北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(92) 二条院讃岐

92 二条院讃岐


わが袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし


〔評釈〕恋人のつれなさを独り忍んで悲しんでゐる私の袖は、恰度汐干の時も現はれない沖の石のやうに、人には少しも知れないが、涙で乾く間とてはない。

といふ意で、片恋に悩んでゐる女心の悲しさを水中に没してゐて人目にあらはれない岩にたとへた歌である。調子もしつくりしてゐるが、極めて鮮明な比喩が却つて非凡と見られよう。千載集恋二に「寄石恋といへる心を」と題して出てゐる。この歌が当時有名で作者を沖の石讃岐といつた程である。


〔句意〕▼汐干=ひき汐の事。▼沖の石=沖に在る石の濡れ隠れて人に知れないのと、自分の涙に袖が濡れて乾く間のないのを先方が知らぬとに通はせたのである。

百首異見に「若狭国遠敷郡矢代浦から、七八町ばかり沖なる海底に大石あり、昔より沖の石といひて、尤も舟人の舟腹をかかれん事をおそれて漕ぎさくるわたり、今も土人沖の石と常に言ひなれたり(中略)、作者これを言へるならん云々」とある。


〔作者伝〕

讃岐は二条院に仕へた官女で、源三位頼政の女である。父が歌を好くしたのでその才をうけこの道に巧みであつた。有名な式子内親王と共に雅経や家隆に比した程で誉が高かつたのである。

二条院は後白河院第一皇子で御母は大炊御門大納言経実の女である。御諱は守仁と申上ぐ。


〔補記〕

句意に『百首異見』が引用されていまして、引用の冒頭近くに「矢代浦」とありますが、昭和5年版では「八代浦」とありました。「八」は「矢」の誤りと見て直しました。若狭国遠敷郡域は、現在福井県小浜市に吸収されましたが、地図で「矢代海水浴場」「矢代漁港」「矢代崎」など確認できます。


なお、「沖の石」を普通名詞と捉える見方がある一方で、固有名詞と見てその所在地について、ひとつは香川景樹『百首異見』にあるように若狭国遠敷郡の矢代浦の沖合の海底の大石を考えるようです。この地は、讃岐の父頼政が宮中で禽獣を射た褒美として与えられた地で、讃岐にもなじみがあったとするのが香川景樹の見立てです。『奥の細道』には、多賀城付近にある沖の石を訪ねる場面がありますが、この沖の石は末の松山からほど近いところで、伊達家が江戸時代初期に領内整備の一環として、沖の石を定めたらしいとされています。


作者伝にいくつか誤りがありました。


まず「式子内親王」が、昭和5年版では「式部内親王」とありましたので、「部」を「子」に改めました。


また、二条院の祖父に当たる「大炊御門大納言経実」については、昭和5年版には「大炊御内中納言経実」とありました。「内」は「門」の誤植と見て改めました。大炊御門経実の最終官歴は中納言ではなく大納言なので、「大納言」と改めました。


〔蛇足〕

90番に出て来た殷富門院大輔の歌と同じころに活躍した作者の作品で、同じように『千載集』に入っている恋の歌ですが、こちらの二条院讃岐の歌については、白秋は「調子もしつくりしてゐるが、極めて鮮明な比喩が却つて非凡と見られよう」と評価しています。讃岐の歌は、二句目・三句目を序詞として四句目・五句目を導いていると考えるわけですが、それなら殷富門院大輔の歌についても同様の理解をすれば、あちらも間違いなくこの讃岐の歌と同じ評価を受けるはずなのであります。


見せばやな 【雄島の海人の】 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変はらず

  (『百人一首』90番 殷富門院大輔)


我が袖は 【潮干に見えぬ 沖の石の】 人こそ知らね 乾く間もなし

  (『百人一首』92番 二条院讃岐)


序詞の部分を括弧で括って、それをないものとして味わえば、どちらも同じようなことを述べている歌に過ぎないわけで、二条院讃岐の歌が「袖が人知れず密かに濡れている」と恋愛の初期段階を示すのに対して、殷富門院大輔に歌は「袖は濡れに濡れる」と恋愛の後期段階を示していたはずであります。「だに」の解釈を誤ったまま、殷富門院大輔の歌は血まみれの歌になりましたので、白秋などは好まなかったようですが、正しく解釈したら、どちらも似たような歌でありまして、四句目・五句目を相手に訴えかけるというシンプルな歌なのであります。


〔蛇足の蛇足〕

『千載集』巻第十二・恋二 759番 

     寄石恋といへる心を   二条院讃岐

我が袖は 潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

    

作者は、源三位頼政のお嬢さんであります。源三位頼政さんというのは、近衛天皇か何かの時のヌエ退治で有名な方でありまして、その時の話で面白いのは、矢を二本用意していたというエピソードであります。あなたほどの名人が矢が二本とはどういうことですか、と訊かれて、ああ、もし万一射損じたら、おれをヌエ退治に引っ張り出したやつをあの場で射殺そうと思ったのさ、というようなコメントが残っております。以仁王を奉じて平家に反抗した人でありまして、平家滅亡の口火を切った人であります。地方の人ではなくて、摂津源氏と称する都にいた源氏でありまして、晩年に公卿になりましたが、弓の名人でもあったと言うことなのです。そして何より、この頼政さんは歌がうまかったのでありまして、『詞花集』以下に六十一首入る歌人ですから、お父さんと娘が『百人一首』に入っていてもよかったのであります。残念ながら、源三位頼政さんは入っていないのであります。


 沖の石というものが一般名詞なのか、それともどこかの地名ないしは固有名詞なのか、という問題がありました。陸奥にあるという説と、若狭説とが対立しますが、まあ仮に陸奥だとすれば、殷富門院大輔の「雄島」(90番歌)も二条院讃岐の「沖の石」も、ともに松島あたりと言うことになりまして、宮城県の塩釜・多賀城付近というのは歌枕がたくさんあるのであります。大和朝廷は陸奥を征夷大将軍坂上田村麻呂によって征服させましたが、貞観地震の大津波で痛手を受けまして、ひょっとしてそのことが陸奥の歌枕に対する平安貴族の嗜好の原因になったのかも知れません。国家運営の難しさ、大規模災害に対する対処の困難、そういった課題を突き付けられ、日本列島程度の広さでも、古代の政府にとっては統治が思ったより難しかったのかも知れません。私の師匠は、その昔沖の石を仙台近郊で見たと何かの文章に書いておりましたが、さて2011年の東日本大震災の時にはその沖の石はどうなったのでありましょうか。


「寄石恋」という題詠ですけれども、この四句目の「人」というのは、恋の相手を指す二人称でなければ意味を成さないことでしょう。「あなたは気付かないが」と訳すことで、一首が濡れた袖の存在を匂わす恋の告白の歌になるわけです。恋の涙を袖で拭うというのは、平安時代の基本でありましょう。「人こそ知らね」の「人」は、やはり二人称でなければならないと思いますが、注釈書は基本的には三人称に取るようです。ただ、いくつかの注釈書は三人称だけど、恋の相手のことでもあると指摘しております。


だったらもう、二人称だと言ったほうがいいかも。「あなたは気付かないでしょうけれど、袖はあなたを恋い慕う涙で濡れていて、乾く時がありません」で、いいじゃないですか。詠作主体が女でも男でも成立しそうで、もらった人は自分に密かに思いを寄せてくれていたことを知りまして喜ぶ歌であります。都の人は、この讃岐の歌をみんな口ずさんでいた時期があったと考えていいでしょう。

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