北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(95) 慈円
95 前大僧正慈円
おほけなくうき世の民に蔽ふかな我立つ杣に墨染の袖
〔評釈〕私は天台宗の本山、比叡山延暦寺に住んで、この狭い墨染の袖で世の中の人達を蔽つて、多くの人々が安全であるやうに祈祷してゐるのであるが、何分にも法徳のつたない愚僧の身分であるから、まことにその重任に堪へかねる事である。
との意である。大きな慈悲心を歌つたところは僧侶として当然のやうであるが、その精神は実に尊いものである。この歌は千載集雑中に「題しらず」として出てゐるが、後撰集春中読人知らずの歌に「大空をおほふばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ」とあるのに印象を受けたのであらう。
〔句意〕▼おほけなく=負け気、大気なくで勿体ない、又身分不相応の意。▼うき世の民=世の中の民の意。▼おほふかな=袖を蔽ひかけることで民の憂ひを救ふ事。法華経の「以法衣覆之」から出たのである。▼我が立つ杣=比叡山の事。開祖伝教大師の歌「阿耨多羅三藐三菩提のほとけたち我立杣に冥加あらせ給へ」から出たのである。▼墨染の袖=僧衣の事、「墨」は「住」といひかけたのである。
〔作者伝〕
法性寺入道関白忠通公の子。延暦寺の座主覚快法親王の弟子となり養和元年に慈円といつた。又吉水和尚とも云はれた。建暦二年に権僧正となり、後四度比叡山の座主となり、嘉禄元年七十一歳で入寂した。高貴の家柄に生れ乍ら常に賎民を思ひ憐んだ。学を好み歌も巧みで、後鳥羽上皇は「慈円僧正歌は大やう西行法師が風体なり。すぐれたる歌いづれの上手にもおとらねど、かくめづらしきさまを好まれたり」と仰せられた程である。
〔補記〕
いろいろと問題が多く、校正が間に合っていないという問題の外に、原稿の作成とそのチェックが十分機能していなかったことが想像されまして、気の毒な感じがいたします。
評釈のところに、影響を与えた歌として「大空を」の歌が引用されていますが、昭和5年版ではこの歌を「伝教大師の歌」と説明していました。まったくの誤りですから、「後撰集春中読人しらず」と差し替えました。
句意のところ、三句目を引用して「おほふかな」とありますが、昭和5年版では「あほふかな」とありましたので、「あ」を「お」に直しました。なお、その後に法華経の一節「以法衣覆之」が引用されていますが、そこには返り点が付してありました。縦書きを前提にした表記なので、横書きに馴染まないとして省略しましたが、「以ニ法衣一覆レ之」なので、書き下しは「法衣を以て之を覆ふ」です(送り仮名は付されていませんでしたので推定です)。
句意の「我が立つ杣」の解説に、伝教大師の歌が引用されていますが、その初句・二句にあたるところは「阿耨多羅三藐三菩提の」というところは、昭和5年版では「(上略)三菩提の」となっていました。省略した意味が分かりませんので、省略部分を補い、それに伴って「上略」という表現を削りました。
作者伝のところに、慈円の経歴として「比叡山の座主となり」と紹介していますが、昭和5年版では「座」の部分が欠けて空白になっていましたので補いました。
〔蛇足〕
白秋は、和歌の五句目の「墨」のところに、「住」が掛かっていると指摘しまして、訳出にもそれを採用しています。「墨染めの袖」に「住み」が掛詞になっているという認識です。これに対して「墨染の袖」に「住み初め」が掛かるとする説もありますが、香川景樹はこうした掛詞を否定していましたが、大勢は掛詞を認める方向です。また、白秋はこの歌を三句切れ倒置法と考え、下の句を先に訳し、上の句をその後で訳しています。和歌に即した訳を抽出するとつぎのようになるでしょう。
私は延暦寺に住んで、墨染の袖で世の中の人達を蔽つてゐるが、その重任に堪へかねる。
「おほけなく」を訳しにくいと見て、あるいはこの歌の趣旨と見て、解釈の最後に回しておりますけれども、これを句意の解釈を参考にしつつ本来の位置に戻し、倒置を元に戻すと、次のようになります。
身分不相応に世の中の人達を蔽つてゐることよ。私は延暦寺に住んで、墨染の袖で。
そこそこ穏当な解釈ではないかと思いますが、白秋は「おほけなく」について「何分にも法徳のつたない愚僧の身分であるから、まことにその重任に堪へかねる事である」という理解を示しています。これは粉本である佐佐木信綱『百人一首講義』から受け継いだものですが、比叡山の最高位である座主になった人の歌と見ると、謙虚な人柄がしのばれたりするわけですが、実はこの歌は『千載集』に入っているので、慈円がそんな地位に昇る前の若い日の歌であるとすでに指摘されています。そうなると、「住み初め」が掛けてあると見て、一介の僧にもかかわらず衆生を救済する覚悟を示しているというように読めそうです。なお、白秋は「墨染めの袖」に「この狭い」という修飾句をかぶせて、「おほけなく」の解釈を上手に補足していますが、その部分は信綱の訳にはないので、白秋の工夫のようです。それから、白秋は評釈の訳出の中に「多くの人々が安全であるやうに祈祷してゐるのであるが」と補って「袖で世の中の人達を蔽っている」ことを具体化していますが、これは信綱の「一天下の安全を祈祷すれば」という表現をわかりやすく読者に提示したものです。
さて、こうして白秋の訳を分析しているうちに、訳の分からない慈円の歌も、何となくありがたい青年僧の決意の歌として理解できまして、頭に滲みこみ始めました。慈円は久寿二年(1155)の生まれですから、『千載集』が文治三年(1187)か翌年に完成したとされていますので、この歌が勅撰集に掲載されたときには33歳くらいで、それよりもっと若い時に詠んだ歌のようです。慈円が初めて天台座主になったのは建久三年(1192)38歳だそうですから、偉くなる人はそうなる前から人間ができていたということでよろしいかと思います。
〔蛇足の蛇足〕
『千載集』巻第十七・雑中 1134番
題知らず 法印慈円
おほけなく 憂き世の民に おほふかな 我が立つ杣に 墨染めの袖
『千載集』では法印慈円ですが、『百人一首』だと前大僧正慈円とでてきまして、仏教界の格付けはよく分かりませんが、どんどん偉くなった方なのだろうと分かります。それにしても前の雅経の歌が非常に分かりやすいのに比べて、慈円の歌は、なんとなく最初から疎遠なものを感じます。よく考えてみると、私は「憂き世の民」でありますから、覆われているわけですけれども、そりゃありがたいと思うかというと、何だか迷惑なような気がしてしまうんですね。「おほけなく」というようにいくら謙遜されても、歌のサイズが大きいというか、特大の僧衣を着たお坊さんでありまして、慈円がウルトラマンのような巨大サイズに感じてしまいまして、いいえけっこうです、迷える衆生はなんとか自分なりにやっております、ほっといて下さいというような気持ちがしてくるのであります。慈円さんは、後鳥羽院をいさめるために『愚管抄』を書いた人でありまして、生まれも藤原摂関家でありますから、身分も高いが実力も充分の立派な人なのであります。
三句切れの歌であります。句切れがあるということは、実は歌が倒置法によってひっくり返っていることが多いわけで、そのために解釈が難しくなるのであります。何遍も繰り返し口ずさんでいるうちに、倒置が元通りになって、主旨が見えたりいたします。つまり、「墨染めの袖(を)おほけなく憂き世の民におほふかな」となりまして、生意気にも衆生を救済しようとするのだ、というような決意でありまして、お坊さんとしての決意を表明しているのであります。「おほけなく」という言葉は、語源も不明でありまして、現在は使わないのでありますが、「身の程知らずに生意気にも」という意味であることは、なんとなく認めていいでしょう。そうでないと、この歌はバランスを欠いてしまいます。問題は、「杣」でありまして、これは材木をとる山「杣山(そまやま)」の事なんですが、じつは「我が立つ杣」というのは、比叡山に根本中堂を建てた伝教大師の次の歌によって、比叡山を指すのだそうであります。僧侶の人材育成所たらんことを比喩したのでありましょうか。五句目の所に掛詞があるために、四句目五句目は、「我が立つ杣に住み初め」となり、「比叡山に住み始めて以来」という意味が隠れていまして、ようやく全体が分かりました。
比叡山中堂建立の時 伝教大師
阿耨多羅 三藐三菩提の 仏たち 我が立つ杣に 冥加あらせたまへ
(『新古今和歌集』巻第二十・釈教・1920)
あのくたら・さんみゃく・さんぼだいの ほとけたち わがたつそまに みやうがあらせたまへ
慈円という人は、慈鎮和尚ともいいますけれども、なかなか人徳のあった人物でありまして、『徒然草』の226段に登場いたしますが、兼好法師の伝える『平家物語』の成立に関わる有名な話なんですけれども、これを慈円を軸にして考えるとちょっと違って見えるような気がします。それはどんな話かというと、こんな話でございます。後鳥羽院の時代に、学問が出来ると評判の信濃の前司行長は、御前で『白氏文集』を論じた時にヘマをしまして、それが原因で学問を捨てて遁世したのだそうです。慈鎮和尚は、一芸ある者を好んだので、この行長を食客にして手厚くもてなしました。食客というのは、おそらく「居候」のことでありましょうね。悪く言うと寄生虫みたいなものと思います。ともかく、この食客だった人物が作って、盲目の生仏という人に語らせたのが『平家物語』でありまして、だから『平家物語』は比叡山のことがめちゃめちゃ詳しく、登場人物の情報量に偏りがあるとまで兼好法師は指摘しております。
兼好法師が持ち出す情報というのは、誤りがないということを耳にしたことがあります。とっておきの情報が『徒然草』に書き込まれているのだとすると、慈円に関する話も信憑性があるということでありましょう。
だとしたら、『平家物語』というのは、慈円の膝元で温めたものと言っていいわけなのでありますね。どうもこの和尚さんは、これだけではなくて、いろんなことに手を貸していた名プロデューサーのようなのです。だったら、『百人一首』におけるこの和尚さまの歌の格調の高さというものは、すんなり理解できます。
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