岩波文庫『百人一首』を読む(28) 源宗于
28 山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば 源宗于朝臣
【訳】山里は冬がさびしさのいやまさる季節だったのだな。人の訪れもとだえ、草も枯れてしまうと思うと……。
【出典】古今集・巻六・冬・315
冬の歌とてよめる
【解釈の要点】
①「山里」という単語は、『時代別国語辞典 上代編』や『万葉集大成』総索引に項目がない。『日本国語大辞典 第二版』には、この言葉が漢詩文や仏教の影響で古今集から詠まれるようになり、一般化したと和歌を例示して解説する。その例歌の最初に引かれているのがこの歌である。
②「さびしさ」は形容詞「さびし」の名詞形。「さびし」は古くは「さぶし」と言った。万葉集・巻十五3734「遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしのなきがさぶしさ」の最後の句「佐夫之佐」に「左必之佐」の注が付されている。万葉集の「さびしさ」の例はこの一例のみ。
③「人目」は、人が訪れてくること、人の出入り。『貫之集』に「八重葎しげくのみこそなりまされ人目ぞ宿の草木ならまし」と歌われている。
④下句は「人目も離れ、草も枯れぬと思へば」の意である。古今集・冬に「わが待たぬ年は来ぬれど冬草のかれにし人は訪れもせず」(凡河内躬恒338)という例がある。
⑤この歌は、陽明文庫蔵十巻本『類聚歌合』の『陽成院一親王姫君達歌合』に新作の歌に対する本歌として引かれている。この歌合は天暦二年(948)九月十五日で、一親王元良親王は故人で、陽成院が孫娘たちのために催したという。その時には宗于の詠はすぐれた古歌となっていた。
本 源致行 古今「やまざとはふゆぞさびしさまさりけるひとめもくさもかれぬとおもへば」 左持「おほかたのあきはあはれのふかければやまざとならでなほぞかなしき」 右「やまざとはいつともわかじいとどしくあきはしかこそかなしかるらめ」
⑥下河辺長流『三奥抄』は、大意を「山家のならひは、いつも問来る人なくして、さびしき上に、冬に至れば、草木さへかれうするゆへ、其さびしさつねに増れりと云心也」としながら、「冬ぞさびしさまさりけるといひて、淋しさを侘る心にはあらず。山家に入ものは、其淋しき所をたのしみとするなれば、さびしさの増る時を、いよいよとりどころとおもふべし」と論ずる。契沖の頭書は、「さびしきをたのしみとするものは至極の道人などにや侍らん」と言い、古今集・雑下944「山里は物のわびしき事こそあれ世のうきよりはすみよかりけり」(読人不知)を引いて「これ大かた山里にゐるものの心なり」と述べる。契沖は『古今余材抄』でもこの歌を引く。ともに第二句を「もののさびしき」としている。
⑦契沖の『改観抄』は、藤原興風の「秋来れば虫とともにぞ泣かれぬる人も草葉もかれぬと思へば」(『夫木抄』巻十四・虫)を引き、『三奥抄』とはややずれた読み方を示している。
【蛇足】
さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は、訳に変更はありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈に変更を加える必要はなかったということのようです。その特徴を見ると、三句目の末尾の「ける」を、いわゆる「気付き」の助動詞として訳し、「人目」は「人の訪れ」と解釈し、「かれ」を「離れ」と「枯れ」の掛詞として「とだえる」「枯れる」と処理しています。また、この歌は三句切れ倒置法ですが、倒置を修正することなく詠まれたままに訳しまして、末句の「思へば」については「思うと……」としていて余情があると見ていることがわかります。あえて異を唱えるなら、倒置を修正して、
「人目も離れぬ」「草も枯れぬ」と思へば、山里は冬ぞ寂しさ増さりける。
というふうに考えれば、非常に分析的な理知的趣向のまさった歌と見る方がいいのではないかと思います。
解釈と称する解説部分では、④の凡河内躬恒の同じような発想の歌の指摘や、⑤『陽成院一親王姫君達歌合』に本歌として引かれ人口に膾炙していた可能性の指摘は『必携』から受け継いだものです。ただ、『必携』では、「かれ」の掛詞に関して、『岩波古語辞典』を引用して、「離れ」が「枯れ・乾れ」と同根という説を紹介したり、毘沙門堂本『古今和歌集註』に「源宗于、西山にすみ侍りし時よめる也」とあるのを引用していましたが、それらは今回削られていました。語釈に関わる①②③と近世の注釈を紹介する⑥⑦は、今回の岩波文庫本で追加されたものです。面白いのは、契沖のこの歌の主題に対する揺れです。⑥でこの歌について遁世者の閑居の楽しみとする解釈が下河辺長流の『三奥抄』に見られ、契沖も『三奥抄』頭書や『古今余材抄』ではそれを肯定していたとみられるわけです。しかし、契沖の『百人一首改観抄』をみると季節の推移で訪問者が無くなることを悲しむ歌と理解していたように受け取れます。どちらも、類想の歌が引用され、主題の違いが分かります。
非常に有名な歌です。教育の場で掛詞の例として度々使われますから、記憶している方もいるだろうと思います。冬になると草も枯れて人目も離れるから、山里は寂しさがまさるという歌で、「人目も離れぬ」というのが現代語ではありませんが、それを除けば非常に分かりやすい歌なのです。山里は「いつとなく年中淋しいものではあるが」というのがこの歌の前提で、平安京の市街地に対して、山里を歌の舞台として発見し、そこに積極的な美を見出して行くというような時代の流れに即した歌です。
本居宣長や香川景樹が、この歌の末尾の「思へば」が不要であると噛み付いているらしいのですが、そう言われてみると、冗長な感じがするから不思議ですね。「かれぬとおもへば」ではなくて、「かれにけるかな」とでも言えばいいと宣長先生や景樹先生は思ったのでしょう。ただ、『古今集』の冬の部では二首目に位置していまして、まだ、草が枯れていない頃の感慨だとすれば、「思へば」も無駄ではないのであります。寂しくなる前に、冬の寂しさを予感していることこそが歌の主眼でありましょう。倒置法によって、寂しい理由を下に持ってきているわけで、それが実際にそうなる前の予感を述べたところが、手柄の歌なのでしょう。
「かれぬ」の「ぬ」という助動詞は、現在使われないものですから、これのニュアンスが大事なんでありますね。普通は完了の助動詞として説明するんですが、実は完了を表さない用法があるのであります。これから起こることを意識させる用法なんですね。「もうすぐ、起きちまうぞ、どうする、どうする」というような語法でありまして、こいつの一番有名な例は、『伊勢物語』にございますね。第9段の東下りと呼ばれるところに、隅田川を渡るところがあるんであります。普通に考えると両国橋当たりかと思いますが、ひょっとすると今のスカイツリーを臨む浅草あたりの可能性もあるわけですが、そこで渡し守に、こうせかされるんであります。
「はや船に乗れ。日も暮れぬ」
この、「日も暮れぬ」というのは、真に受けていてはいけないので、たぶんちっとも日没の時刻ではないわけです。午前中だったり、真っ昼間に「日が暮れちまうぞ」とせかしているわけで、この「ぬ」はもちろん打消の助動詞ではなくて、完了の助動詞なんですが、終わってしまったことを示しているわけではないわけです。基本的には、天気予報などの未来予測に使われるものなのでありますね。ぐずぐずしていると日が暮れちまうよ、というわけです。これを踏まえて、源宗于の歌を見ると、実はまだ「人目も草もかれていない」時期を詠んでいると分かります。単純な冬景色の歌ではありません。
ところで、世間には、宮内庁書陵部蔵、堯孝筆『百人一首』という本がありまして、影印本が笠間書院から出ております。非常に達筆ではありますが、冒頭の「秋の田の」から始まるあたりは丁寧に書かれておりますが、この「山ざとは」のあたりに参りますと、筆勢に変化がありまして、最初の頃の落ち着いた感じに対して、少し雑な感じがして参ります。このあと和泉式部の歌のあたりで致命的な書き損じもあるんですが、それでも見事なものには違いありませんから、手に入れれば鑑賞して楽しんでいただけると思います。
宮内庁の書陵部と言うところには、実は一度だけ入ったことがありまして、記憶は薄れていますが、皇居のお濠の向こうに行ったことがあるのです。何か調べ物をするためにどうしても必要で、どう連絡を取ったのかは忘れましたが、入る時にどきどきしたのを覚えております。地下鉄東西線の竹橋で降りまして、徒歩でお濠をめぐり、橋を渡って北桔橋門の警察派出所に「頼もう」と名乗りを上げるわけです。そうすると、番号札をいただきまして、何とまあ大きな門の片隅にある潜り戸を指示されます。その潜り戸を開けまして中に入ります。そこは東御苑でありまして、観光客も出入りできるところなのでありますが、北から入る人は稀なのです。
つまり、自分で扉を開けまして、皇居の内部に入ることができると言う、わくわく体験なのであります。
書陵部というのは、その門からすぐの所で、普通の図書館と同じような扱いですが、係の方はごく普通に応対をしてくれましたので、むしろ落ち着いて本を借り出し、閲覧いたしました。帰りは、どこから出ても構わないという説明を受けていましたので、中を気楽に散歩して、大手門から出まして、入ったところとは別ですがやはり警察の派出所に例の札を出してお終いです。皇居と言うよりも江戸城の遺跡を歩いた感じがいたしまして、石垣の石のサイズの大きさなどに圧倒されますが、手入れは行き届いてさっぱりとしていました。30年も前のことですから、今も同じシステムなのかどうか分かりません。ひょっとすると、どなたか偉い先生の紹介で書陵部を利用したのかも知れませんから、普通に入れるとは言えないでしょうけれど、案外平常心で出入りできたという印象なのであります。
以前取り上げた北原白秋は作者伝のところで、めずらしく源宗于の逸話を紹介しております。佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』にも出て来るので、単に孫引きですが、いつもはそっけなく官人としての略歴を述べるだけだったりするので、何か心が動いたんでしょうか、次のように記しています。
大和物語に「宇多の院の花おもしろかりける頃、南院の公達これかれ集りて
歌よみなどしけるに、右京のかみ宗于のよまれたるうた、
来てみれば心もゆかず故郷は昔ながらの花はちれども」とある。
源宗于は、この百人一首の歌が有名であるのに対して、作者の方はエピソードが乏しいようで、あまり印象に残る話がないのであります。光孝天皇の孫に当たる人物で、「源」姓でもわかるように皇籍から臣籍に下った人でありますが、三十六歌仙の一人と言われてもピンと来ないのであります。作者伝の歌は、兄弟と連れ立って祖父である宇多天皇の旧居に来たけれど、花を見ても「心もゆかず」という歌いぶりで、不満を述べております。一般には、おじいちゃんがいた頃は楽しかった、ということを言いたいと理解するようですが、はたしてそうなのか。「南院」というのは源宗于の父のことでありまして、宇多院の子だった人です。祖父の邸宅に結集して歌を詠んでいますが、はっきりこの人は兄弟の前で宇多院の事を「気に食わない」と言ったんじゃありませんか?
『大和物語』には、他にもこの作者のエピソードが出て参ります。取り立てて面白いものもありませんから、なるほど印象に残らないわけであります。取り立てて好色と言うこともなく、やんちゃをして人目を引いたわけでもないようでありまして、おそらくは上品で自己主張の少ない元皇族のお坊ちゃまのようであります。右京の大夫だったそうですが、それは閑職ですから、本人はもうちょっと出世したかったようで、宇多天皇に愁訴した述懐の歌が残っているんです。ところが、あんまり修辞が効き過ぎて、宇多天皇は意味が分からんとか言って、誰かに相談したんだそうです。たぶん、相談に乗った人が、源宗于本人に帝が分からないって言ってるよと伝えたんでしょうね、本人ががっかりしたというエピソードが載っております。
たぶん、直系の孫なので、油断して歌だけ贈ったんですね。今も昔も何か実のあるものをついでに贈らないと、そういうことになってしまいます。昔の人だって、修辞技巧を使われたら歌の内容なんて分からなかったんでありまして、祖父の好物でも添えて気の利いた人に伝言を頼まないと駄目でしょう。人生は、そんなものなのであります。この話を前提に、花見の時の歌の心情を考えて見ると、過去のいきさつを思い浮かべた源宗于が、「ちぇ、あのじじい、まろを無視しおって」というような気分が「心もゆかず」から感じられたりしませんか?
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