岩波文庫『百人一首』を読む(32) 春道列樹
32 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬもみぢなりけり 春道列樹
【訳】山中を流れる谷川に風が掛けたしがらみ、それは流れもやらぬもみじだったのだなあ。
【出典】古今集・巻五・秋下・303
志賀の山越えにてよめる
【解釈の要点】
①底本の宮内庁書陵部蔵(函号五〇三ー二三六)「百人一首」の第四句は「なかれもやらぬ」だが、冷泉家時雨亭文庫本『百人一首』、『百人秀歌』や定家本『古今集』により、「やらぬ」を「あへぬ」と改めた。
②「山川」は「やまがは」と読んで、山にある川、山中を流れる川の意。山や川、山と川を意味する「やまかは」と読みが異なる。古い例としては、『日本書紀』大化五年(649)三月、野中川原史満が皇太子中大兄皇子に献じた「山川に 鴛鴦二つ居て 偶よく 偶へる妹を 誰か率にけむ」という歌謡がある。「山川」は「耶麻鵝播」と表記されている。『古今集』定家本では「山河」と書く。
③「しがらみ」は水の流れを堰き止めるため、杭に竹や木の枝などを渡した装置。万葉集・巻二197「明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし」(柿本人麻呂)などと詠まれる。大鏡・巻二「流れゆくわれは水屑となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ」は菅原道真が筑紫に流される時、宇多上皇に奉った歌と伝えられる、比喩としての「しがらみ」の例。
④詞書の「志賀の山越え」は、古今集の詞書では他にも見出される。「志賀の山越えに女の多く逢へりけるによみてつかはしける」(春下115紀貫之)、「志賀の山越えにてよめる」(冬324紀秋岑)、「志賀の山越えにて、石井のもとにてもの言ひける人の別れける折によめる」(離別404貫之)など。顕昭は『袖中抄』第十七で詳しい考証を展開する。下河辺長流『三奥抄』や契沖『改観抄』はこれを引く。古今集で名歌の数々を生み、永久四年(1116)の『永久百首』や建久四年(1193)の『六百番歌合』で春の題「志賀山越」として詠まれた歌枕だが、今は道筋も辿りがたい。
⑤この歌は、上句で謎を掛けて、下句でそれを解いて見せるような趣がある。契沖『古今余材抄』は、この歌の注に、大江匡房の新古今集・秋上328「河水に鹿のしがらみかけてけり浮きて流れぬ秋萩の花」を影響策として引く。藤原家隆も建保五年(1217)『内裏冬題歌合』で、「龍田河木の葉ののちのしがらみも風のかけたる氷なりけり」と本歌取りした。
【補足】
「解釈」の冒頭の「ながれもやらぬ」「ながれもあへぬ」の異同についての解説部分において、誤植がありました。122ページの7行目ですが、「ながれもやらぬ」をどうしたことか「第三句」としておりました。これはもちろん「第四句」ですから、修正して【解釈の要点】には掲示しました。
【蛇足】
さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は、訳に変更はありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈に変更を加える必要はなかったということのようです。その特徴を見ると、「山川」を「山中を流れる谷川」と詳しく具体的に訳出しておりまして、解釈と称する解説部分の指摘通りの訳になっております。また他の本に従って、底本の「流れもやらぬ」を「流れもあへぬ」として歌形を紹介していますが、訳においては「流れもやらぬ」とありますが、意図的なことかと思います。言い換えれば、「流れて行かない」とか「流れ切らない」とでもするのがよいのでしょう。同じ著者の、ほるぷ出版「日本の文学 古典編」『百人一首 秀歌撰』では、「流れきってもしまわない」となっていました。末尾の「なりけり」は「だったのだな」と訳してありまして、断定の助動詞に気付きの助動詞が付いた時の、定番の訳になっております。
解釈と称する解説部分では、④の志賀山越えについての『袖中抄』の記事の紹介などを引用しつつ、今はその道筋も不明とする部分と、⑤の影響歌として大江匡房や藤原家隆の歌を紹介する部分が、『必携』とほぼ同文です。これに対して、歌の四句目の本文異同を指摘する①や、「やまがわ」「しがらみ」について考証する②③は今回加えられたものです。
現代的な「しがらみ」の解説を考えて見ると次のようなことになるでしょうか。
しがらみ……人間関係の中で生じたやっかいな関係で、人の気持ちや行動を制限するもの。本来は、木や竹などを組み合わせて、水の流れを抑制し、時には不要なものを留める造作。(粗忽私案)
「しがらみ」という言葉のニュアンスが、今現在使われるものと違うところが、面白く感じる歌であります。本来はそういうものでしょうが、我々は憂き世のしがらみにがんじがらめでありまして、好きなことを言ったり、好きなことだけをしていたり出来ないのであります。好きだったものがノルマになったら重たいわけで、遊びが遊びでない、息抜きが息抜きでないこともあるわけです。このブログは、どうなんでありましょう。好きなことを好きなようにしていたら、暴れ馬でありまして、近代短歌における正岡子規さんは、古典の和歌を蹴散らす暴れ馬であったのでしょうか。
「しがらみ」というのは、漢字で書くと「柵」でありまして、柵(さく)のことなんでありますが、水量調節のために杭を打ち込みこれに竹や柴を絡めたものであると言う説明が『日本国語大辞典』に出ておりました。さて、実際に見たことがあるかというと、とんと記憶にありませんから、グーグルで映像検索するんですが、はかばかしくないのであります。斜面などの土留めのために用意されたものが出て来るだけで、川の映像がないのであります。
今時は中小河川でも大がかりな護岸工事などをしまして、水門などで水流を管理しますから、人が打ち据えた杭や、それに巻き付けた竹などで柵を用意することは無いとも言えましょうね。田んぼの用水路の水量調節というものは、それはそれ、これはこれ、また違うものであります。ちなみに、川遊びの体験から言うと、石を積み上げても水量は調節できるんでありまして、20分もせっせと積み上げれば、川の水量にもよるものですが、子供が泳ぐくらいの深みを作ることは簡単であります。水は方円の器に従うものでありまして、たとえばこの歌のように紅葉が積もっただけでも、水流は変化するのであります。こうして、あれこれ詮索すると、我々はこの歌の前提となる「しがらみ」の実物は知らないのでありますが、風のかけたる山川の「しがらみ」のほうは、紅葉狩りにでも行けば目にしていたはずで、この歌のインパクトは弱くなってしまったのでありましょう。
山川に 流れもあへぬ もみぢ葉は 風のかけたる しがらみと見る(粗忽)
文としての構造を考えて見ると、これは「AはBなりけり」という、提題と解答のセットでありますが、実は認識のあり方を元の歌と入れ替えてみたのであります。山川を見てそこに人工物である柵を見付け、よく見て見たら紅葉じゃないかという春道列樹の詠みぶりは、いささかインチキ臭いのでありまして、本来は風に吹かれて谷間に吹きだまり、水流を滞らせている紅葉を見付けたのでありましょう。それを、天然の柵であると認識したのだと思いますがいかがでしょうか。そうすると、実は面白くも何ともないわけで、それをひっくり返してみたら、なんだか面白く感じたわけですね。ひっくり返しただけで面白みを出した春道列樹のお手柄であります。詩というものは、人を刺激しないといけないわけで、この和歌は、その辺が微妙にうまいようであります。それでも、人工物の「しがらみ」が存在しない現代では、ABの入れ替わりに、あまり違和感が生じません。
それにしても、31番の坂上是則、32番の春道列樹のあたりに来て、歌の解釈に苦労することがすっかりなくなってしまいまして、どうしてなのかと考えて見ますと、万葉集以来の和歌の伝統から、これらの歌は逸れておりまして、表現が非常にシンプルに感じられます。だからどうということもありませんが、この問題は考えておいていいのではないかと思ったりします。
コメント
コメントを投稿