岩波文庫『百人一首』を読む(44) 藤原朝忠
44 逢事の絶えてしなくは中々に 人をも身をも恨みざらまし 中納言朝忠
【訳】恋しいあの人に逢うということが全くないのならば、なまなかにあの人をもまたわが身をも恨めしく思わないであろう。一度は逢ったからこそ、今は逢えないことがこうも恨めしく思われるのだ。
【出典】拾遺集・巻十一・恋一・678
天暦御時歌合に
【解釈の要点】
①詞書にいう『天暦御時歌合』は、40兼盛の「しのぶれど」や41忠見の「恋すてふ」と同じく、天徳四年(960)に催された『天徳内裏歌合』で、この歌は「恋」の題の十九番左歌である。藤原元真の右歌「君恋ふとかつは消えつつ経るものをかくても生ける身とや見るらむ」と合されて勝った。判者左大臣藤原実頼は、判詞に「左右歌いとをかし。されど左の歌は言葉清げなりとて、以左為勝」という。
②二句目の「し」は副助詞。強意の助詞と言われることが多いが、『岩波古語辞典』や『古典基礎語辞典』では、基本的には不確実・不確定な判断を表すという。「は」は係助詞で、条件を提示する働きを持つ。「中々に」は、中途半端、なまじっか。万葉集・巻三343「中々に人とあらずは酒壺になりにてしかも酒に染みなむ」(大伴旅人の讃酒歌十三首)、古今集・恋二594「東路の小夜の中山中々に何しか人を思ひそめけむ」(紀友則)、古今集・恋四679「いその神布留の中道中々に見ずは恋しと思はましやは」(紀貫之)などと詠まれている。
③「人をも身をも」は、新古今集・恋四1322「わが恋は庭のむら萩うら枯れて人をも身をも秋の夕暮」(慈円)、定家は「閑居百首」で「うくつらき人をも身をもよししらじただ時のまのあふこともがな」、「老若五十首歌合」で「身をしれば人をもよをもうらみねどくちにしそでのかはく日ぞなき」と詠んだ。すべて朝忠のこの歌を意識している。
④「恨みざらまし」の「まし」は反実仮想の助動詞と呼ばれる。もし……ならば……であろうに、実際はそうでないという意味を表す。
⑤下河辺長流の『三奥抄』は、「ひとたび人にあひて後、また逢事のこころにまかせぬより、ひとをうらむるこころも、かへつて相ぬさきのうらみに増り、身をうしとおもふことも、其はじめにはまさるがゆへに、中々あはずしてやまむものを」と通釈し、古今集・春上53在原業平の「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と「おなじこころなり」と述べる。契沖の『改観抄』はこれに従っている。
⑥賀茂真淵の『宇比麻奈備』は、長流・契沖を受けて「或人、世の中にたえて桜のとよめるが如しといへり」「古へ人のふと思ふままによめる意と見ば、さても有べし。されど、此頃の歌にて設け作れるならば、かのたえて桜のてふをうつしつつあとのあらはなるなど、一人に一首をとらんには、いかにいかにかあらん」と朝忠の歌を撰んだ『百人一首』の撰び方を批判する。
⑦香川景樹の『百首異見』は、賀茂真淵の論に反撥し、「非也。後世歌は今日のうへをよむ事をわすれて、古歌にのみよるこころより、是をも業平の歌をかすめたりと思へるは、己が意なるべし。こればかり似たらんをうつしし跡あらは也とはいふべからず。又たとひ古歌によれりとも、此百首にとりたるをいかがとは難ずべきにあらず。百首中古歌をうつせし物おほく、中にも衣かたしき独かもねん、故郷さむく衣打也などは、大かた古歌のままなるをや」と論じた。朝忠の歌だけ批判するのも、『百人一首』に採ったことを非難するのも見当違いだとし、選者定家と同時代の91後京極摂政太政大臣と94参議雅経の作品を例示している。
⑧業平作の「世の中に」のような逆接的な歌い方は、人々の共感を呼ぶ。朝忠はその対象を「桜」から「逢ふこと」に移して、恋情の切実さを願おうとした。真淵の批判は偏狭で、景樹のいうように咎めるには当たらない。
【蛇足】
さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は、訳の末尾に若干の変更がありました。「今は逢えないことがこうも恨めしく」とありますが、『必携』ではここが「今は逢えないのでこうもうらめしく」となっておりましたので、『必携』では「恨めしく」思う理由として「今は逢えない」ことを挙げていましたが、理由ではなく対象として訳出しております。歌の理解に変更があったと言えるでしょう。ただ、「……なくは……ざらまし」という反実仮想のあとで、事実関係を訳すなら、「……なので……だ」という解釈のほうが理屈としてはよいと思います。それ以外は『必携』のままですが、その特徴を考えてみると、反実仮想の訳を現在形で訳しています。いろんな流儀はあると思いますが、どちらかと言えば反実仮想は過去の時制で訳すといいのではないかと思います。直訳すると「逢うことが全くなかったら、かえってあの人をもわが身をも恨めしく思わなかっただろう」となりますが、大差はないかもしれません。次に、「中々に」を「なまなかに」と訳してありますが、解釈という解説部分では「中途半端」「なまじっか」とありまして、どれにしても納まりがよくないような気がいたします。「かえって」と訳すのが近年の注釈書の傾向で、そうした副詞的な表現でいいなら「逆に」とか「むしろ」などでもよさそうです。特に、現実のほうを訳すと「一度は逢ったので、かえってあの人をもわが身をも恨めしく思われる」となりますから、「かえって」と訳すのが普通のように見えます。ただ、三句目の「中々に」を倒置と見て初句・二句に先行させるという読み方なら、著者のいうように「なまなかに逢う」「中途半端に逢う」「なまじっか逢う」のほうが意味をなすかと思います。現代語の「中々に」と、古語の「中々に」の意味の違いは、なかなか難しい問題だと思います。なかなかうまく説明が付きません。
解釈と称する解説部分では、賀茂真淵の朝忠の歌や撰者定家の撰歌に対する非難に対して、香川景樹が批判していたことを詳細に紹介する⑥⑦⑧が『必携』から受け継がれたもので、出典の歌合の判詞を紹介する①、語句の解説をする②と④、この朝忠の歌に影響を受けた慈円や定家の歌を紹介する③、そして朝忠の歌が業平の歌に影響を受けたものとする下河辺長流の説を紹介する⑤は、今回付け加えられたものです。
さて、著者の紹介のように、朝忠のこの「逢ふことの」の歌が業平の「世の中の」という作を模倣したかどうか、それが許されることかという点で近世注釈書はもめたわけですが、検証してみたいと思います。
古今集 春上 53
渚院にて桜を見てよめる 在原業平朝臣
世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
反実仮想の歌としては有名な歌でありまして、「ましかば~まし」が文章語であるのに対して、「せば~まし」は音数が少ないことからなのか主に和歌で使われるように思われます。これを、主旨と言いますか事実に還元すると、次のように変形できるかもしれません。
世の中に かくも桜の 咲き散れば 春の心ぞ のどけからざる(粗忽改作)
これでも一首としては成立するはずでありまして、こうした「桜のせいで落ち着かない」という事実と言いますか実感に対して、「桜がこの世に存在しなかったら、春を迎える我が心は安穏だったろうに」と業平は言ってみたわけです。これと同じように、朝忠の歌を変形すると次のようになるでしょうか。
逢ふことの たまさかあれば なかなかに 人をも身をも 恨みてぞある(粗忽改作)
これもまた一首としては成立するような気がいたしまして、ふと思うのでありますが、「世の中に」の歌は、あの業平が渚の院で詠んだから名歌なのであり、この「逢ふことの絶えてしなくは」の歌も、朝忠が歌合に出詠して詠んだから名歌なのでありましょう。特別な反実仮想表現が無くなった現代から見ると、いかにも「せば~まし」とか「なくは~まし」という表現は雅びですが、詠作当時に雅びだった保証はないような気がします。
なお、この朝忠の歌は、三句目の「なかなかに」で検索すると、本歌とまでは言えないまでも朝忠の発想のもとになった歌が見付かります。なぜか、注釈書の類は業平の歌の指摘で満足して、それ以上の追究をした形跡がありません。著者は、紀友則の歌を挙げておりますが、あくまで「中々に」という語の紹介にとどめております。
万葉集・巻第四・750
(さらに大伴宿禰家持の坂上大嬢に贈れる歌十五首)
思ひ絶え わびにしものを なかなかに 何か苦しく 相見そめけむ
念絶 和備西物尾 中中荷 奈何辛苦 相見始兼
古今集・巻第十二・恋歌二・594
(題しらず 友則)
東路の 小夜の中山 なかなかに なにしか人を 思ひ初めけむ
また、二句目の「なくは」は、古くは「なくば」と濁音で表記するのが普通で、かつては接続助詞の「ば」とされていたものが、近年は係助詞の「は」による仮定条件の用法とされています。また、既に触れましたが末句五句目の末尾の「まし」は、いわゆる反実仮想の助動詞で、「~だったろうに、実はそうではない」という語法と説明することがあります。その結果、二句目の「なくは」も反実仮想の条件節となりますので、「もし~なかったなら」と解釈することになるでしょう。
なお、この朝忠とその弟の朝成は、ともに「三条中納言」と称されることがあったため、混同されることがあったようです。ちなみに、朝忠は、康保三年(966)に中納言で没していますが、朝成が権中納言になったのが安和三年(970)、さらに中納言に昇進したのが翌年の天禄二年(971)のことです。『続古事談』には、村上天皇が昇殿して来た朝成を初めて見て、その容姿が魁偉であるため、傍らにいた朝忠に、「あれは誰?」と質問したという話がありまして、同父同母の兄弟なのに、兄の朝忠に弟の朝成がまったく似ていなかったことが分かります。朝忠も朝成も、笙に関してはともに上手だったらしく、『古今著聞集』には兄弟そろって演奏した記録が残っておりますが、歌に関しては朝忠が得意だったようで、歌合などに参加し、屏風歌も詠み、三十六歌仙の一人でありまして、家集に『朝忠集』があって、右近などの女房との贈答歌を収めています。
「朝忠」の読みは、近代では「あさただ」が普通ですが「ともただ」の可能性もあるようです。「朝成」に関しても、「あさひら」と読むのが普通ですが、「ともひら」「あさなり」「ともなり」の可能性もあるでしょう。検索する時には注意が必要だと思います。
語法に関して、少々確認いたします。「たえてしなくは」の「たえて」は副詞で、否定表現に掛かる副詞。「まったく」とか「全然」「絶対に」の意です。「し」は強意の係助詞で、間投助詞と言っても構わないでしょう。解釈の際は無視するのが普通ですが、この場合は逢うことがまったくない、ということをさらに強めています。打消表現を伴う条件節だから使われたものと見るのがいいでしょう。「なかなかに」は、現代語と違って「かえって」とか「むしろ」というような、条件に対して結果が予期したものとねじれてしまうことを意味しています。逢わなければ、普通は恨むんですが、「逢うことがまったく全然みじんもなかったら、かえってむしろあべこべにあなたのことも自分のことも恨み言を言ったりしなかったろうに」というのが表面の意味ですけれども、実は「なまじ逢ったものだから、あなたも恨めしいし我が身もうらめしい」という後悔の歌というのが正体です。よって、朝忠の歌は表現と違って、言いたい真意の方はかなり恐ろしい内容ということです。変形の別のバージョンを用意しました。
逢ふことの げにありしかば 心より 人をも身をも 恨むことかな(粗忽謹製)
※「げに」、は「本当に」「まことに」の意。
和歌だと思いますから、いろんな先入観にまみれてしまうのですが、43番の敦忠の歌も、そしてこの44番の朝忠の歌も、表現だけを問題にすれば別に恋の歌であると断定する必要はないのであります。人と人とが出会わなければ、深い好悪の感情にとらわれる事はないわけで、一般真理、聖書のありがたい言葉のような気にさえなってくるわけであります。朝忠の歌は、古語が満載ですから、そのあたりの知識をいろいろ知らないと面白くはないのであります。しかし、知っていれば、ごく普通に解釈出来ますから、気負いのない、すらすらと詠んだ歌なのであります。この歌のいいところは「人をも身をも」とあるところで、「あなたをも自分をも」呪っているんでありますね。「恨み」は、実は活用が今とまったく違いますが、意味も「文句を言う・不満を言う」というのが普通ですから、この歌自体が相手に対する呪いの呪文なんであります。逢瀬があったばかりに、あなたを呪うことだ、逢わなければよかったよ、と言っているのでしょう。
ここでも、「人」は二人称がよさそうでありまして、三人称では面白くありません。なお、古注釈には反実仮想の「なくは~まし」の語法が分からなかったために、「関係しなければ、誰の事も恨まずに済む」というような人生訓に理解することもあったようです。よくよく見ると、昭和初期に出た北原白秋の訳なども一般論でありまして、近年になるまであまり反実仮想という表現が分かっていなかった可能性が高いようです。
作者の藤原朝忠という方は、藤原定方という人の子息なんだそうでありまして、親子二代で『百人一首』に入っているんです。撰者である藤原定家が、家業を継承するというような意識があった故の選抜かも知れませんが、和歌を詠むというような営み自体が、集団による遊びでありまして、お父さんが主催すれば、その家のお坊ちゃまが参加すると盛り上がるわけで、ちょっと才気があって、やる気があれば五七五七七くらい、それなりに作ったと言うことかも知れません。でも、藤原定方って誰よ、ということになりますが、この方は三条右大臣という名前で出てきておりまして、23番の歌「逢坂山のさねかづら」の歌を詠んだ人であります。ただし、この親子は、説話の方面や歴史物語では影が薄いのでありまして、子孫が衰退すると次の時代には忘れ去られたことが分かります。
朝忠の兄弟で強烈なのは、前にも触れた朝成という人物で、すさまじい食事の話が伝わっております。佐佐木信綱も『百人一首講義』で紹介したくらいですから、せっかくなので触れておきます。
朝忠の弟の朝成は、兄と違って容貌が魁偉と言いますか、背が高くてはち切れんばかりに太った人だったそうです。その朝成が肥満を気にしまして、身動きもかなわないから、医師に相談したんであります。そのお医者さんが言うには、お茶漬けをお食べなさいと言うことだったのであります。お茶漬けなら食べてるよ、見てくれるかい、というようなことでいつもの食事を見せようとしたのであります。今なら「お茶漬けダイエット」ということになって、受けるかもしれません。干し瓜というのを、おかずにして、鮎鮨と冷たいお茶漬けを食べるんですけれども、ものすごい量の食事をあっという間に平らげたんで、医者が逃げ出したというのです。
ちなみに、容貌も特異なんですが、性格も変わっていて、ライバル視した人物を呪って悪霊になったと言い伝えられているんであります。朝成の三条通の旧宅がどうなったのかというと、今はある建物になっているんですね。私はそこに何度か出入りしましたが、冷房しなくてもひんやりしているんであります。初夏のころに室内にいて、もう冷房ですかって聞いたら、いやこの建物は涼しいんですよって、職員が言ってました。悪霊の屋敷跡だから買い手が付かなかったものを、バブル期に買った会社があるのです。知らないで買ったんでしょうね。京都のど真ん中、六角堂の近くでありますから、事情を知っている近所の人は笑ってみていることでしょう。今で言うところの「事故物件」というやつでございます。三条通のどこかってことで許していただきたいと思いますが、今なら、グーグルの地図などでどんな建物があるか確認できますよ。
そやな、京都の人は、ほんまにいけずやさかい、うまいこと言うて売りはったんやろな。
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