北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(100) 順徳院

100 順徳院


百敷や古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり


〔評釈〕内裏の御殿の古くなつて、軒にはしのぶ草が生えるやうになり、皇威の衰へた世であるから、その昔の盛んであつた御代が思ひ出されるにつけても、如何に思つても思ひつくせない程、昔が慕はしいことである。

との御意で後鳥羽上皇の御歌と併せ拝誦すると更に深い感慨が涌く。この御製は続後撰集雑下に「題しらず」として出てゐるが、当時御皇室の御衰微を御歎息の余り、強い歌調に詠ませられた御製で国民の精神に強くひびき渡る事である。


〔句意〕▼百敷や=内裏の事。百の石でかたくせる城といふ義で、古は大宮の冠詞として用ひたが、後は宮城の事として用ひた。▼古き軒端=内裏の御殿の古く衰へた事に言つた。▼しのぶ=古い軒端に成長する垣衣草の事から皇居の衰微を述べ、その草の名を昔を「忍ぶ」心に通はせてある。▼なほあまりある=如何に思つてもなほ飽き足らずといふ事で栄えた昔が思はれるの意。


〔作者伝〕

後鳥羽天皇の第三皇子で、御諱守成と申し奉り、承元四年に御年十四歳で即位、承久三年二十五歳で譲位なされた。承久の乱後佐渡に遷され給ひ仁治三年御年四十六歳にて配所に崩御遊ばされた。天資英邁、学を好ませ、又和歌にも秀で給うた。御撰数種中「八雲御抄」は歌道の宝典として貴ばれ「禁秘抄」は朝家の重宝とせられ、「紫禁和歌集」は天皇の御製集である。「おしなべて民の草葉におく露もめぐみありとや秋風の吹く」などはよく人の知る所である。


〔補記〕

評釈に出典を「続後撰集雑下」とありますが、昭和5年版では「新後撰集雑」となっていましたので、「新」を「続」に改め、「雑」を「雑下」と改めました。なお、「続後撰集」は第十代の勅撰和歌集ですが、「新後撰集」は第十三代の勅撰和歌集です。


句意の三番目「しのぶ」の解説の途中、「皇居の衰微を述べ、その草の名を昔を「忍ぶ」心に通わせてある」とありますが、昭和5年版では「皇居の衰微を述べたか「忍ぶ」心に通わせてある」とあって、何らかの誤植、あるいは文の脱落があったようです。そこで、「たか」を削り、「、その草の名を昔を」と補いました。補うに当っては、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』を参照しました。


作者伝の即位の年号「承元四年」は、昭和5年版では「正治四年」となっていましたので、改めました。承元四年は1210年です。なお、正治年間は、1199~1201までで正治三年は2月13日に建仁元年に改元しています。正治年間は土御門天皇の時代です。


作者伝の順徳院の崩御の年齢ですが、「四十六歳」が正しく、昭和5年版では「四十二歳」と誤っていました。崩御した仁治三年は1242年ですから、この西暦の下二桁を誤って享年にあてがったようです。


〔蛇足〕

いつものように元の順徳院の表現に即している訳を、白秋の評釈から抽出してみたいと思いますが、微妙に意訳されていて、面倒なところがあります。


内裏の御殿の古くなって、軒にはしのぶ草が生えるやうになり、思ひ出されるにつけても、如何に思つても思ひつくせない程、昔が慕はしいことである。


白秋が訳出で補ったところは、「皇威の衰へた世であるから、その昔の盛んであつた御代が」という部分でありまして、やはりこれは承久の乱後に佐渡に流されたという順徳院のその後の運命を前提にして、流刑に遭う前の歌を勝手に味付けしているように感じられます。『順徳院御集』によって建保四年(1216)順徳院20歳のころに詠まれた歌だと指摘されていますので、承久三年(1221)の承久の乱の5年前ですが、果たして「皇威が衰えた」という認識があったのかにわかに分かりません。この建保四年には、閏六月に『百番歌合』という催しが順徳院の元で開かれ、定家は「来ぬ人を」(『百人一首』97番)の歌なんかを提出しております。八月にも22日24日と連日のように順徳院を中心に歌合を開いていまして、どうも20歳の天皇が和歌の面白さに目覚めて詠作に励み、歌人たちを集めて興じていたのであります。


内裏の御殿よ、その古き軒端に生えているしのぶ草を見るにつけ、偲ぶにしてもにもやはり偲びきれない昔であるなあ。(粗忽試訳)


念のため、「しのぶ」の掛詞を、「しのぶ草」と「(昔を)偲ぶ」と二重にして解釈してみましたが、なんとなく、白秋の言うような衰微のニュアンスではなくて、「歴史と伝統によって長く盛んであった時代時代が」しのぶ草によって偲ばれて、というような20歳の青年天皇の前向きな気分が感じられるんですが、それではだめなんでしょうか。


内裏の御殿の古くなりて、衰へ頽れたる軒に垣衣草の生えぬるまでなりたる世なれば、偲びてもいよいよあまりあまりて、なほ慕はしきは、昔盛にありし帝の御代の事なり

   (佐佐木信綱『百人一首講義』)


白秋はこの信綱の影響下でこの歌を考えているようですが、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』も同じ方向ですし、近代の注釈書もその範囲を超えないようであります。そこでご提案なんでありますけれども、四句目のはじめに出て来る「猶」という副詞を、「身に」という表現に差し替えたら、この歌の印象は劇的に変わるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。


百敷や 古き軒端の しのぶにも 身にあまりある 昔なりけり(粗忽改案)


内裏の御殿よ、その古き軒端に生えているしのぶ草を見るにつけ、栄えある歴史と伝統を偲ぶにしても、身に余りあるすばらしい昔であるなあ。(粗忽試訳)


諸注釈は、今が衰えているから、栄光の昔を偲んでも偲びきれない、というような落ちぶれたという自己認識なんですが、若干二十歳の上皇が名だたる歌人たちに囲まれて歌を詠んで楽しんでいる日々ということを考えると、嬉しくてしょうがない、「身に余る」歴史と伝統に震えるくらいの気持ちだったんじゃないでしょうか。建保四年の『百番歌合』からは定家の「来ぬ人を」の歌をはじめとしてたくさんの歌がのちの『新勅撰和歌集』に入集したそうですから、ひょっとすると第九番目の勅撰集は、戦乱が生じなければこの順徳院の下命で撰ぶことがあってもおかしくなかったんであります。そう考えると、建保四年の段階で、歴史と伝統の重さがよく理解できて、それをありがたく享受している帝王がちょっと謙遜して「身に余る」と歌に詠んだなら、定家をはじめとする廷臣は今後の和歌の道の将来を安堵したかもしれません。というようなことは誰も言わないのですが、それでいいんでしょうか?


だいたい、「往時を偲ぶ」というような時に、過去はうら寂れていたりしてもいいと思いますけれども、今現在の発話者の境遇は割と盤石なんじゃないでしょうか。今がそこそこ安泰だからこそ、「あまりある昔」というのが意味があるような気がいたしますがいかがでしょう。もしご賛同いただけましたら、身に余る光栄でございます。


〔蛇足の蛇足〕

『続後撰集』巻第十八・雑下 1211番 

     題知らず        順徳院御製

ももしきや 古き軒端の 忍ぶにも なほ余りある 昔なりけり


順徳院の歌が『百人一首』のしんがりです。「しんがり」を漢字表記すると「殿」なんですが、今この表記を「しんがり」と読ませるのは無理がありそうですね。この方は、仁治三年(1242)に崩御されたのであります。佐渡院とも言いまして、後鳥羽院が隠岐に流されたように、こちらは佐渡に流されて現地で亡くなられたそうです。実は、藤原定家さんはその前年、仁治二年(1241)に亡くなっておりますが。何の根拠もなく思うのですが、『百人一首』を贈るのにふさわしいのは、この順徳院という『百人一首』の最後を飾る帝王ではないのか、という気がいたします。前にどこかで、左近の桜を藤原定家さんが伐りに行く話がありまして、その時許したのが順徳院でありまして、そういう点では巡り合わせのよい二人でありますから、この方にプレゼントするなら、『百人一首』の構成はふさわしいでありましょう。それ以外にもらって喜ぶ人の顔が浮かばないのであります。いや、顔はもともと浮かばないので、喜ぶ人の名前が浮かばないと言い直しておきたいと思います。『百人一首』をもらって喜ぶのは、順徳院ただお一人のはずであります。


どうやら『百人一首』の末尾三首については、その歌人の人名表記が問題のようです。藤原家隆が従二位になったのが、文暦二年(1235)9月10日のことでありまして、これが嘉禎元年と改められます。嘉禎三年(1237)4月9日に家隆さんは従二位のまま亡くなりますけれども、この家隆さんが従二位の間に、『百人一首』が成立したという可能性が指摘されております。それ以前だと、三位でなければならないし、故人であったなら配列がもう少し前でないといけないようなのです。


ただし、そうなると問題なのが、後鳥羽院・順徳院という天皇の諡号でありまして、後鳥羽院と決定したのは仁治三年(1242)、順徳院の方が決定したは建長元年(1249)ですから、このそれぞれの諡号を藤原定家さんは知るよしもないわけです。なぜなら、前にも述べたようにすでに仁治二年(1241)8月20日に亡くなっているわけでありまして、誰かが死後に歌人名表記を二人の上皇に関しては改めたということなのであります。ともかくすっきりしない問題が残ると言うことだけは指摘されております。


だから、『百人一首』は定家が撰んだんじゃないと密かに考える人は多いのでありまして、そうなると百人の顔ぶれがおかしいとか、それぞれの代表作にしては物足りないとか、そういう話になって収拾がつきません。しかしながら、それながら、『百人秀歌』から『百人一首』を作るとして、三人抜いて二人加えたんだけれど、四首落として三首加えるというような操作を、定家以外の誰がするのかという問題があるでしょう。配列はもっと大胆に入れ替えられておりまして、伝統を重んじる歌道家の子孫がやりおおせるような変更ではないと思うのですが、どうなんでありましょうか。本人なら、微調整も大幅修正も意のままでありましょう。


ももしきや 古き軒端の 忍ぶにも なほ余りある 昔なりけり

    (『百人一首』第100番・順徳院)


「ももしき」というのが、皇居を指すというのが、なかなか難しいのであります。初句の末尾の「や」というのは、「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」などという歌が思う浮かびますが、「や」の前後が緊密に結びついていたりするのであります。「ももしきの古き軒端の忍ぶ」が、「昔」の実景として浮かぶような仕掛けなんですけれども、当然「忍ぶ」が、シダ植物の「シノブ」と、過去を追憶する「忍ぶ」の掛詞となって、歌の主旨は懐旧にかられた述懐ということなのであります。「忍ぶにもなほ余りある昔」というのは、いくら思いを寄せても足りないくらいの感慨深い過去ということで、実は何をそんなに思っているのか、はっきりしないのであります。よって、上の句の表現を生かして、昔の御代、古代の聖主の時代という解釈に至るようです。順徳院の家集によれば、弱冠二十歳の時の作品であると井上宗雄先生が指摘してますが、だとすればこの帝王は帝王教育を受ける中で、中国の下降史観を勉強なさったと言うことで、先人は高くそびえ、後代の者はなかなか及ばないというような発想が表現されていると言うことでしょう。それほど特殊な考えや、当時の政治状況の反映など関係がなさそうでありまして、お勉強のできる方が、上手に歌をまとめたように思います。


とりあえず『百人一首』100首全部、北原白秋さんの評釈に導かれて読みました。


まだまだ言い足りないこともあるのでありますが、とりあえず白秋の誤植だらけのテキストを訂正したり、粉本との関係を考えたりして、それなりに遊んで参りました。自分の解釈だけを取り上げたら、とてもとても続かないはずでありますが、共感してみたり、反発してみたり、自分の分からないところ、足りないところを、むしろ取り柄にしまして古典中の古典である『百人一首』を、白秋の手を借りていじり回してみたら、案外面白い物であります。最後の順徳院の歌も、これを恋の歌に見なすことは出来るわけでありまして、「忍ぶ」は思いを寄せるでも人目を避けるでも、恋の情調をかもします。二人の昔は、余りあるほど幸福な日々だったねえと、過ぎ去った恋を慈しむんでありますね。それから、「余り」は「軒端」の縁語だよって、角川文庫ビギナーズクラシックスが指摘してまして、おそらく「軒端の忍ぶ」は、軒先から余っているように見えますから、これはそういう修辞がちゃんと入っているようです。


さて、『百人一首』を読み通してみての感想は、なるほどなかなかいいという微温的な気分であります。


たぶん、世間の大方の方は、名作しか読んだことが無いのであります。やはりこれは名歌揃いの秀歌撰でありますから、ホテルのバイキングのような物なんであります。どれもおいしいのでありますが、やはり、ローストビーフとカニと、スイーツが人気というような具合でありまして、実は平凡なエビチリも、コンソメスープも普通よりはずっとおいしいのであります。下手な古歌を我慢して読むような経験は、普通はありませんから、結局『百人一首』のなかでの好き嫌い、うまい下手を論じてしまいそうであります。少なくとも、絶対に秀歌とは認められないというような歌はありませんでした。昔、藤原定家さんの若い時の歌を先輩や師匠と輪読かなんかしましたときには、解釈の途方に暮れるようなおかしな歌ばかりで、何が言いたいのかさっぱり分からないものがたくさんあったのであります。それに比べたら、実に充実しておりまして、たしかにこれらの歌がとりあえず名歌であると言えるでしょう。


百人の ふるき昔の 歌見ても なほ余力ある 我が身なりけり(粗忽)


大手柄と自慢した中で、やっぱり違うかなあと反省しているのは、西行さんの「かこち顔なる我が涙かな」であります。これはやっぱり、昔のままでいいんではないか、と思ったりしているんですが、いやいや待てよ、他にどんな証拠の歌があろうとも、涙が顔を持っているというのは無理ではないか、などと揺れているのであります。ということは、他のは本当に大手柄かも知れませんね。お勉強で困って検索している人がたまにいるんでありますが、今はまだ役に立ちませんよと言いたいのであります。30年、50年したら、あるいは定説になったりすると面白いことでありますね。もちろん、これもあれもすべて妄想であります。北原白秋さんの評釈に導かれて、長い長い旅でありました。以上が2024年のまとめです。 


〔蛇足の先〕

以前住んでいた家の庭に「しのぶ草」が生えておりまして、ほっておくと鬱蒼としてすごいので、年に何度か刈り取りました。生命力が強くて、毎年復活して地面を蔽いましたが、あれが「しのぶ草」だと実はあまり認識していなくて、どうしてこんなところにシダがはびこっているんだろうと思っていたくらいです。

とここまで書いていて、そうそう、順徳院の歌に出て来る「しのぶ草」は「のきしのぶ」というシダ科はシダ科でも、イラストにすると海藻みたいに見えるものだったと思い出しました。鬱蒼と生える方のシノブグサではなくて、岩とか苔のところに生えるせいぜい20センチになるかどうかとうようなものでした。それも以前住んでいた家の日当りの悪い塀の下にありまして、ユキノシタという植物と何となく一緒に生えている状態だったのです。

注釈書でも間違っているのがありますから、ご注意を。

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