岩波文庫『百人一首』を読む(73) 大江匡房
73 高砂の尾上のさくら咲きにけり 外山の霞立たずもあらなん 権中納言正房
【訳】あの向うの、高い山の峰の桜が咲いたのだなあ。里近い山の霞はどうか立たないでほしいものだ。
【出典】後拾遺集・巻一・春上・120
内大臣の家にて、人々酒たうべて歌よみ侍けるに、遥かに山桜を望むといふ心をよめる 大江匡房朝臣
【解釈の要点】
①「高砂の尾上」が高い山の峰という普通名詞か、歌枕として播磨国高砂の高所か、という歌学上の問題がある。藤原範兼の『五代集歌枕」は匡房の歌を含めて十四首の例歌を挙げるが、地名か普通名詞か明示していない。下河辺長流の『三奥抄』の頭書では「山を惣じて高砂といふ」として、素性の後撰集・春中50「花山にて、道俗酒らたうべけるをりに、山守はいはばいはなん高砂の尾上の桜折りてかざさむ」を引く。契沖の『改観抄』はほぼ『三奥抄』を踏襲しつつ、素性の歌は引かない。
②匡房の家集『江帥集』にも、「内大臣殿 遠山桜 有序」の詞書を付して載る。「有序」の注記から、匡房が序者とされたと推定される。「内大臣殿」は、永保三年(1083)正月内大臣に任ぜられた藤原師通をさす。後拾遺集が現在の形に落ち着いたのは応徳四年二月(1087)であったから、内大臣家歌会はその間のことで、匡房43歳から47歳までと推定できる。
③この歌の後拾遺集の詞書は、後撰集の素性の歌の詞書と似ている。後拾遺集撰者の藤原通俊は匡房の歌の「高砂の尾上のさくら」から、素性の「山守は」の歌を連想したか。匡房自身も遠山桜を詠もうと考えた時に、素性の歌を意識したか。
④香川景樹『百首異見』では、高砂は本来海岸の砂丘のことだが、「砂積而成山などいふからぶみに名のあへるをよみして、やがて山の通称とし」たのだと考えたが、この歌の霞の立つさまは理屈に合わず、題にこだわって実景を忘れたかと批判し、匡房には秀逸も多いのにこれを採ったのは「撰者のあやまち也」という。
⑤匡房は儒学では鴻儒だが、和漢兼作の詩人・歌人である。白河院は学者としての匡房を高く評価していた。『古事談』第一王道后宮に、「余は匡房を抜擢して賞してきた」と言い、「通俊、匡房などは近古の名臣なり」とも言ったという。順徳院の『八雲御抄』第六用意部は、この白河院の言を受けて「歌のみちは……匡房はまされり」と論じ、通俊は詠み口が下手だとした。通俊が匡房に、詩文に長けているのによく知らない和歌をなぜ好むのかと言ったところ、匡房は和歌を詠むのは止めようと言ったが、経信は小野篁や在原行平は詩文と和歌に長じていると反論した。その当時と後代では評価は変化すると、順徳院は述べている。その通りである。
⑥鴨長明の『無名抄』「俊恵定歌躰事」で、俊恵は匡房の詞花集・春22「白雲とみゆるにするしみ吉野の吉野の山の花ざかりかも」の歌を「これこそはよき歌の本とはおぼえ侍。させる秀句もなく、かざれることばもなけれど、すがたうるはしく、きよげにいひくだして、たけたかくとをしろき也。たとへば、しろき色のことなるにほひもなけれど、もろもろの色にすぐれたるがごとし」と絶賛した。
⑦匡房は自信家でもあった。『続古事談』第二臣節には、匡房は都の二条高倉に倉を築いて、「日本国がなくならなければ、この蔵書はなくなる筈がない。国家が滅亡する時期が来たならば、この書物も焼亡するであろう」と言った。しかし、仁平三年(1153)京の大火で万巻の書が灰となってしまった。平信範の『兵範記』では「是朝之遺恨、人之愁悶也」と嘆いている。
【蛇足】
さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は訳に若干の変更がありました。學燈社『百人一首必携』執筆時では、「咲きにけり」の訳は「咲いたなあ」、「外山」は「近い山」とありましたが、今回は「咲いたのだなあ」「里近い山」とありまして、微妙な変更です。特に解説もありませんから、変更の理由はわかりません。それ以外の特徴を考えてみると、「高砂の尾上」は「あの向うの、高い山の峰」とありまして、普通名詞であり、播磨の国の歌枕という扱いではありません。
次に、解釈と称する解説の部分では、「高砂の尾上」を普通名詞か歌枕か論じる①と、それに対する香川景樹の見解を述べ、かつ匡房の代表歌とは言い難いとする④は、基本的には『必携』を受け継ぐものですが、『必携』では①に出てくる素性の歌を「高砂の尾上の桜」を詠んだ例として提示しています。匡房の家集を紹介し、歌が詠まれた歌会の時期を推定する②、素性の歌と匡房の歌の詞書が似ている点から、後拾遺集撰者通俊のも作者の匡房も素性の歌を意識していたとみる③、匡房を同時代の白河院や後代の順徳院が評価していたことを考証する⑤、俊恵が匡房の「白雲と」の歌を絶賛したことを伝える『無名抄』を引用する⑥、匡房自慢の蔵書が本人の予測とはうらはらに早々に火事で灰燼に帰した皮肉な様子を『続古事談』や『兵範記』を引用して示した⑦は今回の書下ろしです。なお、『百人一首必携』では、詞書の「酒たうべて歌よみ侍りける」にまつわって、そうしたことを明記するのは後拾遺集までで、金葉集以降新古今集までの勅撰集にはなくなり、ここには褻晴の意識があるとして、『古来風躰抄』を引用して考証していましたが、今回は割愛したようです。
今回の岩波文庫版では、古来問題となっていた「高砂」が播磨の名所なのか、単なる普通名詞なのかという問題に関して、著者は明確な判断は下していませんが、近世の注釈も参照して、「高砂の尾上の桜」という表現の先行例である素性の歌に着目し、普通名詞のように訳出しております。まだまだ、問題をはらむ表現といえるでしょう。富士山や筑波山、香具山、三笠山、三室山、そして有馬山など歌に詠まれた山名というのは、詠者のリアルな体験による現実の姿を詠み込んであるのかというと、実はそうではない可能性が高いわけで、多かれ少なかれ長い歴史の中でイメージ化されたものを、歌人たちは詠んでいるはずです。そう考えると、著者やこれまでの注釈者が、この歌の「高砂の尾上」を普通名詞であると主張することの方が妥当性を欠くような気がするのでありまして、だったら簡単に「奥山の尾上の」などと言えばすむことだったのではないかとすら感じてしまいます。普通名詞説が果たして正しいのかという判断は留保するとして、とりあえず普通名詞だとして受け入れるとしても、じゃあ現代ではその辺の高い山を「高砂」と呼ばないのは何故なのかと、逆に問うてみたい気がいたします。
それにしても、詞書にある「内のおほいまうちぎみの家にて、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに」という部分について、歌との関連を従来の注釈書がまったく気に掛けていないのが不思議な気がいたします。つまり、「高砂」が播磨の歌枕か普通名詞かという議論よりも、「高砂の尾上の桜」が酒を提供している内大臣の比喩であり、「外山のかすみ」が酒宴に参列している人々の比喩ではないかというのは、多少なりとも検討する必要があることでしょう。内大臣を持ち上げる意図があれば、おのずから例えに使う歌枕は限定が加わるでしょうから、「高砂の尾上の」というような歌枕が撰ばれたことに意味があったと思うのであります。
作者は大江匡衡の曾孫なんだそうでありまして、だとすると赤染衛門の曾孫でもあるのでしょうか。ものすごい学者でありますが、歌人としてもたくさん歌を詠んで、勅撰集にもばりばり入った人なのであります。分からないところはない歌でありますが、これを見て今感動できるかというと、さほどでもないような気がいたします。しかしながら、たとえば北原白秋の評釈を見ると、「自然に向つてのべた美しい歌で少しの厭味もなく軽い調子で歌はれてゐる」と高評価でありまして、自然を見てその美しさをスケッチした点を嫌味がないと褒めているのです。自然を詠んだ歌と言う点がひっかかります。
問題になるのは、五句目すなわち末句の「なむ」でありまして、これはダメ元で相手にお願いする終助詞であります。つまり、桜が咲く頃には、周囲の山々に霞が立ち上りますから、お願いしても自然が相手では効果がないのでありまして、霞のせいでせっかくの桜が見えなくなるのは防ぎようがないと言うことなのであります。これは、そういう体験を重ねた人が、この歌を歌いますと気分いいと言いますか、共感する歌なのであります。あくまでも現実が先にあり、それを言葉で押さえているわけで、その押さえ方がうまいと言うことですね。大臣の邸で酒を飲みまして、それから「遙望山桜」という題で詠んだ歌なのだそうですが、適度にアルコールが入って、大胆な歌が飛び出したということでしょうか。これを、四角四面の学者肌の歌だと評する人もいるんですが、さて、どうしてそんなふうに感じてしまうんでしょうか。そっちのほうが四角四面だなと、思ってしまいます。
さて、この歌の前三首ついて、妙なことを言って来ましたが、おさらいすると「秋の歌」が実は恋の情趣を裏に含んでいたり、「恋の歌」が実は海岸の風景というか、羇旅の歌というか、そういう道具立てであったり、というようなことを指摘しました。この匡房さんの歌は、単純な桜の歌なのでありましょうか。歌われた場を見たら、そうじゃない可能性の方が高いのであります。たぶん。例の『百人一首』61番にあった伊勢大輔の「いにしへの」の歌だって、宮廷の場を舞台に、栄華に酔いしれている権力者の気分を汲んだ歌だったわけですから。
角川ソフィア文庫の『百人一首(全)』(谷知子さん編)が、酒席で主人を寿いでいる歌であるという指摘をしておりまして、それが大手柄なのではないでしょうか。山のてっぺんで咲いている桜というのは、宴の主人である内大臣藤原師通の比喩でありまして、それでいいと思います。ここからは、私の憶測を言うならば、周辺の山々の霞というのが、招かれた大江匡房を含む支持者たちでありまして、「立たずもあらなむ」というのは、帰らないで欲しい、腰を落ち着けて飲もうではありませんか、と呼びかけたのでありましょう。この憶測は、ひょっとすると大手柄でありまして、「桜」を栄花を極めている人にたとえるのは、61番伊勢大輔の「いにしへの」の歌でも感じ取れるわけでありまして、それに家来というか、追従する人たちを加えて嫌みなくまとめたところに手腕があるわけですね。実は66番の行尊の歌にも、後三条天皇の即位を寿ぐ意図があったという解釈もあるわけで、王朝和歌は一筋縄では太刀打ちできないところがございます。
後拾遺集・巻一春上・120番
内のおほいまうちぎみの家にて、人々酒たうべて歌よみ
侍りけるに、遥かに山桜を望むという心をよめる 大江匡房朝臣
高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
師通の 内大臣は のび盛り われら取り巻き 囲んで飲まなむ(粗忽謹製)
まあ、要するに、こんな歌を見て純粋な季節の歌などというのは、注釈する方々の妄想でありましょう。めちゃめちゃお追従の恥ずかしい内容を、春の桜の歌として仕立て上げたわけで、昔神童で、今は実務官僚の秀才であった匡房であれば、これくらいの内容は簡単だったということなんですね。これを「自然に向かってのべた美しい歌」とか「学者の歌」とか、そういうふうに切り捨てるのは非常に不思議です。むしろ、交際術にたけたこなれた人物の宴会芸であるとか、さらには、平安時代後期院政期の、歌を巡るなまなましい現実を垣間見させる歌であるとか、そんなふうに指摘すべきものだと思います。
お暇なら、世間の注釈書というものをご覧いただきたいのですが、宴会芸だとかお追従の歌だとか、そういう指摘はほぼありません。香川景樹の『百首異見』は、これは題詠に過ぎなくて実景じゃないというようなことを江戸時代の終りに言っていたようですが、突っ込みどころはそこじゃないのであります。この歌は、題詠するのをよい機会と捉えて、師通のもとにはせ参じている官僚を、この際派閥化しようと企む歌でありまして、政治的な感覚にたけた人の歌でありましょう。季節の歌は実景を詠むのが一番だなどという評価は、はっきり言ってどうでもよいことではないかとおもうのです。香川景樹ほどの人でも、まさか四季の歌が、権力者におもねるようないかにも宮廷の場の産物であったことを見落とすというところに、江戸時代に発生して近代に辿り着いた国学の限界をまざまざと感じさせるというと、言い過ぎなのでありましょうか。応仁の乱のあたりで王朝文化の命脈は尽きまして、古今伝授などで生き延びようとしていたものが、あっさりと国学の勃興によって葬り去られてしまったという図が浮かぶのであります。その結果、百人一首の歌の多くが意味の分からない歌として認知されまして、分らないのをいいことに変な講釈がはびこってしまったのでありましょう。やれやれ、まじめに持説を開陳いたしましたが、全部思いつきもいいところの軽い冗談でございます。
題の遥かに望むといふにかかはりて、実景を忘れられしものか。此の卿の歌にはさしも秀逸の多きを、中にも此の歌を出だせるは撰者のあやまちなり。(香川景樹『百首異見』)
いやいや、それくらいの才覚があれば、藤原定家は後鳥羽院と大喧嘩しないで済んだのではないでしょうか。百人一首の撰者が定家ならば、うらやましくてうらやましくて、今からでも匡房のように立ち回りたいと、そういうサインを送っているのかもしれません。
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