北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(94) 藤原雅経
94 参議雅経
みよし野の山の秋風小夜更けてふるさと寒く衣うつなり
〔評釈〕吉野の山の秋風がさやりさやりと寂しく吹いて、夜も更け、四辺も静かになつたが、この旧都であつた吉野の里人の夜寒をわびて衣を打つ音が、身にしみじみと聞えて来る。
といふ意である。昔は吉野には吉野離宮といつて皇居のあつた所で、帝の行幸も時々あつたが、今はさびれて行幸もなくなつてしまつたから故郷といつて詠んだのである。この歌は新古今集秋下に「擣衣のこころを」と題して出てゐるが一説に坂上是則の「みよし野の山の白雪積るらし故郷寒くなりまさるなり」といふのを本歌としたのであらうといはれてゐる。とにかくよい歌である。
〔句意〕▼みよし野=「み」はそへた語。▼小夜更けて=夜が更けての意。宵の間は陽気が残つてゐるが、夜が更けるにつれて淋しさの増すを言つた。▼ふるさと=吉野は昔離宮のあつた所であるから古い都の意。▼衣うつ=布の織物を肌ざはりよく又丈夫にするために水にぬらして打つ事をいふ。
〔作者伝〕
刑部卿藤原頼経朝臣の子で建永の頃越前加賀介となり左近衛少将を経て、承久二年従三位参議に進んだが、同三年に薨じた。雅経は歌が巧みで、新古今集の撰者五人中の一人に挙げられ、その家を飛鳥井家と称して世に知られた。俊成の門人であつたが自ら一派を立てたのである。又蹴鞠も巧みで兄宗長と共にその名をかがやかしたものである。
〔補記〕
特に誤植のようなものは見当たりませんでしたが、評釈に本歌として引用している歌の作者は「坂上是則」ですが、昭和5年版はこれを「紀友則」と誤っていましたので、訂正しました。坂上是則は、『百人一首』31番「あさぼらけ有明の月と」の作者です。ちなみに紀友則は、『百人一首』33番「ひさかたの光のどけき」の作者です。白秋が粉本とすることの多い佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』は、まったく本歌に触れていませんので、白秋は他の資料をもとに本歌に言及したようですが、作者名を間違えるという痛恨のミスを犯してしまったようです。というか、出版した側の編集がひどいと思います。
雅経は承久三年(1221)の三月に52歳で亡くなったようですが、五月に承久の乱が勃発し、七月には後鳥羽上皇が隠岐に流されています。なお、雅経の妻は、鎌倉幕府を支えた大江広元の娘で、和歌や蹴鞠で雅経の後を継いだ子供は、広元の孫という関係です。ちなみに、雅経は俊成の弟子ですから、御子左家の一派だったわけですが、和歌を懐紙に書く時の作法が違っていたそうで、飛鳥井家が重んじられていたことが分かります。蹴鞠に関しては、兄の宗長は難波家、雅経が飛鳥井家の祖としてそれぞれ流派をなしています。
〔蛇足〕
白秋の評釈を見ると、『古今集』にある坂上是則の本歌を指摘していますが、新古今歌人の本歌取りという技法はあまり気にならなかったようで、「とにかくよい歌である」と絶賛しております。よって、かなり思い入れをして訳しておりますが、まずは雅経の歌に即した訳を抽出してみると、「吉野の山の秋風が吹いて、夜も更け、里人の夜寒をわびて衣を打つ音が、聞えて来る」となっておりまして、いくつか特徴があります。
まず雅経の歌の二句目に出て来る「秋風」は、実はこれを受ける述語が存在しませんので、白秋は「吹いて」と補っております。つまりこの歌は、諸注釈が誉めるほど整った歌ではないのでありましょう。それから、四句目の「ふるさと寒く」の部分ですが、これは本歌から雅経がそのまま摂取した表現ですが、これを白秋は「里人の夜寒をわびて」と意訳と言いますか、翻案と言いますか、工夫して訳しています。現代の注釈者はここを「吉野は寒々と」のように砧の音の修辞にしたりしますが、それらとは一線を画していて工夫の跡が見えます。歌の末尾の「なり」は、「音が、聞こえて来る」と伝聞推定の助動詞の聴覚の用法として、なかなか正確に訳しています。ただし、これらは信綱の解釈をそのまま引き写したもので、残念ならが白秋の工夫したものではありません。
次に、白秋が補った部分ですが、「秋風が吹いて」の間に、「さやりさやりと寂しく」という修飾句を補っておりまして、この擬音語なのか擬態語なのかわからない「さやりさやり」は独特な表現かも知れません。また、砧の音が聞こえるという状況を考えて、白秋は「四辺も静かになつたが」と補っております。さらに、「ふるさと」に関して「この旧都であつた吉野の」と、現代語との違いを際立たせたりしております。最後のところで、砧の音の聞こえ方を「身にしみじみと」と補っていて、詠作主体の感性を付け加えています。信綱は、ここに「あはれなり」とあてがっていますので、この雅経の歌の感興を古語で表現したと言えるでしょう。白秋は、当時の読者の為に「しみじみ」を使ったのだと思います。
さて、しみじみとした歌でありまして、晩秋の吉野という歌枕を舞台にした夜の歌なのでありますけれども、果たしてそれだけの歌なのでありましょうか。本歌に砧の音を導入しまして、哀感を募らせた秀歌なんですが、どうやら漢詩の本説取りの指摘があるんですが、通説にはなっていないようです。最初に指摘したのは、小高敏郎・犬養廉『小倉百人一首新釈』のようですが、五言古詩という形式で、六句からなるもののようです。作者は李白で、作品名は『子夜呉歌』春夏秋冬四つの作品の連作だったみたいですが、その三番目、すなわち秋をテーマにしたものです。
李白『子夜呉歌』 四首 其三
長安一片月 万戸擣衣声 秋風吹不尽 総是玉関情 何日平胡虜 良人罷遠征
(書き下し)
長安一片の月 万戸衣を擣つ声 秋風吹きて尽きず 総て是れ玉関の情 何れの日にか 胡虜を平らげて 良人遠征を罷めん
(平仮名による書き下し)
ちやうあんいつぺんのつき ばんこころもをうつこゑ しゆうふうふきてつきず すべてこれぎよくくわんのじやう いづれのひにか こりよをたひらげて りやうじんえんせいをやめん
(解釈)
長安の都にぽつんと月が昇り、多くの家々から砧で衣を打つ音がする。秋風が吹き砧の音は尽きることもなく、すべてこの音は玉門関への思いそのものだ。いつ異民族を討伐して、夫は遠征を終えるのだろう。
※〇一片……「ひとひらの」の意。「一面の」とする説もあるが取りません。〇擣衣……「砧で衣を打つ」はここは冬支度で衣類の防寒性を高める事。〇不尽……語順を考慮して、「風が尽きない」ではなく、「砧の音が尽きない」と捉えます。〇是……この漢詩の主題である「擣衣の声」を指しますが、「月」「秋風」は含みません。〇良人……ここは「夫」の意。
まあ、こういう漢詩が、雅経の詠作のヒントになっていたのは間違いない事かと思います。この『子夜呉歌』の四句目に出て来る、「是」でありますが、ちょっと見た漢詩の解説では、この指示語を「月」と「擣衣声」と「秋風」を含むとする見解ばかりですが、間違っているような気がいたします。この「是」というのは、夫を待つ長安の妻たちの「擣衣声」を指すんでありまして、その妻の誰もがということを「総」が表現しているんじゃないでしょうか。妻たちは月なんか見ていないし、秋風にもさらされてはいないはずです。第三者の立場では、月が照り、秋風に乗って砧の音がしているんですが、その砧の音に妻たちの思いが籠っているということでなければいけません。なぜって、砧で打った衣は暖かくて冬に重宝するのでありまして、それは当然遠征から戻る愛しいあの人の為に着せる衣を打っているんであります。みなさん、はっきり言って読解が下手ですね。「是」っていうのは、前に来た事柄から断然何か一つを受けて、それを改めて主語として押し出すものじゃありませんか。それから、衣を戦地に送るとする解釈も見たんですが、そんな悠長な物でしょうか。
さて、そうなると、雅経の歌には、「夜寒をわびて衣を打つ音が身にしみじみと聞こえ」(白秋)という補いはふさわしく無くて、それよりも「いとしき人を思ひてその人のために衣を打つ音がしみじみ聞こえ」(粗忽)という補いこそが必要になることでしょう。思いがけず、大手柄を挙げたのかもしれません。ちなみに、角川文庫ビギナーズクラシックス『百人一首(全)』は、李白の漢詩を出さずに、一般的な中国の話題として砧に触れ、「取り残された女の悲しみ」に着目しています。しかしながら、大事なのはそっちじゃなくて、砧で衣を打つ行為を考えたら、「愛しい人の為に心を込めて衣を柔らかくして、それを着せる冬を心待ちにしている」ってことだと思います。「ふるさと」は寒いんですけれども、「衣を打つ砧の音」は、当たり前ですが暖かいものでなければなりませんよね。本説取りということも、忘れてはいけないことです。
〔蛇足の蛇足〕
『新古今集』巻第五・秋下 483番
擣衣のこころを 藤原雅経
み吉野の 山の秋風 さ夜更けて 古里寒く 衣打つなり
作者は、飛鳥井雅経とも言うんですが、参議まで昇った人でありまして、『新古今集』の撰者の一人でもあります。鎌倉幕府までしょっちゅう出かけていた人で、フットワークが軽かったようであります。というよりも、鎌倉が本拠地みたいな人ですから、京都まで出張がお得意だったというべきでしょう。蹴鞠の飛鳥井家の祖でありまして、後鳥羽院と蹴鞠を蹴っていた人のはずであります。今だったら、お公家さんのサッカーチームのミッドフィルダーなどというポジションで活躍していたはずであります。藤原定家の息子の為家さんが、新人でフォワードを務めていたんじゃないかと思います。キーパーは後鳥羽院でありますね。紅い手袋を付けまして、手のひらを味方に振りかざして仁王立ちする姿が浮かびます。冗談はさておき、鴨長明を源実朝公に紹介したのもこの人、飛鳥井雅経ではなかったでしょうか。乱世を生き抜いた、たくましい人物なのです。要領がいい人で、本歌取りもうまいんですが、人の歌をいいなあと思うと、同時代人の歌でもかまわず本歌取りしてしまう人だったそうです。もちろん、この歌も本歌取りの歌でありまして、私はこの歌がわりと好きであります。和歌って、こうでなくちゃ、というような軽さであります。切れ味もあるんですね。たぶん、処世術に長けた憎めない人でしょうけれど、じゃあ信頼に値するかと言うと首をかしげます。なぜなら、彼に誘われてはるばる東国に行った鴨長明は、すぐに都に戻って、うじうじと恨みがましく翌年の春に『方丈記』を書きました。あれは、400字詰め原稿用紙なら10枚くらいですから、一晩で書けるものです。雅経の話に乗ったことを死ぬほど後悔したんだろうと、憶測いたします。
み吉野の 山の秋風 さ夜更けて 古里寒く 衣打つなり
(『百人一首』第94番 参議雅経)
み吉野の 山の白雪 つもるらし 古里寒く なりまさるなり
(『古今集』巻六・冬 325番 坂上是則)
雅経の歌は、『新古今集』の秋下483番に入っておりまして、どうやら百首歌を詠んだ中の一首で、「擣衣」を読んだ題詠の歌なのであります。つまり、これも別に実体験を歌にしたわけではなくて、当時宮廷で流行していた百首の歌を詠むなかで、当然の如く古歌を本歌取りして詠んだわけでありまして、今風に言うとパロディでありますが、古歌を脱構築して新たな趣向を提示しているわけで、なかなか面白いのであります。見ると、初句と四句目がまったく同じでありまして、二句目の「山の」という三文字も同じでありますが、利用した分量は規則ぎりぎり、ただし、季節が冬から晩秋に替えた程度では、ほとんど違いは無く、おそらく当時としては取り過ぎと思われたことでしょう。「なり」は本歌は断定の助動詞ですが、雅経の歌は推定の用法でありまして、「衣を打つ音が聞こえる」と訳したりするわけであります。そうなると、問題は歌を詠んでいる主体はどこにいるのか、どこで砧(きぬた)の音を聞いているのかと言うことでしょう。このことは、実は重大な問題であります。結論だけ言うと、詠作主体は女性になりまして、吉野の里にかくまわれている女性であります。しかし、京都からやってくる男は、訪問が途絶えがちでありまして、それは「秋風」に「飽き」を掛けて、夜が更け、「寒く」という道具立てで明らかなわけです。主人公は砧を打つような身分ではありませんから、独り寝の寂しい枕に、吉野の里の砧の音が聞こえてくるのであります。自分で考えたなら、もちろん大手柄と叫ぶところですが、そうではありません。主人公は山にいる、本歌では里にいるのを位置を変えた、というナイスな説があるのであります。出所は内緒。私は、やっぱり里にいるような気がしますけれどもね。隣近所じゃないと、風に乗った砧の音は聞こえてこないような気がいたします。それと、「秋風」だけではなくて、「衣を打つ」砧の音が「寒く」という理解がありますが、それは容易に否定できることでしょう。家族愛に満ちた砧の音は暖かく、それが独り寝の耳に入れば辛いだけです。
ここに、李白の『子夜呉歌』の本説取りという技法が絡むとすると、吉野の里で衣を打つのが女性たちだとして、彼女たちは家族の為に冬に向けて衣を打っているのであります。それは、外の忍び寄る寒気とは逆で、愛する人たちに少しでも肌ざわりのいいものを提供しようとする気持ちのこもった暖かい音なのであります。そうすると、その音を耳にする詠作主体は、もう疎遠になった都人の彼の事を思い出しまして涙にくれることでしょう。秋風は冷たく、眠れぬ夜は更け、幸福の象徴である砧の音が、寂しい独り寝の胸にずん、ずん、ずんと響くのであります。
『とりかへばや』という作品では、吉野に姫君がいるというような話だったかと思います。相当きわどい小説ですから、ここであれこれ言う必要もありません。吉野というのは、京都における政争を避けて隠棲するような土地でありまして、昔の首都圏である畿内の南の果てと考えるといいのでありましょう。西の果てが在原行平が住んでいた須磨で、『源氏物語』では光源氏が身を寄せたところでした。東は逢坂山からもう田舎でありまして、美濃・尾張までゆくと「身の終り」であります。行きどまりの土地に身を置いて、晩秋に聞く砧の音はどんなものなのでありましょうか。
コメント
コメントを投稿