北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(84) 藤原清輔

84 藤原清輔朝臣


ながらへば又此の頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき


〔評釈〕以前に辛い世だと思つて暮らした時も、今になつて顧みれば慕はしく思はれる。かうして今憂い世だと思つて居るが、まだまだ生き長らへてゐたならば、後には今日の辛いこともなつかしく思はれる事であらう。

との意である。この歌は新古今集雑下に「題しらず」とあるが、当時保元平治の乱の頃であるから作者はこんな歌をよんで世のあさましい様子を歎いたのであらう。少し理窟めいて居るけれど、真面目な真実味のある点にこの歌の特徴があらう。


〔句意〕▼ながらへば=この世に生き長らへたならの意。▼又此頃やしのばれん=過去が今日慕はしく思ふやうに、又憂い世だと思ふ此頃も恋しく懐かしまれようの意。▼「しのぶ」は思ひ出すこと。


〔作者伝〕

左京大夫顕輔の子で、堀川鳥羽崇徳の三代に仕へ、正四位下太皇太后大進兼長門守であつた。歌人としての聞えが高く「続詞花集」を撰んだのも彼で、常に歌道の研究につとめた。又万葉集を好み、作歌を志す人にはまづ万葉の研究をすすめたといふ。晩年長寿の人を集め、尚歯会を作つて歌を詠んだ事もある。歌論に関する著書も多く、奥義抄、初学抄、一字抄、袋草紙、今撰抄等がある。時人に西行、俊成等と並び称へられた。


〔補記〕

作者伝には、今回もいくつか問題があります。

まず、作者伝冒頭の「左京大夫」ですが、昭和5年版では「左」が欠けて「京大夫」となっていましたので、脱字を補いました。

次に、清輔の官職を記した部分の「正四位下」ですが、昭和5年版では「官正四位下」とありまして、こちらは「官」の字が余計についておりましたので、削りました。

さらに、清輔の著作を紹介した中の「袋草子」は、昭和5年版では「袋原子」となっていましたので、単純な誤植と見て「原」を「草」に改めました。


また、作者伝の中に「続詞花集」が出てきますが、この集に関しては、粉本である佐佐木信綱『百人一首講義』が記しているように、次に示すような説明が必要ではないかと思います。

勅錠によりて、続詞花集を撰ぜられけれど、其書奏覧を経ずして、帝崩じ給ひしかば、今の二十一代の勅撰集の中に数へられず。


〔蛇足〕

三句切れの歌ですが、特に倒置法の歌ではないと見えますが、白秋は上の句と下の句をひっくり返して訳出しております。上三句が将来の心境を推測している内容で、下二句が今現在の心境ですから、別に白秋の訳し方は悪くはないと思います。例によって、清輔の元の歌の表現に即して、白秋の訳出から訳を抽出してみると、次のようになるでしょう。


辛い世だと思つていた時も、今は慕はしい。生き長らへたならば、後には今日(の辛いこと)もなつかしく思はれる事であらう。


白秋の訳出の順番に従って、清輔の歌を改造すると次のようになります。


  憂しと見し世ぞ、今は恋しき。ながらへば、又此の頃やしのばれむ(清輔の歌を改変)

  憂しと見し 時ぞ恋しき ながらへば 又此の頃や 憂しとしのばむ(五七五七七に改変)


微妙なことを指摘すると、元来の下の句は「辛いと思っていた世が、今は慕わしい」というのが直訳ですが、白秋は「憂し」を「憂き世」のようなつもりで訳出したことが分かります。また、元来の上の句の「此の頃」という表現を「今日も」「今日の辛いことも」と訳していますが、実際には「近頃の事」とか「この時代を」とか、さらには「今の憂き世を」などと訳さないといけないのかもしれません。試しに、白秋の訳を改良して、かつ元来の歌の形に添わせてみると、次のようになります。さらに、下の句が上の句の理由になっていると思われますので、それを明瞭に示してみたいと思います。


生き長らへたならば、後には今の憂き世をなつかしく思はれる事であらう。なぜなら、辛いと思つていた世も、今は慕はしいから。(白秋の訳の改良版)


さてさて、どうでもよいことを繰り返しておりますけれども、白秋の訳の改良版を元に、清輔の本来の歌に加筆すると、次のようになるでしょう。こうなると、ただの散文でありましょう。


生きながらへば、又憂き此の頃や恋しくしのばれむ。何となれば、憂しと見し世ぞ、今は恋しきゆゑに。


こうしてみると分かるのは、過去が憂き世だったのに現在からは恋しく感じられるから、現在の憂き世もまた将来は恋しく感じられるだろう、というような非常に理屈っぽいロジックであります。それが、清輔の表現によって、何となくすんなりと胸に入るのは不思議な気持ちがいたします。白秋もそのことに気が付いていたわけで、「少し理窟めいて居るけれど、真面目な真実味のある点にこの歌の特徴があらう」と指摘しています。


ところで、この清輔の歌というのは清輔の家集においては、「いにしへ思ひ出でられけるころ、三条内大臣いまだ中将にておはしける時、つかはしける」とあるんですが、誰に贈ったかというところで近代の研究で考察が深められ、藤原公教に贈ったようだと決着がついたようです。その結果、この歌が詠まれたのは大治五年(1130)から保延二年(1136)までの間、実は崇徳天皇の時代でありまして、そうなると前の俊成の歌と同じで、平家が躍進し、摂関家筋の若い貴族が不遇をかこっていた時期に当たるのであります。従来は清輔五十代くらいの歌だと思われていたんですが、実は三十代くらい、まだまだ若くて出世の意欲が旺盛な頃の感懐なのであります。公教は最終的に内大臣まで至った人物ですが、いとこに当り年齢は清輔の一つ年上なだけなので、親しい間柄として不遇を訴えたようですが、清輔は仁平元年(1151)にようやく従五位下になったくらいですから、歌を詠んでからさらに20年くらい沈淪してしまったのです。まさしく、この歌の通りで、老いるに従って若者に追い抜かれ、「ながらへば」の歌を詠んだ時の方がましだったのは間違いありません。ひょっとすると、この歌に象徴されるような、清輔の律義さというものは、院政期の激動の社会では出世の妨げだった可能性があるでしょう。


〔蛇足の蛇足〕

『新古今集』巻第十八・雑下 1843番 

           題知らず       藤原清輔朝臣

長らへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき


清輔の歌は、分かりやすくて、味わい深い歌でありまして、無理のない言葉遣いがなされている歌であります。古典ではどの言い回しもふつうの言葉遣いばかりでありありますが、気になるとすれば「憂し」という形容詞が問題なのでありましょう。今までも何度も出てきた言葉でありますから、ここで問題にする必要性はないのですが、「憂い」という言葉は現代には残っておりません。「物憂い」ということばが、かろうじて残っているわけでありまして、そのお陰で何とか「憂し」という言葉は分かった気になるのであります。「いやだ・憂鬱だ」と考えれば当たらずといえども遠からず、たぶん間違ってはいないのでありましょう。しかし、本当はどうなんでありましょう。漢字の「憂」が当ててあるから分かるような気がするだけで、「うから」「うかり」「うし」とか、「うき」「うかる」とか「うけれ」などと平仮名だけで出て来たら、まったく意味が不明かも知れないのです。ともかく、この歌には、過去と現在、現在と未来が意識されていまして、過去も現在も「憂し」という気分で染め上げられているのであります。過去が甘美に感じられるが、その過去においては苦くて辛いものだったわけであります。ひょっとして今の憂鬱も、未来においては恋慕の対象になりかねないという想像力は、非常に納得の行くものであります。


ちなみに、「憂し」は「いやだ・きらいだ・不快だ」という嫌悪を表すと考える方がいいかもしれないと、前もって言っておきます。なお、過去が恋しいというのは、中国から来た下降史観でありまして、後の時代ほど劣りに劣り、前の時代には及ばない、さらには古代は理想的であったとまで考えるのであります。未来はもっと良くなる、というのはその反対の考え方ですが、平安貴族たちは下降史観を重んじていたと思いますから、それに即した歌であるというのは、肝に銘じておいてよいかもしれません。清輔の歌を下降史観によるものだという指摘は、これまでなかったはずなので、ひょっとするとお手柄かもしれません。


「長らへ」は、下二段動詞「長らふ」の未然形。「ば」は接続助詞で、ここは仮定条件を表します。現代では「長らえば」という言い方は存在していないので、現代語訳は「永らえたら」「永らえるなら」となります。「また」は副詞。「このごろ」は名詞、これで一語として扱って「現在」の意味。「や」は疑問の係助詞で、三句目末の「む」が連体形で結びとなっています。「しのばれむ」の「しのぶ」は四段動詞の未然形、「れ」は自発の助動詞「る」の未然形、「む」は推量の助動詞の連体形。「憂し」はク活用形容詞の終止形。「と」は格助詞で「見」の対象の内容を受けています。「見し世」の「見」は上一段動詞「見る」の連用形、「し」は直接体験の過去の助動詞「き」の連体形。よって、「見し世」は「かつて体験した人生・自分の過去」となります。「ぞ」は係助詞、結びは「恋しき」で形容詞「恋し」の連体形。「今」は名詞。「は」は係助詞。


(直訳)もし仮に、吾輩が生き長らえたなら、(今と同様に)またしても今現在を、自然と慕わしく吾輩は偲ぶだろうか。偲ぶのだろうよ。(当時は)「いやでいやでしかたない」と思っていた辛酸をなめ尽くした吾輩自身の過去を、今現在の吾輩は慕わしく思う。


別に清輔の和歌をそのままぼんやり眺めても、以上のような内容だろうということは察知できるわけで、変化はしたけれど日本語の根幹は変化していないと言えるんであります。ただ、それだけに、接続助詞・係助詞の変化と言うか豹変ぶりには驚くわけです。さらに、助動詞が様変わりしているわけで、実は現代には通じないのであります。形容詞の活用形も全然違うのであります。さて、違っているところを修正するとこんなふうでありますが、これはどうでしょうか。


長らえれば またこのごろを しのぶのか いやだと見た世を 今は恋しい(清輔の歌の現代語化)


「またこのごろ」が(我に)「しのばれ」るだろう、とうっかり「れ」を現代語感覚で受身に理解しそうですが、実はそんな受身は古典文法では認めないので、「またこのごろ」を(我は、自然と)「しのんでしまうだろうか」が正解で、だから「れ」は自発用法のはずなんです。でもって、自発用法は消去しても意味が変わらないし、ついでに「む」の推量は現代語で省略してもいいので(「明日は雨が降るだろう」「明日は雨が降る」)、その結果三句目は「しのぶのか」で済むのであります。それから、「憂し」の問題ですが、「憂し」「つらし」「つれなし」というような形容詞は、ク活用形容詞でありまして、このク活用の形容詞は古くは心情を表明するような言葉ではなかったのであります。「高し」「深し」「からし」などと同じで、対象の状態を客観的に叙述する形容詞でありまして、その証拠に「憂き世」とか「つらき世」「つれなき世」なんて言えたはずで、これはもう「世知辛い世の中」というニュアンスなんです。もっと言うと、この世は地獄ってことでありまして、甘くはないのであります。裏切った恋の相手は「憂き人」「つらき人」「つれなき人」でありまして、これは単純に言うと「いやな奴」でありまして、親の仇のように殺したい人なんであります。


死ななけりゃ また今頃は バラ色か 地獄の過去を 恋しいおいら(粗忽DQN風)


例えばブラック企業で心を病んで退職した人が、転職先でまたここもブラックだと気が付いた、みたいな話であります。ということは、この清輔の歌というのは、ひとつ前の俊成と同じで「述懐」の歌でありまして、のちに内大臣まで上り詰めた公教に一つ上の先輩ということで不遇を訴えた歌らしいのであります。公教の母は、清輔の祖父顕季の女(むすめ)で、二人はいとこの間柄だったそうです。要するに、人生の真理を詠んだわけではなくて、「おいらを救ってください」「今の地位はブラックです」と愁訴した述懐の歌そのものということになりますね。その当時の天皇や上皇、大臣たちに言うには少々毒があり過ぎたわけで、同世代の出世頭に同感してもらおうと思ったのだと思います。


こうして、ねちねちといじり倒して見ると、清輔の詠みぶりが上手だと分かりました。

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