岩波文庫『百人一首』を読む(75) 藤原基俊

75 契おきしさせもが露を命にて あはれことしの秋もいぬめり  藤原基俊 


【訳】大殿が「わたしを頼みに思っていよ」とお約束してくださいましたその御一言――させもぐさの葉に置く露のようなはかないお言葉、それを命をつなぐものとしておりますうちに、ああ、今年の秋も空しく去ってしまうようでございます。

【出典】千載集・巻十六・雑上・1026

   律師光覚、維摩会の講師の請を申けるを、度々洩れにければ、法性寺入道太政大臣に恨み申けるを、しめぢの原のと侍りけれども、又その年も洩れにければ、よみてつかはしける


【解釈の要点】

①千載集以前に藤原清輔が私撰した『続詞花和歌集』にもほぼ同様の詞書を付して載る歌だが、これら長い詞書を読まないと、何を嘆いているか分からない歌でもある。

②律師光覚は基俊の息男で、興福寺の僧となった人物。律師は僧都に次ぐ僧官で、五位に準ずる。維摩会は、藤原氏の氏寺である興福寺で、十月十日から藤原鎌足の忌日である十六日までの七日間、維摩経を講ずる法会、講師は経典の講義をする僧。「請を申す」とは、(講師として)招請されることをお願い申し上げること。法性寺入道前太政大臣は藤原忠通、76の歌の作者である。維摩会の講師となることは仏教界で大層名誉なことなので、基俊はわが子がなれるよう、藤原氏の氏長者である忠通にお願いしてきたが、光覚は度々その人選に洩れたので愚痴を申し上げた。すると忠通は「しめぢの原の」と答えた。これは清輔の歌学書『袋草紙』上・希代の歌に「清水寺観音の御歌」として載る、「なほ頼めしめぢが原のさせもぐさわが世の中にあらん限りは」の歌の第二句だから、「なお期待しているように」ということになる。しかるにその年も息子は人選に洩れたので、再び愚痴の歌を送ったのである。

③嘆願の始めの基俊の歌と忠通の返歌は、『基俊朝臣集』と忠通の家集『田多民治集』の両方に載るが、後者でそれを見ておく。

  光覚竪義請のぞむとて、基俊よみて侍し

ここのへのさはになくなるあしたづの子をおもふこゑはそらにきこゆや

  かへし

よそにても子を思たづのなく声をあはれと人のきかざらめやは

『基俊集』では、前者は「光覚竪義請進殿下」、歌は片仮名書きだが『田多民治集』と全く同じ。この贈答歌は後に『風雅集』雑下1858・1859に載せられている。基俊の歌は初句「ここのつの」とあり、これが正しいか。「竪義(りゅうぎ)」とは、法会で行われる仏教教理の論議で、出題に答え、疑義を説明する役の僧をいう。光覚はその役僧になりたかったのである。歌われている「沢に鳴く鶴」は、子を思う親の比喩としてしばしば詩歌に詠まれてきた。

④『基俊朝臣集』はこの後に、「九月尽日、惜秋言志詩進殿下、光覚竪義事、有御約束遅々比、シメヂガハラト被仰」と書き、七言律詩の漢詩に続き、「タノメ(チギリ)ヲキシサセモガツユヲイノチニテアハレコトシノアキモイヌメリ」と仮名書きする。

⑤「契おきし」の主語は忠通、「させもが露」は、させもぐさの露、露は消えやすい、はかないものだから、当てにならない約束のことを遠まわしに意味することになるだろう。「命にて」は、命をつなぐものとして。下句は、季節が九月尽で秋の終わりだったので、ああ、今年の秋も去ってしまうようだといった。後撰集・雑④1259に、「またすぐ来るよ」と言って帰った娘の聟が長いことやって来ないので、娘の母親が詠み送った歌に、「今来むといひしばかりを命にて待つに消ぬべしさくさめの刀自」という歌がある。「命にて」の句はその古歌などを念頭に置いているかもしれない。『基俊朝臣集にはそれ以上は何とも載っていないので、忠通は「契おきし」の歌に返歌することはなかったのかもしれない。

⑥結局、光覚は保延六年(1140)の維摩会第三日に竪義となることができた。四十二歳になっていた。基俊が世を去ったのはその二年後のことだから、彼も息子の晴れの日に逢えたわけだが、それまで何年にもわたって、「沢に鳴く鶴」の思いにさいなまれたことであろうか。家集には霜が深く置いた翌朝、光覚の師に、『玉葉集』冬901「楢の葉に霜やおくらんと思ふにも寝でこそ冬の夜を明かしつれ」という歌を送った。


【蛇足】

さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は訳に若干の変更がありました。學燈社『百人一首必携』執筆時では、末尾の「いぬめり」の訳は「去ってしまうようです」でしたが、今回は「去ってしまうようでございます」とありまして、忠通への敬意をより強くしたような変更です。特徴としては、初句の「契おきし」を「大殿が私を頼みに思っていよとお約束してくださいました」と具体的に訳してありまして、これは詞書の「しめぢの原の」という観音の引歌をもとに、その初句の「なほ頼め」を取り入れた訳です。「させもが露」については、「させもぐさの葉に置く露のようなはかないお言葉」とありますが、ほかの注釈では単に「言葉」としたり「お恵みの言葉」としたりしますので、「はかない」という補いは議論の余地があるかと思います。著者は「露は消えやすい、はかないものだから、当てにならない約束のことを遠まわしに意味する」と解説で述べていまして、これだと忠通への皮肉として詠んだと見ていることになるでしょう。

次に、解釈と称する解説の部分では、詞書に拠らないと趣旨の分からない歌であることを指摘する①、詞書に出てくる人物や話題を解説しつつ観音の引歌を解読して、歌の趣旨を愚痴の歌であるとする②、忠通の家集にある贈答歌が事の発端を示していることを指摘する③、これらは今回書き下ろされたものです。ただ、②のなかの観音の歌は『必携』でも触れています。これに対して、④は基俊の家集『基俊朝臣集』に今回の歌がどのように出てくるかを紹介するものですが、『必携』では七言律詩なども掲載してもっと詳しく紹介していましたが、肝心の七言律詩が誤謬の多いテキストらしく、今回は省かれています。和歌の表現を解説し、さらにこの歌に返歌がなかったことを述べる⑤や、基俊の世を去るまえに光覚が竪義になったことなどを述べる⑥は今回の書下ろしです。


著者は、『百人一首必携』において、「させも(さしも)草」について、やはり例の「もぐさ」であるというような指摘もしておりましたが、今回の岩波文庫版では特に触れておりません。この歌で考えて見ると、「露」という言葉と絡んで表現されるからには、「させも(さしも)草」というのは、あくまで植物として歌に詠み込まれれているのでありますし、前に藤原実方の51番「かくとだに」の歌でも指摘しましたが、秋以降に存在する「させも(さしも)草」というのは枯れ草でありまして、もはや治療のためのお灸に使う「もぐさ」というような説は捨て去って何ら問題がないように見えるんですがいかがでございましょう。『古今和歌六帖』における分類やら、『枕草子』における扱いを見たら、「させも(さしも)草」は春先の蓬が成長して、やがて枯れ果てたまま冬を越して行く状態を指していると結論付けても、差し支えないような気がするのであります。


昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』では、光覚の話題が出て来る詞書と切り離してこの歌を理解できるのかどうかということを検討していて、ちょっと共感いたしました。あくまでも秋の歌として理解できるとするならば、それぞれの和歌には季節や恋の歌としての第一次的な表現がまずあって、その上で詠み手によって仕込まれた第二次的な内容が隠されているということなのでありましょう。それならば、この基俊の歌の前に出て来る、何首かの百人一首の歌に関してもそうした追究が可能であったはずですが、桑田明氏はそこには思い至らなかったようです。というか、百人一首の注釈書の多くが、どうしたわけか新古今集の時代に試みられた歌の詠み方に無頓着であったことには驚かされます。この基俊の歌に関しても、維摩会の講師の話とは別に、秋の歌あるいは恋の歌として鑑賞する可能性を、本当は従来の注釈書は論じるべきだったのではないかと感じました。百人一首を愛する方々に問いたいのですが、親バカの歌として解釈するのを一旦差し止めたら、この歌はどういう内容の歌なのでありましょうか?


  結びおきし させもが露を 命にて あなきりぎりす 秋も去ぬめり(粗忽謹製)

基俊の歌の、人事を連想させるところを、連想させないものに置き換えて、きりぎりすの歌にしてみました。キリギリスは、今の「コオロギ」らしくて、『百人一首』では91番の良経の歌に出て来たりしますけれども、夜鳴く虫の代表で哀愁をかもす昆虫のはずです。「契りおき」を「結びおき」に差し替え、「あはれ今年の」というところを「あなきりぎりす」と入れ替えましたが、いかがでございましょうか。秋になって「させもぐさ=さしもぐさ=よもぎ」に露が付きますが、それらを昆虫が命の水として生き長らえますけれども、さすがにその秋も去って行けば、やがて露も凍る冬となって絶命するわけです。これに対して、「契り」「今年」という人事を連想させる言葉を復元させまして、基俊の個人的な事情などを一旦無視したなら、これは恋の歌として成立するのではないでしょうか。

  契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋も去ぬめり(基俊の元の歌)

たとえば、国守階級などが任地に赴きまして、妻や愛人を都に残しているような場合、四年くらいは帰ってこないはずですから、指折り数えてあと何年で戻るというような場合、その妻や愛人が浮気をするでもなく、相手を待ち続けているという状況なら、この歌は成立するのではないでしょうか。二人の間に身分違いというようなことがあれば、「させもぐさ=さしもぐさ=よもぎ」という雑草は意味をなすような気がいたします。「私のような賎・山がつの類に目を掛けていただいたことを命の支えとして、あなたのお帰りをお待ちしておりますが、ああ逢えぬまま今年の秋も去ることでしょう」などと解釈してよろしいでしょうか。これが成立するなら、千載集の詞書や、太政大臣忠通の言葉の背景にある清水観音の言葉なしでも、十分通用する歌でありますから、注釈書の中には理解しにくい歌だとか難解な歌だとか、この歌を否定するんですが、さて、それほどひどい歌だったのでしょうか。それにしても、詞書や清水観音の歌抜きでこの歌を読解するという手間を省いていたのは、歌にちゃんと向き合っていたのか疑問であります。「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と5歳くらいの女の子(チコちゃん)に叱ってもらっていいでしょうか。


『千載集』巻第十六・雑上 1023番

  僧都光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、たびたび漏れにければ、

  法性寺入道前太政大臣に恨み申しけるを、しめじが原と侍りけれど、

  またその年も漏れにければ遣はしける      藤原基俊

契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり


基俊の歌は、二句目が難解でありまして、にわかに分からないところがあります。そのキーワード「させも」は詞書にあるように、関白の言葉の引用です。関白の言葉には由来がありまして、どうやら清水寺の御本尊の歌が元だったらしく、おおもとの歌が知られております。歌学書の『袋草子』から採用されて『新古今集』に入集したようでありまして、『新古今集』の巻20・釈教というところに1916番(1917番)として入集しています。それを踏まえないと二句目が不明です。僧侶を務めている我が子が、大きな行事の講師になれるようにと、関白にお願いをして「しめじの原の」という回答を得て安心しきっていたら、選に漏れたという親ばかな状況で、文句を和歌にして関白に贈った歌というのであります。やれやれ、とんだ歌であります。つまり、「あんたの色よい返事を頼みの綱にしていたら、あれあれ今年も選から漏れてしまいましたよ、どうしてくれるの?」という内容のようです。流布本の『基俊集』には見えませんから、ひょっとして内緒の歌だったのでしょうか。それを、『千載集』の巻十六・雑上・1023番に撰者の藤原俊成が入れたんですね。基俊さんというのは、俊成さんのお師匠さんであります。つまり、お弟子さんが、よかれと思って内緒の歌を公開したのでありましょう。


なほたのめ しめじが原の させも草 我が世の中に あらむ限りは

  (『新古今集』巻二十・釈教 1916番 清水観音)


「しめじの原の」って言われたって、今ではなんのことか分からないんですが、下野の国の歌枕だそうでありまして、現在の栃木市から都賀町あたりにかけての「標茅原」というもので、湿地帯だったらしく、今は白地沼という小さな沼が昔を偲ぶよすがらしいのです。それを京都東山の音羽山清水寺のご本尊である清水の観音様が詠んだ歌がありまして、その歌を引いて関白が返事をしたのが大本なんであります。「しめじが原のさせも草」というのは、もちろん草餅なんかにする蓬のことなんですが、雑草でありまして、我々衆生を指す言葉なのだそうです。和歌の世界での通説ではモグサでありますから、胸を焦がして祈願に来る参拝客を、比喩したというのですが、「ああそうですか、わかりました」なんてとても言えませんが、「それは違うだろう」と強く否定する根拠もありません。でも、前に実方の歌(百人一首51番)で確認しましたが、『枕草子』や『古今和歌六帖』を参照する限り、治療用のモグサではなくて生えている植物のようです。ともかく、「おいらがこの世にいる限り、任せておきなよ、衆生よ」という歌を、当時は連想したと言うことでしょう。関白様から「しめじが原」って言われたんで、「任せておけ、しもじも」って言われたと合点して、あてにしていたんですが、結局ほったらかしになっちゃったんですね。関白からしたら、そんな依頼はいくらでもあって、そういう時は「しめじが原」と唱えるのが効くよと、どこかで会得したのでしょう。権力者には、権力者の間で権力を維持するための細かな技が代々伝えられていたことでしょう。


私にもあります。「泰然自若としていて下さい」と言われて、それならと任せていたら、ほったらかしにされっちゃったことがあるんですね。いや、まてよ、ちゃんといろいろ世話を焼いてもらった気もいたします。もとは、超有名企業の人事部の人だったらしいのでありまして、リストラを敢行して、最後に辞表を叩きつけて転職したんじゃなかったかしら。……あの方、その後さらに転職した先で急死なさったらしいです。冥福を祈ります。「泰然自若」って、たぶんあの方の仕事の際の決め台詞だったんでしょうね。こちらをくすぐっておいて、ほったらかす時に便利だった可能性は高いのです。


『私の百人一首』(新潮選書)の末尾で、白州正子さんが「なまじ面倒な詞書がなければ、失恋の歌として味わえたろうに、残念なことである」と指摘したので、我が意を得ました。この歌は、恋の終わりの歌としても通じるからこそ選抜されているわけで、それが実は相手のセリフというか引歌が引用されていて、人事に配慮をしてくれなかった相手に対する愁訴になっている点が面白いのでありましょう。要注意なのは、二箇所の動詞でありまして、これを読み解くことが、どうやら必要のようです。上の句の主要部分は、「契りし露を命にて」と言うことでありますから、恋愛なら「交わした情を命として」という、一夜の契りに命をかけている人物の覚悟が示されております。ここに、例の「露を置く」が絡みまして、蓬の葉末に置く夜露または朝露という光景がオーバーラップするのでありますね。


最初のところで、キリギリスを無理やりねじ込んで分かりやすくしてしまいましたが、この歌には実は昆虫は出てこないわけで、だとすると、問題は、「蓬(よもぎ・させも・さしもぐさ)」と契りを交わしたのは誰か、誰が蓬に情けの露を掛けたのかということになるでしょう。たぶん歌の内部で考えると、これが「秋」なのでありまして、実は「蓬」が女であり、「秋」が男の比喩になる擬人法なのであります。よって、五句目が「秋も行くめり」ではない理由が少し分かります。「行く」なら戻って来るんですが、「いぬ」だともう行方知れずになるわけです。よって、男が女に「飽きて音信不通になる」というニュアンスになるでしょう。


諸注釈は、「秋も行くめり」のつもりで解釈していて、ちっとも「いぬ」に注目しないのでは?


「いぬ」というのはナ変動詞というものでありますが、漢字を使って「去ぬ」とか「往ぬ」などと表記いたしますが、行ったきり戻ってこないことを表します。片道切符の動詞なんですね。「行く」が「来(く)」とペアなのに対して、対になる動詞が思い当たりません。あえて言うなら「帰る」とか「戻る」ということであります。現代語には生き残れませんでした。「いにしえ(いにしへ)」という言葉の中に、なごりがある程度でしょうか。ともかく、蓬に露をもたらした訪問者の秋が、待つ女にたとえられる蓬に「飽き」て戻ってこない、という擬人法が全体を支えているのであります。この擬人法の指摘が、諸注釈には欠けていまして、「いぬ」を「行く」のようにしか訳していないのです。冬がやってくると、蓬は霜枯れするわけでありまして、秋のくれた情けの露がとても恋しいのであります。そうすると、歌の中で浮くのが「今年も」というフレーズでありまして、この言葉が叙景歌ではないことの証拠だと思います。でも、限りなく叙景歌に見える材料を恋の風情に仕立てたわけで、それが息子の人事に対するいちゃもんですから、複雑というよりもはや怪奇な歌であります。


基俊の歌って、「なまじ期待を持たせてくれたけど、今年も駄目じゃん」という、権力者への痛烈な皮肉ということで、いいんでしょうね?


今回の岩波文庫版も同じですが、いろんな注釈書を参照していたら、それぞれ基俊の歌に関していろんな資料を出しているので、面白く詠みました。例えば、『百人一首一夕話』などは、説話集や歌学書を探索して基俊が人を批判ばかりするので、みんなで意地悪をして鼻を明かした話なんかをいくつも挙げておりました。また、別の物は、基俊が息子の光覚を溺愛していて、お寺に出して心配して詠んだ歌なんかを紹介していました。さらには、維摩会というのは興福寺の催しで、これに選ばれると自動的に宮中の仏事に招かれて名誉だなんてことを教えてくれまして、その興福寺の維摩会の主催者は藤原氏の氏の長者だと言いますので、まさしく法性寺入道すなわち藤原忠通さんが牛耳っていたことが分かります。歌道家の人々というのは、結構親子の情が篤くて、定家さんも宮中で喧嘩をして出勤停止になっていたのを、俊成父さんの嘆願の和歌で救われたなんてことがありますので、この基俊の歌が『百人一首』に入ってくるのは割と当たり前なのかもしれません。そして、基俊の歌がどういう歌を元にしているのかを探ると、それなりに面白いのであります。


それでも、分かったような分からないような、そういう歌ですね。ともかく、この歌は秋の歌として表面的に理解し、次に、「何年かしたら戻って来るよ」と約束した男の言葉にすがって待ち続ける女の歌として理解を深め、その上で大人の事情というものを前提に解釈するという、三段階の理解が必要な歌だったのではないでしょうか。いきなり、千載集の詞書を持ち出したり、清水観音の歌を引き合いに出されたら、はたして誰が納得するのでしょうか。注釈する人が、季節の歌、恋の歌としての解釈を示さなかったところに、百人一首享受の問題が凝縮されていると思います。要するに、コピーアンドペーストの集積によって、もっともらしく解説を施して来たってことでしょう。ただ、コピーアンドペーストという操作を悪く思ってしまいますが、よく考えると受容して再利用するってことですから、それって、学問の基本かも知れませんから、本当に駄目かどうか、軽々しく判断してはいけないかもしれません。そういえば、漢文由来の「温故知新」などという便利な四字熟語もありました。 


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