岩波文庫『百人一首』を読む(47) 恵慶法師

47 八重むぐら茂れる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり  恵慶法師


【訳】河原院にて、荒れたる宿に秋来るといふ心を人々よみ侍りけるに

【出典】拾遺集・巻三・秋140


【解釈の要点】

①「八重むぐら」「むぐら」はすでに万葉集に詠まれている。巻十一2824「思ふ人来むと知りせば八重むぐら覆へる庭に玉敷かましを」(作者未詳)、巻十九4270「むぐら延ふ賤しきやども大君しまさむと知らば玉敷かましを」(橘諸兄)。「むぐら」は蔓を延ばして物にからむ野草の総称で、代表的なものはアサ科のカナムグラやアカネ科のヤエムグラ。

②紀貫之が三条右大臣(藤原定方)家の屏風歌で「訪ふ人もなき宿なれど来る春は八重むぐらにもさはらざりけり」(貫之集・新勅撰集・春上8)と詠んだ。下河辺長流の『三奥抄』はこの歌を恵慶の詠の「本歌」とし、契沖の『改観抄』も「これを取れる歟。同じ心なり」という。『貫之集』に「やもめなる人の家」という詞書がかかる歌で「八重むぐらしげくのみこそなりまされ人目ぞ宿の草木ならまし」、後撰集・夏194に「八重むぐら繁き宿には夏虫の声よりほかに問ふ人もなし」などもある。

③「人こそ見えね」という句は、曾禰好忠も「けぶり絶えものさびしかる庵には人こそ見えね冬は来にけり」と詠んでいる。「人こそ見えないが」「人こそ訪れないが」という逆接の条件句である。類句「人こそなけれ」は、恵慶が「故貫之がよみ集めたる歌を一巻借りて、返すとて 一巻に千々の黄金をこめたれば人こそなけれ声は残れり」(恵慶集・後拾遺集・雑四1084)と詠んでいる。

④「秋は来にけり」は和歌で多く詠まれる句である。八代集には13例。「春は来にけり」は10例、「夏は来にけり」は1例、「冬は来にけり」は4例である。古今・後撰・拾遺いわゆる三代集の「秋は来にけり」は恵慶の歌を含めて4例、他は古今集・秋上184「木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり」(読人不知)、後撰集・秋下384「葦引の山の山守もる山も紅葉せさする秋は来にけり」(紀貫之)、拾遺集・雑秋1110「庭草に村雨降りてひぐらしの鳴く声聞けば秋は来にけり」(柿本人麻呂)である。

⑤「河原院」は、河原左大臣源融が鴨川の六条河原近くに営んだ豪奢な邸宅で、王朝文学にしばしば描かれる名所であった。『拾芥抄』に「河原院六条坊門南万里小路東八町云々。融大臣家。後寛平法皇御所。号六条院。本四町京極西。号東六条院」とみえ、現在の京都市下京区下寺町通五条下る、本塩竃町がその跡地である。

⑥『恵慶集』を見ると、恵慶が人々としばしば河原院を訪れて詠歌したことが確かめられ、特に「すだきけん昔の人もなき宿にただ影するは秋の夜の月」「草しげみ庭こそ荒れて年経ぬれ忘れぬものは秋の夜の月」の二首は、廃園をも忘れることなく訪れた秋月のしんみりした情趣を歌って、「八重むぐら」の歌に共通する点が多い。

⑦この歌は、『恵慶集』では「九月五日、ある所の紅葉合するに」、人々と共に詠んだ五首題のうちの一、「荒れたる宿」の歌として載せている。河原院での催しであったとするのは推測の域を出ない。


【蛇足】

さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は訳には変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈については、この歌では変更する必要がなかったということです。その特徴を見ると、三句目の「さびしき」までで一つの文として訳しておりまして、「さびしき」の下に「たたずまい」という名詞を補っております。その結果、「宿の」の「の」を連体修飾の格助詞として処理しています。この「の」は、同格だとか主格だとか、いろいろな訳出の可能性があるわけですが、それらを選択していません。そして、二文目を「そこに」と始めますので、三句目の末尾の「に」を格助詞として処理したことがわかります。二文に分けないなら、「八重むぐらが生い茂っているこの家のさびしいたたずまいに、訪れる人の姿こそ見えないけれども、秋はやって来たのだ」とまとめることも可能かと思います。「こそ……已然形」は逆接強調と解していますが、末尾の「けり」の訳は「のだ」となっていて断定のように見えます。

解釈に関しては、ヤエムグラが古くから詠まれたことを指摘する①、下河辺長流や契沖が指摘する本歌と思われる紀貫之の歌の紹介をする②、四句目「人こそ見えね」という表現も含めて類似の歌を指摘する③、五句目の「秋は来にけり」が和歌に珍しくない表現であることを考証する④までは、今回の書下ろしです。これに対して、河原院の現在地を考証する⑤、恵慶が河原院で詠んだ歌を紹介する⑥、実は『恵慶集』のこの歌の詞書を見ると、この歌は河原院で詠まれた歌ではないので、拾遺集の詞書が不審であることを考えさせる⑦は、『必携』から受け継いだものです。


著者の久保田淳氏は多くの先行する歌を掲示したり、あるいは恵慶の家集に見える河原院で詠んだ歌などを紹介してくれておりまして、それによって、いろいろと考えさせられました。一つは契沖などが紀貫之の「訪ふ人も」の歌を本歌と言っているんですが、曾禰好忠の「けぶり絶え」の歌なども本歌と言えそうでありまして、要するに恵慶が先人の歌を参照しつつこの歌を詠んだことがわかります。また、どうやら恵慶の家集を見るとこの歌が河原院で詠まれた可能性は低くて、どこかほかの邸で題詠したらしいことも分かります。さらに『恵慶集』の歌や詞書を見ると「昔の人もなき」とか「かくいろひけむ人々いづちかいにけむ」とありまして、「人こそ見えね」という四句目の解釈が「昔の人こそ見えね」と解することも可能に見えました。


前に扱いました北原白秋の『小倉百人一首評釈』では、解釈の末尾に、「これからも一層寂れてゆくことであろう」と付け加えておりますが、これは佐佐木信綱の『百人一首講義』の影響によるものと思われまして、信綱は次のように訳の後に付け加えております。

さるからに、いとどさびしくなりまさることは、余情にこめて、ただ一むきに、よみおろしたるなり。(佐佐木信綱『百人一首講義』)

そう言われてしまうと否定するのも無粋ですが、往時をしのんで現在を歌に詠むわけで、将来の事なんか考えていないように思うんですがいかがでしょうか。それともう一つ、白秋の句意に、「人は昔の人」と解説しているんですが、評釈の訳「人の住んでゐる姿とて目につかぬ」を見る限り、訳の上では現在の住人のようでありまして、なんとなく矛盾が生じております。この「人」に関しては、「主らしき人」すなわち河原の左大臣源融と考える説と、白秋が指摘するように「昔の人」説が対立するようです。おそらく、この「人」はそのどちらでもなく、荒廃した邸を「現在訪れる人」の意のはずです。今回取り上げている久保田淳氏も、訳を見る限り、こちらの意見です。ただ、『恵慶集』を見ると、「昔の人」を意識していたわけで、解釈は揺れてしまいます。「見え」は、下二段動詞の「見ゆ」の未然形ですが、「見ゆ」は、「見える」のほかに「姿を見せる・現れる」というような意味がありまして、歌を見る限りは到来した秋との対比で荒廃した邸には「来客はもうない」という表現かと思いますが、「主人だった河原左大臣源融や仕えた昔の人はもう姿がないが」となるかもしれません。「人こそ見えね」の「人」を、かつての住人源融やその当時の来客たちとするなんて、どうかしていると従来は思っていたのであります。拾遺集の詞書を見ると恵慶の歌人仲間は河原院に集まっているわけで、この詞書はあまり信用できないとしても、『拾遺集』の撰者などからすると、「人」は源融の生前河原院に集まった臣下や来客のことだと考えていたかも知れません。

    河原院にて、人のよみかきたる歌を見ていふやう、「あはれなるものは世の

    中なりや。かくいひけむ人々いづちいにけむ。ことのはは残りて、その人の

    見えずなるこそあはれなれ」といふに

  ふりにけん 人のうへかは たまづさは むかしにならん われもかなしな

    (『恵慶集』関西大学蔵本)


さて、気を取り直して確認すると、平安時代の京都のランドマークであった、河原の院という邸宅の荒廃した様を詠んだ歌であります。河原の院を造営したのは、『百人一首』の第14番「しのぶもぢずり」の歌を詠んだ河原左大臣源融でありますが、海水を運んできて池に満たし、そこで海辺の如く塩焼きを実現したというのですから、古代のディズニーシー、もしくは水族館なのでありましょうか。これは、平安時代の人で河原の院を見た人なら、納得の歌ではないでしょうか。注釈書を見ると、歌自体が美しいもの、すばらしいものというコメントに接するんですが。うんざりいたします。現代の歌謡曲もそうですが、誰もが思い当たることを、当たり前の言葉でしっかり表現した時に、共鳴すると言いますか、感動が生まれるのであって、この恵慶法師の歌などは、その見事な例かと思います。言葉は平凡ですが、荒れた大邸宅をストレートに、だからこそ巧みに詠んでおります。雑草の生えた寂しい庭ですから、これを美しいとか、すばらしいとか、そう言ってはなりません。廃墟に侵入した人がしばしばあったのでしょう。歌の詠みぶりからすると、今日の訪問者は、恵慶法師やその歌人仲間だけという建前の歌であります。美しかったのは造営され源融が栄華を誇った時期でありまして、荒廃した今が美しかったら千客万来でありますが、荒れ果てていて八重葎に阻まれ侵入すら難しかったかもしれないのです。和歌なら何でも美しいというのは妄想でしょう。


分からない動詞であるとか、知らない名詞・形容詞が一つもありませんから、あとは古典文法の問題にすぎないわけで、解釈は簡単のはずなんですね。簡単のはずですが、「見え」(下二段活用動詞「見ゆ」の未然形)をはじめとして実は容易ではないわけです。


島津忠夫氏(角川ソフィア文庫)は、「宿の」の「の」を同格の「の」に取るんですけれども、実はごく普通の日本語文法では、この同格の「の」を認めないと言うことがありますので、ここは主格に取るしかありません。白秋も主格で訳しています。桑田明氏も主格であると分析しています。受験だと、同格の「の」ってあるわけですが、あれはお子様メニューですから、それは使わない方がよろしいようです。その結果、「さびしきに」の「に」は、接続助詞と解釈する事になりまして、理屈っぽい方は理由条件「ので」と解釈しますが、普通は逆接確定条件として「けれど」と取ることになるでしょう。久保田淳氏は、独自の見解を取っていて、「の」を連体格と見ておりまして「に」は接続助詞ではなく格助詞で訳しています。ともかく、「八重むぐらが茂っている河原の院の寂しいたたずまいに、人の姿こそ見えないけれども、秋はやって来た」というような内容であります。ともかく、同格の「の」はいけません。


型通りに取れば、非常に分かりやすい歌でありますが、本当にそうでありましょうか?


京都で豪華な邸宅が荒廃する、ということは少なからずあったことでしょうけれど、この歌の舞台となった河原の院は、主人の源融の羽振りがよかっただけに、その後の落魄ぶりが目立ったと言うことでしょうか。河原の院には宇多天皇があとで移住するんですが、その天皇の前に源融の幽霊が出たという話がありますね。「我が輩のすみかだから出ていってくれまいか」と融は天皇に言うわけです。つまり、「気楽に侵入してくれるな」と脅したようです。実際は、空き家に侵入して勝手に住み着いた輩がいただけかもしれません。恵慶法師の歌の内容を現実にあることとすると、誰もいないなあとたたずむ恵慶法師とその歌人仲間は、後から来た侵入者には幽霊に見えることでしょう。幽霊話という物はそういう物で、肝試しの先客が幽霊に見立てられると思うんですが、いかがでしょう。侵入者が侵入者を見付けます。


この歌は拾遺集の詞書を見る分には、河原の院で催された歌会の席で、「あれたる宿に秋来たる」という題に従ってひねり出した歌のようであります。実は歌人仲間が集まってわいわい楽しんだわけで、「人こそ見えね」を「今は訪問者の姿も見えない」と解するなら、その場合、あくまで恵慶法師が日ごろの河原の院の様子を歌に表現したものと考えるべきでしょう。別の邸で催された歌会で詠んだのなら、歌人たちが寄り付かない普段の河原の院の様子を詠んだということで、矛盾も解消するでしょう。

  八重葎 茂れる宿の 歌会に 人こそ詠まね 我は出来けり(粗忽謹製)

  八重葎 茂れる宿の すさまじさ 秋は来たれど 人は寄り来ず(粗忽謹製)

河原の院の跡というのは、渉成園(しょうせいえん)「枳殻邸」(きこくてい)として現在も京都六条後に残っているそうでありまして、何かの折に塀のそばを通過したことがありまして、しょぼくれた門と小さな紹介の立て札を見て、何だ小さくなって残っていたのか、などと思っていたのですが、いまグーグルで確認したら信じられないくらい巨大な敷地でありまして、自分の至らなさを痛感いたしました。象を撫でてその巨大な脚の一部に触れて、「木の幹みたいだ」と言ったのは、おそらくは私のことであります。今度機会が有りましたら、訪問して、千年以上の歴史というものを体感してみたいと思います。


一つ確認を忘れておりました。この恵慶法師の歌の下の句というのは、漢文の発想が入っているわけでありまして、それなら「人」は「昔の人」がよくなりまして、かつてあれほど詰めかけた客の姿が今となっては一人も見えないのに、今年も秋という季節の到来だけはあった、という人事と自然の対応が一首の眼目なのでありましょうね。漢詩の場合には、それが科挙という国家試験に組み込まれていたわけですから、人事と自然を対比するわけですね。転変しやすい人事というのは、王朝が交代する中国としては非常に重要な視点であったはずで、隆盛を極めた都も、時が移りうち捨てられれば荒廃するものだという感覚が必要であります。これを盛り込まないと、科挙というような試験では零点だったかもしれませんよね。これに対して、悠久の自然を詠むわけです。黄河も揚子江も今も昔も流れている、春夏秋冬も人事と関係なく再来するということを強調いたします。それは、言ってみれば漢民族を支える母なる大地、中国国土というものでありまして、これは不変であるということです。恵慶法師は、そのあたりのお勉強が得意だった可能性は高いと思います。


広大な国土ですが、平安時代に中国へ行った人たちは長安などに集中していたんでありましょうか。日本人同士で集まることがあったのかどうか。実は、日本人が当時現地で詠んだ和歌というのが、実際のところは一首も無いのではないか、という指摘があります。 阿倍仲麻呂のような歌が他にあるなら見て見たいものであります。


一つ気になる事があるので付け加えます。漢詩に見える人事と自然の対応ということを述べましたけれども、それはあくまでも漢詩隆盛の唐代の流行だった可能性がありまして、憶測ではありますが科挙の採点にも関わることかと考えております。人事は移ろいやすく、王朝は交替するけれど、悠久の自然は繰り返されるというのは、漢詩を読めば誰しも感じることでしょう。しかしながら、自然が毎年全く同じかというとそんなことはありません。湖が消滅したり、河川が流れを変えることも多々あるわけで、人生に比べたら国家というか王朝もけっこう長く存続したりするのであります。何が言いたいかというと、転変する人事と不変の自然というのは、あくまでも文学上のお約束だったのではないかということです。

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