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北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(100) 順徳院

100 順徳院 百敷や古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり 〔評釈〕内裏の御殿の古くなつて、軒にはしのぶ草が生えるやうになり、皇威の衰へた世であるから、その昔の盛んであつた御代が思ひ出されるにつけても、如何に思つても思ひつくせない程、昔が慕はしいことである。 との御意で後鳥羽上皇の御歌と併せ拝誦すると更に深い感慨が涌く。この御製は続後撰集雑下に「題しらず」として出てゐるが、当時御皇室の御衰微を御歎息の余り、強い歌調に詠ませられた御製で国民の精神に強くひびき渡る事である。 〔句意〕▼百敷や=内裏の事。百の石でかたくせる城といふ義で、古は大宮の冠詞として用ひたが、後は宮城の事として用ひた。▼古き軒端=内裏の御殿の古く衰へた事に言つた。▼しのぶ=古い軒端に成長する垣衣草の事から皇居の衰微を述べ、その草の名を昔を「忍ぶ」心に通はせてある。▼なほあまりある=如何に思つてもなほ飽き足らずといふ事で栄えた昔が思はれるの意。 〔作者伝〕 後鳥羽天皇の第三皇子で、御諱守成と申し奉り、承元四年に御年十四歳で即位、承久三年二十五歳で譲位なされた。承久の乱後佐渡に遷され給ひ仁治三年御年四十六歳にて配所に崩御遊ばされた。天資英邁、学を好ませ、又和歌にも秀で給うた。御撰数種中「八雲御抄」は歌道の宝典として貴ばれ「禁秘抄」は朝家の重宝とせられ、「紫禁和歌集」は天皇の御製集である。「おしなべて民の草葉におく露もめぐみありとや秋風の吹く」などはよく人の知る所である。 〔補記〕 評釈に出典を「続後撰集雑下」とありますが、昭和5年版では「新後撰集雑」となっていましたので、「新」を「続」に改め、「雑」を「雑下」と改めました。なお、「続後撰集」は第十代の勅撰和歌集ですが、「新後撰集」は第十三代の勅撰和歌集です。 句意の三番目「しのぶ」の解説の途中、「皇居の衰微を述べ、その草の名を昔を「忍ぶ」心に通わせてある」とありますが、昭和5年版では「皇居の衰微を述べたか「忍ぶ」心に通わせてある」とあって、何らかの誤植、あるいは文の脱落があったようです。そこで、「たか」を削り、「、その草の名を昔を」と補いました。補うに当っては、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』を参照しました。 作者伝の即位の年号「承元四年」は、昭和5年版では「正治四年」となっていましたので、改めました。承元四年は1210年です。なお、正治年間は、1199...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(99) 後鳥羽院

99 後鳥羽院 人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふ故に物思ふ身は 〔評釈〕多くの人を惜しく思ふものもあれば、恨めしく思ふものもある。皇室の威光が衰へて、天下の政治は心にまかせぬ事ばかりで、そんなことを如何様に思ふとも甲斐のない事ではあるが、いろいろこの世のことを思つて、朕は悶えてゐる。 との御意で心中に燃えるやうな悲憤の涙が流れてゐる御歌である。続後撰集に「題知らず」と題して出てゐる。百首異見に「この歌を詠み給ひしは建暦二年春にて御齢三十三と申し奉る時なり。当時の御製に『うき世厭ふ思ひは年ぞつもりぬるふじの烟の夕ぐれの空』ともながめ給へり。続後撰集に、『夏山のしげみにはえる青つづらくるるや憂世我身一つに』など見えてさしも叡慮をわづらはせ給ひしかの大御代のさまかけまくもかなしきまでくみ知られ奉りぬ」とある。 〔句意〕▼人もをし=人を惜しいといふ義で、愛らしいとの心である。▼人もうらめし=前と反対、悪らしい事。▼あぢきなく=詮がない、言ふ甲斐もないの意。 〔作者伝〕 高倉天皇の第四皇子で御諱尊成と申し奉る。四歳にて即位、在位十五年で譲位し院にて政をとり、北条氏討滅を御企て、失敗し、承久の乱となり遂に三年に隠岐に遷され給うた。延応元年御年六十歳で行宮に崩じ給ふ。帝は聡敏なる上に諸芸に通じ、殊に歌道に長じ譲位後も度々歌合を行はせられ、和歌史上に光彩をそへ給うた。今「奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせむ」又「我こそは新島守りよ隠岐の海のあらき波風こころしてふけ」等を拝誦して当時の大御心の中を拝察して恐懼に堪へない思ひがする。 〔補記〕 評釈の後半、香川景樹の『百首異見』を引用していますが、その引用にある当時の御製の三句目の「つもりぬる」の後に、昭和5年版では読点が付してありましたので、不要と見て削りました。 作者伝の後半に、二首の歌が引用してありますが、「我こそは」の歌は、昭和5年版では」二句目までしか引用がなく三句目以降を省略していましたが、省略にさしたる意味がないと見て、三句目以降を補いました。これは、『増鏡』や『承久記』に出て来る歌です。 〔蛇足〕 この歌についても本来の後鳥羽院の表現に即した訳を、白秋の評釈の解釈から抽出しまして、その解釈の特色を考えてみたいと思うのですが、実はほとんど元の歌の表現を無視しているようですから、直訳的なものから白秋の意...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(98) 藤原家隆

98 従二位家隆 風そよぐ楢の小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける 〔評釈〕楢の葉が涼しく風にそよそよとする夕暮の景色を見てゐると、もうすつかり秋が来たやうな心地がするが、ただかうして御禊をしてゐるのをみるとまだ夏である。 といふ意であつさりした美しい叙景歌である。この歌は新勅撰集夏部に「寛喜元年女御入内の御屏風に」と題して出てゐるが、女御とは後堀河天皇の皇后とならせられ、後、藻壁門院と申し上げたお方である。調子全体がすらすらとして品の高い詠み振りである。 改観抄に「六帖のみそぎするならの小川の川風に祈りぞわたる下に絶えじと。後拾遺集に頼綱、夏山に楢の葉そよぐ夕暮はことしも秋のここちこそすれとあると同じ意で云々」といつてゐる。多分これ等が本歌であらう。 〔句意〕▼風そよぐ=風の楢の葉に吹くとそよそよとして涼しいといふ事。▼ならの小川=山城の葛野郡にある地名。▼みそぎ=俗に名越の祓といつて、六月晦日に人々が川辺に行つて万の罪を祓ふ事をいふ。名越は夏越の義である。 〔作者伝〕 中納言光隆の子で、元久三年宮内卿、文暦二年従二位、嘉禎三年病を得て出家し仏性と称したが、同年八十歳で薨じた。 歌は俊成に就て学び新しい考へを持つてゐた。良経が後鳥羽院の歌の師として薦め「斯の人当世の人麿」であると言上した程である。新古今和歌集の撰者に列し又上皇の隠岐へ還幸後歌を奉つて御心を慰め奉つた。全く当代の大家である。彼の詠歌六万といはれてゐる。その家集に「壬二集」がある。子孫に後継者のないのは惜しい事である。 〔補記〕 評釈で、家隆の歌の詞書を紹介していますが、「新勅撰集」とあるところは、昭和5年版では「新勅撰」と「集」を欠いていましたので、評釈や作者伝にならい「集」を補いました。 評釈の後半、契沖の『百人一首改観抄』によって本歌を引用していますが、一首目の出典が「六帖」とだけあって『古今和歌六帖』のみを示していますが、この歌は『新古今集』恋五1375番として入っています。また二首目の歌は『後拾遺集』夏231番の歌ですが、四句目「ことしも秋の」は、昭和5年版では「ことしの秋の」となっていましたが、最初の「の」は「も」の誤植と見て直しました。 〔蛇足〕 白秋の評釈の解釈を見ていたら、元の歌の「ならの小川」という一番肝心な歌の焦点の地名が抜けておりまして、間の抜けた訳になっております。それか...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(97) 藤原定家

97 権中納言定家 来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ 〔評釈〕待つても来ない人を、今来るか今来るかと待つので、淡路の国の松帆の浦の夕凪の頃、海士の焼く塩の、火に焦るるやうに、我が身も恋ひ焦れて熱い思ひをするが苦しい事である。 との意で恋人を待つ時の心の苦しい様子を歌つたものである。この歌は新勅撰集恋三に「建保六年内裏の歌合に」と題して出てゐるが、本は万葉集巻六にある長歌を印象として詠んだのである。その割に古歌の趣が出て居らぬが、名高い歌人であるだけに、かけ詞や縁語の多い中にまどはず、明らかに考へを現はしてゐる。 〔句意〕▼松帆の浦=淡路の名所、こぬ人を「待つ」と「松」に云ひかけたのである。▼夕なぎ=人を待つ時刻にとつたので夕方風の吹き止むのをいふ。万葉集に夕和とある。▼藻塩=塩の事。藻を刈り集めてそれに塩水を汲みかけ、日に乾かし塩分を濃くし滴つた水を煮て塩を作ること。▼身も焦れつつ=我身の熱い思ひに苦しむのをいつたので、塩の焦れるのにたとへてある。 〔作者伝〕 名歌人五条三位俊成の子で初名は光季といひ次で季光と改め、更に定家と改めた。安貞元年正二位、貞永元年権中納言に任ぜられ帯剣を許されたが、後出家して明静と改め仁治二年八十歳で薨じた。歌道は当代第一で後鳥羽帝は小御所に召して常に和歌を判ぜしめた。新古今集撰者の一人で堀河帝の命によつて新勅撰和歌集をも撰んだ。家集を「拾遺愚草」、日記を「明月記」といひ、其他「詠歌大概」、「未来記」、「桐火桶」等の名著がある。小倉黄門、京極黄門、京極中納言は皆この人の別名である。 〔補記〕 評釈に出て来る「新勅撰集」「万葉集」という歌集の名称が、昭和5年版では「新勅撰」「万葉」とありましたが、句意や作者伝に「万葉集」「新古今集」などとあるので、整合性を考えて「集」を補いました。また作者伝に「新勅撰和歌集」とありますが、それはそのままにしました。 評釈の後半で触れている本歌は、『万葉集』巻六・935番の長歌(936番・937番の反歌二首は省略) 三年丙寅秋九月十五日幸於播磨国印南野時笠朝臣金村作歌一首并短歌 名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名芸尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩焼乍 海末通女 有跡者雖聞 見尓将去 余四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 俳徊 吾者衣恋流 船梶雄名三 名寸隅の ...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(96) 藤原公経

96 入道前大政大臣 花さそふあらしの庭の雪ならでふりゆくものは我身なりけり 〔評釈〕嵐が花を誘つて吹き散らす庭は、恰度雪が降るやうに見えるが、ふるものはその実、あの花の雪ではなくて、段々年をとつて古びて行くわが身である。 といふ意で、落花を見てわが身の老をなげいた歌である。この歌は新勅撰集雑一に「落花を詠み侍りける」と題して出てゐる。比喩などは余り妙ではないがしかし作者の心持は充分うかがはれて誰しも感ずる無常感の程察せられる。 宇比麻奈備にこの歌を評して「契沖はあらしの庭とある向、少し後の連歌めきて聞ゆるにやといへり、実にさることなり。定家卿はかかることをこのみて『山陰や嵐の庭のささ枕』ともよまれしなり」といつてゐる。 〔句意〕▼花さそふ=風の為に花の散るを嵐が花を誘つて行くといつた。▼ふりゆく=古び行くこと。花の雪の「降り」に年の「古り」を言ひかけたのである。 〔作者伝〕 西園寺公経の事で、坊城内大臣実宗の次男で母は中納言基家の娘である。承元の頃左近衛中将蔵人頭となり後貞応元年太政大臣に進んだ。嘉禄年中北山に西園寺を建てたので後この家の称号となつたのでこの人は家祖である。宏壮な事は当時比べものがなかつたといふ。公経は寛喜三年出家して法名を覚空といつたが時人は北山殿とも称した。寛元二年七十四歳で薨去した。 〔補記〕 特に誤植と思われるようなものは見当たりませんでした。 評釈の最後に引用されている定家卿の歌は、定家の家集『拾遺愚草』中・「権大納言家三十首」2080番に出て来る歌で、元仁二年(1225)藤原基家が主催した催しに提供したもののようです。全体を示すと、次のような歌です。「臥し待ち」は、「月の出が遅いので寝て待つ月」の意ですが、陰暦19日、特に陰暦8月19日の夜の月。「寝待ちの月」とも言います。 山陰や 嵐の庵の 笹枕 臥し待ち過ぎて 月も問ひ来ず(藤原定家) 作者伝の中に出て来る北山の西園寺は、現代の鹿苑寺ですが、南北朝時代に西園寺家が没落し、足利義満が河内国と交換して所有したものです。正式名称は北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)ですが、それよりも金閣寺として知られています。 〔蛇足〕 上三句を簡単に言えば「花吹雪」ということなのであります。白秋が句意の所でも解説していますけれども、西園寺公経の上の句は語順を巧妙に入れ替えていますから、普通に理解しよう...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(95) 慈円

95 前大僧正慈円 おほけなくうき世の民に蔽ふかな我立つ杣に墨染の袖 〔評釈〕私は天台宗の本山、比叡山延暦寺に住んで、この狭い墨染の袖で世の中の人達を蔽つて、多くの人々が安全であるやうに祈祷してゐるのであるが、何分にも法徳のつたない愚僧の身分であるから、まことにその重任に堪へかねる事である。 との意である。大きな慈悲心を歌つたところは僧侶として当然のやうであるが、その精神は実に尊いものである。この歌は千載集雑中に「題しらず」として出てゐるが、後撰集春中読人知らずの歌に「大空をおほふばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ」とあるのに印象を受けたのであらう。 〔句意〕▼おほけなく=負け気、大気なくで勿体ない、又身分不相応の意。▼うき世の民=世の中の民の意。▼おほふかな=袖を蔽ひかけることで民の憂ひを救ふ事。法華経の「以法衣覆之」から出たのである。▼我が立つ杣=比叡山の事。開祖伝教大師の歌「阿耨多羅三藐三菩提のほとけたち我立杣に冥加あらせ給へ」から出たのである。▼墨染の袖=僧衣の事、「墨」は「住」といひかけたのである。 〔作者伝〕 法性寺入道関白忠通公の子。延暦寺の座主覚快法親王の弟子となり養和元年に慈円といつた。又吉水和尚とも云はれた。建暦二年に権僧正となり、後四度比叡山の座主となり、嘉禄元年七十一歳で入寂した。高貴の家柄に生れ乍ら常に賎民を思ひ憐んだ。学を好み歌も巧みで、後鳥羽上皇は「慈円僧正歌は大やう西行法師が風体なり。すぐれたる歌いづれの上手にもおとらねど、かくめづらしきさまを好まれたり」と仰せられた程である。 〔補記〕 いろいろと問題が多く、校正が間に合っていないという問題の外に、原稿の作成とそのチェックが十分機能していなかったことが想像されまして、気の毒な感じがいたします。 評釈のところに、影響を与えた歌として「大空を」の歌が引用されていますが、昭和5年版ではこの歌を「伝教大師の歌」と説明していました。まったくの誤りですから、「後撰集春中読人しらず」と差し替えました。 句意のところ、三句目を引用して「おほふかな」とありますが、昭和5年版では「あほふかな」とありましたので、「あ」を「お」に直しました。なお、その後に法華経の一節「以法衣覆之」が引用されていますが、そこには返り点が付してありました。縦書きを前提にした表記なので、横書きに馴染まないとして省略しましたが...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(94) 藤原雅経

94 参議雅経 みよし野の山の秋風小夜更けてふるさと寒く衣うつなり 〔評釈〕吉野の山の秋風がさやりさやりと寂しく吹いて、夜も更け、四辺も静かになつたが、この旧都であつた吉野の里人の夜寒をわびて衣を打つ音が、身にしみじみと聞えて来る。 といふ意である。昔は吉野には吉野離宮といつて皇居のあつた所で、帝の行幸も時々あつたが、今はさびれて行幸もなくなつてしまつたから故郷といつて詠んだのである。この歌は新古今集秋下に「擣衣のこころを」と題して出てゐるが一説に坂上是則の「みよし野の山の白雪積るらし故郷寒くなりまさるなり」といふのを本歌としたのであらうといはれてゐる。とにかくよい歌である。 〔句意〕▼みよし野=「み」はそへた語。▼小夜更けて=夜が更けての意。宵の間は陽気が残つてゐるが、夜が更けるにつれて淋しさの増すを言つた。▼ふるさと=吉野は昔離宮のあつた所であるから古い都の意。▼衣うつ=布の織物を肌ざはりよく又丈夫にするために水にぬらして打つ事をいふ。 〔作者伝〕 刑部卿藤原頼経朝臣の子で建永の頃越前加賀介となり左近衛少将を経て、承久二年従三位参議に進んだが、同三年に薨じた。雅経は歌が巧みで、新古今集の撰者五人中の一人に挙げられ、その家を飛鳥井家と称して世に知られた。俊成の門人であつたが自ら一派を立てたのである。又蹴鞠も巧みで兄宗長と共にその名をかがやかしたものである。 〔補記〕 特に誤植のようなものは見当たりませんでしたが、評釈に本歌として引用している歌の作者は「坂上是則」ですが、昭和5年版はこれを「紀友則」と誤っていましたので、訂正しました。坂上是則は、『百人一首』31番「あさぼらけ有明の月と」の作者です。ちなみに紀友則は、『百人一首』33番「ひさかたの光のどけき」の作者です。白秋が粉本とすることの多い佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』は、まったく本歌に触れていませんので、白秋は他の資料をもとに本歌に言及したようですが、作者名を間違えるという痛恨のミスを犯してしまったようです。というか、出版した側の編集がひどいと思います。 雅経は承久三年(1221)の三月に52歳で亡くなったようですが、五月に承久の乱が勃発し、七月には後鳥羽上皇が隠岐に流されています。なお、雅経の妻は、鎌倉幕府を支えた大江広元の娘で、和歌や蹴鞠で雅経の後を継いだ子供は、広元の孫という関係...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(93) 源実朝

93 鎌倉右大臣 世の中は常にもがもな渚こぐ海士の小舟の綱手かなしも 〔評釈〕浜辺を漕いで居るあの海士の小舟の、綱手を引く様子はまことに何ともいへぬ面白い景色であるが、世の中はいつまでも変らずに生きられて光明だとよいがなあ。 といふ意で世の無常感が人間の奥深いところから呼び叫ばれてゐる歌である。この歌は新勅撰集羈旅の部に「題しらず」として出てゐるが、健実に古い調べをとつた歌ひ方で、技巧に苦心した新古今集時代の中に異彩を放つ素朴さを見せてゐる。さすが名歌人実朝の歌であると思はれる。 〔句意〕▼常にもがもな=「常」は永久不変の意。「がも」は「がな」に同じで願の意。「な」は歎辞、万葉には冀の字があててある。ここは即ち長く生きて居て度々此処へ来て遊びたいなの意である。▼綱手=舟につけて引く綱の事。▼かなしも=面白いとほめて哀れを感ずる意で、「も」は歎辞。万葉では𪫧怜と書いてある。 〔作者伝〕 頼朝の二男実朝の事で、母は尼将軍政子、幼名千幡と云つた。建仁三年十二歳で従五位下征夷大将軍となり、承久元年右大臣拝賀の礼を鶴岡八幡宮に行つた時兄頼家の子公暁に暗殺されて世を終つた。時年二十八歳。資性温雅で文学の嗜み深く殊に歌道は定家を師として学び優れた歌人となつた。その家集は金槐集といつて名高い。彼は北条を悪み皇室を敬つたことは「山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心我あらめやも」と詠んだ古今の名歌を以ても察せられる。 〔補記〕 特に誤植と思われるようなところはありませんでした。 句意の末尾「歎辞」のあとに、句点を補いました。 作者伝の右大臣拝賀の礼は正月で、このときは建保七年でした。その後四月に改元されて承久元年となりました。西暦では1219年のことです。 〔蛇足〕 白秋の評釈の訳から、実朝の歌の表現に即したところを抽出して、その特色を探ってみたいと思います。まず、二句切れの歌ですが、特に倒置というわけではありませんが、白秋は、初句・二句の部分を後に回しています。 浜辺を漕いで居る海士の小舟の、綱手を引く様子は面白いが、世の中は変らないとよいなあ。 三句目以下の光景を実朝は「かなしも」と表現しましたが、これを「面白い」と白秋は訳出し、軽い逆接の「が」を補って、初句・二句の願望表現につなげています。白秋は、句意の解説のところで、この初句・二句の「世の中は変らないとよいなあ」という感慨...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(92) 二条院讃岐

92 二条院讃岐 わが袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし 〔評釈〕恋人のつれなさを独り忍んで悲しんでゐる私の袖は、恰度汐干の時も現はれない沖の石のやうに、人には少しも知れないが、涙で乾く間とてはない。 といふ意で、片恋に悩んでゐる女心の悲しさを水中に没してゐて人目にあらはれない岩にたとへた歌である。調子もしつくりしてゐるが、極めて鮮明な比喩が却つて非凡と見られよう。千載集恋二に「寄石恋といへる心を」と題して出てゐる。この歌が当時有名で作者を沖の石讃岐といつた程である。 〔句意〕▼汐干=ひき汐の事。▼沖の石=沖に在る石の濡れ隠れて人に知れないのと、自分の涙に袖が濡れて乾く間のないのを先方が知らぬとに通はせたのである。 百首異見に「若狭国遠敷郡矢代浦から、七八町ばかり沖なる海底に大石あり、昔より沖の石といひて、尤も舟人の舟腹をかかれん事をおそれて漕ぎさくるわたり、今も土人沖の石と常に言ひなれたり(中略)、作者これを言へるならん云々」とある。 〔作者伝〕 讃岐は二条院に仕へた官女で、源三位頼政の女である。父が歌を好くしたのでその才をうけこの道に巧みであつた。有名な式子内親王と共に雅経や家隆に比した程で誉が高かつたのである。 二条院は後白河院第一皇子で御母は大炊御門大納言経実の女である。御諱は守仁と申上ぐ。 〔補記〕 句意に『百首異見』が引用されていまして、引用の冒頭近くに「矢代浦」とありますが、昭和5年版では「八代浦」とありました。「八」は「矢」の誤りと見て直しました。若狭国遠敷郡域は、現在福井県小浜市に吸収されましたが、地図で「矢代海水浴場」「矢代漁港」「矢代崎」など確認できます。 なお、「沖の石」を普通名詞と捉える見方がある一方で、固有名詞と見てその所在地について、ひとつは香川景樹『百首異見』にあるように若狭国遠敷郡の矢代浦の沖合の海底の大石を考えるようです。この地は、讃岐の父頼政が宮中で禽獣を射た褒美として与えられた地で、讃岐にもなじみがあったとするのが香川景樹の見立てです。『奥の細道』には、多賀城付近にある沖の石を訪ねる場面がありますが、この沖の石は末の松山からほど近いところで、伊達家が江戸時代初期に領内整備の一環として、沖の石を定めたらしいとされています。 作者伝にいくつか誤りがありました。 まず「式子内親王」が、昭和5年版では「式部内親王」とあり...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(91) 藤原良経

91 後京極摂政前太政大臣 きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣片しき一人かも寝む 〔評釈〕今夜のやうな、きりぎりすが鳴いて寒い霜の降る晩に、冷たさうな蓆の上に帯も解かず着物を片方敷いて独寝をする事かなあ、さてもわびしい事である。 との意で、秋の末になるときりぎりすが床の下へ来て鳴くものであるが、その心淋しい然も寒い夜の一人寝を悲しんだ歌である。この歌は新古今集秋下に「百首の歌奉りし時」と題して出てゐる。調子は飾り気が少く古風味のある歌ひ方で全体よく引しまつてゐる。 〔句意〕▼なくや=「や」はただ鳴くと言ふ意に加へた歎声である。夕づく日さすや岡べ等の類。▼さむしろ=蓆の事、「さ」は付辞でただ蓆の事を霜夜とあるから、寒いといふ連想のために「さ」と添へ用ひたのである。▼衣片しき=丸寝の事、即ち衣を着換へず独寝する事で、丸寝の時は一方の衣を下に敷くから言つたのである。▼かも寝む=寝るのかなあの意で、「か」は疑、「も」は詠歎の辞である。 〔作者伝〕 藤原良経の事で、後法性寺兼実公の子で祖父は法性寺忠通である。建久六年内大臣に、元久元年従一位太政大臣に進んだ。非常に博学多才で諸芸にも通じ、殊に書と歌道に秀でてゐた。後鳥羽上皇は常に歌道に於て良経を重んじ給うた。建久元年土御門天皇が彼の邸に行幸の事があつたが、公はその準備に忙殺された。或夜何物かの為に天井から槍にて刺されて死んだ。しかし賊は不明に終つた。彼は新古今集撰の監督をして歌道の功績も多い。その家集は「月清集」といふ。 〔補記〕 特に修正の必要なところはありませんでした。 句意の「衣片しき」の解説に、「丸寝」とありますが、これは「まろね・まるね」と読み、着衣のまま寝ることで、「丸臥」(まろぶし・まるぶし)とも言ったようです。現代では「ごろ寝」に相当するものかと思います。同義語には、「着所寝」(きどころね)「居所寝」(いどころね)や「うたたね」があります。 〔蛇足〕 白秋の評釈では、「調子は飾り気が少く古風味のある歌ひ方で全体よく引しまつてゐる」とほめていまして、詠みぶりが古風で、内容がすっきりと理解できるところを、引き締まっていると考えたようです。佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』では、この良経の歌と下の句が一緒の『万葉集』の歌を引用して、作者がその古歌を知っていたのか知らなかったのかという、古注釈の論争...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(90)  殷富門院大輔

90 殷富門院大輔 見せばやな雄島の蜑の袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず 〔評釈〕いつも海の水に濡れてゐる松島の雄島の漁夫の袖でさへ色が変らないのに、自分の袖は苦しい恋ゆゑに涙でぬらす、こんなにも色が染つてしまつた。このやうに涙で色の変つた袖を是非あのつれない人に見せて上げたいものだ。 といふ意で尽きぬ恨みが歌つてある。この歌は千載集恋四に「歌合し侍りける時恋の歌として詠める」として出てゐるが、後拾遺集に「松島や雄島が磯にあさりせし蜒の袖こそかくは濡れしか」といふ歌が作者に印象を与へてゐるのであらう。やや誇張にすぐる感があつて却つて同情をそぐのは惜しい。やはり此頃の歌風の一である。 〔句意〕▼見せばやな=見せたいものだの意で「ばや」は願ふ意。「な」は感歎の辞。▼雄島=陸前の松島地方の雄島の磯の事。▼濡れにぞ濡れし=濡れた上に濡れたとの意。▼色はかはらず=漁夫の袖はいくら海水に濡れても色は変らぬが、自分の袖は血の涙に赤く染つたとの意。 〔作者伝〕 殷富門院は御名亮子と申し、後白河帝の第一皇女で式子内親王の姉君である。安徳、後鳥羽の両帝の准母におはしまして、順徳帝の御養母とならせられ文治三年門院の号を奉られたお方である。大輔はこの門院に仕へた女官の事で、祖父は後白河院の判官代行憲で、父は従五位下信成である。信成に二人の女があつて姉は殷富門院の播磨といひ妹は殷富門院大輔といつたのである。 〔補記〕 句意の最初に出て来る「見せばやな」の解説の「見せたいものだ」の部分が、昭和5年版では「見てたいものだ」とありました。「見て」は「見せ」の誤植と考えて直しました。 作者伝のところに殷富門院亮子の妹として「式子内親王」の名が挙がっていますが、昭和5年版では「成子内親王」となっていましたので、「成」は「式」の誤植と見て直しました。なお、亮子内親王や式子内親王の母の名は「成子」です。 ちなみに、殷富門院が安徳天皇や後鳥羽天皇などの准母だったというのは史実ですが、これは天皇になる予定の皇子の実母が亡くなっている場合などに、他の后が母として指名されたことを言うようです。順徳天皇に関しても、殷富門院が准母を務めましたが、実ははじめ式子内親王が予定されていたものの、彼女の逝去によって、姉の殷富門院が順徳天皇の准母の代役を引き受けたということです。 〔蛇足〕 白秋の評釈では「やや誇張にすぐる感...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を詠む(89) 式子内親王

89 式子内親王 玉の緒よ絶なば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする 〔評釈〕我が命よ、絶えるならば早く絶えた方がよい。かうしてこのまま生き長らへてゐると、遂には人目を忍ぶ心が弱つて、つつむ思ひが世間に知れて、浮名を流すやうな事になるかもしれぬ。いつそ今の中に死んだ方がよい。 との意で、か弱い優しい女心がよく一首の中に現はれてゐる。新古今集恋一に「百首の歌の中に忍恋の心を」と題して出てゐる。調子の上に縁語を巧みに用ひた事もやはり当代の歌風から来たものであらう。かなり内容に於ても熱情を見せて、恋を一すぢに危んでゐる苦しさがこもつてゐる。 〔句意〕▼玉の緒=「玉」は「魂」で、「緒」は連ねる意。即ち生命の事。▼絶えなば絶えね=死ぬならいつそ早く死ねの意。絶えるは命の絶えることで堪へではない。絶えなば、ながらへば、よはり、などは皆緒に縁のある語である。▼忍ぶること=忍耐すること、即ち恋を包んで忍ぶこと。▼弱りもぞする=かも知れぬ、もしやと危ぶむ事。 〔作者伝〕 後白河帝の第三皇女で、御母は大納言季成の女従三位成子である。平治元年賀茂の斎宮にお立ちになり准三宮のお位におなりになつた。建久三年御出家なされ、承如法と申上げた。大炊御門の斎院、萱の斎院、高倉宮と申すは皆この内親王の御事である。和歌が巧みな上に画も上手であつた。定家との恋が深くてこの歌を送つた説もあり、謡曲にまで作られてゐるがそれは無条件で信じられない。 〔補記〕 和歌の二句目「絶えなば絶えね」のところで、昭和5年版は「ば」が清音の「は」になっていましたので、改めました。歴史的仮名遣いでは清濁の区別がありませんので、問題になりませんが、近代においては、清濁を区別しますので、仮定条件の「ば」として整えました。 例によって、作者伝にいくつかの問題がありました。 まず、後白河帝の「第三皇女」という部分は、昭和5年版では「第二皇女」とありますが、式子内親王には同母の姉が二人(亮子内親王・好子内親王)知られていますので、「二」を「三」と改めました。 次に、「御母は大納言季成の女従三位成子である」という母に関する記述ですが、昭和5年版ではここが「御母は従三位成子の子である」となっていて、まるで成子が式子内親王の祖母のように読めますが、成子は母で、成子の父が大納言藤原季成です。成子は後白河帝の女官で寵愛の女性でしたが、正式の妃...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(88)  皇嘉門院別当

88 皇嘉門院別当 難波江のあしのかりねの一夜故身をつくしてやこひわたるべき 〔評釈〕難波あたりで旅の仮寝に一度逢つたばかりなのに、命のある限り、恋しい思ひをして恋い焦れて暮さねばならない事かなあ、一寸の契りだのにあの人を忘られさうもない。 といふ意で、恋の深秘を一は驚き一は悲しんだ心持が歌はれてある。旅宿で一晩逢つただけで再び逢はれさうもない恋に心を悩ます因果を思ふ心が察せられる。この歌は千載集恋三に「摂政右大臣の時、家の歌合に、旅宿逢恋といへる心を詠める」と題して出てゐる。中味よりも調子に巧みさがあるが、これは時代の歌風で、読者の注意すべき点であらう。 〔句意〕▼難波江の蘆のかりね=難波には蘆があるから、その刈たる根といふことを「仮寝」に通はせ、一夜の序としたのである。▼一夜=一夜を一節にかけた詞。▼身をつくしてや=死ぬるまで、生命のある限りの意。命をすててでも恋ふといふのでなく一生の意である。 〔作者伝〕 皇嘉門院は関白忠通の女聖子の子で母は大納言宗通の女である。崇徳帝の皇后となり、久安六年門院の号を奉られた。その別当であるから、太皇太后亮、俊隆の女であるといつてゐるがその本名は分明でない。 〔補記〕 句意の二番目に出て来る「一夜」は、昭和5年版では「もと夜」となっていましたが、おそらく「ひと夜」の誤植だろうと思いましたので、和歌の表記に合わせました。昭和5年版は、和歌の漢字部分には読み仮名が付いていたので、「ひと夜」とあれば和歌の三句目の語句を指すことは明らかだったろうと思います。 〔蛇足〕 一つ前の寂連の歌に対する評価と比べ、この歌に対する評価が低いと言うところに、白秋の昭和初期の心境というものが現われているような気がいたします。「中味よりも調子に巧みさがあるが、これは時代の歌風で、読者の注意すべき点であらう」というアドバイスは、平安末期の詠みぶりは技巧が勝っているだけで、胸を打つような感興がないから、ほどほどに享受してねと教えているのかもしれません。それでも、詠み古されてきた難波の蘆というような素材で、修辞を駆使してちゃんと意味の通った歌を作り、そこに多少なりとも純情な気持ちを表現したのは、大手柄なのであります。藤原定家の歌論を見ますと、言葉は三代集の範囲を守り、それでも趣向は新しいものを模索しなさいというのですから、そう言った方向に非常に合致した詠みぶ...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(87) 寂蓮法師

87 寂蓮法師 村雨の露もまだ干ぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮 〔評釈〕一頻り降つて往つた村雨に、濡れた槙の葉の露もまだ乾かないうちに、もうその辺には霧がほの白く立ち上つて、秋の夕暮の景色は寂しい事である。 との意でたださへ淋しい奥山に晴れたり曇つたり定らぬ秋の夕暮の一入の淋しいしめやかさがしみじみと味はれる歌である。この歌は古今集秋下に「五十首の歌奉りける時」と題して出てゐるが、百人一首中の秀歌として数へることが出来よう。 新古今集に「淋しさはその色としもなかりけり槙立山の秋の夕暮」寂蓮。「心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ沢の秋の夕ぐれ」西行。「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」定家。を「三夕の歌」として有名で、更に「村雨」を加へ四夕の歌として知られてゐる。 〔句意〕▼村雨=一しきり降つて過ぎ行く雨。▼まだ干ぬ=まだ乾かぬの意。▼まきの葉=木を褒めて言うたので、古は檜をさした。ここは奥山の常緑樹をさしたのである。 〔作者伝〕 俗名定長で、俊成の弟醍醐阿闍梨の子である。初め俊成の養子となり、従五位下左中弁中務少輔になつた。後俊成の実子定家が生れた為、自分は出家して寂蓮と改めた。才智もあり、歌才にも富んでゐた。有名な顕昭法橋寂蓮を「和歌は易きものなり寂蓮尚ほよくせり」と評すると、寂蓮は「和歌は天下の至難なものなり顕昭の博学猶これを善くせず」といつた話は有名である。定家の著「明月記」に寂蓮の死を惜んだ言葉がある。よい歌人であつた。 〔補記〕 今回も、いくつか問題の箇所がありました。 評釈に「三夕の歌」が引用されていますが、寂連の歌の三句目「なかりけり」は、昭和5年版では「なかりける」となっていましたので、「る」を「り」に改めました。 評釈の末尾、三首の歌を引用した直後、「『三夕の歌』として有名で」とありますが、昭和5年版ではなぜか『三夕の話』と誤っていましたので、「話」を「歌」に直しました。ちなみに、「四夕の歌」の説明がどれくらい根拠のある話なのか確認できませんでした。寂連の歌を二首ふくむ「四夕の歌」という発想はやや妥当性を欠くような気がいたします。なお、「三夕の歌」にはバリエーションがあり、「村雨の」の歌を入れた三夕の歌もあったようです。また、『百人一首』70番良暹法師の「さびしさに」を含む三夕の歌も存在します。 作者伝のはじめのところに、寂連の実父...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(86) 西行法師

86 西行法師 なげけとて月やは物を思はするかこち顔なる我が涙かな 〔評釈〕人々に物思ひを強ひるやうに、大空の月は輝いてゐるのだらうか、いやさうではないのだ。自分の心に物思ひがあると、空を見てさへ何となう悲しくなつて涙を流すのである。それを月の為に歎くもののやうに、かこつけがましくこんなにも涙がこぼれて来る。 といふ意で月に対して恋人がしのばれ自然に出る涙を月の為に流すやうにかこつけがましく歌つたのはよく考へたものである。恋するものの哀傷の傷が巧みに詠まれてゐる。西行は自然のままを歌ふのが特徴であるが、この歌はむしろ彼の特徴でなく、その頃の時代の風に従つた詠み方である。「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」などは自然そのままである。 〔句意〕▼月やは物を思はする=月が物思ひをさすのであらうかいやさうではないの意で、「や」は反語。▼かこち顔=かこつけの約で、かこつけがましい様子。即ち涙が月のために流れるやうに月に罪を負はせ顔といふ意。 〔作者伝〕 俗名佐藤義清といつて秀郷九代の孫、左衛門尉康清の子である。武勇の名ある家に生れた彼は鳥羽上皇に仕へて北面の武士となり、兵法にも通じてゐた。又和歌に秀で上皇の神愛を蒙つたが、遁世の念を抱いて保延六年には出家して円位と改め更に西行と改めた。時に二十三歳。一箇の杖、一箇の笠とによつて諸国を行脚し、風景に接しては歌を詠んだ。逸話も多く、釈迦の入滅日に世を終らうと願つて建久元年二月七十三歳で入寂した。山家集は彼の家集である。 〔補記〕 作者伝に問題がありますが、今回はすべて微妙なものです。 まず、「秀郷九代の孫、左衛門尉康清の子」は、昭和5年版では句点がなく「秀郷九代の孫左衛門尉康清の子」となっていましたが、どうやら西行は秀郷を初代とすると九代目に当り、父の康清が八代目に当たるようです。よって、句点を打ちました。 次に、「彼は鳥羽上皇に仕へて」の部分は、昭和5年版では「彼は後鳥羽上皇に仕へて」とありましたので、「後」を誤りと見て省きました。「後」を「のち」とするなら、これを「後に」などとしても意味は通じるかと思います。西行は鳥羽院の北面の武士でした。 作者伝の最後のところ、西行の没年「建久元年」ですが、実は正確には不明のようですが、「願はくば花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と若い時に詠んだ歌のごとく亡くなったとされ...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(85) 俊恵法師

85 俊恵法師 夜もすがら物思ふ頃は明けやらで閨のひまさへつれなかりけり 〔評釈〕つれない人を思ひ恨んで、終夜物思ひに沈んでゐると、少しも眠られないので、早く夜が明けてくれればよいにと夜明けを待つても、更に明ける様子もなく、閨の板戸の隙間も少しも白んで来ない。閨の隙間でさへ私につれなくあたる。さてもなさけない事だ。 といふ意で、ある女に代つて男の薄情を恨んだ歌である。 千載集恋二に「恋の歌とて詠める」と題して出てゐるが、後拾遺集の「冬の夜はいくたびばかり覚寝して物思ふ宿の隙しらむらん」とあるのを本として詠まれたといはれてゐる。 〔句意〕▼夜もすがら=終夜。▼明けやらで=夜が明けずにの意。▼物思ふ頃=つれない人を思ひ煩ふこと。▼閨の隙=寝室の板戸の隙の事。 〔作者伝〕 大納言経信の孫で、俊頼朝臣の子である。歌人としては名高く、鴨長明はその弟子にあたる。歌論を好み批評の言葉は比喩が巧妙で権威を持つてゐた。いはば作歌といふよりも歌学者といふ方がいいかも知れぬ。俊恵の歌論を知る著書には鴨長明の「無名抄」がある。歌では「みよし野の山かき曇り雪降れば麓の里はうちしぐれつつ」。「立田山梢まばらなるままにふかくも鹿のそよぐなるかな」などは秀作である。 〔補記〕 和歌の三句目の「明けやらで」は、出典となった『千載集』や『百人一首』の古写本では「明けやらぬ」となっていて、どちらがいいのかという議論が古くからあったようです。ここは、昭和5年版のままといたしました。 評釈のところで、俊恵の歌の本歌として挙げられているのは、『後拾遺集』巻第六・冬(392番)の「題知らず」として出て来る増基の歌ですが、昭和5年版は出典を『拾遺集』とありましたので、「後」の字を補って修正しました。 いつもながら、作者伝に問題があります。 まず、「俊恵の歌論を知る著書には鴨長明の『無名抄』がある」の部分は、昭和5年版では実は「著書には『無名抄』がある」となっていて、単純な誤りというよりは、原稿段階から問題があり、それが校正をすり抜けているような印象です。おそらく、白秋は誰か他に人間に作者伝の作成を依頼したのでしょうけれども、依頼された者が、意図的に誤りを混入させて著作の品位を汚しているように見えます。 次に、作者伝の末尾に紹介されている二首の和歌の内、一首めの歌の三句目「雪降れば」は、昭和5年版では「雨降れば」と...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(84) 藤原清輔

84 藤原清輔朝臣 ながらへば又此の頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき 〔評釈〕以前に辛い世だと思つて暮らした時も、今になつて顧みれば慕はしく思はれる。かうして今憂い世だと思つて居るが、まだまだ生き長らへてゐたならば、後には今日の辛いこともなつかしく思はれる事であらう。 との意である。この歌は新古今集雑下に「題しらず」とあるが、当時保元平治の乱の頃であるから作者はこんな歌をよんで世のあさましい様子を歎いたのであらう。少し理窟めいて居るけれど、真面目な真実味のある点にこの歌の特徴があらう。 〔句意〕▼ながらへば=この世に生き長らへたならの意。▼又此頃やしのばれん=過去が今日慕はしく思ふやうに、又憂い世だと思ふ此頃も恋しく懐かしまれようの意。▼「しのぶ」は思ひ出すこと。 〔作者伝〕 左京大夫顕輔の子で、堀川鳥羽崇徳の三代に仕へ、正四位下太皇太后大進兼長門守であつた。歌人としての聞えが高く「続詞花集」を撰んだのも彼で、常に歌道の研究につとめた。又万葉集を好み、作歌を志す人にはまづ万葉の研究をすすめたといふ。晩年長寿の人を集め、尚歯会を作つて歌を詠んだ事もある。歌論に関する著書も多く、奥義抄、初学抄、一字抄、袋草紙、今撰抄等がある。時人に西行、俊成等と並び称へられた。 〔補記〕 作者伝には、今回もいくつか問題があります。 まず、作者伝冒頭の「左京大夫」ですが、昭和5年版では「左」が欠けて「京大夫」となっていましたので、脱字を補いました。 次に、清輔の官職を記した部分の「正四位下」ですが、昭和5年版では「官正四位下」とありまして、こちらは「官」の字が余計についておりましたので、削りました。 さらに、清輔の著作を紹介した中の「袋草子」は、昭和5年版では「袋原子」となっていましたので、単純な誤植と見て「原」を「草」に改めました。 また、作者伝の中に「続詞花集」が出てきますが、この集に関しては、粉本である佐佐木信綱『百人一首講義』が記しているように、次に示すような説明が必要ではないかと思います。 勅錠によりて、続詞花集を撰ぜられけれど、其書奏覧を経ずして、帝崩じ給ひしかば、今の二十一代の勅撰集の中に数へられず。 〔蛇足〕 三句切れの歌ですが、特に倒置法の歌ではないと見えますが、白秋は上の句と下の句をひっくり返して訳出しております。上三句が将来の心境を推測している内容で、下二句が...