岩波文庫『百人一首』を読む(48) 源重之
48 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ 砕けてものを思ふころ哉 源重之
【訳】風が烈しいので岩を打つ波が自分だけ砕けて、岩のほうはびくともしないように、つれないあの人のために心も千々に砕けて思い悩む今日このごろだなあ。
【出典】詞花集・巻七・恋上・211
冷泉院春宮と申しける時、百首歌たてまつりけるによめる
【解釈の要点】
①詞書の冷泉院は村上天皇の皇子、諱は憲平、冷泉天皇。天暦四年(950)誕生、康保四年(967)践祚、安和二年(969)弟の円融天皇に譲位、寛弘八年(1011)に62歳で世を去った。
②詞書の「百首歌」は、家集『重之集』の巻末に収められている、四季各二十首、恋・恨み各十首で計百首の歌。百首歌として初期の作品である。この歌は恋十首の三首目。帯刀長だった重之が三十日の休暇を賜わるために詠じたもの。なお、帯刀は春宮坊、舎人監の役人、帯刀して皇太子の警護をした。
③初句を「風吹けば」とする他はこの歌と全く同じ歌が西本願寺本『伊勢集』にも載るが、重之の歌が混入したものとみなしてよい。『伊勢集』に別の古歌集が混入した歌群中の一首である。
④「風をいたみ」の「み」は接続助詞、以前は接尾語とされてきた。形容詞の語幹に付き「体言+を+形容詞語幹+み」の形で「……が……なので」と原因・理由を表す。「いた」は形容詞「いたし」の語幹で、甚だしい、ひどい。「風をいたみ」は、風が烈しいのでの意。万葉集・巻十一2736の寄物陳思の歌にも「風をいたみいたぶる波の間なく我が思ふ君は相思ふらむか」(作者未詳)がある。初句・二句が有意の序となっている点、重之の歌に通うものがある。重之の作が古風ということを意味する。
⑤「砕く」という動詞で、恋人を思って乱れる心を表現した歌は、万葉集・巻十一2716の寄物陳思の歌に「高山ゆ出で来る水の岩に触れ砕けてそ思ふ妹に逢はぬ夜は」(作者未詳)があり、古今集・恋一550には「あは雪のたまればかてに砕けつつわが物思ひのしげきころかな」(読人不知)、拾遺集・恋三813には凡河内躬恒の「かの岡に萩刈る男縄をなみねるやねりその砕けてぞ思ふ」がある。また、重之の歌の下句「砕けてものを思ふころ哉」と一致する歌として、曽禰好忠が「山賤のはてに刈り干す麦の穂のくだけてものを思ふころかな」と詠んだが、天禄二年(971)か三年頃に詠まれたという説があるので、重之の歌の方が先行する。『梁塵秘抄』巻二・二句神歌では「山伏の腰に着けたる法螺貝の、丁ど落ち、ていと割れ、砕けて物を思ふ頃かな」と歌われ、この今様は『沙石集』にも引かれた。
⑥下河辺長流の『三奥抄』は大意を記した後に、重之の歌を本歌とした待賢門院堀河の千載集・恋一653「荒磯の岩にくだくる浪なれやつれなき人にかくる心は」を引く。契沖の『改観抄』はそれを踏襲しつつ、「いかにして岩打浪の立かへりくだくとだにも人にしらせん」を引き、「此歌、もし重之よりさきの古歌にて、本歌とせる歟」というが、これは『新千載集』恋一1101「題知らず 読人しらず」の歌で、『古今六帖』の歌と誤認したもの。賀茂真淵の『宇比麻奈備』は、万葉集・巻十2308「雨ふればたきつ山川岩に触れ君が砕けむ心は持たじ」(作者未詳)を引き、「古今六帖に」として「いかにして」の歌を引く。香川景樹の『百首異見』は万葉集の「風をいたみいたぶる波の」を引いて、「……とよめるがごとく、俄に風おこりていと高く打よる波のわれと砕けちる、つよき調にいひくだせるがいみじき也」と称し、『三奥抄』や『改観抄』が「いかにして」や「雨ふれば」の歌を「引そへてくだくの意これらと同じとおもへるは非也」と断じた。
⑦重之のこの歌は独創性に乏しい。休暇申請を目的に速詠した作品群中の一首だから彫琢を経ていない。しかし序詞は、当たっては砕ける男の情熱、盤石のようにつれない女という対照的な関係をよく表している。
⑧重之の歌をかすめた藤原定家の「冬」の題詠に「そなれ松こずゑくだくる雪をれにいはうちやまぬ浪のさびしさ」(拾遺愚草・中)という、三十七歳『御室五十首』の作がある。
【蛇足】
さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は、五句目「ころ哉」の訳が「今日このごろだなあ」とありますが、『必携』ではここが「今日このごろ」となっていて終助詞「かな」の訳が抜けておりましたので、修正のために多少変更があったと言えるでしょう。訳の特徴を考えてみると、初句「風をいたみ」を「風が烈しいので」と理由条件で訳していますが、これは解説通りです。序詞の処理は、有意の序として扱いまして、「波が自分だけくだけて、岩のほうはびくともしない」という訳を比喩として出しています。これによって、「岩」は恋の相手の比喩ですから、「つれないあの人」ということになり、詠作主体がその人の「ために心も千々に砕けて」思い悩むという理解となっています。これによれば「砕ける波」は詠作主体の比喩となるでしょう。ただ、序詞の「風」については比喩とは見ていないようで、そのまま「風」と訳出してあります。
解釈と称する解説部分では、詞書の冷泉院について解説する①、詞書の百首歌がどういうものかを説明する②、『伊勢集』に見えるほぼ同じ表現の歌が、伊勢の歌ではなく重之の歌が混入したことを解説する③は、今回追加されたものですが、特に③は重要な指摘を含んでいます。「風をいたみ」という表現を探る④、「乱れる心」を「砕く」で表現する歌を紹介する⑤は『必携』から受け継がれたものですが、④の「み」の語法は今回の追加ですし、⑤の曽禰好忠の歌と『梁塵秘抄』の歌は『必携』にありますがそれ以外の歌は今回追加されたもので、近世の注釈書が指摘しない類歌が結構あることが分かります。⑥の近世の注釈書が重之の歌の本歌を巡っていろいろ指摘していることを紹介するところは『必携』にはなく、香川景樹が長流や契沖・真淵の指摘を誤りとして、万葉集の「風をいたみいたぶる波の」を挙げている点は面白いと思います。重之のこの歌が独創性には欠けるが、序詞は男女の対照的な関係を巧みに表現するとする⑦、影響を受けた定家の「そなれ松」の歌の紹介をする⑧は、『必携』から受け継がれたものです。
なお、②の話題に出て来る重之の百首歌の『重之集』での経緯説明は、『必携』には次のように出ておりました。「帯刀の長源重之、三十日の日を賜はりて、歌百よみてたてまつらん時はたばんと仰せられければ、たてまつる」とあるので、著者は速詠したことによって彫琢を経ていないと⑦で推測しているわけです。「三十日」は諸本では「つごもり」とありまして、「みそか」と言わないのかと不思議に思いました。
以前取り上げた、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』という注釈書は、従来序詞としてくくられる中で特に検討されてこなかった初句の「風を痛み」という表現に着目して、それが恋の歌のどういう情況に対応するものかを追究していました。桑田明氏は一貫して序詞について、単に特定の詞を導くためだけの機能的なものとする解釈を否定しておりまして、歌の内容に深く関わりのある、いわゆる「有意の序」として位置づけようという傾向がありました。重之の歌についても、その例にもれず、「風を痛み」の諸例を挙げまして、そこに二種類に分けられる意味の違いを見出しました。一つは周囲や親の反対を「風」が比喩しているものでありまして、これらは詞書などによって確認できるわけです。もう一つは、周囲や親と関係なく、恋愛の障害となる例でありまして、これを著者は「恋の病」による、自滅行為を招く本人の激情ではないかと結論付けていました。
なるほどと、一応は納得したのですけれども、源重之の歌の「風をいたみ」の「風」に、著者が分類したもう一方の親とか周囲の反対というのが入っていても、別に差し支えがないのではないかと思うのですが、いかがでございましょうか。さらにはまた、平安時代の事ですから、身分違いの恋ということでもいいのではないかと思うのであります。だとすれば、「風」は世間でもよく、世間を気にする詠作主体の認識でも構わないでしょう。源重之は、陸奥の掾で生涯を終えたようでありまして、だとしたら都人として赴任した先で、地方の女性が靡いてくれないというような悲哀もあったかもしれないのであります。「有意の序」を強調するあまり、比喩的な表現である「風」「岩」「浪」と言ったものを具体化し過ぎると、歌を享受する側の自由度が失われてしまうかもしれません。あくまでも海岸の風に吹かれて岩に砕け散る浪の映像というものを想像し、詠作主体の心情というものをあれこれ想像して楽しんでもかまわないことでしょう。もちろん、この歌に詳細な詞書が存在して、それぞれの比喩が明らかになることもあるでしょうけれど、久保田淳氏が指摘するように、この歌は冷泉院に献上した百首歌の一首で、「恋」の題詠にすぎません。また、逆にこの歌を物語化するなかで、「風」や「岩」や「浪」を面白おかしく具体化したものがあっても、それもまた構わないわけです。桑田明氏も久保田淳氏も、詠作主体を男と見立て、「岩」は女性の比喩だと決めつけていますけれども、例えば「岩」が女の親であるとか、さらには女の夫であるとか、そいう可能性だってあるのではないかと、無用な突っ込みはいくらでも思いつきます。
「砕けて」を導く序詞がどこまでなのか紛らわしいような気がいたします。初句と二句が「砕けて」を導くとする説と、初句から三句目までが「砕けて」を導くとする説があると思います。面白いのは、注釈書が一方を修辞技法の説明で採用しながら、解釈を見るともう一方の説で訳していたりすることで、何とも不思議なことになっております。解決法は簡単で、初句と二句が序詞で、「おのれのみ砕けて」が序詞に導かれた掛詞とみなせばよいのではないでしょうか。要するに「勝手に自分だけ砕け散る」波と「勝手に自分だけ自滅して」悩む私(男または女)が二重化されていると取ればよいだけの話です。この点に関してはいろいろな可能性を考慮してもよさそうです。
以前取り上げた北原白秋も、「動かぬ巌を恋人に、くだける波を自分にたとへたのである」と句意で指摘し、その結果として訳出で「あの人が何とも思つてくれないので」としておりまして、さらに「先方の頑固な冷さ」に言及しておりますので、白秋も久保田淳氏などと同様に、序詞を意味のあるものとして受け止めていることが分かります。こういう、比喩になっている序詞を「有意の序」と呼ぶのかもしれません。ただ、女性を岩に例えていると言われてしまうと、否定するのは難しいのですが、考え過ぎじゃないかと思ったりします。京都の内裏で東宮に献上する百首でありまして、岩打つ波なんて見たこともない宮廷人も多かったと思いますので、序詞はあくまでも、「おのれのみ砕けて」を印象付けるもののような気がいたします。「お前、岩みたいだな」と言われて、さて女性は気分よくこの歌を鑑賞するのでありましょうか。憤慨されそうな気がいたします。
指先を 珈琲カップ 滑り落ち 砕けて物を 思ふ頃かな(粗忽謹製)
この重之の歌は、恋の歌としてはなかなかよくできた歌なんですが、では名歌の誉れが高いかというと、さほどでもない歌であります。どうやら、オリジナリティに欠けるところがあるようで、盗作とまでは言わないのですけれども、似たような歌がすでにあったらしくて、そのことがすでに指摘されています。同じ下の句の歌が複数見つかっておりますから、ひょっとすると誰もがチャレンジするお題が「砕けてものを思ふ頃かな」の正体かも知れません。つまり、歌人の力量を試すために、宮廷人が歌の一部をばらまいて、それに付け句をさせられることがあったようです。枕草子には、藤原公任が出題した「すこし春ある心地こそすれ」に清少納言が即座に応じた話がありますが、私家集を広く探ると、同じお題で詠んだ別人の付け句が出て来るのではないでしょうか。歌人に一斉に出題してみたというなら、似たような歌が出て来るのも、やむを得ないような気がします。伊勢の歌に関しては、どうやら家集に混入があるということで、重之が盗作したという疑いは晴れているようです。
作者の源重之という方は、陸奥の豪族のお婿になっていたようで、非常に羽振りがよかったものですから、平兼盛なんかがこの人の姉妹に目を付けて歌をやりとりしたようであります。平兼盛が体よく断られてがっかりした話が、歌物語か何かにございました。安達ヶ原の鬼婆の話と、ちょっと関連いたしまして、埋もれた歴史が少しあるような風情なのであります。両者に交渉があったわけですから、重之は兼盛とだいたい同時代の人と考えて良さそうであります。兼盛は、国守を歴任して正暦元年(990)に亡くなっております。一方の重之のほうは、やはり国守を務めましたが、太宰府に出かけたり陸奥に出かけたりして長保二年(1000)ころに没したとされているのであります。『拾遺集』巻第九・雑下の559番に兼盛の歌が次のように出ておりまして、両者の間に何らかの深い関係があったことは間違いがありません。
陸奥国名取の郡黒塚という所に重之がいもうとあまたありと聞きて言ひ遣はしける 兼盛
陸奥の 安達の原の 黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか
「鬼」というのは、安達ヶ原の黒塚に鬼婆がいて、若い女性を殺して生き肝を取っていたという、凄惨な伝説に引っかけたものであります。もちろん、鬼どころか、うら若い美しい女性がいると聞いて、お嫁に欲しいと申し出たわけであります。この結果が、『大和物語』58段に出ておりまして、まだ若いからそのうち適当な時に、などといなされまして、さらに歌を一首詠み送って、京都に戻って楽しみに待っていたそうです。ところが、くだんの女性は別の男を夫にして京都に来たそうなのです。噂に聞いた兼盛は抗議するんでありますが、相手の方が一段上手でありまして、二度目に贈った自分の歌を「陸奥土産だよ」と言って突き返されたそうです。その歌は、次の歌なんですが、気持ちは分かるけれど、ちょっと言い過ぎなところがあるような気がいたします。女性に年齢のことをあれこれ言ってはいけないでしょう。
花盛り 過ぎもやすると かはづ泣く 井出の山吹 うしろめたしも
(『大和物語』58段・兼盛)
井出という地名に、陸奥から京都に「出で」という動詞がかけてありまして、ちゃんと保存しておいて返したと言うことは、ひょっとすると兼盛の押しが足りなかったんですね。兼盛が「年増になっちゃうよ」なんてせかすもんですから、次に求愛してきた男性に迎合してしまったんでありましょう。さっさと彼女を盗んで京都に連れて来ればよかったと思います。歌を与えるだけで、行動が伴わないのでは、女性の方は疑心暗鬼になるだけです。兼盛は、ぼんやりとした坊ちゃん気質だったのかもしれません。この女性は、源重之のお父さん、兼信の子供であったらしいのでありますが、ともかく重之の一族は安達ヶ原のあたりで羽振りのいい暮らしをしていたらしいのであります。都の貴族は権門の人を除けば貧乏でありまして、地方の豪族クラスの方が裕福だったと考えるといいでしょう。今でも、田舎の一部は非常に豊かのはずです。
安達ヶ原というのは、今で言うと福島県の二本松のあたり、智恵子抄のふるさと付近というと分かる方がいるでしょう。重之の一族も、兼盛も、都からの侵入者であります。たぶん、賜姓源氏や賜姓平氏というような皇族由来の人々は田舎ではもてたのでありましょう。世が世なら、担がれて帝にだって成れた人たちですから。
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