岩波文庫『百人一首』を読む(53) 藤原倫寧女

53  歎きつつひとり寝る夜の明くるまは いかに久しきものとかは知る  右大将道綱母


【訳】あなたの訪れのないまま、溜息をつきながらひとりさびしく寝る夜が明けるまでの間は、どんなに長いものか、御存知ですか。

【出典】拾遺集・巻十四・恋四・912

   入道摂政まかりたりけるに、門を遅く開けければ、立ちわづらひぬと言ひ入れて侍ければ


【解釈の要点】

①拾遺集の詞書にいう「入道摂政」は東三条摂政太政大臣藤原兼家である。この歌が詠まれた天暦九年(955)には27歳で、冬従五位上に昇階した。

②「ひとり寝る夜」は、後撰集・冬449「吹く風は色も見えねど冬来ればひとりぬる夜の身にぞしみける」(読人不知)が先行例。「明くるま」は、藤原伊尹に「帳褰げの君」が『一条摂政御集』で「明くる間も久してふなる霧の世にかりの心も知らじとぞ思ふ」と返歌した。「いかに久しきものとかは知る」の類句は、『和泉式部続集』に「まどろまで明かすと思へば短夜もいかに苦しき物とかは知る」、『馬内侍集』に「かくてこそよそに経れどもささがにのいかに恋しきものとかは知る』など、男に答える女性歌人たちの作例がある。

③『蜻蛉日記』天暦九年(955)八月末、作者は初産で苦しんだ末、道綱を生んだ。夫兼家に愛人がいると感付いた作者は、「内裏に用事がある」と帰ってゆく夫の車を家のものにつけさせると、車は町の小路の女性の家に止まった。二三日して「暁方に門を叩く時あり。さなめりと思ふに、憂くて開けさせねば、例の家と覚しき所にものしたり」。拾遺集の詞書とは違って、作者は兼家に締出しを食わせた。翌朝、「なほもあらじと思ひて」彼女の方から、色変わりした菊に付けて、普段よりは改まって書いて送ったのがこの歌で、それに対する兼家の返歌は、「げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸も遅く開くるはわびしかりけり」という。

④『蜻蛉日記』の二首のやりとりを、贈答歌として読むと、冷静さを装いながらじつは難詰しているひたむきさと、鷹揚に応和しつつ事実をはぐらかしてしまおうとする男の狡さとが鮮かに対比されている。


【蛇足】

さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は訳には変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈については、この歌では変更する必要がなかったということです。その特徴を考えてみると、「あなたの訪れのないまま」「さびしく」という補いによって、「ひとり寝る」ということが具体化されています。別居したまま家庭生活を営む通い婚という平安時代の日記や物語の常識を前提とした補いと言えるでしょう。五句目に使われている、疑問・反語の係助詞「かは」については、解釈と称する解説にもあるように、難詰の意味で使われているようです。これはもちろん、反語として理解すれば、「御存知ですか、御存知ないのでしょう」となるわけです。同じ著者の「日本の文学 古典編」『百人一首 秀歌撰』(ほるぷ出版1987年刊)では、「かは」を反語の助詞と説明し、直訳の後に「あなたはとうていおわかりにならないでしょう」と否定的な表現が付いていました。気になりますのは、詞書に「門を遅く開けければ」とありますので、「明くる」には「開くる」が掛けてありまして、「門を開けるまでの間は、どんなに長いかお分かりになったか」という皮肉が込められているはずですが、どういうわけかそうした訳には著者は触れておりません。注釈書を見ると、久保田淳氏のように「開くる」に関知しないものもありまして、非常に不思議です。

解釈と称する解説部分に関しては、詞書の「入道摂政」が藤原兼家であることを指摘する①、類似表現の歌を指摘する②が新たに追加された内容であります。①の要点は晩年累進して太政大臣や摂政に任ぜられた兼家が、二十七歳段階ではまだやっと五位の殿上人であったということで、彼には有力な兄たちがいて出世は必ずしも順調ではなかったということかもしれません。『蜻蛉日記』のこの歌が詠まれた経緯を詳しく伝える③、道綱の母の詠みぶりと兼家の返歌の温度差の分析をする④は『必携』から受け継がれたものです。


昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』は、古来問題にされて来た、拾遺集の詞書と『蜻蛉日記』の本文の齟齬について検討を加え、拾遺集の詞書と『蜻蛉日記』の本文には特に齟齬と呼べるものはないということを主張していました。『蜻蛉日記』には、明け方にやって来た夫に対して、門を「憂くて開けさせねば」とあって、夫を追い払ったことになっておりまして、拾遺集の詞書は門を開けたのだと見るわけですが、江戸時代の幕末の香川景樹は『蜻蛉日記』の記述は「ひが事」であるとして、拾遺集の伝える事情が正しいと断定しておりました。石田吉貞氏『百人一首評解』(有精堂、1956年刊)は、百人一首は拾遺集から歌を採用しているが、歌意が違うわけではないので『蜻蛉日記』に従うのがよいとしていて、大方はこの意見に沿って解読されてきています。今回の久保田淳氏も、『蜻蛉日記』の叙述を引きつつ、特に拾遺集の詞書との齟齬を問題にしていないようです。


日記と勅撰集の詞書に齟齬があるかないかという問題について、桑田明氏が注目したのは、拾遺集の詞書の「門を遅く開けければ」の「遅く」という形容詞の語法でありまして、五つの例が挙げてありますが、その中の『枕草子』の例を挙げると次のようになっているわけです。

おぼつかなきもの。……今出で来たる者の心も知らぬに、やむごとなき物持たせて、人のもとにやりたるに、遅く帰る。(『枕草子』70段)

この例を、著者は「いつまでも帰らない」と指摘しておりまして、確かに「なかなか帰らない」「まだ戻って来ない」というように解するのが正しいと思います。つまり、香川景樹は拾遺集と『蜻蛉日記』の記述に矛盾があるとみなし、その原因は『蜻蛉日記』においては迎え入れた事実をそのまま描くことなく追い払ったと歪曲したと判断したためです。著者の分析を考慮すると、拾遺集の詞書は『蜻蛉日記』と矛盾するとか齟齬をきたすものではなくなりまして、特に香川景樹は兼家の返歌の「遅く開くるは」の「遅く」を結局門を開けたのだとして立論していますから、再考の余地は十分にあるとみてよいでしょう。「なかなか開けなかったので、開けてみたら夫はいなかった」でも別にいいわけです。香川景樹は巧みなアジテーターなので、その熱っぽい論法であれこれ吹っ掛けられると煽られますが、ここは桑田明氏の意見が妥当であると言えるでしょう。この「遅く」の問題に対しては、小田勝氏『百人一首で文法談義』(和泉書院、2021年刊)も取り上げていて、小田勝氏は景樹の説が誤っているとしています。


拾遺集・巻第十四・恋四912番に出て来る歌ですが、改めて掲示してみますが、次のような、割と長い詞書であります。

   入道摂政まかりたりけるに門を遅くあけければ、立ちわづらひぬと言ひ入れて侍りければ  右近大将道綱母

  嘆きつつ 独り寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

別に問題になるような表現はありませんが、「寝る」「明くる」という動詞の連体形の読み方が現代からすると違和感があります。「寝る」は「ねる」ではなくて、「ぬる」と読む必要があります。現代語では「ねない・ねます・ねる・ねる時・ねれば・ねろ」となりますが、古語ではどうなるかというと、「ねず・ねたり・ぬ・ぬる時・ぬれば・ねよ」となりまして、現代語の活用は下一段活用ですが、古語の活用は下二段活用だったために、終止形と連体形そして已然形の部分の違和感が大きいと思います。これと同じで「明くる」も現代語では「明ける」なので、違和感があります。現代語では「明けない・明けます・明ける・明ける時・明ければ・明けろ」となりますが、古語では「明けず・明けたり・明く・明くる時・明くれば・明けよ」と微妙に違った活用形になるのです。それとは別に、「かは」の係り結び用法も現代では使わないものです。「ものとかは知る」を現代風に言えば、「ものと知るのか」くらいになるでしょう。疑問・反語の係助詞「かは」と称するものではありますが、ここは相手に対する非難を示す用法です。


道綱の母というのは、藤原倫寧という国守の娘なんですが、夫は大臣家のお坊ちゃまであった藤原兼家という人物であります。夫が浮気を繰り返すので、とてもつらいというような嘆きを書いたのが『蜻蛉日記』だというのが、文学史上の評価でありますけれども、詠んでみますと、結構面白い日記でありまして、今で言えばブログなのであります。夫婦ゲンカの内容が、20年分そっくり残っているというような、ある意味とんでもない日記でありまして、実は夫への執着心が半端ないものなのです。そのやりとりを見ていると、1000年前とは思えないようなリアルさがあるんでありまして、『源氏物語』なんかより、夫婦生活の機微とかリアルさならば、ひょっとすると内容的には上かも知れません。


日記の記事を参考にすると、どこかで浮気をして、夜中にちょいと妻の家に寄り道しようとした夫に、釘を刺した歌でありましょう。


この歌の「明くる」が「開くる」と掛詞になっているわけです。歌だけを見たら分からないわけですが、実際は戸を開けろと夫がしつこいので、「夜中にいきなり来て戸を開けろって言ったって、そうすぐには開かないのよ、あなた」と言うつもりで詠んだ歌なのであります。著者の久保田淳氏の訳を見る限り、この歌の肝心かなめの「戸を開ける・開けない・開かない」という内容が落ちておりまして、その理由は不明です。歌というものは、歌だけで完結した世界を形成するのは無理でありますから、心して掛からねばならないのであります。道綱の母の歌で、拾遺集の詞書も『蜻蛉日記』の本文の事情も考慮し忘れているのは腑に落ちません。夫の藤原兼家さんという人も歌の詠める人ですから、これには返歌がありましたが、この返歌は、なぜか拾遺集には採られていません。ひたすら兼家が降参して詫びている歌とも言えますので、撰者の花山院が(もしくは花山院周辺の撰者たちが)不憫に思ったのか、あるいは権力者に忖度したのかもしれません。


げにやげに 冬の夜ならぬ 真木の戸も 遅くあくるは わびしかりけり(『蜻蛉日記』・兼家)


もちろん、冬の夜が「明くる」と、戸が「開くる」が掛けてありますね。なかなか戸が開かないのはつらいなあ、と詠んだのであります。『蜻蛉日記』では、開けてもらえないので帰ったことになっているんですが、どうもそれは脚色らしいと言うようなことを香川景樹の『百首異見』は指摘するのであります。入れてもらえたはずである、と景樹は言うのです。入れてもらえなかったら、歌なんか詠むはずがないというのは、主観の極みでもはや議論ではありません。『蜻蛉日記』は、いろんなところを極端に誇張して、面白おかしく書くんですが、歌そのものの解読から、日記の記述の虚偽を見抜くというのは、ある意味すごい眼力なのです。香川景樹は、拾遺集の詞書と『蜻蛉日記』の記述が食い違っていると見たところから、日記の記事は嘘偽りであるとしたんですが、その立論は「遅く」の解釈次第であると見る指摘によって、私が見る限りは崩れてしまっております。


しかしながらというか、それながらと言いましょうか、日記だから真実のみという前提に立つのも思い込みであります。やりとりした歌をさらに面白くするために、事実とは違う脚色を施すことはあり得ることでしょうし、別に虚構が入っていても構わないと思います。景樹は『百首異見』の中で、拾遺集の詞書は正しいということにしていますが、そうではなくて拾遺集の詞書は『蜻蛉日記』を要約しただけと見るべきなのでしょう。道綱の母と兼家のやりとりの真実は藪の中ですが、少なくともやりとりされた歌と、拾遺集の詞書、そして『蜻蛉日記』の本文、その三者の間に景樹が「ひが事」というほどの食い違いはないと思います。


ところで、『源氏物語』では、葵の上の死後、紫の上が光源氏の正妻として扱われますが、光源氏の晩年になって女三宮という人が降嫁して参ります。紫の上だってもともとは天皇の血を引く女性なんですが、内親王のような扱いは受けていないのであります。女三宮は朱雀院という上皇の三女で、現役の天皇の妹君なのでありまして、こっちの方がはるかに格上であります。光源氏の晩年は六条院という壮大な邸宅を営んでおりまして、紫の上も女三宮も同じ邸内の別の部屋に住んでおりました。ある晩、光源氏が女三宮のもとに行くんですが、夜明けに紫の上のもとに帰ってきますけれども、紫の上は意地悪をして戸を閉め切るのであります。それで、光源氏は風邪をひいたというふうになっていたように思います。『蜻蛉日記』の記事を参照して、紫式部が小説にしてみた可能性はあるかと思います。

紫の上は育ちのいい女性ではないということが、この話でよく分かります。お嬢さんではありません。『源氏物語』の光源氏の妻妾のなかで、自分から光源氏を好きだというのは、紫の上と朧月夜の内侍くらいじゃなかったかと思います。うろおぼえだから間違っていたらごめんなさい。当時としたら、はしたないことだったのかもしれません。


それから、道綱の母を「本朝三美人の一人」とするのは、『尊卑文脈』という系図の彼女の出て来るところに、「本朝三美ノ一」と書き込みがあるからで、誰が書き入れたのかも分かりませんが、かなり世間で話題となっていて、管理している人がせっかくだからと巷の噂を書き入れたものかもしれません。『源氏物語』の紫の上に関しては、のぞき見をした義理の息子の夕霧の目に、すごい美人であると見えたというような話だったかと思います。『源氏物語』の前半では、紫の上は藤壺にとてもよく似ていることになっておりますが、二人のことをすごい美人だとは言っていないような気がいたします。  

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