岩波文庫『百人一首』を読む(76) 藤原忠通

76 わたの原漕ぎ出て見れば久方の 雲井にまがふ沖つ白浪  法性寺入道前関白太政大臣


【訳】大海原に船を漕ぎ出して見ると、空の雲に見まごう沖の白波だ。

【出典】詞花集・巻十・雑下・382

   新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる(関白前太政大臣)


【解釈の要点】

①作者名は底本では「前」の字がない。『百人秀歌』によって記した。藤原忠通のことである。詞花集の詞書にいう「新院」は崇徳院のこと。撰進時院政の主であった本院の鳥羽法皇と区別していう。「位におはしましし時」は忠通の家集『田多民治集』によれば、保延元年(1135)四月の内裏歌合、ただし歌合か歌会か、はっきりしない。松野洋一『藤原俊成の研究』に、同じ時に詠まれた群臣の作品の集成が載る。

②「わたの原漕ぎ出て見れば」という表現が、11小野篁の歌の上句「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと」を強く意識していることは確かであろう。「沖つ白浪」は沖の白波、万葉集でも多く詠まれた句。下河辺長流の『三奥抄』に「雲井と読る、ここにては、天のこころなり。海水と天とひとつに成て、わかぬといふことを、雲井にまよふとはいふ」と述べ、契沖の『改観抄』もこれを踏襲するが(ただし、「くもゐにまがふ」と引く)、圓珠庵蔵契沖自筆本は「限りなく思ひしよりもわたの原漕ぎ出でて遠き末の白浪」という『新後拾遺集』羇旅913(読人不知)の歌を、「後拾遺集羇旅の歌に」として、朱で頭書している。なお、『三奥抄』の頭書には、万葉集・巻二十4380の歌「難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲そたなびく」を引く。『改観抄』では「舟といはでこぐといふは古歌にかかる事おほし」として、この歌を引く。賀茂真淵の『宇比麻奈備』も右の二首を(前の歌は集名を正しく)引く。香川景樹の『百首異見』は千載集・雑上1047「播磨潟須磨の晴れ間に見わたせば波は雲居のものにぞありける」(藤原実宗)を「同じおもむき也」という。これは承安二年(1172)『広田社歌合』での詠で(ただし、歌合では下句は「雲居に波の立つかとぞ思ふ」)、忠通の歌より37年後の作である。

③藤原忠通は、和歌のみならず漢詩をも能くして、歌集『田多民治集』の他に漢詩集『法性寺関白御集』を遺している和漢兼作の人。詩集を見ると、「近曽聊書秋興、以寄前金吾幕下。答謝之篇。句句有金玉之声。不堪欣感。重綴本韻」と前書きした七言律詩の第五句と第六句に「家郷隔境月千里。雲水極望天一涯」と対句をなし、第六句に「時参宇治。夕還京洛。南望北顧。山水渺茫。故云」と自注している。宇治近辺の山々と宇治川・木津川・桂川の三川が注ぎ込む巨椋の池と、その周辺の水郷か。その他、「雲水望中遠」の題で「楚雲泗水望中遠、感此放遊忘旧居」の句に始まる七言律詩は、「沙村被隔何郷外。波路不知幾里余。昔在陶朱辞越日。五湖眇眇浸空虚」と結ばれている。呉越の戦で越王のために功のあった范蠡が身を退いて陶朱公として五湖に船を浮かべたという中国故事の世界に遊ぼうとしている。

④「海上遠望」という歌題は当然歌人の多くに篁の「わたの原」の歌を想起させたであろうが、、忠通の場合はそれにとどまらず、白楽天の新楽府のうち「海漫漫」の「直下に無底旁無辺 雲濤煙浪最深処」とか「煙水茫茫無覓処」などの詩句から感得される大海原の広さや、空と水との接する彼方を何とか表現したいという心が働いたのであろう。

⑤鳥羽法皇は崇徳院のことを「叔父子」と言って疎んじた。祖父白河院が院の生母待賢門院をひどく寵愛したことに起因することは『古事談』に詳しい。慈円の『愚管抄』では、久寿二年(1155)近衛天皇が十七歳で夭折した際、鳥羽法皇は次の帝位に誰を即けるか思い悩んだ。関白だった忠通に何度も相談したが、四度目に「四宮、親王にて廿九にならせおはします、これがおはしまさん上は、先これを御即位の上の御案こそ候はめ」と答えたので、後白河天皇(四宮雅仁親王)が実現した。

⑥忠通の父忠実は忠通の異母弟頼長を愛して、忠通とはしっくりしなかったらしい。そして、後白河天皇と忠通に対する新院(崇徳上皇)と頼長という対立構造が廟堂内に生じつつあった。それが保元元年(1156)鳥羽法皇の晏駕(=崩御)を期に、保元の乱として激突する。


【蛇足】

さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は訳に変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に変更の必要がなかったということです。その特徴を見ると、二句目の「漕ぎ出て」を「船を漕ぎ出して」と訳しまして「船を」を補っています。また「雲井にまがふ」という四句目は「空の雲に見まごう」と訳しまして、「雲井」は「空の雲」、「まがふ」は「見まがう」という理解だとわあります。「沖の白波が、空の雲に見まごう」が、船上からの海上の遠望という解釈でよいかと思います。

次に、解釈と称する解説の部分は、今回すべて書下ろしとなっています。『百人秀歌』によって作者名を改めた点を告げたうえで、詞書について考証する①、上の句について小野篁の歌の影響を述べ、注釈書が指摘する『新後拾遺集』や万葉集・千載集について考証している②、和漢兼作の人であった忠通の漢詩集から「海上遠望」に通じる表現を指摘する③、さらに白楽天の詩句で忠通が摂取した表現を探る④、これらを見る限り筆者は忠通の「わたの原」の歌には漢詩の影響があると見ているようです。⑤は後白河天皇の即位は忠通が推挙したという史実を確認したもので、それが遠因となり保元の乱の対立構図になったことを語る⑥、これらすべて今回書き下ろされたものです。一方、『必携』では、「久方の雲居」を空とみるか雲とみるかという点について近世の注釈書の対立する意見を検討し、著者は雲という結論を出しております。契沖・香川景樹は空と解し、これに対して真淵は『宇比麻奈備』で雲という説を唱えていました。景樹は千載集の藤原実宗の歌を挙げていますが、著者はその出典である『広田社歌合』の他の歌を検討して、「雲居」を雲と解しうることから、景樹の見解を否定できると見たようです。


著者の久保田淳氏は、小野篁の「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまの釣り舟」(百人一首11)の上の句を強く意識した歌であると指摘するんですが、山部赤人の「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」(百人一首4)の歌では、漕ぎ出した結果富士山を眺望するわけですから、ここはそれを「雲居にまがふ沖つ白波」を眺望するという趣向でありまして、こちらも相当な影響があると見ていいと思います。赤人の歌が沖から陸を望むのに対して、沖からさらにその先の水平線に目を向けるという、その新しさが命なのではないかと感じます。三句目の「白妙の」という枕詞に敬意を払うように、忠通は三句目に「久方の」と枕詞を置いたような気がいたします。


それよりも、「雲居」にまがふ沖つ「白波」というような取り合わせは、詠まれた時には「空」と「海」の象徴だったのでしょうけれども、時が経ち、いろいろな歴史的な事件をやり過ごした後では、別のニュアンスが生まれて、人々に微苦笑を与えたかもしれないんですが、そういう解釈はいけないのでありましょうか。「雲居」は、皇居とか天皇を指しまして、「白波」はもちろん盗賊を意味する物であります。月とスッポン、小判と木の葉くらい違うものですが、さて歌合を主催した新院の運命を考えると、ものすごい皮肉の歌に様変わりするように思います。諸注釈は、百人一首の歌を詠作者の人生と絡めるのが大好きなのに、どうしてこの歌に関しては勘繰らなかったのでありましょうか? 謎であります。


前に取り上げた北原白秋の評釈の訳を、元の和歌の表現に即したところだけを抜き出すと、「海上遥かに漕ぎ出して見ると、沖の白浪も雲のやうに見える」ということになるでしょうか。「まがふ」という表現のニュアンスを示すために、「海が果てもなく広々と続いて、大空と一つになつてゐる」と補足してあります。粉本とすることの多い二書を引用して比較してみましょう。


海上に舟を漕ぎだして、はるかに見わたせば、限なき大空のはてに、浪のたちつづきてひとつに見ゆる(佐佐木信綱『百人一首講義』)


海上へ船を漕ぎだして向こうを見れば、その海が果てもなく遠き故、雲のかかりてある空と一つにまがひて見ゆる沖の白波(尾崎雅嘉『百人一首一夕話』)


古注釈の解釈について、有吉保氏の『百人一首全訳注』(講談社学術文庫)が整理していまして、何と何が「まがふ」のかについて、どうも三つの解釈があるようです。

   (1) 「雲」と「波」がひとつに「まがふ」

   (2) 「空」と「波」がひとつに「まがふ」

   (3) 「空」と「海」がひとつに「まがふ」

白秋の場合は、直訳部分が(1)ですが、補足で(3)を採用しています。信綱の場合は、(2)と判断してよさそうです。なぜかというと、信綱は「雲ゐは、雲のかかりゐるよしにて、やがてただ大空といはんが如し」と判断しているからです。これに対して、雅嘉は(2)ではありますが、「雲のかかりてある空」と言っているので、(1)の要素もあるような解釈です。三者が微妙に違っている点が面白いと思います。元の忠通の歌を改作して、現代語でも分かるようにすると次のようになるでしょうか。

  大海原 漕ぎ出して見れば 大空の 雲かと見まがう 沖白浪(粗忽改変)

    ※下線部が改変したところ

こうして改変してみると、この改変では雲と波が見まがう状態ですから、(1)の説に沿った改変ということになるでしょう。空の彼方の水平線に生じている白い雲、それと見まがうような白波という、青い空と青い海の果てで、白雲と白波が区別がつきにくいということになるでしょう。(2)や(3)は、実は不可ではないかという気がいたします。そもそも、「まがふ」と表現している段階で、実は海の白波と空の雲は区別できているのであります。「見まがうほど似ている」ということは、結局「似てはいるが違うものだと識別できた」ということではないでしょうか。なお、著者の久保田淳氏は、『百人一首必携』において、契沖・景樹と真淵の説の対立を「一片の雲もない青空と水平線とが一つに接している景を思い描くか」「模糊たる水平線を想像するかの違いである」と指摘しておりまして、著者の解釈は、「沖つ白波」が「雲」のように見えるというものでありますから、微妙に有吉氏の分類からもそれているように見えます。


『詞花集』巻第十・雑下 380番

   新院位におはしましし時、海上遠望といふことを詠ませ給ひけるに

   詠める              法性寺入道前関白太政大臣

わたの原 漕ぎ出て見れば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白波


空約束をしまして、基俊さんから「契りおきし」の歌を突き付けられたのが、今度の歌の作者でありまして、肩書きが長いんですけれども、藤原忠通さんというえらい人であります。この方も歌人ですから、基俊さんの歌をすぐさま理解して、あれこれ願いを叶えようと尽力したことでしょう。息子の光覚僧都が維摩会の講師に加えられた時には、基俊さんは溜飲を下げたのではないでしょうか。この歌は、崇徳院の時代に内裏で催された歌合わせの時に詠んだ歌なのだそうですが、「海上遠望」という題で詠んだそうでありまして、実感でも何でもありません。平安時代の歌の作り方は、だいたい歌会で出された歌題に沿って詠む題詠でありまして、実感よりはそれまで詠まれた歌の中でのお約束事にかなうかどうかなのであります。


しかし、題詠にもかかわらずなのか、それとも題詠だからこそなのか、現代のコマーシャル・フィルムのような鮮やかさでありまして、見事な叙景歌なのであります。ヨットを操る屈強な若者が腕を組んでファイトイッパーツ!とか、初々しいアイドルが額の汗を拭って冷たい飲み物を飲んで初恋の味!とか、そういう夏向きのCMの背景にぴったりですね。歌の内部の季節は歌題からは実は分かりませんが、歌が詠まれたのは保延元年(1135)四月と分かりますので、旧暦の四月は初夏とみるのが普通です。ともかく、初夏あるいは盛夏、湧き上がる入道雲なんかをバックに、旬の俳優さんや女優さんがヨットやボートで沖にこぎ出すさまが浮かびます。

  久方に 漕ぎ出て見れば わたの原 ただ雲と波 ファイト一発(粗忽謹製)

  白波を 漕ぎ分け見れば 積乱雲 二人きりなの 初恋の味(粗忽謹製)


ここでも、問題なのは「まがふ(紛ふ)」という動詞でありまして、「雲かと紛う白い波」と言うだけのことですが、遠くの雲と見分けの付かない波という、遠近法の混乱がテーマでありますね。そう言えば、「雲居」には「空・雲」のほかに宮中であるとか天皇という比喩がありますし、「白波」は、盗人のことを指しますね。ピンとキリが、似ているということかもしれません。ともかく、雲かと思ったら波で、波かと思ったら雲だったというような混乱ですが、目が慣れてくれば水平線も分かりますし、紛れたままにはならないことでしょう。空と海が一つに見えるというのは、水平線という存在を知らない、あるいはあえて無視することから生じる誤読ではないかと思ったりします。


関白藤原忠通というこの作者は、保元の乱の勝利者でありますが、学者さんであり、詩歌に優れていて、字もうまいというような、優秀な文化人でもあります。時代は院政期という、上皇が最高権力を握った時代なんですが、この人は後白河院の側について勝利を収めた人であります。平安時代半ばと違って、摂関家の大臣も実力がないと駄目な時代ですから、和漢の学問に通じていた人が多いのであります。それが、複数いる上皇の誰かを担いで、同じ藤原氏同士でも熾烈に争うのであります。忠通は崇徳上皇とは敵になりまして、勝った後で讃岐に流したんですね。そうなるとは思わないで新院と呼ばれていた崇徳上皇の御前で詠んだ歌が、『百人一首』に採られた歌であります。冗談を言うと、上皇様かと思ったら、とんだ大盗人だったのね、というようなことなら、とんでもない皮肉として解釈してもいいのかもしれません。少なくとも、定家の頃にはその解釈には気付いていたかもしれないのであります。「沖つ白波」という表現は、万葉集に14例、古今集に3例ありますけれども、古今集の2例を挙げると気づく方はいろいろ気づくことでしょう。従来の注釈書が、何かに忖度していた可能性が見えてくるような気がいたします。

  住の江の 松を秋風 吹くからに 声うち添ふる 沖つ白波(古今集・賀360 凡河内躬恒)

  風吹けば 沖つ白波 たつ田山 夜半にや君が 一人越ゆらむ(古今集・雑下994 読人不知)


気になるのは「わたの原」でありますが、11番参議篁の歌にもありまして、「大海原」を意味する言葉なんですが、何でもその語源はまったく不明なんだそうでありまして、だからなのか現在普通にはこの言葉は通じません。観光船に載っていわき沖の太平洋に出たことがありましたけれども、「わーい、わたの原だ」なんて誰一人口にしなかったと思います。「漕ぎ出(こぎいで)」というのは、「漕ぎ出づ」という動詞ですが、そのまま変化したら「こぎでる」のはずですが、いまは「漕ぎ出す」ということばがありまして、微妙な違和感が存します。「漕いで外海に出てみる」というような感じでしょうか。貴族は自分では船を漕いだりしないでしょうけれども、京都の上級貴族は海が好きでありまして、こういうのが好まれたんですね。


こうしてみると、「漕ぎ出る」とか「まがふ」とか、今でもありそうな動詞が微妙に現代では通じないのであります。 「まがふ」が、実体のある二つの異物が紛れるのか、それとも実体のある物が、その場にない実体のない物に紛れてしまうのか、非常に紛らわしいわけです。昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』では、「まがふ」は(1)空の雲居と沖の白波が紛れ合って区別がつかない、(2)沖の白波があたかも空の雲居の如くである、という二つの取り方になる。(1)ならば空には雲が立っていることになるが、(2)ならば空には雲がなくてもよい。「まがふ」にはどちらの用法もあると指摘していて、だとするとどういう光景を描くのかは、鑑賞者にゆだねられるとも言えることでしょう。忠通の歌を唱えて見ますと、まず出てくるのは「久方の雲居」でありまして、それから「にまがふ沖つ白波」と修正しますので、雲かとおもったら白波だったのね、ということになるでしょう。これだと雲はフェイクであります。雲と波が一つに「まがふ」というなら、雲は実体ということなんですね。ふむ、分からなくなりました。諸説に「まがふ」私の考え、ってことですね。

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