岩波文庫『百人一首』を読む(25) 藤原定方

25 名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな  三条右大臣


【訳】これは逢坂山のさねかずら、これが「逢う」「寝」という名を持っているのならば、それにふさわしく、何とか手蔓をつけて、他の人に知られずにあなたのところへこっそり行くてだてがほしいですね。

【出典】後撰集・巻十一・恋三・700

       女につかはしける


【解釈の要点】

①「三条右大臣」は藤原定方のこと。

②「名にしおはば」は、名に持つならば。この句で始まる歌では在原業平の「名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」(古今・羇旅411)が有名だが、後撰集・羇旅1351にも「名にしおはばあだにぞ思ふたはれ島浪の濡れ衣いくよ着つらん」(読人不知)がある。後撰集には「名にしおへば」の例も二首ある。「名は体を表す」というわけで、人間は他人や事物の名に深い関心を働かせる。

③「逢坂山」は近江国、滋賀県大津市、逢坂の関のある山。「さねかづら」は山地に自生するマツブサ科の常緑蔓性低木、雌雄異株、夏に咲く花は黄白、秋赤く熟す房状の実は美しい。万葉集・巻十一2479で「さね葛後も逢はむと夢のみに祈ひ渡りて年は経につつ」(柿本人麻呂歌集)などと歌われた。

④「くるよしもがな」の「くる」は、「来る」に「繰る」を掛ける。「繰る」は、蔓の意の「かづら」の縁語。「来る」は21素性の「今来むと」の「来」と同じく、相手の所に行くの意。「よし」は、手段。「もがな」は願望の終助詞。

⑤下河辺長流の『三奥抄』が「さねかづらを、さぬると云心にとれりといふ義、よからず。此歌にては、只くるといふことに用たるばかりと知るべし」と論ずるのは、男女の共寝の意の「寝ね」を響かせるとする考えを排したいのであろう。しかし、万葉集・巻一93の鏡王女の「玉くしげ覆ふをやすみ明けていなば君が名はあれどわが名し惜しも」の歌に藤原鎌足は94「玉くしげみもろの山のさな葛さ寝ずは遂にありかつましじ」と返した。

⑥定方は中納言藤原山蔭女との間に何人かの子女を儲けた。その男子朝頼の孫に、紫式部の夫となった山城守宣孝がいる。この歌はさねかずらに付けて女性に贈った歌ではないか。


【蛇足】

さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は、訳に変更はありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈に変更を加える必要はなかったということのようです。その特徴を見ると、「逢坂山のさねかづら」が「逢ふ」「さ寝」という名を負っているとして、逢瀬の機会を得て共寝することを誘いかける歌として訳しています。さらに、蔓性の植物である「さねかづら」を意識して「何とか手蔓をつけて」という一節が入っています。この点は、解釈と称する解説部分にはありません。また、「くるよしもがな」については「行くてだてがほしい」と訳して、「来る」は「行く」と変換しています。

解釈と称する解説部分では、②の「名にしおはば」、③の「さねかづら」、④の「くる」の説明は『百人一首必携』からほぼ受け継がれていますが、今回は「くる」の例証として百人一首21の素性法師の「今来ると」が挙げてありますが、『必携』では『時代別国語大辞典上代編』の解説が引用してありました。それによると、「く(来)」は「行く。話者自身が先方に身を置いているかのような心理で用いたものという」と解説してあります。⑥もほぼ同じ指摘が『必携』にありました。⑤の「三奥抄」の「さ寝」を否定する見解と、それに対する反証を万葉集の例歌で示す点が、今回加筆されたものです。


この歌に関して、著者が引用した下河辺長流の『三奥抄』は「逢坂山のさね葛人に知られで繰る」の部分を単に修辞上、「来る」を導くためだけの序詞というような意味に限定しようとしておりますが、著者はそれを認めていません。「逢ふ」「さ寝」という意味を「逢坂山のさねかづら」が持っているとする上に、「手蔓をつけて」「行くてだて」と植物の属性を、そのまま意味のある表現として訳しています。近年の注釈でも多くは同じような解釈を施すことが多く、「逢って寝るために密かに引き寄せる」という表現を訳に反映させております。掛詞のようなものは指摘されてしまうと、掛かっていないと否定するのも野暮な感じですから、学習用の解説などでは総花的に採用するのが普通ではないかと思います。あえてそうした風潮に異を立てるなら、この三条右大臣の歌と言うのは、次のようなことを伝えるための歌なのではないかと思うんですが、いかがでございましょう。

   人に知られで 来るよしもがな   

さらに、後撰集の詞書を素直に受け入れたら、「そなたが、誰にも気付かれないで、私のもとに来る方法があるといいなあ」となりまして、題詠でなくて、実際の贈答歌であったことを考えると、高貴な男性が逢瀬の困難さを残念に思って、寵愛の女性に向って私の邸に引き取りたいと申し出た歌と言うのが、実は素直な解釈ではないかと思います。著者は、同じ百人一首の素性法師の歌「今来んといひしばかりに」の歌の「来」と同じとするんですが、それは男が女を訪問する習慣からそうした解釈を想定しているのだろうと思います。ただし、素性法師の歌の場合、どうも詠作主体が女性で、男から来た手紙は「今参らむ」のようなもので、それを女性が「今来む」と変換した可能性は残ることでしょう。それに対して、定方の歌は男の立場そのものの歌ですから、状況が違うような気がします。平安時代の物語などを普通に読んだなら、男性が意中の女性に対して「人に知られで来るよしもがな」と歌を詠みそうな状況が生じることはあり得ることで、別に不自然なことではなかったと思います。後でもう一度触れたいと思います。

贈歌に植物を添える習慣を考えると、この歌に添えられたのは「さね葛」でありまして、それが「逢坂山」のものだと言うのは、歌の中で明かされているに過ぎない情報です。問題は、「名にし負はば」が「逢坂山」を指すのか「さね葛」を指すのか、それとも「逢坂山のさね葛」がブランドとして認知されていてこれを指すのか、判然としないような気がいたします。「さね葛」と「繰る」が縁語なのは何となく了解できますが、はたして「人に知られで」が、「さね葛」の属性となって縁語なのかどうかは分からないような気がいたします。単純に考えると、上三句は「繰る」を導き、ここに「来る」が掛けてあるだけの歌なのかもしれないと思います。

歌の末尾に使われている「もがな」は、和歌では定番の助詞ですが、現代にはもう残っておりません。歌語として多用されて、やがてまったく新鮮味を失ってすたれたものでしょう。現代的に言うなら、消費し尽くされた歌語であります。「もがな」は名詞の後に使われた時は、「~があるといいなあ」というニュアンスですが、言葉の成り立ちは不明です。「も」に「か」が付いたところから、「もが」が成立し、それに「な」が加わったとされますが、「も」に「がな」が付いて成立したと考えられる節もあります。


もう一度問題点を整理すると、この「さねかづら」の歌は、「くる」が「繰る」と「来る」の掛詞なのかどうか、掛詞がないかもしれないという点で古来注釈が対立していて、よく分からないところがあります。世間には内緒ですが、実は『百人一首』の歌の解説は、学校での試験が成立しないくらい諸説紛々なんです。さらに、「逢坂山」という地名に「逢ふ」、「さねかづら」に「さ寝」を掛けるとして、修辞が満載の歌と言うことになっております。ただ、掛詞を想定する解釈の弱点は、「行く」ではなくて「来る」と言っている点で、三条右大臣・藤原定方が女に贈った歌としては、解釈しにくいところがあるというものです。


修辞技法などというものは、考えていると分からなくなるものです。


和歌をもらう女性が「来る」というのは、男が女の元に通う風習に合わないとして揉めるんです。ただし、『源氏物語』を普通に読んだら、光源氏なんかは二条邸に紫式部を略奪して来たり、六条邸に妻妾を住まわせたりしておりますし、「宇治十帖」では匂宮が中の君を京都に呼び寄せたりしております。薫大将だって、浮舟を京都に来させようとしておりましたよね。女が男の元に来るというパターンは、ちゃんと存在するわけでございます。『和泉式部日記』でも、乳母に外遊びを咎められた敦道親王は、それなら和泉式部を女房として雇うという荒業を思いついておりました。その結果、和泉式部は宮邸入りを果たしております。


男が通って行くのが普通の社会なら、逆に、女に「来るよしもがな」と誘いかけるインパクトは大きいものがあったことでしょう。要するに、通うのは面倒だから、いっそ君の事を我が邸宅に囲おうかな、と言っているのであります。平安時代の物語にそういう場面があるので、女に「うちに来る?」と呼びかけることはあったはずですね。大臣家の坊ちゃんで、順調に出世して大臣になった定方ならありうることでしょう。御曹司と呼ばれる若い頃は経済力がありませんので女性を囲うのは無理ですが、公卿にでもなって邸宅を新築したら、意中の女性を招くのはよくある話で、『蜻蛉日記』の中にも、邸宅を新築した兼家が道綱の母に同居を誘うところがありました。出世して公卿などになると、外出の度に御随身を従えなければならないので、煩わしくてしょうがなかったようであります。そういうタイミングで詠んだ歌というならば、この歌は「来る」のままでよく、かつ「葛を人に知られで繰る」ように女性を呼び寄せる点でも意味をなすように感じます。単なる思いつきですが、結局は下河辺長流をはじめとする古注釈に従った解釈になっているようです。


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