岩波文庫『百人一首』を読む(71) 源経信

71  夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く  大納言経信


【訳】夕方になると、黄金に色づいた門辺の田の稲の葉にさらさらと音を立てて、蘆で葺いた仮小屋に秋風が吹きつける。

【出典】金葉集・巻三・秋・173

   師賢朝臣の梅津に人々まかりて、田家秋風といへることをよめる


【解釈の要点】

①「夕されば」は、夕方になるとの意。古代歌謡ですでに用いられている句である。「さる」は四段動詞で、このように時や季節が移りめぐってくることをもいう。『岩波古語辞典』によるが、同書では見出しは「さ・り」となっている。「門田」は、家の近くの田。「山田」などとは違って、手入れの行き届いた田。「門田の稲」は、万葉集・巻十2251に「橘を守部の里の門田早稲刈る時過ぎぬ来じとすらしも」(作者未詳)などと詠まれている。「まろ屋」は仮小屋。枕草子・新大系本170段に「屋は まろ屋。東屋」とある。賀茂真淵の『宇比麻奈備』に「やねもわきもなく蘆のみにてせる庵」という。

②「蘆のまろ屋」の句は経信が好んだものか、『経信集』には「田上の路」で詠んだという「旅寝する蘆のまろ屋の寒ければ爪木樵り積む舟いそぐめり」の他にも、長歌の「旅情」で「蘆のまろ屋の つまもなき……」と用いている。金葉集の詞書によれば、この「夕されば」の歌は都の西、梅津の里にあった源師賢の山荘で詠まれたものであった。その師賢がやはりこの「蘆のまろ屋」の句を用いて、「水辺旅宿」の題で新古今集・羇旅926「磯なれぬ心ぞ堪へぬ旅寝する蘆のまろ屋にかかる白波」と詠んだ。師賢は経信と同族の19歳年少の歌人で、「磯なれぬ」の歌は、藤原定頼が竹生島詣での折に詠んだと考えられる歌、新古今集・羇旅946「磯なれで心もとけぬ薦枕荒くなかけそ水の白波」を強く意識していると想像されるが、「蘆のまろ屋」の句はやはり経信から学んだのであろう。

③後拾遺集・秋下369に師賢の梅津山荘で「田家秋風」を詠んだ、源頼家の「宿近き山田の引板に手もかけで吹く秋風にまかせてぞ見る」という歌が載っている。経信の「夕されば」の歌と同じ時、同じ場で詠まれたか。頼家は清和源氏で、「らいこう」の名で親しまれる頼光の男、和歌六人党の一人とされる受領歌人である。

④「門田の稲葉おとづれて」の句から、黄に実った稲田の広がりが想像されて、その一角に立つ「蘆のまろ屋」の主は、あるいは庵の中で秋風の音を聞いているのかも知れないが、読む側はこの広い夕景を戸外で眺め渡しているような感じになる。経信の歌には明るい外光が行きわたっているという印象だ。頼家の歌は、やはり庵の中にいて、主は戸外を見ているとしても、むしろ引板の鳴る音に聞き入っている姿が想像される。庵の内には夕闇が迫っているかもしれない。頼家は芸が細かく、経信は古語をまじえてまっすぐに詠み下し、清新な印象を与えるという気がする。

⑤順徳院の経信に対する評価はまことに高い。『八雲御抄』第六用意部で、「経信卿ばかりこそ、楚国に屈原がありける様に、ひとり古躰を存して並びなかりしかど、添加にこれをよしとさだむる人なし」、「只経信一人天下判者にてならびなし。其外は匡房・俊頼ばかり也」、「祝言一首などには人ごとにいはひをよむならひなり。(中略)経信卿が延久のすみよしまうで、寛治の月の宴には、みな祝言をよまず、「松のしづえをあらふしらなみ」といひ、「たまゐるかずをいかでしらまし」とよめる、みなこれながら秀逸とおもへるゆへなり」など、繰り返し経信の詠歌のすばらしさを賞揚している。後拾遺集・巻十八雑四1063「沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづ枝をあらふ白波」は延久五年(1073)後三条院住吉御幸の詠で、経信の自讃歌であった。金葉集・巻三秋181に男俊頼が選んだ「てる月の岩間の水に宿らずは玉ゐる数をいかでしらまし」の歌は、寛治八年(1094)鳥羽殿和歌管絃会で「翫池上月」の題を講じた経信の作品。

⑥経信はこの「沖つ風」の歌を、古今集・賀360に載る凡河内躬恒の「住の江の松を秋風吹くからに声うちそふる沖つ白浪」に匹敵する秀歌だと自負していた。そのことを物語る二通りの逸話を藤原清輔は『袋草紙』に伝えている。一つだけを紹介すると、躬恒の歌を古風な宮家の主、自詠をその御所に参上した人物と擬人化して、「(「住の江の」の歌が)七間四面の寝殿の南面に御簾の所々破れたる中に何宮など申して御し坐さむに(「沖つ風」の歌が)参じて、中門の廊より入りて寝殿の階の間に参りて、言談を給ふ事はこの歌なり」と、常に自歎していたというのである。


【蛇足】

さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は訳には変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈については、この歌では変更する必要がなかったということです。その特徴を考えてみると、初句の「夕されば」は「夕方になると」、三句目の「おとづれて」を「さらさらと音を立てて」と訳してありまして、「さらさらと」という擬音語が他の注釈書では「そよそよと」とあるくらいの違いでありまして、特に特徴らしい点は見当たりません。「おとづれて」を稲葉がそよいで音を立てるというのは理解は出来ますが、ただ単に「やって来て」とか「訪ねて来て」でも構わない気は致します。上の句に関しては「黄金に色づいた」という補いが他の注釈にはあまりありませんし、他の注釈が「秋風ぞ吹く」に「さびしく」を補っているのに対して、それがなかったり、「吹く」を「吹きつける」としたりと、著者の解釈は若干の独自性があります。ただ、それらの点についての解説は特にありません。

解釈と称する解説部分に関しては、「夕されば」「門田」「まろ屋」について解説する①は、今回ほぼ書き下ろされたものです。『必携』では「門田」に関してはもう二首万葉集の歌が紹介されていました。それから、枕草子「屋は」は引用されたものが全文ですので、「まろ屋」「東屋」しかない、非常に短い章段だったことがわかります。「蘆のまろ屋」についての考証を述べる②と、同じ時に詠まれた源頼家の歌を紹介する③は、今回大幅に加筆されたもので、『必携』では②と③の部分で源師賢や源頼家の紹介が詳しく、二人とも源頼光と姻戚関係にあることが述べられていましたが今回それらは割愛されたようです。④は同じ「田家秋風」の題で詠まれた経信の歌と頼家の歌の分析ですが、これは今回の書下ろしです。ただ、経信の歌を「古語をまじえてまっすぐに詠み下し、清新な印象を与える」という結論は『必携』にも存しますが、『必携』では「門田」や「あしのまろ屋」が経信の愛用語であったことを指摘した上で述べられていました。著者の久保田淳氏には、「源経信の和歌について」という論考が存するようです。⑤と⑥も今回の書下ろしで、⑤は順徳院の『八雲御抄』が経信を高く評価していたことをまとめたもので、⑥は経信が「沖つ風」の歌を自讃してやまなかった逸話を伝える藤原清輔『袋草紙』の紹介で、ともに後代の人々が経信に注目していたことが分かりまして、面白いと思います。


昭和54年(1979)に風間書房から刊行された『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の著者桑田明氏は、勅撰集における「秋風ぞ吹く」を末句に置く和歌を分析して、恋の終焉や寂寥感の歌群がある一方に、爽快感を詠んだ歌群があることを指摘しまして、源経信の「夕されば」の歌は爽快感のある軽い気分の歌であるということを主張しています。ただし、この歌を戸田茂睡などは「時節の景気あはれにも、さびしくも、感情骨髄にしみて、まことに身にしむやうなる歌」と評していますので、重い情感を感じる向きもあったということでしょう。「秋風ぞ吹く」の訳に「さびしい」を補う注釈者が多いのですが、岩波文庫の著者久保田淳氏は、「経信の歌には明るい外光が行きわたっているという印象だ」と述べてあえてこの歌を、桑田明氏と同じように爽快感の方向で理解しているようです。藤原定家の研究で知られた石田吉貞氏も、「さびしさや悲しさを感じさせるよりは、むしろ爽涼を感じさせる秋風である」と述べるに留まらず、「私は、経信の歌の中でも、この秋風の歌を読むとき、本当に中世が来たなと感じる。この秋風の新鮮さが、すでに全く王朝のものでないからである」とまで言い切っておりまして、和歌の詠みぶりの転換点とまで評価するようです。


何となくでありますけれども、現代の都市化した日本社会では人口の半分くらいはもはや田んぼや畑のある環境が理解できないことでしょうけれど、今でも地方に行って幹線道路から外れれば、門田に囲まれて倉を数棟持つような豪農の家なんて珍しくもないのであります。50年も前であれば、地方の都市は貧弱でありまして、どこまでもどこまでも田んぼや畑でありまして、この源経信の歌を見せられたら、安心してその情景に浸る人の方が多かったのではないでしょうか。貴族からしたら、別荘に招かれた際の題詠をこなした歌なんですが、それを実感がこもっているというのは、あまりにも誉め過ぎでありまして、題詠を巧みにこなして卒がない歌道家らしい歌いっぷりを賞賛すべきではないのかと思います。平安時代なら、都市らしい都市は京都のみのはずでありまして、日頃都市の住人として暮らしていた貴族は、郊外に別荘を持って田園生活に憧れる気持を満たしたことでしょうから、一種の贅沢な田園趣味の歌と考える方がいいと思います。


著者は、「門田」を万葉集由来の古語と捉え、山田に比べて手入れの行き届いた田だとしておりますが、「門田」というのは領主などの土地持ちの直営田を指す言葉でありまして、実はかなりの豪邸が存在していてそれを取り巻いて広大な田地が広がっているのが普通です。実は『百人一首必携』で久保田淳氏も紹介していますが、説話の『発心集』には、門田を見てうっとりしている土地持ちが、急に出家遁世を思い立って高野山を目指すために周囲を驚かすという話があったのであります。そこからすると、四句目に出て来る「葦のまろ屋」という仮小屋が奇妙でありまして、井上宗雄氏はこれを源師賢の梅津の別荘を指していると指摘したことがありますが、そうだとしても門田とは相容れない表現に見えます。久保田淳氏は、「葦のまろ屋」を「蘆で葺いた仮小屋」と訳していますから、貴族の別荘や土地持ちの豪邸ではなく、おそらく稲の番をする田守の寝泊まりする小屋であろうと推測できまして、天智天皇の歌に出て来た「かりほの庵」に相当するもののはずです。だとすると豪邸やら別荘とは別に、門田のほとりに番小屋があるということになるでしょう。


『金葉集』巻第三・秋 183(163)番

     師賢の大納言の山里に人々まかりて、田家秋風と

     いへることをよめる       大納言経信

   夕されば 門田の稲葉 おとづれて 葦のまろ屋に 秋風ぞふく


『百人一首』の一つ前の「さびしさに」の歌について、恋の歌の可能性というのを提示いたしました。まあ、仮にその70番の良暹法師の歌について、恋の歌の可能性を否定する人がいるとして、不思議でも何でもありません。普通に受け止めたら、あれはどう見ても季節の歌であります。ただ、そういう鈍い方が、次のこの「夕されば」の歌を見てみたら、顔面蒼白、『アバター』の主人公並みに青くなるのは間違いありませんね。少し言葉が荒くなっておりますが、近頃のネット用語でいう「ノンデリ」、昔の言葉でいうと「無神経」、気になる向きは「こいつ育ちが悪い」と思ってお許しください。


秋の夕暮れという状況はまったく一緒でありまして、三句目に「おとづれて」とありますから、これを「訪問して」と解して当時の結婚の形態である、通い婚ということを意識するには充分なのであります。「稲葉」というところに行平の歌のように「往なば」を掛けると考え、「秋風」のところに「飽き」を掛ければ、道具立ては70番の歌も71番の歌も、まったく同じだと言えるでしょう。良暹法師も大納言経信も、実はそういうことを意識しながら、プロとして歌を作っていたはずなのであります。仮に意識していなかったとしても、時代の方向はそっちを向いていたと穏やかに考えてもいいかもしれません。


大納言経信は、源氏でありまして、だから源経信なんですが、平安時代後期、いわゆる院政期に登場する歌道家の祖と言っていいのでしょう。歌壇の大御所ですが、それなのに不思議なことに勅撰集の撰者になれませんでした。『後拾遺集』というのは、白河院が下命したものですが、その側近の藤原通俊という、歌に関してはいまいちの人物が編纂しましたので、この源経信さんはたいそうお怒りになり、批判の書をしたためたのであります。それは、『難後拾遺』というような、ある意味まがまがしいタイトルの本であります。『後拾遺集』に入った歌で、駄目な歌を痛烈に批判した本であります。その執念は、ご子息の源俊頼が次の『金葉集』の撰者になることに結びつきましたので、ある意味無駄ではなかったと言えるでしょう。親子二代の歌人ということであります。孫が俊恵法師でありまして、それが鴨長明のお師匠さんに当たります。


ともかく、この「夕されば」の歌は、もはや新しい息吹が感じられる歌なわけでありまして、それはどの辺にあるかというと、季節の歌であるにもかかわらず、そこに人事というか恋愛が潜められているわけです。「夕方になると女を訪問してその住まいに男がやってくる」ということが、微妙な約束事によって隠し味になっているんですね。インドカレーを食べたら、ものすごくおいしいんだけれども、そこにはお醤油であるとか梅干しだとか、鰹のダシが効いているというようなことでしょうか。チョコレートでもいいと思います。ですから、めちゃめちゃうまいということですね。表面的には秋の歌で、平安貴族の田園趣味だとか、山里趣味といったものが背景にあるのは間違いなのでしょうが、隠し味が秋の夕暮れの男の訪問という人事でありまして、恋の影のないところでは、この歌は薄っぺらい風景画でしかないのであります。つまり、恋が隠し味ですから、これはうまみがたっぷり。ふむ。


でもって、諸注釈を見て見ると、この歌をまるっきりの叙景歌として受け止めていて、すがすがしいとか清新だとか、そんなふうな歌と称賛するんであります。ふむ、ふむ。「往なば」「おとづれ」「飽き」というような言葉の響きについて、何一つ気付かないというようなことが生じております。不思議の極みですね。「技巧を全く用いず、すっきりと詠みあげたところに、経信の新しさがある」と言い切っている注釈書(井上宗雄氏『百人一首』有朋堂、1967年)もありまして、本当にその通りだと同感する一方で、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」(チコちゃんの決め台詞)と叱りたくなったりする今日この頃なのであります。


  うらやまし 門田の稲葉 見るまろや 飽きずに通ふ まめ男かな(粗忽)


さて、この経信の歌について、恋の情趣を背景とすると、どうなるのかということを考えてみたいと思います。まず、「門田」というところから、ここは院政期と言う時代背景を考えるなら、もう荘園化された領地と言うことになりましょう。在地地主がおりまして、名目上は貴族などに寄進されているわけで、貴族は時折地主のもとに滞在などして、田植えや稲刈りなどを見物したり、夏には風になびく田んぼを避暑がてら見に参ります。荘園と言うのは、今で言えば村でありまして、働いているのは「賤・山がつ」と称する庶民・農民でありまして、住まいは貴族の目から見ると「葦の丸屋」という質素なものなのです。そこに見目麗しい若い女性「賤の女」が働いていれば、貴族や公達の目に留まりまして夜には忍び合う関係に発展するかもしれません。しかしながら、滞在は短く、また恋の冷めるのも早いのでありまして、初秋には「飽き」が生じることもあるでしょう。高貴な恋人が都に戻って「往なば」、もはや賤の女のもとに通って来るものは「おとづれもせず」、つまりいなくなり、訪れるのは吹き出した秋風だけという状況が生じるのであります。


(荘園からいとしき貴人が都に往なば、うれしき訪れも絶えて)夕されば 門田の稲葉(を吹く風のみが賤の女のもとを)おとづれて (いぶせき)葦のまろ屋に (定めとは言へ飽かれて身に滲む)秋風ぞふく(※粗忽による補い)

〔訳〕(門田のある荘園からいとしい高貴な方が都に去ったら、うれしい訪問も途絶えて)夕方になると、門田の稲葉を(吹く風だけが)音を立てて(身分の低い女性の許を)訪ねて来るばかりで、(粗末な彼女の)葦で葺いた丸屋に、(定めとは言いながらも飽きられて冷たく身に滲みる)秋風が吹く。(粗忽謹訳)


補った部分を排除しても、充分通じるような気がいたしまして、背景には身分差のある恋があって、例えば『伊勢物語』を本説取りした藤原俊成の「夕されば野辺の秋風身に滲みて鶉鳴くなり深草の里」(千載集・巻四・秋上259)なんかに通じる風情ではないかと思うのでありますけれども、いかがでございましょうか。「夕されば」「いなば」「おとづれて」「秋風」というような道具立てを無視して、これを純粋な山里趣味の叙景歌である、爽快な歌だとか、生命の躍動感があるというような理解は、何か積極的に誤読しているのかと疑われるわけです。俊成の歌は、白洲正子氏『私の百人一首』(新潮文庫)も指摘しておりますけれども、どうも『伊勢物語』を背景にした歌とは夢にも思っていなかったようです。なるほど、物語を本説取りするという技法を抜きにすれば、俊成の歌も恋の情趣など微塵も感じられない叙景歌とみなせてしまうことでしょう。鴨長明の『無名抄』には、「鶉鳴くなり」の歌は俊成の自讃歌として出て来ますが、実は長明の師である俊恵はこの歌が理解できていなかったので、同じ時代にいても本説取りと気付かないわけですから、近世や近代の人が理解できなくても仕方ないのであります。ちなみに俊成の歌の詞書は「百首歌たてまつりける時、秋の歌とてよめる」でありますから、秋の歌として提示した歌の裏に恋の情趣が隠れていたということなのです。


なお、契沖の『百人一首改観抄』には、次のような指摘がありまして、契沖はうすうすこの歌が人事を含むことを分かっていたのかと思うのですが、講談社学術文庫の『百人一首全訳注』(有吉保氏、1983年)では、「人の来訪を待つ心を介在させる必要はない」とばっさりと切り捨てておりまして、有吉保氏は「風景の客観的描写でつらぬかれている」と評する立場ですから、契沖の指摘を一部引用しつつも一蹴して顧みなかったようです。


歌の心は、田家の夕を問ひてくる人もなきに、ひとり秋風の音づれくる時の感情をいへる。先づ、かど田のいねにそよめきて後あしのまる屋に吹きくれば、人を問ふときにともなるひとして消息いひ入れて、主人は後より入り来るがごとし。(契沖『百人一首改観抄』下)


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