北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(99) 後鳥羽院

99 後鳥羽院


人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふ故に物思ふ身は


〔評釈〕多くの人を惜しく思ふものもあれば、恨めしく思ふものもある。皇室の威光が衰へて、天下の政治は心にまかせぬ事ばかりで、そんなことを如何様に思ふとも甲斐のない事ではあるが、いろいろこの世のことを思つて、朕は悶えてゐる。

との御意で心中に燃えるやうな悲憤の涙が流れてゐる御歌である。続後撰集に「題知らず」と題して出てゐる。百首異見に「この歌を詠み給ひしは建暦二年春にて御齢三十三と申し奉る時なり。当時の御製に『うき世厭ふ思ひは年ぞつもりぬるふじの烟の夕ぐれの空』ともながめ給へり。続後撰集に、『夏山のしげみにはえる青つづらくるるや憂世我身一つに』など見えてさしも叡慮をわづらはせ給ひしかの大御代のさまかけまくもかなしきまでくみ知られ奉りぬ」とある。


〔句意〕▼人もをし=人を惜しいといふ義で、愛らしいとの心である。▼人もうらめし=前と反対、悪らしい事。▼あぢきなく=詮がない、言ふ甲斐もないの意。


〔作者伝〕

高倉天皇の第四皇子で御諱尊成と申し奉る。四歳にて即位、在位十五年で譲位し院にて政をとり、北条氏討滅を御企て、失敗し、承久の乱となり遂に三年に隠岐に遷され給うた。延応元年御年六十歳で行宮に崩じ給ふ。帝は聡敏なる上に諸芸に通じ、殊に歌道に長じ譲位後も度々歌合を行はせられ、和歌史上に光彩をそへ給うた。今「奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせむ」又「我こそは新島守りよ隠岐の海のあらき波風こころしてふけ」等を拝誦して当時の大御心の中を拝察して恐懼に堪へない思ひがする。


〔補記〕

評釈の後半、香川景樹の『百首異見』を引用していますが、その引用にある当時の御製の三句目の「つもりぬる」の後に、昭和5年版では読点が付してありましたので、不要と見て削りました。


作者伝の後半に、二首の歌が引用してありますが、「我こそは」の歌は、昭和5年版では」二句目までしか引用がなく三句目以降を省略していましたが、省略にさしたる意味がないと見て、三句目以降を補いました。これは、『増鏡』や『承久記』に出て来る歌です。


〔蛇足〕

この歌についても本来の後鳥羽院の表現に即した訳を、白秋の評釈の解釈から抽出しまして、その解釈の特色を考えてみたいと思うのですが、実はほとんど元の歌の表現を無視しているようですから、直訳的なものから白秋の意図を探る事に意味がないかもしれません。それでも、工夫してみたいと思います。


多くの人を惜しくも思ふ。多くの人を恨めしくも思ふ。甲斐もなく、天下の政治を思うので、心にまかせず悶えてゐる朕は。


四句目の「世を思ふ」を、白秋は「いろいろこの世の事を思つて」と訳しているんですが、これでは意味が不明ですから、「この世の事」を「天下の政治」に置き換えて見ました。また、五句目の「物思ふ身は」という表現に合わせて、「朕は悶えている」の語順を入れ換え、「心にまかせず」を補って「物思ふ」に近づけて見ました。白秋は、三句目の「あぢきなく」について、「皇室の威光が衰へて、天下の政治は心にまかせぬ事ばかりで、そんなことを如何様に思ふとも甲斐のない事ではあるが」と具体化しておりまして、明らかに承久の乱を起こした心情を推測して、「あぢきなく」を鎌倉幕府への不満、政局への閉塞感を表明したものと考えていたようです。後鳥羽院の歌を初句切れ、二句切れとして、三句目以降が倒置されているという前提に立ちまして、この白秋の訳から抽出した表現を、倒置を解除すると、次のようになるでしょうか。


甲斐もなく、天下の政治を思うので、心にまかせず悶えてゐる朕は、多くの人を惜しくも思ふ。多くの人を恨めしくも思ふ。(白秋の理解)


なるほど、こういう解釈が白秋の理解だとするなら、「心中に燃えるやうな悲憤の涙が流れてゐる」とするのも、ある程度分かる気がいたします。我が子に皇位を譲って上皇となり、今や院政を敷いて帝王として君臨しているはずですが、征夷大将軍を戴く鎌倉幕府を北条氏が切り盛りしまして、実は政治の実権は鎌倉が握っておりますので、人事だろうが荘園からの収入だろうが、そんなものは心にまかせないわけで、悩む甲斐もなく悶えるしかない立場なのであります。院に忠誠を誓いながら幕府に退けられる人々がおりますから、それを惜しいと思うわけです。そして、武力を背景に無理難題を押し付けて来る北条氏やその手先を、許せないとして恨めしく思うというのであります。分かったような気がいたしますが、本当にそういう内容の歌なのでありましょうか。


江戸時代の終りに王政復古が成就しまして、天皇が統治するという古代の政治システムが復活したのであります。古今伝授への反発から端を発した古典研究を「国学」と言うのですけれども、『万葉集』や『古事記』『日本書紀』などを読解し始めた国学者は、次第に国粋主義的な傾向を強めまして、これが討幕の下支えをしていたように思います。帝王を押さえて征夷大将軍が天下を掌握した悪しき伝統は鎌倉幕府から始まりましたので、それに反抗して隠岐に流された後鳥羽院や後醍醐天皇は、明治・大正・昭和初期から見たら、悪と戦う善玉であります。白秋はそういう時代の空気に乗っておりますから、後鳥羽院の『百人一首』の歌を見て、北条氏の世の中に悲憤慷慨して身悶えする帝王の姿を感知したのは仕方ないのかもしれません。


天下の事はみな鎌倉のはからひにて、朝廷の衰へゆくを心外に思召して、いかでもとの御世にとなげかせ給へど、さる大御勢もありえねば、いふかひなきこの代のありさまを、いろいろと思ひ給ふ御心の内には、賢良の臣を挙げ用ひんと思へども、そのれもかなはねば、あたら良臣をと、それも惜しく、又邪曲無道を以てほしきままに、悪政を行ふ事と思へば、その臣下どもも恨めしくかたがたに、心外に思召す

   (佐佐木信綱『百人一首講義』)


この信綱の解釈を下敷きにしていると思うならば、白秋の解釈が出て来ることも充分理解できるわけでありまして、後鳥羽院への同情というか思慕の念は強烈に見えます。そこからすると、後鳥羽院と大喧嘩して『後鳥羽院御口伝』でののしられた藤原定家は、ある意味朝廷の裏切り者、奸臣の最たるもののような気がしまして、その定家がこんな歌を選ぶという方向性が分からなくなったりすることでしょう。現代では、後鳥羽院を善玉として扱うことはないと思いますので、微妙に信綱や白秋の解釈は色褪せるような気がいたします。それに比べると、『百人一首一夕話』の尾崎雅嘉の解釈は、淡白でありまして、信綱や白秋はこういう訳も見ていたと思うんですが、歯止めとしては効かなかったようです。


今の世の有様にては、人ををしくも思ひまた人を恨めしくも思ふ事ぞ。かやうに思ふも無益なる事ながら、世の中の事をとやかくやと思ふ故に物思ひをする我が身なれば

   (尾崎雅嘉『百人一首一夕話』)


〔蛇足の蛇足〕

『続後撰集』巻第十七・雑中 1199番 

     題知らず      後鳥羽院御製

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は


後鳥羽院の歌も、源実朝の歌と同じでありまして、何かこう正面から味わったり口ずさんだりしにくいものがあるのであります。やっぱり痛ましい感じがぬぐえないのでありまして、だから後鳥羽院の歌の善し悪しを考えるという気分にならないわけです。近代日本の日本史、あるいは江戸時代以前の古代・中世史の扱いのぶれみたいな物が、学校の教科書にまとわりついていて、何だか靄が掛かるのであります。おそらく、教わった私たちは戦後世代も相当進んであっけらかんとしていたんですが、教えていた方は、自分の両親より年配でしたから、お国のために死を覚悟していた世代で、我々を教えにくかったことでありましょう。


後鳥羽院に関することで私が印象的なのは、後鳥羽天皇宸翰御手印置文というものであります。 「宸翰」というのは、天皇の御直筆というような意味のはずですが、ウィキペディアによると、「置文」のほうは遺言とほぼ同意ということなのであります。暦仁2年(1239)、隠岐に流されていた後鳥羽院が崩御を覚悟して、亡くなる13日前に書いた遺言状なのでありますが、私はこれを京都国立博物館の展示で見たことがございます。文面には後鳥羽院の手形が最後に押してあるんですけれども、ちょっとなまなましいのであります。見たところは鮮血のようでありまして、なにを手に塗りつけたのか、気になるほどの鮮明さなのであります。いまは、水無瀬神宮にあるようですが、手形の指のしなやかさ、大きさが何かを物語ってはいないでしょうか。


 この歌は、出典が『続後撰集』雑中巻の巻軸歌(末尾の歌)でありまして、1202番に入っているのであります。次の順徳院の歌も同様で、藤原為家さんが撰者となった『続後撰集』から採用されていることから、ひょっとして為家さんが『百人一首』を撰んだという邪推も出来るわけです。為家さんというのは、最初の奥さんが宇都宮頼綱という鎌倉幕府のえらい方のお嬢さんでありまして、晩年に阿仏尼さんと同棲事件を起こしているんであります。頼綱の依頼で定家さんが作ったのが『百人秀歌』である可能性は高く、それをマイナーチェンジして作ったのが『百人一首』である場合、入れ替えた歌が『続後撰集』にあるということが問題になるわけです。一般には、『新勅撰集』を定家さんが作った時に、幕府の目を恐れて、後鳥羽院や順徳院の歌をやむなく除いた結果、除かれた歌を『続後撰集』に入れたのではないかと推定して、本来『新勅撰集』に入っていたはずだと考えるわけです。


『百人一首』の歌が、すべて勅撰集にあるものという限定の意味するところが大事なんでありますね。


ある程度、公的な場で披露することを前提にしているということなんでしょうか。天皇の下命で撰ぶ勅撰集の権威を改めて天下に披露しようとか、和歌の歴史をある程度公的な水準で作ってみようというような意図があったと言うことなのかもしれません。もし、そうだとすれば、それを素直に受け止めてありがたく頭を下げる人もいるでしょうが、私は裏を考えます。つまり、積み重なった伝統を今さら仰ぎ見ているわけで、そうした歴史の終焉をほんとうは予感していたということでもあります。かえって、危機感にさいなまされての行為のような気がするのです。


ところで、この歌の解釈に関して、非常に疑問を感じる点があります。この歌は、初句切れ、二句切れでありまして、その上倒置法でありますから、えいやっとひっくり返さないといけないわけです。ひょっとして「あぢきなく」できれる、三句切れかもしれないという疑惑を提示しておきたいと思います。なぜなら、帝王が「世を思ふ」「物思ふ」ことが、つまらないことだとは言えないでありましょうから、この「あじきなく」は「人もをし。人も恨めし。」というところに、倒置で掛かるのではないかと思うのです。だって、この時代は『万葉集』の頃ではありませんので、「五七・五七・七」のリズムではなく、「五七五・七七」のリズムでありましょう。そう言うことも見落としている諸注釈という物を「あぢきなし」と思うわけです。仮に二句切れだとしてもかまいませんから、そこでの倒置とみなして検討して見ます。


あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ 身は人もをし 人も恨めし

 (粗忽改作案、二句切れ倒置を修正) 


「身は」のところを、四句目にずらしてみると、まんまと「五七五七七」の歌になりまして、ちゃんと和歌の形式には則すわけですが、こうしてみると、「あじきなく」の懸かりどころが、「世を思ふ」でも「物思ふ」でもなく、一番末尾の対句表現である「人もをし 人も恨めし」であると主張しても良さそうであります。諸説の中には、二つの「人」が別物であるというような「とんでも解釈」まであるんですが、そうではなくて、この人というのは、常識で考えれば自分以外の他人のことであり、治天の君に対する臣下並びに人民を包括する可能性が高いでしょう。それを言い換えれば、世の中と言うことであります。対句に示されているのは、人(臣下・人民)をいとおしんだり恨んだり、相反する複雑な感情を抱いてしまうと言ってるんですから、こうした不安定な心情を、後鳥羽院自身が「あぢきなく」感じているはずなのです。「うれしくも~」とか「いみじくも~」という例を考えてみれば分かるように、「あぢきなく」というのが、最も末尾の部分に響いていく副詞的用法のはずなのに、それを無視しているのは、倒置に対する理解の甘さが生み出していると見ていいでしょう。やりましたね、この年まで考えなかった歌ですから、虚心坦懐に大手柄を挙げたようです。「世の中を思う故に、悩む我が身は、つまらなくも周囲を慈しんだり、恨めしく思ったり、揺れてしまう事よ、ああ情けない」というような、まさしく帝王ぶりの述懐なのであります。もう一度言いますが、「世を思ふ」ことが「あぢきなし」というのはたぶん駄目ですね。帝王は「世を思ふ」のがお仕事です。ここは、「世をあぢきなく思ふ」というような構文ではないはずです。改作案の第二を下に示します。


世を思ひ 物思ふ身は あぢきなく 人もいとほし 人も恨めし(粗忽改作案)

世を思ふ ゆゑに我が身は あぢきなく をし恨めしと 人を見るかな(粗忽改作案)

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

    (『百人一首』第99番・後鳥羽院)


後鳥羽院の歌を眺めますと、「惜し(愛し)」「恨めし」「世」「物思ふ」と言葉が連なるわけで、ごく普通に『新古今集』の頃の歌として見るなら、当然恋の歌の匂いが立ち籠めます。


「世」とか「世の中」というのは、恋愛関係とか夫婦関係とか、二人の間柄を指しますので、これはまったく恋の歌として解することも出来まして、やはりもみもみとした謎かけのような歌でもあるのであります。これを仮に贈答歌の歌であると考えると、「人」というのは二人称で「あなた・汝」ということでありまして、恋人のあなたをいとしいと思ったり冷淡だと思ったり、落ち着かない心理が表現されています。だとしたら、これは恋愛心理としては、相当熱の入った状態でありまして、「世をあぢきなく思ふ」どころか、二人の関係を深く強く感じているわけで、添い遂げられるかどうか物思いは尽きないのでありましょう。その結果、相手の何気ない言葉、ちょっとした態度に心が揺れますから、ころころと変わる自分の感情を持ってあまして、「あぢきなく」も「人もをし。人もうらめし。」と思うはずなのです。三句切れかも知れないと考えないと、この歌の解釈はぼやけてしまうんですが、さて、従来の注釈はどうなっているのでありましょう? 二人の関係を「あぢきなく思ふ」なら、もはや悩む必要はなく、相手のことを何とも思わないということになるでしょう。この歌の「世」を絶対「男女の仲」じゃないと指摘する注釈書もあるんですが、さて、そうすると『百人一首』全体の歌の解釈で難渋するのは必至でありましょう。


もう一度繰り返しますが、後鳥羽院の「人もをし」の歌は、三句切れ倒置法の歌であります。そして、初句ならびに二句目に対して、三句目が倒置されているわけです。四五三一二という句の順番で解釈するのが一番分かりやすいということです。「世を思ふゆゑに物思ふ身は、あぢきなく(も)『人もをし。人も恨めし』(と思ふぞ)」というのが、倒置による強調を修正した、普通の散文調の表現でしょう。恋の風情を借りた、帝王による述懐の歌と考えるべきでしょう。


もともとは「述懐」の歌だというのですが、「述懐」が帝王と廷臣との関係で作られるなら、それは容易に男女間の「恋愛」の歌にも転換するのは当然なんですね。そう考えてわざと「恋愛」すなわち「恋」の歌として読み解くと、「あぢきなく」の掛かり所は明らかであります。そして、恋の歌と考えて見ると、初句と二句目の「人」というのは、二人称の「あなた」でありまして、同一の人に対して「をし」「恨めし」と相反する感情を抱くということが分かります。ならば、鎌倉幕府に対しても、その中枢にいる北条氏に対しても、そして京都にいる親幕派の貴族たちに対しても、時と場合に拠って愛憎が揺れたというのが、この歌の意味するところなのではないかと思います。みなさん、ご飯をちゃんと食べて考えていたんでしょうか? 


今朕の御前に控えているそなた、心して朕の本音を聞くがよい。天下というものを帝王であるという立場から朕はあれこれと考えるが、それゆえ、物思いにふけることが多いのだ。そういう朕の立場では、何とも味気なくつまらないことに、そなたのことも時には愛おしく思うぞ。そしてまた、そなたのことを場合によっては憎く思うぞ。(粗忽謹訳 後鳥羽院に代わりてその御真意を)


人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

        (『百人一首』第99番・後鳥羽院)

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