岩波文庫『百人一首』を読む(77) 崇徳天皇
77 瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の われても末に逢はむとぞ思ふ 崇徳院御製
【訳】川瀬は水勢が早いので岩に堰かれた滝なす川が分かれても先では流れあう、そのように、何としてもいつかは恋しいあの人と逢おうと思う。
【出典】詞花集・巻七・恋上・129
題不知 新院御製
【解釈の要点】
①第二句「岩にせかるる」は、底本(宮内庁書陵部蔵本堯孝写・函号503-236)「いはにくたくる」を詞花集や『百人秀歌』により改めた。
②詞花集が成立した時の「新院」は同集の撰進を命じた崇徳院である。その下命者の詠が「題不知」と扱われるのはいささか不思議だ。この歌はやはり新院が廷臣や女房達に詠進を命じて自らも詠んだ、久安六年(1150)の『久安百首』の作である。
③『久安百首』は、俊成も作者の一人で、当時は顕広。全員の百首歌による個人別百首本と、新院が藤原俊成に出揃った全員の百首歌を主題別に分類し直すことを命じてできた部類本と、二種の本文が存する。新院のこの歌は、個人別百首本では「ゆきなやみ岩にせかるる谷川のわれてすゑにもあはんとぞおもふ」として載る。部類本では「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれて末にもあはんとぞおもふ」として載る。部類本の本文が詞花集に近いが、第四句は一致しない。詞花集の成立は仁平元年(1151)、顕広が『久安百首』の部類を命じられたのは、仁平三年(1153)暮秋であるという。彼が新院の本意ではない本文の改訂を敢えてするとは考えにくい。詞花集の撰者である藤原顕輔は、『久安百首』から採った歌を、自詠を含む三首については新院の仰せによる百首での詠と明記するのに、この歌ともう一首の新院の歌は「題不知」としたことも、院の意向を反映したか。
④「瀬をはやみ」は48源重之の「風をいたみ」と同じ構文で、瀬が早いのでの意。「滝川」は、滝状をなして流れる川。下河辺長流の『三奥抄』は「山の間を流るる川を滝河といふ」とする。
⑤契沖の『改観抄』は『三奥抄』に拠りつつ、後撰集・恋六1059「瀬を早み絶えず流るる水よりも絶えせぬものは恋にぞありける」(読人不知)、万葉集・巻十一2716「高山ゆ出で来る水の岩に触れ砕けてそ思ふ妹に逢はぬ夜は」(作者未詳)の「二首を取てよませたまへり」と言い、さらに、古今集・離別405「下の帯の道はかたがた別るとも行きめぐりても逢はむとぞ思ふ」(紀友則)なども心かよへりと注する。一方、賀茂真淵の『宇比麻奈備』は、万葉集・巻四699「一瀬には千度障らひ行く水の後にも逢はむ今にあらずとも」(大伴像見)を引き、「……てふにも似て少しことなり」と言う。
⑥香川景樹の『百首異見』は、「ゆきなやみ岩にせかるる谷川の……」という『久安百首』個人別百首本の本文が新院の詠んだ正しい形であり、詞花集での本文は、源頼政の家集『頼政集』の「おもへただ岩にわかるる山水も又ほどもなくあはぬものかは」と同趣旨の新院の詠を、万葉集の「高山ゆ出で来る水の……」などと同類の発想と考えた撰者顕輔が「其瀬をはやめて瀧川になしたる也。さては御製の命とする、末にあはんの意にたがひゆくを忘れ」たのだと論ずる。
⑦この歌に一貫する強さ・激しさが数年後の保元の乱という形で暴発したか。その新院に心を寄せていた一人が西行だった。参考に、保元の乱を中心に、崇徳院と西行の動きを年譜的に摘記する。
保元元年(1156)7月2日 鳥羽法皇、鳥羽安楽寿院で崩。西行、高野山から下山中大葬に参り合わす。「今宵こそ思い知らるれ浅からぬ君に契りのある身なりけり」他一首を詠む。
7月11日 保元の乱起る。崇徳院側、後白河天皇側に敗れ、院は薙髪、仁和寺に身を寄せる。西行、同寺に参り、阿闍梨兼賢を通じて、「かかる世に影も変らず澄む月を見るわが身さへ恨めしきかな」の歌を参らす。同月13日 朝廷、崇徳院を讃岐に遷す。
長寛二年(1164) 8月26日 崇徳院(当時は讃岐院)讃岐国に崩、46歳。それ以前、讃岐の崇徳院から女房よりとして、「水茎の書き流すべき方ぞなき心の内は汲みて知らなん」との歌を送られ、「ほど遠み通ふ心のゆくばかりなほ書き流せ水茎の跡」と返す。讃岐より「いとどしく憂きにつけても頼むかな契りし道のしるべ違ふな」他を送られ、「頼むらんしるべもいさや一つ世の別れにだにも惑ふ心は」他を返す、西行より、「世の中をそむく便りやなからまし憂き折節に君逢はずして」他を送り、「女房」として、「目の前に変りはてにし世の憂さに涙を君も流しけるかな」他を返す。
仁安三年(1168) 10月10日 西行、四国へ旅立つに際し、賀茂別雷神社に奉幣、棚尾社に参詣し、讃岐国松山の津の御所跡を訪れ跡形もない有様を「松山の波に流れて来し舟のやがて空しくなりにけるかな」、「松山の波のけしきは変らじを形なく君はなりましにけり」と嘆き、白峯寺近くの崇徳院御陵に参り、「よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん」の歌を献ずる。
【蛇足】
さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は訳にかなりの変更がありました。學燈社『百人一首必携』執筆時では、「瀬が早いので岩に堰かれる滝川が割れても末には流れあうように、恋しい人と逢おうと思う」とありました。念のため同じ著者の『百人一首 秀歌選』(ほるぷ出版1987年刊)では、「山川の瀬は流れが早いので、岩に堰かれる滝なす川が、岩にぶつかり割れ砕けても、末には落ちあうように、たとえ一時は別れても、いつかは必ず逢おうと思う」となっていました。今回の訳と比較して、それぞれ微妙に違っております。『必携』では補いが「流れあうように、恋しい人と」のみでありましたが、ほるぷ出版の時は「滝川」を「滝なす川」と表現しつつ「山川の・流れが・岩にぶつかり・砕けて・落ちあうように、たとえ一時は別れても、いつかは必ず」と補いが多く、その一方で「恋しい人と」という対象が省かれています。今回は、「瀬」を「川瀬」、「瀧川」を「滝なす川」、「われても」を「分かれても」、「末に」を「先では」と言い換え、「水勢が・流れあう、そのように、何としてもいつかは恋しいあの人と」とたくさん言葉を補っております。今回の訳から、その特徴を考えてみると、上三句の「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の」が序詞の扱いでありまして、それを受けているのは「末に合はむ」で、ここを川の描写では「先では流れあう」ですが、恋情としては「いつかは逢おう」としていて二重になっています。ほるぷ出版『百人一首 秀歌選』では、「われても」が「割れ砕けても」と「一時は別れても」と二重に訳してありますので、これだと上三句の序詞に導かれるのは「われても末にあはむ」でありまして、修辞の処理に揺れがあることが指摘できそうです。もう一点特徴を挙げるなら、「逢はむ」の対象は二人称で「あなた」でもいいと思いますが、著者は三人称で「恋しいあの人」と見ているようです。
次に、解釈と称する解説の部分では、底本の二句目を他の作品によって改める①、崇徳院自身が関与した『久安百首』の詠にも関わらず詞書に「題不知」とあるのを疑問とする②、『久安百首』に個人別百首本と俊成の部類本があり、この歌が二種類の間で本文に大きな異同がある点を考証する③、「瀬をはやみ」や「滝川」の意味を解説する④は、ほぼ今回の書下ろしです。これらに対して、契沖や賀茂真淵が本歌を指摘しているのを紹介する⑤、香川景樹が『久安百首』の個人別百首本の本文を正しいとして詞花集の本文を撰者顕輔が改作したとする⑥は、『必携』から受け継がれています。『必携』では、⑥の景樹の説に対して島津忠夫氏の説なども援用しながら、崇徳院自身の改作と見るべきだと考証していましたが、今回は③において『久安百首』の部類本が詞花集に近い本文を持つことから、俊成や顕輔の改作ではなく、詞書の「題不知」も含めて崇徳院自身の意向を反映したものという判断を下しています。久保田淳氏は、部類本や詞花集に見える本文に、保元の乱を惹起した崇徳院の性格を読み取ろうとしておりまして、問題を孕みますが、非常に面白くて有益な指摘であることは間違いありません。
これは、三島由紀夫の小説を原作とした映画『春の雪』(監督・行定勲 2005年封切)に出て来る歌でありまして、しかしながら原作の小説中には実は出て来ない歌ですから、あれこれ詮索したことがありました。面白いのは、急流であるとか、流れがあとで合流するだとか、なんとなく注釈書が大河の流れのようなものを想定しているのに対して、どうもそうではないようで、岩場を流れるしょぼい流れを想定する必要があると言うことを、探り当てました。そういうことを指摘する向きもありまして、そちらのほうが理にかなっていると思います。江戸末期の香川景樹が気が付いて、佐佐木信綱経由で白秋も理解を深めていたようです。今回の岩波文庫版の久保田淳氏は、『久安百首』の二種類の編集系統に着目して、景樹の指摘を相対化しておりまして、興味深いものがあります。
問題点はいくつかありますが、焦点は「われても」の解釈になるでしょう。普通に説明すると、序詞という技法が使われていまして、「瀬を速み岩にせかるる滝川の」は、「われても」を導く序詞ということになりまして、これがイントロでありますから、歌の内容は「われても末に逢はむとぞ思ふ」がメインのボーカル部分となるのです。ただこれは、滝川に関連する言葉をわざと使っての「割れて」「合はむ」という表現ですから、恋の歌として理解するためには、解釈上飛躍が必要なんですね。だから、世間の注釈の多くは、ここから「別れてもいつかは再会したいと思う」というような、永遠の別れを想定し、それに対して再会を希求するという、非常に芝居臭い大げさなものになるわけですね。
そこで問題にしたいのは、四句目のところに出て来る「末」という言葉がちゃんと吟味されてきたのかどうかということです。言い換えると、「末」という言葉が、時間的な流れの中で、どのようなニュアンスで使われるか、これまで注釈者が理解できていなかった可能性があるということです。つまり、この歌の「末」が「遠い将来」「不確定の未来」を指すのかどうかと言うようなことですが、辞書を見るとそんな方向の解説しか無いんですけれども、どうも違うようだと気が付きました。この言葉というのは、「本」と「末」とペアにすることが多くて、始まりがあって終わりがすぐに来るような時の、その終わりを「末」と言うようです。つまり、「有限の結末」「既定の結果」を示すもので、「遠い」とか「不確定」ではないのでしょう。
辞書というのは、人が作っているのであって、完璧な辞書などと言うものは存在し得ないはずです。まだまだ発展途上のところがあるということは、心得ておきたいものです。
考えたら、私は「末っ子」なんだけれども、いつかそのうち生まれるかも知れない子供のことではないですよね。もう生まれないし、作る予定もなくなると、この子が末っ子ですって紹介するんですよ。樹木の「梢」というのも、字を当て代えれば「木末」なわけで、樹木の先っぽの目に付くところを言うわけです。樹木の先っぽは「梢」だけれど、折り取ると「枝」になっちゃうんではないでしょうか。地面に落ちている木の枝を、「梢が落ちている」とは言えないと思います。「行く末が心配だ」という時も、こんな状態では将来が大変だと分かった時に言うわけで、実は確定的な未来をいうのでしょう。「行く末、頑張ってね」とは言わないな。「末は博士か大臣か」というのも、できのいい神童に使うわけで、洟たれ小僧には言わない言葉でしょう。和歌の世界では、上の句の五七五の部分を「本」と言い、それに続く下の句の七七を「末」というわけで、「本」と不即不離の関係にあるものを「末」と呼ぶわけです。丸見えの先っぽ、後のほうが、どうやら「末」ってことでしょうね。だったら、崇徳院の歌も、こんなに愛し合ってるから、何か妨げになる事情(お仕事とか、夜明けとか、疲れたとか)があるけれど、また逢おうねって言っている可能性は高いと思います。
崇徳院の歌は、遠い未来のことではなく、おそらく「今夜も逢おう」とか、「明日も逢おう」というホットな歌でしょう。
もちろんそれを敷衍して、……ふえんしてというのは、広げていってってことですが……転生した来世にも必ずお会いしましょうねという力強い再会を確約する歌として理解するのは、非常に自然で適切な使い方になることでしょう。逢えるかどうかも分からない、というような自信のない解釈をしていたら、序詞の部分が実は読み解けていないという証拠になってしまいますね。そう思って、角川ソフィア文庫『新版百人一首』(島津忠夫氏)とか、ちくま文庫『百人一首』(鈴木日出男氏)を見たら、保元の乱後の境遇に引っかけすぎて、遠い将来の再会を期待する歌になっちゃってますね。これらに対して、講談社文庫『百人一首』(大岡信氏)は、「ああ、何としてでも、私はあなたと抱き合う」なんて訳してあって、大正解かもしれません。詩人のほうが、学者さんより読み込んでいたということでしょうか。やっぱり恋の歌ですから、この場合は今日明日の肉体的な接触を前提とした解釈のほうが、序詞にはうまくかみあってしまうでしょう。たいした違いは無いけれどね。同じだからこそ、違う違うと言いつのっているだけで、違いを探せば探すほど、同じような解釈に見えて参りますけれども、この微妙な差を感知していただけますでしょうか。
この歌の焦点は、「われても末に逢はむ」の部分が、永遠の愛を誓う歌なのかどうかと言う点です。崇徳院という天皇は、保元の乱(1156年)に敗れまして、その時が37歳くらいですが、讃岐の国に流されて、8年後の長寛2年8月26日(1164年9月14日)にかの地で亡くなっているんですね。崩御されたということです。死後に怨霊になったとされていまして、西行法師がそれを鎮めに乗り込んだなんて話があったような気がします。ともかく壮絶な人生ですから。怨霊の歌だと思って見ると、おどろおどろしいんですね。今手元にある『私の百人一首』(新潮選書)という本を見ると、これは白州正子さんの本なんでありますが、そこには「崇徳院の悲劇の一生を想う時、恋の歌に寄せて、『世に逢うこと』を切望されたのではあるまいか。緊迫した詞の烈しさに、私はそういうものを感じる」と言ってまして、純粋な恋の歌じゃないんだと主張しています。歴史的なその後の顛末から見て、ずっと前に詠まれた歌を解釈するという、荒業なんですが、ご本人は自覚があったのでしょうか。それもこれも、「末」という詞を、曖昧な未来を指す詞として、「いづれそのうち」などと理解しているところから生じるのではないでしょうか。「末」っていう言葉は、歴然とした結果みたいなものですからね、クーデターを起こした末に失敗した、のように因果関係があるんですね。滝川なら、すぐに合流いたします。流刑に処せられたけど、出来たら将来再会したいという解釈は、実は滑っていると申し上げました。
ゆきなやみ 岩にせかるる 谷川の われてすゑにも あはんとぞおもふ (久安百首・恋)
百人一首の歌は、実は元々が『久安百首』という崇徳院が主催した歌の催しに、自分で提出した歌です。この百首というのは、一人の歌人が出題にしたがって、季節の歌や恋の歌をまとめて百首詠んで、それを集めたもので、完成したのは久安6年(1150)のことですが、翌年に作った詞花集のための素材提供の催しのつもりだったのでしょう。つまり、崇徳院の歌だけで百首もあります。その中に恋の歌が二十首ありますが、そのひとつに過ぎないのが「われても」の歌です。もちろん、実体験の中で詠んだ歌ではありません。詠み方としては、いろんな恋の歌を構想する中で、川を比喩にして詠んでみようかと思いつき、山奥の谷川を想像して詠んでみた、ということです。
誰が改作したのか不明ですが、百人一首と同じ形に修正して、あるいは添削してもらって、それで詞花集に入れたというわけです。久保田淳氏の解説によると、これを「瀬をはやみ・滝川の」に変更したのは顕輔撰の詞花集のほうが先で、俊成の部類本『久安百首』が後ということです。ともかく、このもとの形を見ると、いろいろ分かって面白いところがあります。「ゆきなやみ」というのは、もはや恋心を表明する詞ですから、景色とはあんまり関係ありませんよね。川の流れが勢いを失ってちょろちょろ流れますので、いきなりしょぼくなってしまいますから、三句目に「谷川の」とあるのがうなづけます。この歌を見る限り、白州正子さんの言うような「世に逢うこと」を切望するなどという元気のよさはみじんもないわけです。緩やかな谷川の流れを、滝川にすりかえて激情を明白にしたのはもちろんですが、だとしても国家・天下の話には残念ながらならないのではありませんか。
二、三注釈書をめくってみますと、それぞれに有益な情報が載せられています。まず、面白いことを教えてくれたのが、『小倉百人一首新釈』(白楊社・昭和29年・1954年)という注釈書で、これは小高敏郎さんと犬養廉さんの共著ですけれども、上の久安百首の方が百人一首の「瀬を速み」よりも断然いいと言うことを、江戸時代の香川景樹が主張していると早くから指摘していました。その要点は、滝川なんかじゃ水がすぐに落ち合って「末」って詞がおかしいと指摘していると言うんですね。ああ、なるほど、水勢が弱くないと成り立たないという指摘はごもっともでありますね。この辺は想像力の問題ですけれども、二つの形を突き付けたら、「末」という詞に多少の意味を込めるなら、久安百首の方も捨てがたいと言うことですが、香川景樹さんというのは幕末のアジテーターですから、断定するのが上手です。香川景樹(かがわかげき)は、明和5年(1768)から天保14年(1843)まで生きた江戸時代後期の歌人ですが、桂園派という流派をなして、明治時代の主流派の創始者です。
まとめますと、特に「末に逢はむ」というのを、遠い将来に設定するのは間違いで、岩に阻まれた流れは岩場の下ですぐに一つになりますから、「今夜もよろしくね」というような、なかなか色っぽい歌なのであります。讃岐に流刑にされてしまいましたから、それとひっかけて壮大なロマンを空想してしまいそうですが、それはおそらく誤り。なぜなら、この歌が入っている『詞花集』という第六代勅撰和歌集は、崇徳院が下命して藤原顕輔に編纂させまして、保元の乱の5年も前に成立したものですから、そんなロマンとは無縁なのであります。『詞花集』の成立が、仁平元年(1151)のことで、保元の乱が起きたのが保元元年(1156)なのであります。ですから、「岩」というのは、政治的な敵であるとか流刑だとか、そういうものではなくて、昼間のお仕事とか、夜の宴会とか、その程度の差し障りのことと考えるべきですね。後で来るからね、待っていてね、ということです。
ただ、歌人のその後の人生で歌を解することが許されるなら、確かに内乱の末敗れて流刑になった帝王の歌として深読みするのも仕方ないのかもしれません。それなら、ひとつ前の藤原忠通の歌の「久方の雲居にまがふ沖つ白波」も、その後の崇徳院の人生にぜひ絡めて解読していただきたいと、切に願う今日この頃です。
さらに蛇足を付け加えます。三島由紀夫の小説『春の雪』というのは、三島由紀夫晩年の著作『豊饒の海』四部作の最初の作品ですが、これが映画化されたのが2005年のことです。主人公を妻夫木聡さんと故竹内結子さんが演じましたが、その中に出て来る百人一首の歌が「瀬を速み」の歌ですけれども、前にも書いた通り原作は別の歌なのであります。制作陣が、あえて原作の歌を差し替えたのには、何か深いわけがあったことでしょう。ところで、誰も指摘しないのですが、「瀬をはやみ」の歌というのは、ひょっとすると『源氏物語』の中の夕霧と雲居雁の恋愛を示唆するところがあるのではないでしょうか。実は、三島由紀夫の『春の雪』の原作の人物設定というのは、夕霧と雲居雁の関係に非常に似ていまして、女性の方が年上で、その上男子が女子の家に預けられているという設定も、そのまんまなのであります。幼馴染の二人の関係に障害が生じるところもそっくりでありまして、さて、三島由紀夫の『春の雪』に関して、『源氏物語』の影響を語ることがあるのかどうか、耳にしたことはありませんが、探せばあるのかもしれません。ともかく、『源氏物語』の夕霧と雲居雁の恋愛と二人を隔てる障害の存在、そして最終的な恋愛の成就ということを考えると、崇徳院の「瀬をはやみ」の歌はそのまんまではないでしょうか。上坂信男氏は、この歌に関して、『新版百人一首・耽美の空間』(右文書院・2008年)で女三の宮と柏木の関係を示唆するものだと指摘していますけれども、「末に逢ふ」ということを考えたら、そっちじゃなくてこっちだよと提案したいと思います。『春の雪』の場合は、最後は悲恋に終わりますが、二人の逢瀬を考えると、崇徳院の歌はぴったり嵌り過ぎでありまして、古典を自家薬籠中の物にしていた三島由紀夫だからかえって選ばなかったのだと思います。
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