北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(96) 藤原公経
96 入道前大政大臣
花さそふあらしの庭の雪ならでふりゆくものは我身なりけり
〔評釈〕嵐が花を誘つて吹き散らす庭は、恰度雪が降るやうに見えるが、ふるものはその実、あの花の雪ではなくて、段々年をとつて古びて行くわが身である。
といふ意で、落花を見てわが身の老をなげいた歌である。この歌は新勅撰集雑一に「落花を詠み侍りける」と題して出てゐる。比喩などは余り妙ではないがしかし作者の心持は充分うかがはれて誰しも感ずる無常感の程察せられる。
宇比麻奈備にこの歌を評して「契沖はあらしの庭とある向、少し後の連歌めきて聞ゆるにやといへり、実にさることなり。定家卿はかかることをこのみて『山陰や嵐の庭のささ枕』ともよまれしなり」といつてゐる。
〔句意〕▼花さそふ=風の為に花の散るを嵐が花を誘つて行くといつた。▼ふりゆく=古び行くこと。花の雪の「降り」に年の「古り」を言ひかけたのである。
〔作者伝〕
西園寺公経の事で、坊城内大臣実宗の次男で母は中納言基家の娘である。承元の頃左近衛中将蔵人頭となり後貞応元年太政大臣に進んだ。嘉禄年中北山に西園寺を建てたので後この家の称号となつたのでこの人は家祖である。宏壮な事は当時比べものがなかつたといふ。公経は寛喜三年出家して法名を覚空といつたが時人は北山殿とも称した。寛元二年七十四歳で薨去した。
〔補記〕
特に誤植と思われるようなものは見当たりませんでした。
評釈の最後に引用されている定家卿の歌は、定家の家集『拾遺愚草』中・「権大納言家三十首」2080番に出て来る歌で、元仁二年(1225)藤原基家が主催した催しに提供したもののようです。全体を示すと、次のような歌です。「臥し待ち」は、「月の出が遅いので寝て待つ月」の意ですが、陰暦19日、特に陰暦8月19日の夜の月。「寝待ちの月」とも言います。
山陰や 嵐の庵の 笹枕 臥し待ち過ぎて 月も問ひ来ず(藤原定家)
作者伝の中に出て来る北山の西園寺は、現代の鹿苑寺ですが、南北朝時代に西園寺家が没落し、足利義満が河内国と交換して所有したものです。正式名称は北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)ですが、それよりも金閣寺として知られています。
〔蛇足〕
上三句を簡単に言えば「花吹雪」ということなのであります。白秋が句意の所でも解説していますけれども、西園寺公経の上の句は語順を巧妙に入れ替えていますから、普通に理解しようとすると、よく分からないところがあります。
〇花さそふ あらしの庭の 雪ならで
〇嵐が花を誘つて吹き散らす庭は、恰度雪が降るやうに見える
「花がさそふあらし」「花があらしをさそふ」ではなくて、「花をさそふあらし」ということですから、「あらしが花をさそふ」というふうに主語と目的格がひっくり返っているわけです。上の句を、単純に「花吹雪」と置き換えると、この西園寺公経の歌は、俳句にする事ができるでしょう。
花吹雪 ふりゆくものは 我が身なり(粗忽謹製)
実は西園寺公経の歌は、三句目で「雪ならで」と花吹雪を否定していますので、それを繰り入れて俳句にしてみると、次のようになるかもしれません。
花吹雪 ならで ふりゆく 我が身かな(粗忽謹製)
ついでに、この上の句に対して下の句を付けると、こんな感じでございましょうか。
花吹雪 ならでふりゆく 我が身かな さそふあらしの 庭をなげきて(粗忽謹製)
〔蛇足の蛇足〕
『新勅撰集』巻第十六・雑一 1054番
落花を詠み侍りける 入道前太政大臣
花誘ふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり
太政大臣でありますから、めちゃめちゃえらい人であります。この地位は「大相国」とも呼びますけれども、平清盛がそう呼ばれていたことをご存じの方もいるでしょう。こちらの太政大臣は、藤原公経という方で、承久の乱後に太政大臣に命じられているのであります。その家柄を西園寺家というんですが、鎌倉幕府寄りのお公家さんの代表でありまして、京都側は実は新幕派の貴族の方が多かったんです。えらい人なんですが、実はこの人のお姉さんが、藤原定家さんの奥様でありますから、なんと藤原定家さんは太政大臣の義兄に当たる人なのであります。定家さんが後鳥羽院とそりが合わなくても仕方ない側面もあったということです。ともかく、奥さんの弟が歌がうまくて、『百人一首』に選んでも恥ずかしくない歌人なんですが、それが太政大臣なら胸が張れますね。今なら、義弟だよって紹介して出てきたのが、野球の上手い大谷翔平さんとか将棋の強い藤井聡太さんってことです。歌は、非常にいい感じでありまして、初老に入った人なら、今後の愛唱歌はこれでありましょう。前半の落花の光景もゴージャスですし、後半の老境のつぶやきもかなりさまになります。
井上宗雄先生が『百人一首を楽しく読む』(笠間書院・平成15年1月)のなかでご指摘の通り、語順が入れ替わると分かりやすいのであります。四句目が一番前だと、散文として自然になると言うことです。つまり、「ふりゆくものは、(何かというと) A ならで、B なりけり」という構文であると考えてもよいでしょう。「我が身」に対比されているのは、「嵐の庭の雪」なんですけれども、その雪は本当の雪ではなくて「嵐に誘われた花の雪」なのでありまして、言い換えてしまうと、散るのは花ではなくて我が身であるよ、と言っているのであります。「ふりゆく」のところは、駄洒落がかましてありまして、「降り行く」という表現は今でも分かりますが、じつは年老いるという意味の「古りゆく」が掛けてあることになっております。この歌の出典は、何かというと『新古今集』ではなくて『新勅撰集』でありまして、雑上巻の1052番なんですが、たぶん「落花」の題で詠んだ題詠であります。
ふりゆくは 嵐の誘ふ 花ならで 頭に雪の 我が身なりけり(粗忽改案)
※「頭に雪の」は「かしらにゆきの」と読みまして、「白髪」を意味しています。
年を取る、古くなるという意味の「古り行く」がよく分かりませんね。怪しいと思います。「旧り行く」と表記したりしますが、当て字には違いありません。「老りゆく」というふうに当て字をした方がいいくらいではないかと思ったりいたします。
この「古り」というのは、連用形なんですけれども、一般には上二段動詞であると説明されております。「ふり(ず)/ふり(たり)/ふる/ふるる(時)/ふるれ(ど)/ふりよ」と活用するはずなんであります。こういう活用は、現代では上一段動詞に合流しましたので、もしこの言葉が現代に残っていれば、「ふりる」という言葉のはずなんですけれども、そんな物は影もかたちもないのであります。これは怪しいのであります。ちょっとやってみると、たとえばこんな具合の動詞のはずなのです。「ふり(ない)/ふり(ます)/ふりる/ふりる(時)/ふりれ(ば)/ふりろ」となるはずなのですが、どうでありましょう? 許せない感じのする言葉でありますね。実は、『万葉集』などでは、連用形の「ふり」しか使われなくて、活用がそろわなかったようなのであります。考えてみたら「古びる」という言葉がありまして、これは元は上二段動詞「古ぶ」でありますが、これが平安時代から使われております。「古ぶ」と「古る」の関係はどうなっているのか、にわかに分かりません。というように疑惑はありますが、藤原公経さんの歌は、悪くはないのであります。『百人秀歌』だと、この歌がしんがり(漢字表記すると「殿」)でありまして、一番最後の最後、101番の歌なのであります。幕府の大物であった宇都宮蓮生のために選んだなら、最後が親幕派のこの方でいいわけなのでしょう。
なお、源実朝が暗殺されて源氏の将軍が途絶えた後というのは、あまり話題にならないのですが、四代目からは京都から派遣されます。鎌倉幕府第四代征夷大将軍は、藤原頼経という方ですが、摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられたので摂家将軍、あるいは九条頼経とも呼ばれます。この方の母上が西園寺公経の娘でありますから、公経は第四代将軍の祖父だったのです。西園寺公経が死去した寛元二年(1244年)に、将軍職を嫡男の頼嗣に譲っていますので、実はこの祖父が摂家将軍頼経の後ろ盾だったということでしょうか。……、ということは定家は第四代鎌倉幕府征夷大将軍の義大伯父(=祖父の義兄)ということなんでしょうけれど、さてそんなことを耳にしたことがありません。言い換えると、定家の義弟の孫が鎌倉の将軍様だったということなんです。何か勘違いでしたら、のちのちここは削除いたします。
『101匹ワンちゃん』という映画がありましたが、珍しい数字であります。考えてみたら、素数でありまして、101は、それ自身と1以外に約数がないのであります。
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