い文語調を口語調に替えた程度の変更と思われますから、それ以外の解釈については、この歌では特に変更する必要がなかったということです。その特徴を考えてみると、「名」を具体化して「みごとな滝だったという噂」と訳してあります。百済河成は画家ですが作品は残っていないそうで、庭園造営も手がけ、嵯峨院の造営に際しては御堂の壁の絵を描くと共に、滝殿の石組みも造り上げたそうです。生まれたのが延暦元年(782)、亡くなったのは仁寿三年(853)ですから、公任の時代からすると150年以上前の人工の滝の遺跡を歌にしたわけですが、公任のお蔭もあって現代も名所として認識されているわけですから、百人一首の手柄でもあります。

解釈と称する解説部分に関しては、藤原行成の『権記』に書き留められた「滝の音は」の歌を紹介する②、この歌が拾遺集と千載集に重出することを問題とする③、考証の結果定家は千載集からこの歌を採用したとする④、再度行成の『権記』に書き留められた「滝の音は」について注意喚起する⑥、音調面の特徴を指摘する⑦は、『必携』から受け継がれたものです。なお、『必携』には初句の異同に関して、「あるいは「糸」は花山院グループのさかしらなる改訂の結果であろうか」という一節がありましたが、今回は省かれておりました。これらに対して、大覚寺の滝について解説する①、拾遺集の直前の三首から「滝の糸は」という表現が捨てがたいとして考証する⑤、そして『近代秀歌』秀歌例や『定家八代抄』にはこの歌が撰ばれていないにもかかわらず『百人秀歌』や『百人一首』に撰ばれた点について、赤染衛門や西行の歌の影響で定家が価値を見出したという⑧は、今回書き加えられたものです。⑧に関しては、著者は『百人秀歌』『百人一首』を定家撰という前提で論じていて、非常に興味深いと思われます。仮に『百人秀歌』や『百人一首』を定家の撰んだものではなくて誰か後人の偽書とする場合、どうしてこの歌なのかうまい説明をする必要が出てくることでしょう。私が歌道家の末席にいて偽書をなすなら、「朝まだき嵐の山の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき」とか「春来てぞ人も訪ひける山里は花こそ宿の主なりけれ」なんかを無難に撰んだことだろうと思います。なお、『百人秀歌』の第五句の「なをとまりけれ」という異文は、『百人一首の現在』(青𥳑舎2022年刊)で中川博夫氏が「根拠は不明とせざるを得ない」と匙を投げていて、今後の課題のようです。


昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』では、注釈者から否定的な評価を得ているこの歌を、正当に評価しようとして、作者なりの独自の理解を展開しています。その最大のポイントは、「名」という言葉を、単に「名声」というような意味のみの言葉と考えずに、往時の滝や滝を作った嵯峨院の風流をイメージするもので、その結果、従来は「滝の音」の縁語であるとされている「流れて」「聞え」を、縁語ではなく幻覚・幻聴によるとはいいながらも、そのままの描写の言葉として理解できると主張するのであります。もっとも面白いと思われるのは、初句の「滝の音は」が下の句の「流れてなほ聞えけれ」に掛かるとする点でありまして、日本語の曖昧さを最大限に利用しながら、この歌は幻覚・幻聴による滝の流れて聞える歌であると考えるようです。

著者の桑田明氏がなぜこのような主張を持ち出したのかというと、百人一首の注釈書の中にはこの藤原公任の歌を、強く否定したものがあったからで、おそらくその代表格は石田吉貞氏の『百人一首評解』(有精堂、1956年刊)でありまして、そこにはこんな一節もしたためられております。

何も感動のないところに一体詩があり得るか。強引に自分の言語技術だけで作り上げて見ても、そこにでき上るものは、石ころよりも冷たい言葉の集積に過ぎない。有名詩人ほどが、そういう誘惑にひっかかる。一代師範のやるべきことではあるまい。(石田吉貞『百人一首評解』)

これに賛同する注釈もありまして、どうやら桑田明氏が百人一首を取り上げようとする時期には、こうした強烈な批判が立ちはだかっていたようで、そこを何とか、駄作ではなくて定家の見識によって撰ばれた秀歌であると証明しなければならなかったようです。その結果、初句を下の句にまで掛けてみるとか、「名」には滝のイメージが含まれるというような奇想天外な説明が繰り広げられまして、縁語として使われた「流れて」が、縁語ではなくて幻覚によって実際に滝が流れているという意味だと説明したわけです。


ところで、この歌に詠まれた滝は「名古曽の滝」として現存しておりまして、その跡を示す石柱と、公任の歌をしたためた説明板が今も立てられております。水は流れてはいないようですから、やはり枯山水のような滝の遺構になっておりますが、それでも千年の時を超えて往時を偲ばせているのであります。だとすると、石田吉貞氏の言う批判は正しいのかもしれませんが、そんな批評とは別にこの歌は名歌として享受されてきたと歴史は証明しているようです。


滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 歌こそ流れて なほ聞えけれ(粗忽謹製)


作者は、『百人一首』では大納言公任でありますが、四条大納言とも称された藤原公任でありまして、三船の才で有名な人物です。三船の才は、三舟の才とも言います。平安時代には、三船を池に浮かべて貴族が詩歌管弦の宴を催すことがありましたが、公任は遅れてやってきて、漢詩の舟、和歌の舟、管弦の舟、それぞれからお呼びがかったそうです。要するに、貴族としての教養に欠けたところがなくて、引く手あまた、もてもてだったという名誉の人なのであります。藤原道長の時代の人でありますから、清少納言や紫式部も一目置いた漢詩や和歌に秀でた文化人なのであります。


この公任は、『紫式部日記』にも登場するんですけれども、宴会の席でみんなが酔い乱れたなかを、女房の衣服の袖を触って回るという逸話があったと思います。何をしているのかというと、女房たちがどんな素材の衣裳を身につけているか、もっと言うと高級な素材のものを身につけているのは誰か、探っているのではないか、ということです。だから、紫式部は逃れようとするんであります。彼女は、パトロンから贈られた最高級服地の服を着ていたと言うことです。おそらく、その服地を彼女に与えたのは道長でありますから、才女の活躍の陰に道長がいると踏んで探索しているわけで、それを察知して逃げ回るというような、有能な人同士の静かな闘いなのであります。


歌の内容は、ある意味空疎なんですけれども、これでいいのだと思います。名園の滝が枯れたけれど、今でも評判だね、ということを迷い無く詠んでいるわけです。これは大覚寺というお寺で詠んだ歌ですから、嵯峨上皇が作った滝である(『今昔物語集』によると百済川成が作庭したと出てきます)というようなことが、指摘されています。これをのちのち「名古曽の滝」と呼んでいて、おそらく現代のいまでも遺跡が残っているのであります。


名は絶えず 久しくなれど 滝の音は なほも流れで 聞こえざりけり(粗忽謹製)


公任さんの歌は、非常に分かりやすい歌であります。それだけに、助詞・助動詞の問題が浮き出るわけですね。「ぬれ」というのは完了の助動詞「ぬ」の已然形でありますが、今はまったく使われていないものでありますから、油断のならないものであります。「た」と訳せば用が済みますが、これを「てしまう」と訳すと味が出まして、その場合は強意の用法とか確述の用法と呼ぶものになるのです。ここだけの話ですが、「てしまう」と訳すくらいなら、訳さない方がいいのでありまして、そうすると意味が変わります。「久しくなったが」に対して「久しくなるが」というのは、微妙ではありますが、意味が変わりますよね。「けれ」は、「こそ」の結びで已然形ですが、係り結びというのは今はありませんので注意が要ります。「けり」は、過去なら「た」と訳しますが、詠嘆なら「なあ」で充分です。そうすると、下の句を係り結びを抜いてしまうと、「名は流れて聞こえけり」となり、「名前は今も伝わって聞こえてくるなあ」となるんでしょうね。


「一条朝の四納言」という言い方がありまして、一条天皇の時代に大納言・中納言だった四人の評判がすこぶる高いのであります。この藤原公任のほか、藤原斉信、藤原行成、源俊賢でありまして、彼らの政務処理の正確さと速さに、若い世代がたじたじしたという話が『今鏡』にあったはずです。とてもその下で仕事するのはかなわないから、いっそ出家しようなんて話の流れだったと思います。この「一条朝の四納言」という言い方で注意しなければならないのは、その四人の上にリーダーの藤原道長がいたということでありまして、実は五人組なのであります。これと同じ例は「三銃士」でありまして、あれも実は四人組であります。


三船の才の話で、気になるのは、公任が遊宴の場に遅れて行ったということです。遅刻するというのは、通常はアウトでありまして、多くの人に迷惑を掛けて評判を落とすものであります。ただし、有能な人や、特殊な技術を持っている人、とても人気の高い人に限っては、あんまり勇んで会場に一番乗りしてはダメなんじゃないでしょうか。ちょっと遅れて、参加者があらかたそろったあたりで姿を現して、さっと挨拶をかましまして、その場に入ってゆくのがいいと思います。カラオケなんかも、うまいやつが一番乗りしてマイクを握っていたら、みんな逃げちゃいますよね。上手な人はあとからやって来て、頼まれてせがまれてねだられてから十八番を披露するのがいいようですよ。公任はそういう心得もあったのだろうと思います。 

コメント

このブログの人気の投稿

岩波文庫『百人一首』を読む(81) 藤原実定

岩波文庫『百人一首』を読む(99) 後鳥羽院

足利将軍撰『新百人一首』を読む(6) 藤原菅根