北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(93) 源実朝
93 鎌倉右大臣
世の中は常にもがもな渚こぐ海士の小舟の綱手かなしも
〔評釈〕浜辺を漕いで居るあの海士の小舟の、綱手を引く様子はまことに何ともいへぬ面白い景色であるが、世の中はいつまでも変らずに生きられて光明だとよいがなあ。
といふ意で世の無常感が人間の奥深いところから呼び叫ばれてゐる歌である。この歌は新勅撰集羈旅の部に「題しらず」として出てゐるが、健実に古い調べをとつた歌ひ方で、技巧に苦心した新古今集時代の中に異彩を放つ素朴さを見せてゐる。さすが名歌人実朝の歌であると思はれる。
〔句意〕▼常にもがもな=「常」は永久不変の意。「がも」は「がな」に同じで願の意。「な」は歎辞、万葉には冀の字があててある。ここは即ち長く生きて居て度々此処へ来て遊びたいなの意である。▼綱手=舟につけて引く綱の事。▼かなしも=面白いとほめて哀れを感ずる意で、「も」は歎辞。万葉では𪫧怜と書いてある。
〔作者伝〕
頼朝の二男実朝の事で、母は尼将軍政子、幼名千幡と云つた。建仁三年十二歳で従五位下征夷大将軍となり、承久元年右大臣拝賀の礼を鶴岡八幡宮に行つた時兄頼家の子公暁に暗殺されて世を終つた。時年二十八歳。資性温雅で文学の嗜み深く殊に歌道は定家を師として学び優れた歌人となつた。その家集は金槐集といつて名高い。彼は北条を悪み皇室を敬つたことは「山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心我あらめやも」と詠んだ古今の名歌を以ても察せられる。
〔補記〕
特に誤植と思われるようなところはありませんでした。
句意の末尾「歎辞」のあとに、句点を補いました。
作者伝の右大臣拝賀の礼は正月で、このときは建保七年でした。その後四月に改元されて承久元年となりました。西暦では1219年のことです。
〔蛇足〕
白秋の評釈の訳から、実朝の歌の表現に即したところを抽出して、その特色を探ってみたいと思います。まず、二句切れの歌ですが、特に倒置というわけではありませんが、白秋は、初句・二句の部分を後に回しています。
浜辺を漕いで居る海士の小舟の、綱手を引く様子は面白いが、世の中は変らないとよいなあ。
三句目以下の光景を実朝は「かなしも」と表現しましたが、これを「面白い」と白秋は訳出し、軽い逆接の「が」を補って、初句・二句の願望表現につなげています。白秋は、句意の解説のところで、この初句・二句の「世の中は変らないとよいなあ」という感慨の真意を、「長く生きて居て度々此処へ来て遊びたいな」と考えていたようです。訳出のところに「光明だとよいがなあ」と付け加えておりますが、実はこういう使い方は現在はしないので明瞭ではありませんが、「希望に満ちたものだとよい」というようなニュアンスかも知れません。何となくですが、白秋は鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺された実朝の運命を前提にして、この歌に運命にあらがおうとしていたかのような意味を持たせたかったのかと感じたりいたします。「世の無常感が人間の奥深いところから呼び叫ばれてゐる」という感想も、おそらくこの悲劇の若くして散った将軍への同情が産み落としたような気がするわけです。
それにしても、「新古今集時代の中に異彩を放つ素朴さを見せてゐる」といような評価を見ていると、実朝が『万葉集』などの古歌をこれでもかとばかりに本歌取りしていたというような事実を白秋は知らなかったのかと、不思議に思います。白秋が粉本にする事の多い、佐佐木信綱『百人一首講義』も尾崎雅嘉『百人一首一夕話』も、とくに実朝の歌に本歌を指摘することをしていませんので、気付かなかったのかもしれませんが、あるいは賞賛するためにあえて本歌の存在を無視するというか、ここでは内緒にしたのかと疑われます。
〔蛇足の蛇足〕
『新勅撰集』巻第八・羇旅 525番
題知らず 鎌倉右大臣
世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも
鎌倉右大臣というのは、もちろん源実朝でありまして、鎌倉幕府の第三代の将軍でありますけれども、彼の人生というものが、私の頭の中でうまく像を結ばないところがあるようです。それでも、2022年には三谷幸喜さんの脚本でNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が放送されまして、輪郭はなんとなくわかったような気がしました。それでも、その最期が痛ましすぎて、なんだか目を背けてしまいたいような気がいたします。そう言えば、和歌に関して遠い昔に学んだ時に、藤原定家についてはいろいろと問題になってあれこれを耳にしたことがあまたあるんですが、源実朝のことはほとんど何の問題も聞いたことがないような気がするのであります。私の方に興味関心が乏しいものだから、聞いても意識にのぼらなかったのかも知れませんが、第二次世界大戦に敗北した国では、鎌倉時代の若死にした将軍さんのことなんて話題にしようもなかったかもしれません。国粋主義で戦争好きの近代には、なぜか『万葉集』がもてはやされましたが、戦争が終われば平和な時代には微妙に受けなくなったあおりがあったことでしょう。
従軍学徒が『万葉集』を携えて戦地に行っていたというようなイメージがありますが、本当のところはどうなのでありましょう。王朝和歌を否定するのには、『万葉集』を誉めあげるのが一番でありまして、よく分からないところがあるので、かえって読み耽るには都合がよかったなんてことはないんでしょうか?
この歌についても、末句の「かなし」の意味が分かりませんし、初句・二句がその「かなし」とどういう関連があるのか、にわかに分かりかねるのであります。よく言うと、歌柄が大きすぎて私の手に負えないとも言えますが、悪く言うと、はったりがあるような気もするんであります。源実朝が中国に渡ろうと思って船を建造させたけれども、願いを果たせなかったという話を、堀田善衛さんの『定家明月記私抄』で読んだような気がいたしまして、その時の気分と一緒です。大河ドラマで、失敗に終わった船の建造の顛末を描いていて、ほほう、「三谷さんやるなあ」とうなりました。政治の世界も文学の世界も、遅れてやってきたのが功を奏して、大胆なことができたりするということは、考えておいていいと思います。
ところで、「鳩三郎」というお菓子をご存じでありましょうか、八幡太郎義家、源九郎義経にあやかるとか。
「鳩三郎」をいただきましたが、いつも通りのざくざくした食べ始めの食感とバターの風味、やがてほどよい甘さとともに溶けまして、大変おいしゅうございました。鶴岡八幡宮のぼんぼり祭りのお土産でございまして、箱に10枚入った豊島屋のお菓子であります。「なあんだ、それは『鳩サブレー』じゃないのか」と叱られそうですが、中に入っていた「鳩のつぶやき」という栞というか、ご挨拶というか、流麗な文章によって、このお菓子を「鳩三郎」と呼んでも構わないことが分かりました。豊島屋三代目の方が、鳩サブレーの来歴を詳しく綴っておりまして、近代史の中に「鳩サブレー」を位置づけることさえ可能なのであります。ぼんぼり祭りというお祭りを、外出嫌い出不精の私は馴染みがありませんので、調べてみると、立秋の頃の楽しそうなお祭りなんだそうでありまして、なんとコロナ前までは実朝祭が催されていたそうなのであります。源実朝公は、建久3年(1192)8月9日の巳の刻、源頼朝の次男として鎌倉名越の北条時政の屋敷・浜御所で、北条政子のお腹から生まれたんだそうでありまして、それを祝して、昭和17年から行われているそうです。戦時中の忙しい時でありますから、微妙な時期に始まった行事でもありますね。戦意高揚と関係していたんでしょう。
世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも
(『百人一首』第93番・鎌倉右大臣)
この歌は、第九代の勅撰和歌集である『新勅撰集』の巻八・羈旅の真ん中あたり、525番として出てきまして、「題しらず」とあるのです。『新勅撰集』の撰者は、もちろん藤原定家その人でありまして、貞永元年(1232)に命が下って、文暦二年(1235)3月12日に完成を見るわけですが、宇都宮頼綱に依頼された色紙形を執筆して贈ったのが二ヶ月後の5月27日なのであります。つまり、『百人一首』の原型である『百人秀歌』は、『新勅撰集』と連動していて、その『百人秀歌』にこの歌は入っております。源実朝は、もちろん藤原定家の指導を仰いだことがあるわけで、『新勅撰集』に25首採用してますから、これは愛弟子扱いであります。何のはばかりもなく、いっぱい入れたということなのであります。その中でも、定家のお気に入りの歌だったということでしょうか。ところで、この歌を実感に即して読んだ名歌だという評価がありますが、「どの口がそんなことを言う?」と、ひっくり返るほど驚きました。これは、ちぐはぐな本歌取りの歌ではないのか? と思うんですが、それを実感に即したものだと言えるのかどうか、どうみても評価軸がぶれていて不思議です。
河の上に ゆつ岩群に 草むさず 常にもがもな 常おとめにて
(『万葉集』巻一・22番・吹黄刀自)
みちのくは いづくはあれど 塩釜の 浦漕ぐ舟の 綱手かなしも
(『古今集』巻二十・1088・東歌)
『万葉集』の巻頭に近い歌の「常にもがもな」という願望表現をそのまま使っておりますが、元の歌が伊勢の斎宮に同行した人の歌のようでありますから、職務の完遂を願った歌であります。それを目に留めて自分の歌に取り入れて、「世の中が永遠だといいなあ」と願っているんであります。本歌取りには至らないけれども、発掘した古めかしい表現の上手な再利用でありまして、鎌倉の将軍家のお坊ちゃんが『万葉集』を愛読して自分の歌にいろんな語句を取り込んでみたわけです。これというのは、京都から見たら「その手があったか」と驚きでありましょう。その大胆なセンスが、歌道家で窮屈に歌を作っていた定家さんなどには案外気に入られていたかも知れません。あとの歌は、これは本歌でいいと思います。上の句の「東北はどこもいいけど、特に塩釜がね……」という、お国自慢の部分をカットして、歌の焦点である綱手を抜き取ったんですね。船体に付属している綱手に対して「かなし」と愛着しているところを生かしたわけですが、ここが私には分かりません。他の人も分かんないと思うんですが、みなさんこの歌を誉めるのでありますが、それもよく分かりません。みなさんの真意は分かりませんが、おそらくお座敷芸を見た時のように適当に誉めているだけのようです。
この歌を、無常観が籠められているとか、感傷的であるとか言うようですが、「世の中は 常にもがもな」という部分をどう読むと、「無常観」に辿り着くんでしょうか。「世の中は、常ならざるものかな」なら無常観ですが、「常に」と希求するなら、それは無常観ではありません。むしろ逆でありましょうね。どうしてそこで間違えるんだろう。むしろ、生命賛歌で、躍動感と健康美だと思います。
船を漕げない時に、陸上というか浜辺から船を引っ張るのが綱手のようなんですが、そうすると「漕ぐ」という動詞とかみ合わないのであります。だから、「漕ぐ」という動作は「綱手を引っ張って船を進める」という意味に取る以外に、解決策はないのでありますね。だとしたら、海人たちが、ものすごい力で船を引っ張って、ぐいぐいと動かしているんであります。それを「かなしも」というのは、諸注釈の言う通り、「悲しも」ではなくて、「愛しも」でありまして、いとおしい、じーんと来るという気持ちを表しているんです。さて、だとするとこの歌は、とんでもない反転をするんでありまして、やっぱり時代の風に乗っているというか、藤原定家さんのお弟子さんなんであります。
ひょっとして、「綱手」というのは、「綱を引っ張る係」「船を係留する係の者」というような意味ではないでしょうか。行楽地でボートに乗りますが、時間になって戻ってきたら、普通は管理している人が出て来て、船を岸辺に係留いたします。乗組員が一人か二人なら、それまで漕ぎ手だったひとがぱっと岸に降りて、「綱手」になって船を固定することでしょう。注釈書はどれもこれも「綱手」は、「綱」のことだと説明して、微塵も人である可能性を考慮しておりませんが、それでいいんでしょうか。まあ、注意力が散漫になってぼんやりすることは誰にだってありますから、仕方ないのかもしれません。
ともかく、さあさあ、お立ち会い。鎌倉の三代将軍、あの右大臣様が、お若いのに見事な詠みっぷりであります。「かなしも」というのは片桐洋一さんが『古今和歌集全評釈』で指摘の通り、「妹(いも)」へのいとおしさを表す言葉何であります。そうすると「世の中」というのは、世間の他に「夫婦愛」を指しまして、船の綱手を握っている海人というのは、たくましい力自慢の夫のことでありまして、綱手の付いた船に「妻」が乗っているんではないでしょうか。夫唱婦随、夫婦で船に乗って、金華山沖で助かった老夫婦の話を以前ブログで2011年に報告したことがありまして、それを思い浮かべます。2011年3月の東日本大震災の折、東京の女子大生が祖父母が津波のあと連絡を絶ったと半べそだったそうですが、実は漁に出ていて海上で津波をやり過ごしたそうで、ずっと後で無事に帰宅を果たしたんだそうです。たぶんニュースにもならなかったんですが、よかった、よかったという、本当にあった話です。漁師のことを海人・海女(あま)といいますが、基本は夫婦で一艘の舟に乗って、命を懸けて漁をするものではなかったでしょうか。クジラを捕る捕鯨船や、重労働のマグロ漁船のような男くさい大型船を思い浮かべてはダメです。漁業や農業は、素朴なら夫婦が単位となるはずなんです。妻が潜水して貝を取れば、夫が命綱を握っていて引き上げます。だったら、夫が綱手を引いて舟を進めるなら、妻は船に居て方向を指示して声を掛ける係でございましょう。
実朝の『百人一首』に採られた歌の話ですが、だから、船は一隻・二隻じゃありません。塩釜ですからね、天然の良港ですからいつの時代も船はいっぱい浮かびます。誰ですか一隻だと思っているのは。ああ、みんなだ。寂しい光景だって説明している注釈書も見たことがあります。
この歌の背景には、漁を終えて塩釜に帰港しようとするあまたの船の光景を描いた本歌がありまして、まさしく景気のいい大漁で沸く好景気の港が設定されているのであります。それを読み切った実朝公は、それを夫婦円満・夫唱婦随のニュアンスで、世の中こうでなくちゃ、と詠んで見せたのであります。東北だから、うら寂れた港町、一隻ばかりの船、などと思い込んでいるから、東北随一の良港の賑わいを見落とすのであります。見事大手柄。すっきり分かってしまいました。すなわち、実朝の歌には、わんさといる漁師の夫婦を寿ぐニュアンスが込められていて、とても健全、どちらのお二人さんも、いつまでも幸せにね、見てるこっちもじーんときたよ、と言っているのでありますし、本歌も景気のいい塩釜港の様子なのであります。初心者の歌ですから、京都の貴族が思いもしない素材をおおらかに、すこやかに想像力で詠んじゃったんですね。だから、へんちくりんに見えたとも言えましょう。この時代の貴族の歌の上品さからすると、ちょっと下品なくらい元気がいい。蛇足ついでですが、塩釜を含めた被災地の港が、大津波から復興して、以前にもましてのすばらしい港に復活することを心から、陰ながら、切に祈っておりますよ。
実朝の歌はうら寂れた無常観の歌だと従来は思われていたようですが、さて、普通に眺めたら、そんな解釈は出来ないだろうと思うのです。作者の悲劇的な運命から、生前詠んだ歌を結び付けて大げさに解説するというようなスタイルは、現在は恥ずかしいような気がいたします。
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