岩波文庫『百人一首』を読む(74) 源俊頼
74 憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬ物を 源俊頼朝臣
【訳】憂くつらかったあの人の心を得ようと初瀬の観世音にお祈りしたのに、初瀬山から吹きおろす山おろしの烈しさよ。あの人がこのように烈しくあれとは祈らなかったのに。
【出典】千載集・巻十二・恋二・708
権中納言俊忠の家に恋の十首歌よみ侍りける時、祈れども逢はざる恋といへる心をよめる
【解釈の要点】
①「憂かりける人」という表現は、八代集では後拾遺集に、相模が、「今はさらに来じ」などと言って帰った後、音沙汰もない藤原定頼に送った、恋三753「来じとだにいはで絶えなばうかりける人のまことをいかで知らまし」という、嫌みな歌に見られる。それは、来てほしいという本心の逆説的表現であろう。
②「初瀬」は大和国、35紀貫之の古今集の歌の詞書にも見えた。奈良県桜井市初瀬の豊山長谷寺。真言宗豊山派の総本山で、本尊は十一面観音。西国三十三所の第八番札所。源氏物語・玉鬘の巻で、夕顔の女君の遺児玉鬘とその一行が、昔夕顔の侍女で今は光源氏に仕えている右近と再会する場である。
③「山おろし」は山から吹きおろす強い風。万葉集・巻九1751の「峰の上の 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る……山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へる社に 風祭りせな」(高橋虫麻呂歌集)の長歌や、古今集・秋下285「恋しくは見てもしのばむもみぢ葉を吹きな散らしそ山おろしの風」の歌で「山おろしの風」と詠み、後撰集・雑二1138では「心してまれに吹きつる秋風を山おろしにはなさじとぞ思ふ」(大輔)と単独に用いている。
④詞書の「権中納言俊忠」は藤原俊忠で、俊成の父。同家で「恋の十首歌」が詠まれた歌会がいつの催しであったかはわかっていない。俊頼の家集『散木奇歌集』恋下には十首のうち八首を収めるが、主催者の家集『俊忠集』には「二条家にて十首の恋歌人々によませし時」として、十題の自詠をすべて収める。外題を「源木工集」とする時雨亭文庫蔵の定家手沢本での俊頼の八首の題は、「あはんことをうらなふ」「くれどもとどまらず」「ふしながらまことなし」「いのれどもあはず」「ついせうする」{俊忠集「追従恋」)「すかいてあはず」(俊忠集「偽不遇恋」)「いやしきをいとふ」「かたきをとぐ」、これに『俊忠集』から「誓恋」「聞音恋」の二題を加えると、十題のすべてが趣向を凝らした、奇想を要求する難題に近いものであったことが知られる。
⑤細川幽斎の『百人一首抄』に「初瀬に恋を祈ることは住吉物語にみえたり」と言い、下河辺長流の『三奥抄』はこれを受けて、「はつせに恋をいのりておもふひとにあへること、住よしものがたりにあれば、其例をもつて我もいのりつるにかなはざりけるこころなり」と述べ、契沖の『改観抄』はこれに従いつつ、さらに『古今六帖』第三・川の「祈りつつ頼みぞ渡る初瀬川うれしき瀬にも流れあふやと」を引き、「此歌をもて住吉物語に恋を初瀬に祈るよしはかける歟。物語を本説にて此歌はよむまじければなり」と言う。これは賀茂真淵の『宇比麻奈備』が問題にしている、現存『住吉物語』が古本でなく後代の改作であることを言おうとしたのであろう。つまり『古今六帖』→『古住吉物語』→俊頼歌という影響を考えているのだと思う。
⑥契沖の『改観抄』はさらに、拾遺集・雑恋1267「稲荷に詣でて懸想しはじめて侍ける女の、こと人に逢ひて侍ければ 藤原長能 われといへば稲荷の神もつらきかな人のためとは祈らざりしを」の歌を引き、「此歌を思はれけるにやあらん、似たる心あり」とした。これを香川景樹の『百首異見』は「人情は大よそ同じきものなれば、似たる意の歌出くる事、何の疑ひかあらん。況や是ばかりの事をや」と批判し、さらに「三句「山おろしよ」とある本はあやまり也。よの字有りてはもとより序とならず、ことわりも通らぬ事也」というが、先に述べた定家手沢本『源木工集』でも、この歌の第三句は「山をろしよ」である。
⑦『後鳥羽院御口伝』で、「俊頼、堪能の者なり。歌の姿、二様によめり。うるはしくやさしきさまもことに多く見ゆ。又、もみもみと、人はえ詠みおほせぬやうなる姿もあり。この一様、すなはち定家卿が庶幾する姿なり」と評し、その「もみもみと」した姿の例歌にこの「うかりける」の歌を、「うるはしき姿」の例歌に金葉集・秋239「鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波よる秋の夕暮れ」を挙げている。『百人秀歌』で定家が選んだ俊頼の歌は金葉集・春50「山ざくら咲きそめしより久方の雲井に見ゆる瀧の白糸」である。これも後鳥羽院はおそらく「うるはしき姿」の歌としたのであろう。それが百人一首では「うかりける」の歌に変えられた。両秀歌選の関係を考える時には、この変更の意味を探らねばならない。
【蛇足】
さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は訳に若干の変更がありました。學燈社『百人一首必携』執筆時では、初句の「憂かりける人」の訳は「憂くつらかった人」でしたが、今回は「憂くつらかったあの人」とありまして、微妙な変更です。訳の後半に「あの人が」とありますので、揃えたようです。中ほどのところ「お祈りしたのに」「烈しさよ」「祈らなかったのに」は「必携」ではそれぞれ「祈るにつけ」「烈しさ」「祈らないのに」となっていました。特に解説もありませんから、変更の理由はわかりません。それ以外の特徴を考えてみると、歌の表現にはない補いとして「あの人の心を得ようと初瀬の観世音にお祈りしたのに」と、以前の祈祷の内容を出しまして、それが叶わなかったというニュアンスです。また、「はげしかれ」という表現は、「山おろしの烈しさよ」という「自然現象と、「あの人がこのように烈しくあれ」という意にそまない祈祷内容との二重表現として訳出されています。元の歌の表現に即すようにして訳を再構成すると、次のようになるのかもしれません
初瀬山から吹き下ろす烈しい山おろしよ。憂くつらかったあの人を、このように烈しくあれとは祈らなかったのに。(粗忽による改造)
こんな風に改造したうえで、ここから自然現象を省きますと、「あの人は私に対して烈しく当たり、私は憂くつらいままだ」という今の状態が読み取れまして、これに補ってあった「あの人の心を得ようと初瀬の観世音にお祈りしたのに」を添えると、結局「仏に祈ったのに、あの人は苛烈だ」という理解のように見えます。私が勝手に分析したわけですから、申し訳ないのですが、これって恋の歌として成立しているようには見えないのですが、いかがなものでしょう。もちろん、そういう歌なのかもしれません。
次に、解釈と称する解説の部分では、「憂かりける人」という表現が後拾遺集の相模の歌にあることを指摘する①、次に「初瀬」が紀貫之の歌の詞書に出ていたことと源氏物語の玉鬘の巻の舞台であることを紹介する②、「山おろし」が万葉集・古今集・後撰集に例があることを示す③、詞書にある恋の十首歌の歌題を復元して難題であると指摘する④、これらは今回書き下ろされたものです。これに対して、注釈書で早くから住吉物語の内容や『古今六帖』の歌が影響を与えているという⑤、契沖が拾遺集の藤原長能の歌を本歌とするのを香川景樹が批判している論争を紹介する⑥は、『必携』から受け継がれています。⑥には景樹が「山おろしよ」の「よ」を誤りとして批判していることも出ていて、これも『必携』にありました。なお、『必携』には、「後世注釈とだにいへば、類哥をのみ求め出て、此哥によれり、此哥を思へりなど妄にいひ落すは浅ましき事也」という景樹の言葉も引用されており、これに対して著者の久保田淳氏は、「契沖は俊頼を「いひ落」しているのではないであろう。発想の伝統や普遍性を探る上で類歌を求めることは、注釈の王道である。景樹は先学を難ずるのに急で、その方法の根底にある思想を考えようとしていない」と述べ、また「山おろしよ」の「よ」を否定する景樹に対して、それも「独断である」と評していました。近世国学の実証主義というのは、ある意味科学的と言えるでしょうから、そこは研究者として譲れないということを『必携』では強調していたわけです。『必携』は研究者や教職にある人たち向けの雑誌だったので、重要なアピールだったと思われます。最後の⑦は、今回の書下ろしですが、非常に重要な指摘でありまして、百人一首の成立にかかわるのが、この俊頼の「憂かりける」の歌であることを注意喚起したものとなっています。
非常に提案しにくいのでありますが、あえて持説を押し出すと、「初瀬」のところに、おそらく「外せ」という四段活用動詞「外す」の命令形が掛けてありまして、「外す」は恋愛関係の場合は、「恋の相手を取り逃がす」という意味なので、ここは「憂かりける人を外せ」によって、吹き荒れる初瀬の山おろしが観音の御告げのように「恋人を取り逃がせ」とすすめているというような内容が隠されていると思われます。「はつせ」に「はづせ」が掛かっているというような指摘は、これまでまったくされてこなかったようですが、そういう掛詞に何か問題でもあるのでしょうか?
池田弥三郎氏の昭和59年(1984)発行『百人一首故事物語』(河出文庫)の内容は、江戸の川柳や狂歌から『百人一首』を眺めていまして、とても役にたつものであります。この本の、この源俊頼の歌の所で、池田弥三郎さんは「人を初瀬 なにか掛詞があるべき箇所であろう」とご指摘なのであります。だから、池田弥三郎さんには腹案があったと思うのですが、別に和歌の専門家ではありませんから、新説を提示して頑張る必要もないし、さりげない指摘で終わっているんであります。
今回の久保田淳氏の岩波文庫版の解説を見ているうちに、ふと気が付くことがありました。「うかりける人」の例として相模の歌が挙げられておりますが、この「ける」はどうやら間接体験の過去の助動詞「けり」なのです。拾遺集899に紀貫之の「うかりけるふしをばすてて白糸の今くる人と思ひなさなん」、後拾遺集1097に馬内侍の「うかりけるみのふの浦のうつせがひむなしきなのみ立つは聞ききや」とありますが、これらの「うかりける」の「ける」は間接体験の過去の用法です。ところが、千載集833尾張の「命こそおのがものからうかりけれあればぞ人をつらしとも見る」とか、千載集1235登蓮の「おどろかぬわが心こそうかりけれはかなき世をば夢とみながら」、新古今集117恵慶「桜散る春の山辺はうかりけり世を逃れにと来しかひもなく」、新古今集369長能「ひぐらしの鳴く夕暮れぞうかりけるいつもつきせぬおもひなれども」を見ると、係り結びの結びになっている已然形や連体形、そして終止形の例は、基本的には詠嘆の用法となっています。
つまり、「憂かりける人」と見ると、この「ける」は間接体験の過去の用法の可能性が高いのでありますが、その一方で「憂かりける」の初句切れの場合、こちらの「ける」は詠嘆の用法の可能性が高いということになります。例えば、「憂かりける人を外せ」というのが、山おろしを使った初瀬の観世音菩薩のお告げだとすると、仏様は祈願者である詠作主体の恋の相手が冷淡であるというのは直接知りませんので、間接体験の過去の助動詞「ける」が意味を成すわけです。「冷淡だったというそなたの恋人」の意で「憂かりける人」と言い、そんな男は「捨てなさい」「リリースしなさい」ということなら「外せ」は成立するでしょう。
また、その一方で、和歌の末尾の「祈らぬものを」の「ものを」を単なる詠嘆ではなく、これを逆説の接続助詞と考えて、倒置しているのだとするなら、それを受けるのは「憂かりける」という初句でありまして、これが倒置を修正した場合の文末になりまして、「私はつらく感じることだ」という憂鬱な気分を表明するものになります。「憂し」「つらし」「つれなし」というような形容詞は、自分の憂鬱な気分を表明する用法の一方で、相手を「冷淡だ」と難詰する用法がありまして、「憂き人」「つらき人」「つれなき人」というのは、離れてゆく恋人を指すわけです。
ひょっとするとでありますが、この歌は、歌の初めから末まで行ったあとで、初句に戻って完結するというような、非常に複雑な歌なのかもしれません。「もみもみ」と後鳥羽院が揶揄したような難解さというのは、このあたりに由来するかもしれません。
「憂かりける人を外せ」(と言ふ)初瀬の(観音のお告げの)山おろしよ。「はげしかれ」とは(我は)祈らぬものを、憂かりける(ことぞかし)。
(訳)「そなたに冷淡になったという恋人と別れるがよい」と言うように吹きすさぶ初瀬の観音様のお告げの山おろしの風よ。「もっと激しく吹いてください」とは祈っていないのに、つらく切なく感じることですよ。「あの人が戻って来るようにと」祈っております。
例えば、藤原定家の97番「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ」という歌は、「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ、来ぬ人をまつ……」というように初句から二句目にかけての「来ぬ人を待つ」に戻って、ループする歌のような気がいたします。ついでだから申し上げますと、天智天皇の1番「秋の田の仮庵の庵の苫を粗み我が衣手は露に濡れつつ」というのも、初句に戻って「秋の田の仮庵の庵の苫を粗み我が衣手は露に濡れつつ、秋の田の刈り穂の」となるやもしれません。民謡風に何度も繰り返し謡ううちに別の意味が生じて、ループするということです。確か、藤原定家の『初学百首』の中に、ループして違う意味が生じる歌があると指摘して、師匠に褒められたことがあったように記憶しております。そんな遠い幽かな記憶が蘇ってきました。ともかく、「ける」は最初は過去の間接体験、二度目は詠嘆、そして「憂かり」は最初は「冷淡だ」、二度目は「憂鬱だ」と意味が変じているということを指摘してみました。どうやら800年以上の時を超えて、正しい解釈にたどり着いたかもしれません。
『千載集』巻第十二・恋二 708番
権中納言俊忠の家に恋十首の歌詠み侍りける時、
いのれども逢はざる恋といへる心を 源俊頼朝臣
憂かりける 人をはつせの 山おろしよ 激しかれとは 祈らぬものを
これが、『百人一首』のへそであります。「あの定家ときたら、俊頼の歌が大好きらしくてさあ、それもよりによって ”もみもみ” したのが好きらしいんだ(笑)」、というようなことを後鳥羽院が『後鳥羽院後口伝』という歌論書で指摘しております。要するにこの二人は似たもの同士でありまして、意地の張り合いがあったと言うことなのであります。さらに『新古今集』を選定する際の、イニシアティブ争いがありまして、政治的な帝王はもちろん後鳥羽院なんですが、こと和歌というか歌道においては、定家の方が帝王であるわけで、後鳥羽院の面子がつぶれるくらい、定家は悪口雑言を摂関家などに言いふらしたようなのであります。どちらもどちらでありまして、結局仲直りのかなわないまま、一人は隠岐の島に幽閉されて生涯を台無しにし、一人は京都に踏ん張りまして、再度の勅撰集撰者の名誉を勝ち取りまして『新勅撰集』というものの撰者になりました。若い頃に宮中で喧嘩沙汰を起こして官位が滞った時期もあったのに、最終的には中納言まで累進できたのも、本人にとっては奇跡だったはずです。「京極中納言定家卿」というのは、鎌倉時代中期以降の呼び名ですが、本人はうれしかったろうと思います。
又、俊頼堪能の者なり。歌の姿二様によめる。うるはしくやさしき様もことに多く見ゆ。又、もみもみと人はえ詠みおほせぬ様なる姿もあり。此の一様、則ち定家が庶幾する姿なり。うかりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬ物を。この姿なり。(『後鳥羽院御口伝』)
ところで、諸注釈は、「人を祈らぬ」と理解しているようですが、それはおそらく誤り。そう言う語法はありません。今も昔も「神に人を祈る」とか「仏に人を祈る」などという語法は普通ではないと思うんですが、どうなのでしょう。もとより調べて言うわけではないのですから、間違っていたらご容赦下さい。古代には「神を祈る」という語法もあったそうですが、平安時代には「神に何かを祈る」という言い回しのはずなんであります。具体的には「神仏に願い事の成就を祈る」というのが基本文型でありまして、教わらなくても昔からそうなっていたようであります。『日本国語大辞典』(第二版)が詳しく解説しておりますね。この和歌に即して言うなら「初瀬の長谷の観音様に、今まさに恋愛の成就を祈っている」わけでありまして、それなのに相手が冷たくなっておりまして、日頃のご無沙汰を思うだけでもつらいのに、山おろし吹きすさぶ徹夜の祈願はつらくて「憂かりける」という状態に陥っているわけです。もともとが、「祈れども逢はざる恋」という題に即して詠んだ歌でありまして、作者は男ですが、男の歌でも女の歌でもかまわないものです。「憂かりける人」というのは、諸注釈のいう通り「憂き人」に間接体験の過去の「けり」が付いたもので、これは初瀬の観世音菩薩のお告げの内容と解するのがよいでしょう。その一方で、倒置法を修正すると、「憂かりける」は文末となりまして「ける」は詠嘆の用法となることでしょう。つまり、初句切れで「憂鬱だなあ」となるのがいいでしょうね。「初瀬」の掛詞は、恥じるという意味の「恥づ」の終止形や、終わるという意味の「果つ」の終止形ではなくて、外すという意味の「はづす」の命令形、「はづせ」だと意味が通ります。
吹き下ろす山からの強い風に、初瀬の観音様のメッセージは、「お前の冷淡になった相手を捨てよ・憂き人となったあの人を捨てよ」というものでありまして、恋のターゲットから外しなさい、あきらめなさいと言っているのかも知れません。これを証明するにはどうするかというと、「初瀬」に「外せ」が掛けてある例を探すことでありますが、これ一例だからと言って、掛詞が成立しないわけではありませんよね。一回きりの、不発の駄洒落と言うこともありますし、否定する根拠はあまりないと思います。もともと、「もみもみ」した歌でありますから、おかしな掛詞があって不思議はないのであります。京極中納言様が大好物なんですから、普通を超えた「もみもみ」であるはずなんですね。参考になるかどうか分かりませんが、『新古今集』にはこんな歌がございました。詠み人知らずの歌です。
『新古今集』巻第十六・雑歌上 1518番
能宣朝臣大和の国まつちの山近く住みける女のもとに夜更けて
罷りて逢はざりけるを恨み侍りければ 詠み人知らず
たのめこし 人をまつちの 山風に さよふけしかば 月も入りにき
これを本歌取りした後鳥羽院の歌も、恋の三・1197番に見えますから、「人を待つ」と「待乳山」(大和の国の歌枕のようです)が掛けてありまして、これは別に変ではありません。同じ感覚で、当時の歌人が源俊頼さんの歌を見たならば、「人をはつせ」のところには、おそらく掛詞を想定したことでありましょうね。というわけで、ひょっとすると大手柄でありましょうか。まったく自信はありません。
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