岩波文庫『百人一首』を読む(33) 紀友則
33 久方のひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらん 紀友則 【訳】大空の陽光ものどかな春日、どうして落ち着いた心もなく、桜の花は散っているのだろうか。 【出典】古今集・巻二・春下・84 桜の花の散るをよめる 【解釈の要点】 ①「久方の」は、ここでは「ひかり」にかかる枕詞。「のどけき」は形容詞「のどけし」の連体形。「のど」は、万葉集・巻二197「明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし」(柿本人麻呂)と歌われる。おだやか、ゆったり、のどかなどの意の上代の副詞「のどに」と共通する。 ②「しづ心」は静かに落ち着いた心。『拾遺集』・雑春1066で清原元輔が「四月朔日よみ侍ける」として、「春は惜し郭公はた聞かまほし思わづらふしづ心かな」と詠んでいる。やはり後の例だが、『後拾遺集』・雑四1065・藤原為長に「松見れば立ちうきものを住の江のいかなる波かしづ心なき」の詠がある。『岩波古語辞典』では「しづごころ」と読んでいるが、『大日本国語辞典』(冨山房)は「しづーこころ」「しづーこころばせ」という読み方を提示し、『大辞典』(平凡社)も「しづこころ」とする。『日本国語大辞典第二版』は「しずーごころ」の見出しの下に「しずこころとも」と注記し、新編全集『古今和歌集』では、春下82の紀貫之の第五句を「しづこころなし」としている。「しづこころ」と澄んで読みたい気がする。 ③契沖の『改観抄』や『古今余材抄』は、友則のこの歌と同じ心の歌として、後撰集・春下92の清原深養父の「うちはへて春はさばかりのどけきを花の心やなにいそぐらん」を引く。深養父の作では疑問副詞「なに」があるが、友則の作にはそれに相当するものがない。そこで「らん」について、ここでは「など」のような疑問副詞を補って考えておく。 ④古今集のこの歌の少し前(春下・82)で、紀貫之も「ことならば咲かずやはあらぬ桜花見るわれさへにしづ心なし」と、桜のあわただしく散るさまをかこって歌っている。 ⑤深養父の歌や貫之の作と較べると、友則の「久方の」の歌の卓越したよさがわかる。それは上句による。空に満ち溢れる春の光、その中であわただしく、しかし全く音もせず、桜花が幻想的に散っている。深養父の作は景が浮かびにくいし、貫之は「見るわれ」が前面に出て来ていささか興ざめだ。...