岩波文庫『百人一首』を読む(49) 大中臣能宣
49 御垣守衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつ物をこそ思へ 大中臣能宣朝臣
【訳】皇居を守護する衛士の焚く火が、夜は炎々と燃えさかり、昼は消えるように、わたしは夜は恋の思いに燃え、昼は心も消え入るほどに思い悩んでいるのだ。
【出典】詞花集・巻七・恋上・225
題不知
【解釈の要点】
①能宣の家集には見えず、『古今六帖』第一「火」に「君がもるゑじのたくひのひるはたえよるはもえつつ物をこそ思へ」という、作者未詳の似た歌が載る。初句に「みかきもり」という異文があり、三句目の「たえ」に「きえて」という異文がある。『詞花集』には初句を「御垣守る」とする三春秋田家本もある。
②「御垣」は宮中の垣の意。「衛士」は諸国の軍団から毎年交替で上京し、宮城の門その他を警護した兵士をいう言葉だから、「御垣守」と同義ということになる。『村上御集』に「御垣守る衛士のたく火のわれなれやたぐひまたなき物思ふらん」、『和漢朗詠集』下・禁中に無記名の「御垣守る衛士のたく火にあらねどもわれも心のうちにこそ思へ」という類想歌もある。
③「夜は燃え昼は消えつつ」に類する対比した表現は、古今集・恋一470の「音にのみきくの白露よるはおきて昼は思ひにあへず消ぬべし」という素性の歌にも見られた。
④衛士というと、『更級日記』の武蔵国の衛士と皇女の話が思い出される。宮殿の庭を掃く衛士が独り言で、酒壺にさしわたしたひさごのことをつぶやいていた。聞き付けた皇女が衛士に武蔵国へ連れて行ってひさごを見せろと命じると、衛士は皇女を背負って武蔵国へ逃げ帰った。天皇の使者が出向くと、皇女はこの地に住む「宿世」があったのだと告げた。衛士に武蔵国を預ける宣旨が下された。その屋敷が竹芝寺となった。その事があったので火焼屋には女性がいるのである。
⑤下河辺長流の『三奥抄』は頭書で『令義解』や『延喜式』の、衛士が夜火を焚くことについての記述を引く。契沖の『改観抄』はそれを受けて、『和漢朗詠集』の「御垣守る」の歌や定家が『新勅撰集』恋三859に自選した「暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ室の八島も都ならねば」の歌を挙げる。賀茂真淵の『宇比麻奈備』は、後撰集・恋一581「かく恋ふる物と知りせば夜は起きて明くれば消ゆる露ならましを」(読人不知)を第四句を「昼は消ぬる」として引く。『和漢朗詠集』の歌も「中務家集に」として引くが、『中務集』には不見か。香川景樹の『百首異見』は『古今六帖』の「君がもる」の歌にもとづくらしいことに気付いて、第三句と第四句を入れ替えたのは「撰者のさかしらなるべし」と想像し、「能宣と定めて入られたるは、外に其証有しにや」と『詞花集』を疑っている。
⑥『枕草子』は、火焼屋から人が出て来て、石清水臨時祭の試楽の残肴を争って取るさまを描いている。
⑦『正治二年院第二度百首』の「禁中」の題では「衛士のたく火」が景物である。後鳥羽院「夜もすがら雲ゐの庭をてらすなる衛士の焼く火は有明の比」、藤原雅経「衛士のたく煙たえせぬ御代にあひて民のかまどもいかがうれしき」、源家長「今さらにおもひもたえぬ煙かな月すむころの庭の火たきや」。
⑧中世初頭の宮廷人の感覚では、火焼屋も往年の内裏の面影を偲ぶ名所の一つと考えられていたのであろう。定家も、大中臣能宣の歌を『定家八代抄』『八代集秀逸』、そして『百人秀歌』と何度も秀歌撰に採り、建保三年(1215)『内大臣家百首』で、能宣の歌に父俊成の歌を取り合わせて、「暮るる夜は」の歌を詠み、後年『新勅撰集』にも採った。
【蛇足】
さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は訳には変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈については、この歌では変更する必要がなかったということです。その特徴を考えてみると、初句・二句の序詞が「夜は燃え昼は消え」を導き、「夜は燃え昼は消え」が夜の強い恋慕と昼の意気消沈の意となって二重に解釈されております。ただ、接続助詞の「つつ」に関しては訳出されていないように見えますし、解説でも特に触れられていません。
解釈に関しては、本来『古今六帖』にあった歌であることを指摘する①、火焼屋で火を焚く衛士が出て来る説話を載せる『更級日記』の紹介をする④、火焼屋の話題が出て来る『枕草子』を指摘する⑥、後鳥羽院主催の百首に見える「衛士のたく火」の歌を紹介する⑦が『百人一首必携』と共通しております。「御垣」「衛士」を解説している②、三句目四句目の対比表現と似ている素性の歌を指摘する③と、近世の注釈書の出典や本歌の指摘の変遷を述べる⑤、定家が秀歌撰にこの能宣の歌を採用し続けていたことを指摘する⑦は、今回追加されたものです。なお、『必携』では、能宣の歌を『古今六帖』の作者未詳歌の異伝という考えを示し、『古今六帖』の歌について「作者は朝夕衛士のたく火を見なれている宮人であろう。宮女であってもよいと思う」と述べていましたが、今回は省かれていました。
今回の岩波文庫では、禁裏の篝火を言う序詞からの続きでは意味の明らかな「燃え」「消え」について、著者は「燃え」については「恋の物思いに燃え」と訳し、「消え」に関しては「心も消え入る」と訳しまして、「意気消沈する」と考えていると見えます。特に解釈と称する解説部分にはその点に触れていません。五句目の「物をこそ思へ」を「思い悩んでいる」と訳していますので、恋の成就がかなわないと思って苦悩する心情の修飾句として「昼は消えつつ」を捉えているようです。
なお、古注釈では、意気消沈の延長上にあるような「気が滅入る」とする説もありますが、その一方に「昼は人目をはばかって恋の思いを隠している」というような説や、「昼は恋の思いが慰められている」というような説もあって、実は解釈は容易に収束しないようであります。おそらく、篝火の昼夜の状態の違いに着目すると、昼間は燃えていないということになりますので、「恋の思いを隠している」とか「慰められている」という見方が生じるのでありましょう。これに対して、恋情は意識ある限り燃え盛るとすると、「消え」を昼間は逢う可能性もないので意気消沈するという恋煩いの方向に解釈していいかと思います。歌を享受する側の恋愛のイメージが反映するので、なかなか面白い点なのです。
前に取り上げた北原白秋の評釈の感想部分に「熱烈な恋の歌である」と断定が入りまして、さぞや白秋の大好きな歌ではないかと推測いたしました。その後に「真に恋する人の偽らぬ声であらう」という文言が付くんですが、不倫の発覚によって逮捕された経験のある白秋の経歴を考えると、断然説得力が感じられます。東京近辺で引越しを繰り返した白秋は、ある時新聞社に勤める男の家の隣に越すんですが、そこには夫婦仲に悩む奥さんがおりまして、白秋はその女性と恋仲となったのであります。亭主が訴え出たために白秋とその女性は逮捕されてしまったそうです。その後、奥さんの離婚が成立すると、白秋は彼女と婚姻関係を結ぶんですが、そう長く連れ添うことなく、残念ながら離婚してしまいます。熱烈な恋だったことは間違いないでしょう。
風をいたみ 岩打つ波の おのれのみ 砕けて物を 思ふころかな
(『百人一首』第48番・源重之)
御垣守 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ 物をこそ思へ
(『百人一首』第49番・大中臣能宣朝臣)
二首の歌で共通するのは、初句から二句目が序詞と言うことなのであります。それぞれ、「風をいたみ岩打つ波の」が「砕けて」を導く序詞、「御垣守衛士のたく火の」が「燃え」「消え」を導く序詞ということになります。もちろん、「おのれのみ砕けて」や「夜は燃え昼は消えつつ」を導いていると考えるのが、もっと正確かも知れません。
ところで、火のないところに煙を立てると、序詞の末尾の「の」をどうするかという問題があります。前にもあったんですが、そこでも指摘したような気がします。この「の」を「~のような」と訳すのが、お約束ですけれども、そんな語法が現代にないのだから、少しおかしいわけです。これは、主格で訳して構わないわけで、そうすると「波が物を思ふ」「火が物を思ふ」となってしまうんですね。こういう解釈が変だというなら、途中に「ような」という比喩の補いを入れるわけなのですけれど、「の」のところではなくて、「砕けてというように」「消えつつというように」とすればいいわけです。こういう解釈は、井上宗雄氏の著書である『百人一首』(有朋堂)が上手なんでありますね。島津忠夫氏『新版百人一首』(角川ソフィア文庫)も同じであります。今回の著書の久保田淳氏の訳もそうなっています。あれ、みんな同じか。
今回の著者も指摘していますが、注釈書を見ておりましたら、気になることが書いてありました。どうやら江戸時代末期の歌人香川景樹の『百首異見』が「此歌六帖には、衛士のたくひのひるはきえ夜はもえつつ、とあり。此集には六帖よりとりて入られたりと見ゆれば、昼夜を打かへたるは撰者のさかしらなるべし」と指摘したらしいのですが、『古今六帖』の第一帖「火」に次のような歌が存在するわけです。
きみがもる ゑじのたくひの ひるはきえ 夜はもえつつ 物をこそ思へ
※初句に「みかきもり」とする異伝もあります。
さかのぼって、江戸時代の初期には契沖が能宣の家集に「みかきもり」の歌が見えないことから、能宣の歌ではないかもしれないと疑義を発していたこともあって、もはや誰もこの歌を能宣の歌だとは思っていないようなのであります。藤原定家が勅撰集から選抜しているのだとしたら、別にこの問題は無視できるわけですが、はたして詞花集の撰集を信用してよいのかということと、ほんとに能宣の歌なのかという問題は、しっかり残るわけです。
桑田明氏の『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』という分厚い注釈書は、作者伝には一切触れていません。解釈に特化した注釈書なのであります。以前扱った北原白秋の作者伝のところには、大中臣能宣が若い時に入道式部卿の宮の子の日の行事に招かれて詠んだ歌が紹介されていますが、その歌にまつわる逸話が面白いのですが、白秋は紙面が小さいので逸話の紹介を断念したことでしょう。尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』や佐佐木信綱の『百人一首講義』は、詳しく伝えています。
その話を、ここでかいつまんで言うと、行事が終わって自宅に戻った若い日の能宣が父の頼基に詠んだ歌が絶賛されたと報告したんですが、父親はちょっと間を置いてから、傍らの枕を手にして能宣をひっぱたいたのであります。お前、将来帝の子の日に招かれたらどんな歌を詠むつもりだ、親王程度の子の日にこんないい歌を詠みやがって、というように叱られたというのであります。枕と言ったって、スポンジの枕や羽枕ではなくて、恐らく函枕と称する固い枕でありますから、殴っている父の頼基には、専門歌人として時と場合を考えない息子に対して殺意すらあったと思います。それくらい出来のいい歌であります。『百人一首』に入れるなら、こっちの方がよかったかもしれないわけです。
拾遺集・巻一・春 24番
入道式部卿のみこの、子の日し侍りける所に 大中臣能宣
千歳まで 限れる松も 今日よりは 君に引かれて よろづ世や経む
なお、『明月記』に記事のある『百人秀歌』を定家の撰集とするものの、『百人一首』については定家撰を疑うという向きもあるんですが、この際私の考えを述べておくと、『百人秀歌』から『百人一首』の歌の入れ替え、配置換えに関しては、定家以外の人が手出しできるようなレベルではないと思います。だいたいにおいて、歌道家の継承意識は高くて、定家ですら俊成のしたことはそのまま受け入れていると思いますので、定家の仕事をちょっとだけ変更して『百人一首』をこしらえることはしにくいと思うのであります。もちろん、盛んに作られた偽書のことなんかを気にするなら、これも偽書ということになるでしょうけれど、そういうことは時が立つと露見するんじゃないでしょうか。
後で出て来る源俊頼の「うかりける」の歌は、『百人秀歌』の「山桜」の歌を差し替えているんですけれども、そんなことができるのは藤原定家自身か、あるいは定家の嗜好を知り尽くしていた後鳥羽院か、その二人以外には考えられません。ちょっと大胆過ぎる変更なんですね。最近、いろいろとネットを検索していたら、『百人一首』は定家撰ではないと旧知の大学教授が発信していたので、気になって言及してみました。それから、余計なことを言ったついでに申し述べますと、『百人秀歌』のほうが怪しいような気がいたします。『明月記』の記事を元にして、ちゃっかり『百人一首』を修正してそれらしく整えることだって、偽書を作るつもりならやれることでしょう。定家真筆の『百人秀歌』や『百人一首』が出て来たら、問題は決着するわけですけれども、出て来たとして「真筆」であることをどうやって証明するのか、証明できるのか、かえって謎が深まったりしそうです。
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