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岩波文庫『百人一首』を読む(82)   道因法師

 82 思ひわびさても命はある物を 憂きにたへぬは涙なりけり 【訳】恋の想いに堪えかねても、それでもつれなく命は永らえているものなのに、つらさに堪えずもろくこぼれるものは涙だったのだなあ。 【出典】千載集・巻十三・恋三・818    題不知 【解釈の要点】 ①「思ひわぶ」というのは、思うことにも倦む、思いあぐむ、思うことにつかれてしまう、気力を失った状態をいうと見られる。万葉集の時代から、巻四646「ますらをの思いわびつつ度まねく嘆く嘆きを負はぬものかも」(大伴駿河麻呂)、巻十五372「塵泥の数にもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらむ妹がかなしさ」(中臣宅守)などと詠まれている。65相模の「恨みわび」というのに近い状態をさすと言ってよい。 ②命が露のようにはかないものというのは古人にとって通念であっただろう。紀友則は古今集・恋二615「命やは何ぞは露のあだ物を逢ふにし替へば惜しからなくに」と歌った。だから、「思ひわび」る状態が続けば、命までも危ぶまれる。けれども、その命も案外しぶとい。康資王母は、わずっていたのを知らなかったと言った恋人に、「思ひ出でて誰をか人の問はましな憂きに堪へせぬ命なりせば」と、もしもあなたの薄情さに堪えられずに私が死んでしまったら、あなたは誰を見舞ったのでしょうかと嫌みをいう形で、自らの命の「憂き」にも堪えぬいた強さを確かめている。康資王母との先後関係は不明だが、小式部も、しばらくやって来ない人が音信してきたのに対して、千載集・恋四843「思ひ出でて誰をか人の尋ねまし憂きに堪へたる命ならずは」と、似たような発想を詠んだ。「さても命はある物を」と言ったのは、道因の記憶にこれらの歌があったからか。 ③新大系『千載和歌集』では参考として、歌仙家集本『貫之集』の「世の中はかなき事を見て 憂けれども生けるはさてもあるものを死ぬるのみこそ悲しかりけれ」の歌を挙げる。 ④命はそのように我慢強いのに、涙は「憂き」恋に堪えきれずに、絶えずもろくこぼれ続ける。思いわびて流す涙は、古今集・恋五813「わびはつる時さへものの悲しきはいづこをしのぶ涙なるらむ」(読人不知)と歌われていたが、命と涙の持続力を対比させたところに道因の工夫があったと言ってよいか。下河辺長流の『三奥抄』に「いづれも我ものにして、強弱替りめ有を云たるなり」という。契沖『改観抄』はおおむね『三奥抄』...

岩波文庫『百人一首』を読む(81) 藤原実定

81 ほととぎす鳴つる方をながむれば ただ有明の月ぞのこれる  後徳大寺左大臣 【訳】ほととぎすが鳴いて飛び過ぎた空のかなたをじっと見つめると、ただ有明の月が西の空に沈みもやらで残っているよ。ほととぎすの姿は見えないで……。 【出典】千載集・巻三・夏・161    暁聞郭公といへる心をよみ侍ける 右大臣 【解釈の要点】 ①この歌を収めている歌書は、藤原実定の家集『林下集』と、『歌仙落書』『治承三十六人歌合』ぐらいしか知られていない。家集では「郭公歌とて」という詞書でまとめられた四首の歌群の最後の作、他の二書では共に「暁郭公」を詞書とする。千載集で「暁聞郭公」という結題は、撰者の俊成が歌の内容に即して考えたか。 ②下河辺長流の『三奥抄』の頭書に、藤原頼通の後拾遺集・夏192「有明の月だにあれやほととぎすただ一声のゆく方も見ん」と、藤原孝善の金葉集・夏112「ほととぎす飽かで過ぎぬる声によりあとなき空をながめつるかな」を引き、契沖『改観抄』でも二首を挙げて、「今の歌は此二首をおもひたまひけるにや」という。両書は孝善を藤原顕輔と誤るので、この『三奥抄』の頭書は、契沖の所為か。 ③賀茂真淵の『宇比麻奈備』は、千載集の詞書に続いて一首の大意を述べた後、この歌に影響された『玉葉集』夏330「時鳥過つる方の雲間より猶ながめよと出づる月影」(宜秋門院丹後)を、出典も作者名も記さず引き、「……など、其外ひとびとよみたれどみなおとりたり」とある。同書の母胎である真淵の『百人一首古説』を見ると、丹後の歌を引いた後、「……などいふも、後には出来るにや、似たる物にもあらぬなり」と記した後に、『改観抄』を踏襲して頼通や孝善の歌を引き、「これらの歌の心いたくかはらねど、歌はただつづけがらいひなしにざりけり、此公のは殊の外にすぐれて聞ゆ」と、実定の歌を賞している。『宇比麻奈備』は、『改観抄』の影響部分を捨ててしまった。香川景樹の『百首異見』は、真淵の大意をそのまま引いた後、丹後の歌に言及することなく、「実にけしきみえて郭公にとりては当時最第一の御歌といふべし」と、実定の詠を絶賛して、「改観に宵より待明して明方に一声聞つるにおどろきてといへるは過たり」と、『改観抄』の注解を批判する。 ④ほととぎすは万葉集の昔から人気随一の名鳥である。万葉集に登場する鳥は計38種、このうち首位を占めるものがほととぎす...

岩波文庫『百人一首』を読む(80) 待賢門院堀河

80 長からん心も知らず黒髪の みだれて今朝は物をこそ思へ  待賢門院堀河 【訳】あなたの愛情が長続きするかどうか、わかりかねます。丈なす黒髪も寝乱れ、心も千々に乱れて、あなたとお逢いしたのちの今朝、わたしは物思いに沈んでいます。 【出典】千載集・巻十三・恋三・802    (百首歌たてまつりける時、恋の心をよめる) 【解釈の要点】 ①詞書にいう「百首歌」は、これも崇徳院に詠進した『久安百首』である。 ②「長からん心」とは、長続きするであろう愛情のこと、「心長さ」とも言われる。気が長いのではない。愛情の持続することを意味する。源是茂は平中興の娘に、あなたの心は私から他の人に移ったのですねと言われて、後撰集・恋四842「君を思ふ心長さは秋の夜にいづれまさるとそらに知らなん」と返歌した。源氏物語・浮舟の巻で、中の君はいつまでもなき大君を忘れない薫のことを「昔を忘れぬ心長さの、なごりさへ浅からぬためしなめれ」と感じ入っている。相手の愛情の長続きすることを願うのが恋する人間の願いであろう。そのような保証がないままに逢い、許してしまったので、その翌朝である「今朝」は、寝乱れた黒髪さながら、心も思い悩み、乱れに乱れているのである。後朝の恋という状況を歌ったもの。 ③王朝の女の生命とさえ見られる長い黒髪は、乱れやすい。和泉式部も、後拾遺集・恋三755「黒髪のみだれも知らずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき」と歌っている。下河辺長流の『三奥抄』の頭書は、紀貫之の拾遺集・恋一669「朝な朝なけづればつもる落髪の乱れて物を思ふころかな」を引き、契沖の『改観抄』では、この歌を取って堀河は詠んだのだとする。「長からん」「みだれて」はともに「黒髪」の縁語。うねる黒髪の眼前に浮かぶような歌である。 ④『待賢門院堀河集』は自撰家集かと考えられている。『久安百首』も41首抄出しているが、この歌は採られていない。この歌と同じく「黒髪」「みだれ」の語を含み、「枕の下のきりぎりす」という題で後朝の恋めいた雰囲気を詠んだ「黒髪の別れを惜しみきりぎりす枕の下にみだれ鳴くかな」という歌がある。 ⑤堀河と西行はすぐに心が通じ合える、ごく親しい異性の友だったと思う。その内に参上しますと言いながら、月の美しい頃、西行が通り過ぎたと聞いた堀河は、「西へ行くしるべと頼む月影の空頼めこそかひなかりけれ」と言い送ってきた。...

岩波文庫『百人一首』を読む(79) 藤原顕輔

79 秋風にたなびく雲のたえまより もれいづる月の影のさやけさ  左京大夫顕輔 【訳】秋風に吹かれてたなびいている横雲のとぎれた間から洩れてさし出ている月の光の、何とさやかなことか。 【出典】新古今集・巻四・秋上・413    崇徳院に百首歌たてまつりけるに 【解釈の要点】 ①崇徳院の「瀬をはやみ」の歌と同じく、久安六年(1150)の『久安百首』に、61歳だった顕輔が詠進した歌である。 ②万葉集には、月夜に雲がたなびかないでおくれと訴えかけた歌が多い。巻七1085「妹があたり我は袖振らむ木の間より出で来る月に雲なたなびき」(作者未詳)、巻八1569「雨晴れて清く照りたるこの月夜また更にして雲なたなびき」(大伴家持)、巻十一2460「遠き妹が振り仰け見つつ偲ふらむこの月の面に雲なたなびき」(柿本人麻呂歌集)、巻十一2669「わが背子が振り放け見つつ嘆くらむ清き月夜に雲なたなびき」(作者未詳)などの例がある。巻一17「しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや」(額田王)と訴えた上代の人々にとって、雲は「心」ある存在と思えたのであろう。王朝の人々は、雲は空にたなびいて月日の光を遮るものであると見、その現象にさからわず、合間に自然の美しさを見出そうとする。源氏物語・橋姫の巻で宇治八宮の姫君たちがそうであった。――「月をかしきほどに霧りわたれるをながめて、すだれを短く巻き上げて、人々ゐたり。(中略)内なる人一人、柱にすこしゐ隠れて、琵琶を前におきて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明かくさし出でたれば、「扇ならで、これしても月は招きつばかりけり」とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげににほひやかなるべし」。 ③「雲間の月」の光を詠み入れた歌は、「あな恋し雲間の月に人を見て面影にのみそへるころかな」(兼盛集)、「世の中になほもふるかなしぐれする雲間の月の出づやと思へば」(和泉式部集)、金葉集・夏123「郭公雲の絶え間にもる月の影ほのかにも鳴きわたるかな」(皇后宮式部)など、少なくない。権中納言定頼の64「朝ぼらけ宇治の川霧絶え絶えにあらはれわたる瀬々の網代木」やそこで引いた源経信母の歌「明けぬるか川瀬の霧の絶え間よりをちかた人の袖の見ゆるは」は、雲の絶え間から見える物や人を詠んだ作品であった。 ④鴨長明の『無名抄』「近代歌躰」で、ど...

岩波文庫『百人一首』を読む(78) 源兼昌

78 淡路島かよふ千鳥の鳴声に いく夜寝ざめぬ須磨の関守  源兼昌 【訳】淡路島へ飛び通う千鳥の鳴く声に、幾夜寝ざめたことだろうか、古の須磨の関守は。 【出典】金葉集・巻四・冬・170    関路千鳥といへることをよめる 【解釈の要点】 ①淡路島はいざなき・いざなみの二神の国生み神話でその生成が語られる瀬戸内海最大の島だが、誕生の経緯は『古事記』と『日本書紀』では伝承が違っている。一島が淡路国一国だったが、現在は兵庫県に属する。万葉集・巻三388で「わたつみは くすしきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊予に廻ほし……」(作者未詳)、古今集・雑上911では「わたつ海のかざしにさせる白妙の浪もて結へる淡路島山」(読人不知)と詠まれた。 ②「かよふ千鳥」という句は、大中臣輔親が文を送ったのに返事をよこさなかった女性に、後拾遺集・恋一625「満つ潮の干るまだになき浦なれやかよふ千鳥の跡も見えぬは」と言い送った歌に見える。 ③須磨は万葉集の時代から「須磨の海人」がよく知られていた。須磨までが摂津国で、明石は播磨国となる。両国の境に須磨の関が置かれた。すでに41壬生忠見で引いたように、彼が新古今集・雑中1599「秋風の関吹き越ゆるたびごとに声打ちそふる須磨の浦浪」(忠見集)と詠んだ関、源氏物語・須磨の巻に「須磨にはいとど心づくしの秋風に、海は少し遠けれど、行平の中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけん浦波、よるよるはげにいと近く聞えて……」と語られた関である。在原行平の須磨の関の歌をめぐっての議論も忠見のところで触れた。兼昌と同時代人と言ってよい源師俊の千載集・羇旅499「播磨路や須磨の関屋の板びさし月もれとてやまばらなるらむ」の歌によれば、王朝末期にはすでに廃されていた古関だったのだろう。 ④源氏物語の須磨の巻では、先に引いた須磨の浦の秋に続いて、冬を過ごす光源氏の身辺を語って、「例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く」ので、「友千鳥もろ声に鳴く暁はひとり寝覚めの床も頼もし」と独詠した源氏は、供人が皆寝静まっているので、「返す返すひとりごちて」自身もまた寝したという。下河辺長流の『三奥抄』はこの件りを引き、「須磨の浦に千鳥を読、ね覚のかなしきをいふは、源氏物語をもととするか」と考え、契沖の『改観抄』はそれを踏襲した。香川景樹の『百首異見』はこれを「いふにたらず」と...

岩波文庫『百人一首』を読む(77) 崇徳天皇

77 瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の われても末に逢はむとぞ思ふ  崇徳院御製 【訳】川瀬は水勢が早いので岩に堰かれた滝なす川が分かれても先では流れあう、そのように、何としてもいつかは恋しいあの人と逢おうと思う。 【出典】詞花集・巻七・恋上・129    題不知 新院御製 【解釈の要点】 ①第二句「岩にせかるる」は、底本(宮内庁書陵部蔵本堯孝写・函号503-236)「いはにくたくる」を詞花集や『百人秀歌』により改めた。 ②詞花集が成立した時の「新院」は同集の撰進を命じた崇徳院である。その下命者の詠が「題不知」と扱われるのはいささか不思議だ。この歌はやはり新院が廷臣や女房達に詠進を命じて自らも詠んだ、久安六年(1150)の『久安百首』の作である。 ③『久安百首』は、俊成も作者の一人で、当時は顕広。全員の百首歌による個人別百首本と、新院が藤原俊成に出揃った全員の百首歌を主題別に分類し直すことを命じてできた部類本と、二種の本文が存する。新院のこの歌は、個人別百首本では「ゆきなやみ岩にせかるる谷川のわれてすゑにもあはんとぞおもふ」として載る。部類本では「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれて末にもあはんとぞおもふ」として載る。部類本の本文が詞花集に近いが、第四句は一致しない。詞花集の成立は仁平元年(1151)、顕広が『久安百首』の部類を命じられたのは、仁平三年(1153)暮秋であるという。彼が新院の本意ではない本文の改訂を敢えてするとは考えにくい。詞花集の撰者である藤原顕輔は、『久安百首』から採った歌を、自詠を含む三首については新院の仰せによる百首での詠と明記するのに、この歌ともう一首の新院の歌は「題不知」としたことも、院の意向を反映したか。 ④「瀬をはやみ」は48源重之の「風をいたみ」と同じ構文で、瀬が早いのでの意。「滝川」は、滝状をなして流れる川。下河辺長流の『三奥抄』は「山の間を流るる川を滝河といふ」とする。 ⑤契沖の『改観抄』は『三奥抄』に拠りつつ、後撰集・恋六1059「瀬を早み絶えず流るる水よりも絶えせぬものは恋にぞありける」(読人不知)、万葉集・巻十一2716「高山ゆ出で来る水の岩に触れ砕けてそ思ふ妹に逢はぬ夜は」(作者未詳)の「二首を取てよませたまへり」と言い、さらに、古今集・離別405「下の帯の道はかたがた別るとも行きめぐりても逢はむとぞ思ふ」(紀友則)なども心か...

岩波文庫『百人一首』を読む(76) 藤原忠通

76 わたの原漕ぎ出て見れば久方の 雲井にまがふ沖つ白浪  法性寺入道前関白太政大臣 【訳】大海原に船を漕ぎ出して見ると、空の雲に見まごう沖の白波だ。 【出典】詞花集・巻十・雑下・382    新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる(関白前太政大臣) 【解釈の要点】 ①作者名は底本では「前」の字がない。『百人秀歌』によって記した。藤原忠通のことである。詞花集の詞書にいう「新院」は崇徳院のこと。撰進時院政の主であった本院の鳥羽法皇と区別していう。「位におはしましし時」は忠通の家集『田多民治集』によれば、保延元年(1135)四月の内裏歌合、ただし歌合か歌会か、はっきりしない。松野洋一『藤原俊成の研究』に、同じ時に詠まれた群臣の作品の集成が載る。 ②「わたの原漕ぎ出て見れば」という表現が、11小野篁の歌の上句「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと」を強く意識していることは確かであろう。「沖つ白浪」は沖の白波、万葉集でも多く詠まれた句。下河辺長流の『三奥抄』に「雲井と読る、ここにては、天のこころなり。海水と天とひとつに成て、わかぬといふことを、雲井にまよふとはいふ」と述べ、契沖の『改観抄』もこれを踏襲するが(ただし、「くもゐにまがふ」と引く)、圓珠庵蔵契沖自筆本は「限りなく思ひしよりもわたの原漕ぎ出でて遠き末の白浪」という『新後拾遺集』羇旅913(読人不知)の歌を、「後拾遺集羇旅の歌に」として、朱で頭書している。なお、『三奥抄』の頭書には、万葉集・巻二十4380の歌「難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲そたなびく」を引く。『改観抄』では「舟といはでこぐといふは古歌にかかる事おほし」として、この歌を引く。賀茂真淵の『宇比麻奈備』も右の二首を(前の歌は集名を正しく)引く。香川景樹の『百首異見』は千載集・雑上1047「播磨潟須磨の晴れ間に見わたせば波は雲居のものにぞありける」(藤原実宗)を「同じおもむき也」という。これは承安二年(1172)『広田社歌合』での詠で(ただし、歌合では下句は「雲居に波の立つかとぞ思ふ」)、忠通の歌より37年後の作である。 ③藤原忠通は、和歌のみならず漢詩をも能くして、歌集『田多民治集』の他に漢詩集『法性寺関白御集』を遺している和漢兼作の人。詩集を見ると、「近曽聊書秋興、以寄前金吾幕下。答謝之篇。句句有金玉之声。不堪欣感。重...

岩波文庫『百人一首』を読む(75) 藤原基俊

75 契おきしさせもが露を命にて あはれことしの秋もいぬめり  藤原基俊  【訳】大殿が「わたしを頼みに思っていよ」とお約束してくださいましたその御一言――させもぐさの葉に置く露のようなはかないお言葉、それを命をつなぐものとしておりますうちに、ああ、今年の秋も空しく去ってしまうようでございます。 【出典】千載集・巻十六・雑上・1026    律師光覚、維摩会の講師の請を申けるを、度々洩れにければ、法性寺入道太政大臣に恨み申けるを、しめぢの原のと侍りけれども、又その年も洩れにければ、よみてつかはしける 【解釈の要点】 ①千載集以前に藤原清輔が私撰した『続詞花和歌集』にもほぼ同様の詞書を付して載る歌だが、これら長い詞書を読まないと、何を嘆いているか分からない歌でもある。 ②律師光覚は基俊の息男で、興福寺の僧となった人物。律師は僧都に次ぐ僧官で、五位に準ずる。維摩会は、藤原氏の氏寺である興福寺で、十月十日から藤原鎌足の忌日である十六日までの七日間、維摩経を講ずる法会、講師は経典の講義をする僧。「請を申す」とは、(講師として)招請されることをお願い申し上げること。法性寺入道前太政大臣は藤原忠通、76の歌の作者である。維摩会の講師となることは仏教界で大層名誉なことなので、基俊はわが子がなれるよう、藤原氏の氏長者である忠通にお願いしてきたが、光覚は度々その人選に洩れたので愚痴を申し上げた。すると忠通は「しめぢの原の」と答えた。これは清輔の歌学書『袋草紙』上・希代の歌に「清水寺観音の御歌」として載る、「なほ頼めしめぢが原のさせもぐさわが世の中にあらん限りは」の歌の第二句だから、「なお期待しているように」ということになる。しかるにその年も息子は人選に洩れたので、再び愚痴の歌を送ったのである。 ③嘆願の始めの基俊の歌と忠通の返歌は、『基俊朝臣集』と忠通の家集『田多民治集』の両方に載るが、後者でそれを見ておく。   光覚竪義請のぞむとて、基俊よみて侍し ここのへのさはになくなるあしたづの子をおもふこゑはそらにきこゆや   かへし よそにても子を思たづのなく声をあはれと人のきかざらめやは 『基俊集』では、前者は「光覚竪義請進殿下」、歌は片仮名書きだが『田多民治集』と全く同じ。この贈答歌は後に『風雅集』雑下1858・1859に載せられている。基俊の歌は初句「ここのつの」とあり、これが正しい...

岩波文庫『百人一首』を読む(74) 源俊頼

74 憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬ物を  源俊頼朝臣 【訳】憂くつらかったあの人の心を得ようと初瀬の観世音にお祈りしたのに、初瀬山から吹きおろす山おろしの烈しさよ。あの人がこのように烈しくあれとは祈らなかったのに。 【出典】千載集・巻十二・恋二・708    権中納言俊忠の家に恋の十首歌よみ侍りける時、祈れども逢はざる恋といへる心をよめる 【解釈の要点】 ①「憂かりける人」という表現は、八代集では後拾遺集に、相模が、「今はさらに来じ」などと言って帰った後、音沙汰もない藤原定頼に送った、恋三753「来じとだにいはで絶えなばうかりける人のまことをいかで知らまし」という、嫌みな歌に見られる。それは、来てほしいという本心の逆説的表現であろう。 ②「初瀬」は大和国、35紀貫之の古今集の歌の詞書にも見えた。奈良県桜井市初瀬の豊山長谷寺。真言宗豊山派の総本山で、本尊は十一面観音。西国三十三所の第八番札所。源氏物語・玉鬘の巻で、夕顔の女君の遺児玉鬘とその一行が、昔夕顔の侍女で今は光源氏に仕えている右近と再会する場である。 ③「山おろし」は山から吹きおろす強い風。万葉集・巻九1751の「峰の上の 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る……山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へる社に 風祭りせな」(高橋虫麻呂歌集)の長歌や、古今集・秋下285「恋しくは見てもしのばむもみぢ葉を吹きな散らしそ山おろしの風」の歌で「山おろしの風」と詠み、後撰集・雑二1138では「心してまれに吹きつる秋風を山おろしにはなさじとぞ思ふ」(大輔)と単独に用いている。 ④詞書の「権中納言俊忠」は藤原俊忠で、俊成の父。同家で「恋の十首歌」が詠まれた歌会がいつの催しであったかはわかっていない。俊頼の家集『散木奇歌集』恋下には十首のうち八首を収めるが、主催者の家集『俊忠集』には「二条家にて十首の恋歌人々によませし時」として、十題の自詠をすべて収める。外題を「源木工集」とする時雨亭文庫蔵の定家手沢本での俊頼の八首の題は、「あはんことをうらなふ」「くれどもとどまらず」「ふしながらまことなし」「いのれどもあはず」「ついせうする」{俊忠集「追従恋」)「すかいてあはず」(俊忠集「偽不遇恋」)「いやしきをいとふ」「かたきをとぐ」、これに『俊忠集』から「誓恋」「聞音恋」の二題を加えると、十題のすべてが趣向を凝...

岩波文庫『百人一首』を読む(73) 大江匡房

73 高砂の尾上のさくら咲きにけり 外山の霞立たずもあらなん  権中納言正房 【訳】あの向うの、高い山の峰の桜が咲いたのだなあ。里近い山の霞はどうか立たないでほしいものだ。 【出典】後拾遺集・巻一・春上・120    内大臣の家にて、人々酒たうべて歌よみ侍けるに、遥かに山桜を望むといふ心をよめる 大江匡房朝臣 【解釈の要点】 ①「高砂の尾上」が高い山の峰という普通名詞か、歌枕として播磨国高砂の高所か、という歌学上の問題がある。藤原範兼の『五代集歌枕」は匡房の歌を含めて十四首の例歌を挙げるが、地名か普通名詞か明示していない。下河辺長流の『三奥抄』の頭書では「山を惣じて高砂といふ」として、素性の後撰集・春中50「花山にて、道俗酒らたうべけるをりに、山守はいはばいはなん高砂の尾上の桜折りてかざさむ」を引く。契沖の『改観抄』はほぼ『三奥抄』を踏襲しつつ、素性の歌は引かない。 ②匡房の家集『江帥集』にも、「内大臣殿 遠山桜 有序」の詞書を付して載る。「有序」の注記から、匡房が序者とされたと推定される。「内大臣殿」は、永保三年(1083)正月内大臣に任ぜられた藤原師通をさす。後拾遺集が現在の形に落ち着いたのは応徳四年二月(1087)であったから、内大臣家歌会はその間のことで、匡房43歳から47歳までと推定できる。 ③この歌の後拾遺集の詞書は、後撰集の素性の歌の詞書と似ている。後拾遺集撰者の藤原通俊は匡房の歌の「高砂の尾上のさくら」から、素性の「山守は」の歌を連想したか。匡房自身も遠山桜を詠もうと考えた時に、素性の歌を意識したか。 ④香川景樹『百首異見』では、高砂は本来海岸の砂丘のことだが、「砂積而成山などいふからぶみに名のあへるをよみして、やがて山の通称とし」たのだと考えたが、この歌の霞の立つさまは理屈に合わず、題にこだわって実景を忘れたかと批判し、匡房には秀逸も多いのにこれを採ったのは「撰者のあやまち也」という。 ⑤匡房は儒学では鴻儒だが、和漢兼作の詩人・歌人である。白河院は学者としての匡房を高く評価していた。『古事談』第一王道后宮に、「余は匡房を抜擢して賞してきた」と言い、「通俊、匡房などは近古の名臣なり」とも言ったという。順徳院の『八雲御抄』第六用意部は、この白河院の言を受けて「歌のみちは……匡房はまされり」と論じ、通俊は詠み口が下手だとした。通俊が匡房に、詩文に長けてい...

岩波文庫『百人一首』を読む(72) 紀伊

72 音に聞く高師の浜のあだ浪は かけじや袖の濡れもこそすれ  祐子内親王家紀伊 【訳】噂に高い高師の浜の、ただざわざわと立ち騒ぐ波にはかかりますまいよ、袖が濡れると大変です。名高い浮気なお方のお情けは受けますまい、あとで泣きを見るのはごめんです。 【出典】金葉集・巻八・恋下・469    返し 一宮紀伊 【解釈の要点】 ①康和四年(1102)の『堀河院艶書合』での詠。金葉集・恋下ではこの前に468「堀河院御時の艶書合によめる 中納言俊忠 人しれぬ思ひありその浦風に波のよるこそいはまほしけれ」とあり、それへの「返し」である。 ②藤原俊忠の作は「わたしは人知れずあなたに思いをかけています。荒磯の浦を吹く風で波が寄るように、夜お話したい(お逢いしたい)ものです」の意。それに対して、拒絶の心で返した。これまた疑似恋愛、模擬恋愛の贈答歌だが、初めから恋歌として詠まれたので、撰者源俊頼は恋の部に入れたのであろう。 ③紀伊・俊忠両人の家集に見える。詠まれた場を記すのは『帥中納言俊忠集』の詞書で、「二間におはしまして、上のをのこども、歌よみの名ある女房のもとに、けさうぶみの歌よみてつかはせと仰せられし時」という。『一宮紀伊集』や金葉集では、紀伊の歌の第二句は「高師の浦の」だが、俊忠の集では百人一首と同じく「高師の浜の」である。「高師の浜」は和泉国、大阪府堺市から高石市にかけての海岸。万葉集巻一66に「大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ」(置始東人)と詠まれる。 ④『新編国歌大観』や『私家集大成』の索引によると、「音に聞く」という初句に始まる歌は相当多い。紀伊にももう一首「音に聞く秋のみなとは風に散るもみぢの舟の渡りなりけり」とある。「あだ浪」はざわざわ立つ波で、誠意のないうわべだけの愛情の比喩。素性が古今集・恋四722「底ひなき淵やはさわぐ山河の浅き瀬にこそあだ浪は立て」と詠んでいる。あだ情けを懸けようとして失敗した男が翌朝送った歌への女の返歌として、後撰集・雑二1159「とりもあへず立ち騒がれしあだ浪にあやなく何に袖の濡れけん」(読人不知)という例歌もある。 ⑤「かけじや」は、懸けまいよの意。「や」は相手に呼びかける終助詞。源氏物語・若菜上の巻で、兄の朱雀院の出家後、源氏は二条宮に住む朧月夜の女君をひそかに訪れ、一夜を共に過ごした翌朝、咲きかかった藤の花を一枝折らせて...

岩波文庫『百人一首』を読む(71) 源経信

71  夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く  大納言経信 【訳】夕方になると、黄金に色づいた門辺の田の稲の葉にさらさらと音を立てて、蘆で葺いた仮小屋に秋風が吹きつける。 【出典】金葉集・巻三・秋・173    師賢朝臣の梅津に人々まかりて、田家秋風といへることをよめる 【解釈の要点】 ①「夕されば」は、夕方になるとの意。古代歌謡ですでに用いられている句である。「さる」は四段動詞で、このように時や季節が移りめぐってくることをもいう。『岩波古語辞典』によるが、同書では見出しは「さ・り」となっている。「門田」は、家の近くの田。「山田」などとは違って、手入れの行き届いた田。「門田の稲」は、万葉集・巻十2251に「橘を守部の里の門田早稲刈る時過ぎぬ来じとすらしも」(作者未詳)などと詠まれている。「まろ屋」は仮小屋。枕草子・新大系本170段に「屋は まろ屋。東屋」とある。賀茂真淵の『宇比麻奈備』に「やねもわきもなく蘆のみにてせる庵」という。 ②「蘆のまろ屋」の句は経信が好んだものか、『経信集』には「田上の路」で詠んだという「旅寝する蘆のまろ屋の寒ければ爪木樵り積む舟いそぐめり」の他にも、長歌の「旅情」で「蘆のまろ屋の つまもなき……」と用いている。金葉集の詞書によれば、この「夕されば」の歌は都の西、梅津の里にあった源師賢の山荘で詠まれたものであった。その師賢がやはりこの「蘆のまろ屋」の句を用いて、「水辺旅宿」の題で新古今集・羇旅926「磯なれぬ心ぞ堪へぬ旅寝する蘆のまろ屋にかかる白波」と詠んだ。師賢は経信と同族の19歳年少の歌人で、「磯なれぬ」の歌は、藤原定頼が竹生島詣での折に詠んだと考えられる歌、新古今集・羇旅946「磯なれで心もとけぬ薦枕荒くなかけそ水の白波」を強く意識していると想像されるが、「蘆のまろ屋」の句はやはり経信から学んだのであろう。 ③後拾遺集・秋下369に師賢の梅津山荘で「田家秋風」を詠んだ、源頼家の「宿近き山田の引板に手もかけで吹く秋風にまかせてぞ見る」という歌が載っている。経信の「夕されば」の歌と同じ時、同じ場で詠まれたか。頼家は清和源氏で、「らいこう」の名で親しまれる頼光の男、和歌六人党の一人とされる受領歌人である。 ④「門田の稲葉おとづれて」の句から、黄に実った稲田の広がりが想像されて、その一角に立つ「蘆のまろ屋」の主は、ある...

岩波文庫『百人一首』を読む(70) 良暹法師

70  さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくもおなじ秋の夕暮  良暹法師 【訳】さびしさに堪えかねて、家を出てじっと見つめると、どこも同じようにさびしい秋の夕暮れ。 【出典】後拾遺集・巻四・秋上・333    題不知 【解釈の要点】 ①清少納言は枕草子の冒頭で、四季それぞれの最も魅力的な時を「春は曙」「夏はよる」「秋は夕暮」「冬はつとめて」と端的に提示した。「つとめて」は早朝の意。これは王朝歌人の好みと合致していると言ってよい。 ②八代集の範囲で見ると、「秋の夕暮れ」という歌の句は27例、それに対して「春の夕暮」は能因の新古今集・春下116「山里の春の夕暮来て見れば入相の鐘に花ぞ散りける」の一首のみ。「夏の夕暮」「冬の夕暮」の例はない。私撰集では『古今六帖』第六の「小倉山ふもとの野辺の花すすきほのかに見ゆる秋の夕暮」(作者未詳)の一首、私家集では長徳元年(995)九月、陸奥に赴任する藤原実方を送った藤原隆家が「別れ路はいつも嘆きは絶えせぬにいとどわびしき秋の夕暮」(資経本実方朝臣集)と、餞の歌を詠んだことなどが比較的早い作例であろうか。 ③良暹自身は洛西の大原に住んでいる時に、藤原国房から後拾遺集・雑三1039「思ひやる心さへこそさびしけれ大原山の秋の夕暮」という歌を送られている。後拾遺集では良暹と国房の二首の他、源時綱・源資通・源顕房室隆子の三人が、秋上302「君なくて荒れたる宿の浅茅生にうづら鳴くなり秋の夕暮」(時綱)、秋下375「年つもる人こそいとど惜しまるれ今日ばかりなる秋の夕暮」(資通)、哀傷554「いかばかりさびしかるらん木枯しの吹きにし宿の秋の夕暮」(右大臣北方=源顕房室)と、いずれも第五句にこの句を置いた歌を詠んでいる。 ④このような傾向の先に、新古今集・巻第四・秋歌上の三夕の歌も生まれたのである。   362心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(西行)   363見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(藤原定家)   364さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮(寂連) ⑤賀茂真淵の『宇比麻奈備』は、「秋の夕暮と一句にいふ事、古へより古今の頃まではなし。物をかくいひつづめて、一つの名の如くする事は、後世の歌のことせく成て有事也。其後にはかく様にいふをよしとのみ思へり。いにしへ歌のゆたか成をとなへくらべ...