岩波文庫『百人一首』を読む(43) 藤原敦忠
43 逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔は物も思はざりけり 権中納言敦忠
【訳】あの人と逢って愛し合ったのち、いやまさる恋心に比べれば、それ以前は思い悩むなどといううちには入らなかったのだなあ。
【出典】拾遺集・巻十二・恋二・710
(題しらず)
【解釈の要点】
①底本の宮内庁書陵部蔵(函号五〇三-二三六)堯孝写『百人一首』では四句目の「物も」を「物を」とするが、『拾遺集』や『敦忠集』に従って改めた。冷泉家本『百人秀歌』では「ものを」の「を」をミセケチにして「も」とする。
②『源氏物語大辞典』などを参照すると、古語としての「逢ひ見る」は、単に人と人とが顔を合わせることの他に、男と女が会う、夫婦生活を営むなどの意で用いられることが少なくない。ここでも、顔を合わせただけではない。ここでいう「昔」は、自身がそういう体験をする前と考えればよい。「物も思はざりけり」とは、「物を思ふ」と言えるような状態ではなかったとわかったことをいう。「物を思ふ」は、兼盛の「物や思ふ」の「物思ふ」と同じく恋しいと思い悩むこと。
③『拾遺抄』では、この歌には詞書がなく、直前の大中臣能宣の歌に「はじめて女のもとにまかりて、又の朝につかはしける」と記されている。敦忠の歌もほぼ同じ状況で詠まれたか。冷泉家時雨亭文庫本『敦忠集』では、この歌の前に「御匣殿の別当」と呼ばれた女性のもとにこっそり通うことを、女性の親が聞きつけて制したと聞いて詠んだという「いかにしてかく思ふといふ事をだに人づてならで君にしらせん」の歌があるので、それと同様の状況で詠まれたか。この「いかにして」の歌は、「忍びて御匣殿の別当にあひ語らふと聞きて、父の左大臣の制止侍りければ」の詞書を付して後撰集・恋五961に入り、『大和物語』92段では「かくいひいひて、つひにあひにけるあしたに」として「けふそへに暮れざらめやはと思へども堪へぬは人の心なりけり」という歌がある。この歌も後撰集・恋四882に載り、詞書に「御匣殿に初めてつかはしける」という。
④御匣殿別当の父左大臣は枇杷左大臣藤原仲平で、明子といい、『尊卑文脈』では「中納言敦忠室」と注する。『敦忠集』に「みくしげ殿とは君達の母よ」とある。仲平は敦忠の叔父で、仲平は若い甥に娘を委ねることをためらったのであろう。敦忠には明子以外にも、参議源等女という妻もいたし、雅子内親王にも求愛していた。
⑤下河辺長流の『三奥抄』や契沖の『改観抄』はこの歌が詠まれた状況を考えないが、賀茂真淵の『宇比麻奈備』は、後撰集の「いかにして」の歌を引いて「此みくしげどのにはじめて逢たるほどの事にや」と考えた。「逢ひ見ての」の歌は、仲平女明子である御匣殿との恋で詠まれたものであろう。香川景樹『百首異見』は「尤感深きにや」というだけで他の注釈への批判もしていない。
⑥『大鏡』時平伝は次のようなことが語られている。保明親王が二十一歳で夭折した後、その御息所は敦忠と結婚して限りなく愛されていたが、ある時敦忠は彼女に対して、仕えていた藤原文範について、「私の一族は短命だからきっと早死にするだろう。その後あなたは文範と結婚されるだろう」と言った。本当にそのようになったという。
⑦中務に「逢ひ見ての後さへものの悲しくは慰めがたくなりぬべきかな」という作がある。『中務集』によれば贈答歌の返しであるが、藤原実頼の『清慎公集』では贈答関係が逆になっている。『続後撰集』・恋三838では、「清慎公につかはしける 中務」として「逢ひ見ての」の歌を掲げる。敦忠と実頼は、敦忠が六歳年長のいとこ同士である。中務の作は敦忠作に影響されたか。
【蛇足】
さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は、訳のはじめに「あの人」とありますが、『必携』ではここが「あなた」となっておりましたので、『必携』では贈答された後朝の歌の体裁だったものを、独詠の歌というふうに、歌の理解に変更があったと言えるでしょう。また、最後のところ「入らなかったのだなあ」とありますが、『必携』では「入らなかったとわかりました」とありましたので、微調整して直訳風に変更したようです。それ以外は『必携』のままですが、その特徴を考えてみると、「逢ひ見ての後の心に」という初句・二句を「あの人と逢って愛し合ったのち、いやまさる恋心に」とありますので、「逢ひ見る」を深い関係になると捉え、「後の心」は関係が出来て恋心が募ったとことが分かるように言葉を補っています。また、「昔」は「それ以前」と訳し、「物も思はざり」を「思い悩むなどといううちには入らない」としまして、以前も思い悩んでいたが、関係が出来て思い悩むことが深くなったことを表現しています。
解釈と称する解説部分では、敦忠の影響作と筆者が考える中務の歌に関して述べている⑦が『必携』の解説の大部分を占めていました。また、御匣殿とその父藤原仲平を『尊卑文脈』を手掛かりに考証する④、『大鏡』時平伝を手掛かりに敦忠の結婚相手だった御息所を紹介する⑥は『必携』にも少しだけ出ていましたが、今回詳しく述べられていました。
『大鏡』時平伝の原文は次のようになっています。
いま一人の御息所は、玄上の宰相の女にや。その後朝の使、敦忠の中納言、少将にてし給ひける。宮失せ給ひて後、この中納言には会ひ給へるを、かぎりなく思ひながら、いかが見給ひけむ、文範の民部卿の、播磨守にて、殿の家司にて候はるるを、「我は命みじかき族なり。かならず死なむず。その後、君は文範にぞ会ひ給はむ」と宣ひけるを、「あるまじきこと」といらへ給ひければ、「天がけりても見む。よにたがへ給はじ」など宣ひけるが、誠にさていまするぞかし。
④⑥以外の、底本の校訂に関わる①、「逢ひ見る」「昔」「物思ふ」の語釈である②、『拾遺抄』を手掛かりに歌の状況を考証する③、近世の注釈書が歌の状況に賀茂真淵以外は関心を払っていないとする⑤は今回付け加えられたものです。『拾遺抄』の詞書からすると贈答歌ということになりますから、『必携』のように「あなたと逢って」がふさわしいわけですが、『拾遺集』のように「題知らず」だと「あの人と逢って」に軍配が上がるのかもしれません。ただ、中務の歌なども贈答歌ですから、後朝の歌として「あなたと逢って」のほうが、今回の解説にはかみ合うように見えます。
有吉保氏『百人一首全訳注』(講談社学術文庫、1983年)は、古い注釈書の説の要点を分析して、次のような三つの解釈が存在することをまとめています。
(1) 女のもとにはじめて通って行った翌朝に詠んだ、いわゆる後朝の歌。
(2) 女と逢って契りを結んだ後に、種々の事情で逢えないでいると、逢う以前よりも深くせつない恋心を感じさせられる。
(3) 女と逢って契りを結ぶと、それ以前にはなかったいろいろな心配が生じて悩むことになる。
拾遺抄の詞書や古今六帖の分類では(1)ですが、拾遺集の恋の二では「逢不逢恋」の中に配列されていることから、(2)のように逢えない事情が生じたと見たり、(3)のように逢瀬の後に世間の人目を気にしたり、恋人の心変わりを恐れたりすると見るようです。(3)を主張する宗祇は、その意見の最後に、「かやうの歌をあまりにやすく見侍らんは、ほいなきことにこそ侍らめ」と注意喚起しておりまして、本来は後朝の単純な歌ではなかったはずだと見ていたようです。
著者の久保田淳氏が底本を訂正しておりますが、四句目のところが、「昔は物を」とあるものと、「昔は物も」とあるものがあって、ちょっと揺れるんであります。揺れるからには何かあるんですが、結論が出るような違いではなさそうであります。作者については、あまり馴染みがないのでありますが、左大臣時平の三男と言うことですから、菅原道真を左遷した張本人の子孫と言うことで、やがて怨霊となった雷神様ににらまれた一族と言うことになります。そこから早死にの話が出て来るのかと思います。敦忠は、前に出て来た「右近」の恋の相手でもあります。歌の方は、非常にホットな恋の歌の一つでありまして、私でもいいなあこれと思うくらいですから、人気があるんじゃないでしょうか。
ただし、歌の理解の仕方には古来大問題がありまして、これをある朝女性に送った歌と取るか、もっと人生の機微を詠んだ歌と見るか、そんなところでもめるんであります。
要するに、贈答歌の習慣のなかで、特定の相手と言いますか、恋人に贈った歌というのがもともとの姿なのであります。ところが、これを独詠と言いますか、普遍を目指した芸術として理解すると、人生の真理が垣間見えるのかも知れません。そう思うと、それなりにいい味が出ておりますよ。拾遺抄では、「はじめてをんなのもとにまかりて又のあしたにつかはしける」という詞書を持つ歌群のなかにありまして、やっぱりもともとは贈答歌ということかもしれません。一般には、後朝の歌ではなかったものを、後朝の歌として拾遺抄が採用したとされておりますが、逆の可能性だってあることでしょう。贈答歌と見る方が愛の深まりの歌となりますけれども、後朝の歌ではないとみなすと宗祇のように世間の目だとか恋人の裏切りの可能性だとかを考えるわけです。
『拾遺集』巻第十二・恋二 710番
題しらず 権中納言敦忠
逢ひ見ての 後の心に 比ぶれば 昔は物も 思はざりけり
さて、何も問題がないのかなあと思いましたら、いちばんはじめの部分が曲者でありますね。ここの『百人一首』の歌の表記は、特に意識せずに岩波文庫の『王朝秀歌選』〈樋口芳麻呂校注)を引用してみました。見た目に分かりやすくするために、句と句の間を開けているのは、私が勝手にやっているんですけれども、樋口芳麻呂先生も、三句目と四句目の間には切れ目を入れていまして、そうでもしないと、歌という物は意味不明であります。元来、古典の場合は句読点すら付いていないことが普通でありまして、その流れを和歌では今でも守っているというわけです。『万葉集』の原文を表記する時は、割と句ごとに分かつようでありますが、俳句もそうしないと私には難しく感じられます。
藤原敦忠の歌の問題点を、あえて指摘しますと、初句のところの「逢ひ見」という部分が曲者です。これは当然「逢ひ見る」という動詞ということになるのですが、そんな動詞、現在はないわけで、用心しないといい加減な解釈の温床になります。辞書にこういう見出しがあっても、それを鵜呑みにしてはならないだろうと思うのであります。けっこう、『百人一首』の解釈に従って見出しを作ってしまうことがあるようで、学習参考書としての辞書の場合は、あまり信用してはいけません。はっきり言って、疑って掛かるのがいいと思います。著者は、『源氏物語大辞典』を典拠としていますが、さてそれでいいのかどうか、悩ましく思います。
結論を言うと、この動詞は「あひ」という接頭語が付いているものでありまして、動詞の本体は「見る」のはずです。つまり「逢ひ~」という複合動詞は存在しないと考えて置く方がいいのであります。「あひ(相)」という接頭語は、二人で、一緒にと言うことを添えていまして、「見る」が二人が会ったということを意味している動詞なのであります。注釈者の技量を見るのにはいいかもしれません。つまり、「逢ふ」と「見る」をそれぞれ訳出して、動詞が二つあるような解釈は、駄目なんです。ちなみに、小学館刊行の『日本国語大辞典』(第二版)は「あいみる」の項目の「語誌」というところが詳しくて、「逢い見る」を否定したくて否定したくて仕方ないという書き方になっています。もっとはっきり、「逢い見る」という動詞はなかったんだ、『百人一首』のこの歌の誤読から、間違えてしまったんだと言えばいいのに、と感じます。というか、そう思ってみると、息の根を実は完全に止めてありますね。それなのに……。
分かっての 後の心に 比ぶれば 昔は物を 知らなすぎなり(粗忽)
どうやら、「あひ見る」という動詞は、別に恋愛を意味する言葉でもなかったようでありますね。ただし、歌の中で使われる「見る」とか「語らふ」は深い関係を暗示するというか、二人が関係を持ったことを示す場合も多いのであります。歌物語をはじめとする恋愛を扱った物語の中でも同様であります。それから、なかなか言いにくいのですが、「逢ふ」という動詞も「見る」や「語らふ」と同様でありまして、単に「逢ふ」というだけではなくて、逢瀬をして夫婦の契りを交わしたことを表したりします。ただ、上にも述べたように「逢ひ見る」なんて動詞はないので、「逢ひ」の部分に過剰な意味を持たせるのは不可なのであります。
もちろん、『百人一首』のこの歌は、恋愛心理の機微を突いていて、恋愛体験が多少ある人ならよくわかる、恋をした時の混乱、あるいは深い仲になった時の物思いの深さという物を教えてくれるわけです。だから、「あひ見る」が「逢ひ見る」だと誤解されて、男女の逢瀬を表現しているというふうに、進化したというか、深読みされてしまったのは致し方ないわけですね。しかし、これは「あひ語らふ」なんかと同じで、複数で事を為していることを示す「あひ(相)」という接頭語でありまして、現代で「語らう」で充分なように、「見る」と言っているだけの方がいいのかも知れません。大方の注釈書の訳は、「逢ひ」も「見る」も訳出しようとしていますが、これは尾崎雅嘉や佐佐木信綱を粉本として、延々と拡大再生産して来た結果でしょう。
つまり、昔の和歌を独詠だと考えると、大きく振りかぶって恋愛の深い真実を詠んだ歌と解したくなるわけであります。そこを、ぐっと抑えて、今まで噂に聞いただけだったとか、簾越しで会話した程度だったのが、二人っきりで対面した後で贈った歌であるとしたら、軽い恋愛の告白になって、軽くていいのではありませんか。いくら好色な平安貴族だって、初対面で関係をばっちり結ぶわけではありません。告白のために訪問して顔を初めて見て、思いを告げて帰ることだってあるわけです。その後で手紙を送って、君を見てから、何だかどうしようどうしようって考え始めたよ、これって恋かも、と言うようなことです。だったら、すれ違った誰にでも贈れる歌ではありませんか? 拾遺集の「題しらず」という言葉からすると、後朝(きぬぎぬ)の歌ですらない可能性もあるわけです。
またしても手柄をあげてしまいました。ありもしない「逢ひ見る」という動詞を、歌の内容を過剰に意識するあまり辞書に掲載してしまうというのは、辞書を作る時に起きがちな不手際だろうと思うのであります。ここは一旦クールダウンして、「見て」という表現に等しいと判断するのがいいはずです。なお、例の宮内庁書陵部蔵の堯孝法印筆本『百人一首』の影印では、初句の部分はすべて平仮名で「あひみての」と書かれております。つまり、最初のところは「逢ひ」ではなく「あひ」と書いてありますね。次の歌の冒頭には漢字で「逢」が使われていて、使い分けがあるように見えます。
さて、そうなるとこの歌をどう考えるのかということですが、「相見ての後の心」というのは、念願かなって直接の対面を許されて、相対することができ、交際がスタートしてからということになるでしょう。相手もまんざらでもない様子で、その容姿も気に入って、恋の深みにはまった状態であります。だからそうなった「後の心」というのは、夢うつつ、逢えない時間は恋い焦がれて焦燥感にかられるわけで、恋の物思いが絶えなくなるわけです。では、「相見る」前の状態はどんなかと言えば、「音に聞く」というような噂を耳にしたとか、女房などの手引きで「垣間見」するとか、そういうことを想像するのがよさそうです。それでも、恋の物思いはするわけですが、相思相愛になった今の物思いからすれば、片思いの物思いなんか大したものではなかったということを、この歌は詠んでみたのでありましょう。
直接お目にかかって言葉を交わして以後の、そなたへの熱い恋慕の情に比べると、そなたのお噂を耳にし、ひそかにそなたを垣間見た昔の片思いの気持など大したものでもないので、昔は本当の恋心を懐いてはいなかったと今気が付きました。(粗忽試訳・詠作主体は男)
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