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岩波文庫『百人一首』を読む(20) 元良親王

20 わびぬれば今はたおなじ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ  元良親王 【訳】あなたが恋しくてしかたがない。今となっては、わたしは難波潟に立つ澪標も同じこと。この身を破滅させてしまってもかまわず、あなたに逢おうと思います。 【出典】後撰集・巻十三・恋五・960        事いできてのちに、京極御息所につかはしける 【解釈の要点】 ①「わぶ」という動詞は、気落ちしている、困りきっているなどの意。古今集の藤原興風の「わびぬればしひて忘れむと思へども夢といふものぞ人頼めなる」(恋二・569)と近い状態か。「はた」は副詞で、「やはり」。「身を尽くしても」に「澪標」を掛ける。「澪標」は水脈を示す標識とする杭(みをつ串)の意。万葉集にも見え、古今集では興風が「君恋ふる涙の床に満ちぬればみをつくしとぞわれはなりぬる」(恋二・567)と詠む。「尽す」は使い果たすことだから、「みをつくしても」は命に換えてもの意。 ②この歌は拾遺集に重出するが、『百人秀歌』の集付によれば後撰集から採った。下河辺長流の『三奥抄』は「密通のこと顕れたるを、事出来て後とかけり」とするが、賀茂真淵の『宇比麻奈備』は「すべて事といふは、吉凶ともにかろからぬ事にいへり」というが、香川景樹『百首異見』は「皆凶事のみにて、よき事をいへるはなし」と批判する。 ③岩波古語辞典は、「はた(将)」について「甲乙二つ並んだ状態や見解などが考えられる場合に、甲に対して、もしや乙はと考えるとき、あるいは、やはり乙だと判断するときなどに使う」と説明する。『三奥抄』は将は亦という心もあるとする。契沖の『改観抄』は「はたはまさにの心なり」として、「同じとは下の句の身を尽すに同じとなり」という。『宇比麻奈備』は「今はたは今果たして也」とする。『百首異見』は「はたはもと転動のすみやけきをいふにて、手のうらをかへすといふばかりの語勢あり。これを近世またと同じくこころえたるは非也」と批判する。 ④京極御息所は左大臣藤原時平の娘褒子である。醍醐天皇に入内させようと支度していた夜、宇多法皇が連れ去り妃とした女性。以前にも九十の老僧に見初められたと『俊頼髄脳』にある。褒子は宇多法皇との間に、雅明・載明・行明の三人を生んだ。行明親王の誕生は、宇多法皇の六十の賀の催された延長四年(926)で、その年元良親...

岩波文庫『百人一首』を読む(19) 伊勢

19 難波潟みじかき蘆のふしのまも 逢はでこの世を過ぐしてよとや   伊勢 【訳】難波潟に生えている蘆の、短い節と節の間、そのように短い時の間も逢わないで、短いこの世をすごせとおっしゃるのですか。 【出典】新古今集・巻十一・恋一・1049        (題しらず)  【解釈の要点】 ①「難波潟」は大阪湾の昔の呼び方。万葉集では「難波の海」が二例なのに、「難波潟」は八例用いられている。蘆はイネ科の水辺に茂る大きな多年草。長い中空の茎に節がある。その節と節との間隔を「みじかき」と表現したのは、地下茎に近い部分を言ったか。屋根を葺いたり、垣に結ったり、薪代わりに燃やしたり役立ったから、蘆刈りは昔から見なれた仕事であった。 ②「難波潟みじかき蘆の」は「ふしのまも」を起こす有意の序。蘆の節と節との間が短いことから、「ふしのま」に掛かる。蘆が倒れ臥しやすいことも、「ふし」という語に掛かりやすいか。蘆が倒れている姿と、身を横たえている女の姿をだぶらせてもよい。「ふしのま」は、万葉集に「朝夕に 満ち来る潮の 八重波に なびく玉藻の 節の間も 惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ……」(大伴家持・巻19・4211)がある。 ③「過ぐしてよとや」は「過ぐしてよとや言ふ」の意。万葉集で家持が「秋の野に露負へる萩を手折らずてあたら盛りを過ぐしてむとか」と詠んでいる。 ④下河辺長流の『三奥抄』は「難波潟は蘆をいはんため、蘆はふしの間をいひ、此世をいはんためなり。ふしのまといへば、則みじかき心あれども、別てみじかきあしのと読るは、其短が中のみじかきをいはんとてなり、奇妙といふべし」という。これは今の注釈書ならば「世」は「節(よ)」と掛詞、「難波」「節(ふし)」「節(よ)」は「蘆」の縁語と書くところであろう。契沖の『改観抄』は、以上を受け、柿本人麻呂の「夏野行く小鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや」(万葉集巻四503)の上の句と、家持の万葉集の長歌を引く。 ⑤賀茂真淵『宇比麻奈備』は、「夏野行く」の歌と家持の長歌に言及して、「あしの節の間の有が中に短きを設け出たり。そを此歌には、しばらくの間の意にとれり」と述べ、さらに第五句について、万葉集の人麻呂の「「ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とそ来し」(巻一47)と「塩気立つ荒磯にはあれど行く水の過ぎ...

岩波文庫『百人一首』を読む(18) 藤原敏行

18 住の江の岸による浪よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ  藤原敏行朝臣 【訳】住の江の岸に寄る波の「よる」ではないが、夜の夢の中での恋の通い路でさえ、あなたは人目を避けるのか。少しもわたしの所に通ってきてはくれないではないか。 【出典】古今集・巻十三・恋三・559        (寛平御時后宮の歌合の歌)  【解釈の要点】 ①古今集ではこの歌の直前の歌も敏行の詠で、詞書はその歌に付されたもの。『寛平御時后宮歌合』は、寛平元年(889)から同五年九月頃までの間に宇多天皇の母后班子女王のもとで催された。判者、勝劣の記録はない撰歌合、四季と恋の五題で、この歌は恋の題詠。 ②歌合本文では初句を「すみよしの」とする。「すみのえ」「すみよし」は摂津国住吉大社近辺をさす。万葉集では「住吉」をもっぱら「すみのえ」と訓む。下河辺長流の『三奥抄』「頭書」では、「住の江」の例として万葉集の歌を四首引いている。 ③「住の江の岸による浪」は「よる」を起こすための序詞。契沖の『古今余材抄』は住吉を「殊に浪の隙なくよする所」として、『後撰集』から八首の例を挙げている。都人ないしは畿内の人々にとって住吉は身近な海岸だった。この序は、ひたひたと寄せる波というイメージがあり、それがこの恋の歌の味わいである。 ④現実には会えなくても、せめて夢の中では逢いたいのに、人目ばかりを気にして逢おうとしないと相手を難詰した歌は、他にもある。万葉集・巻十二の正述心緒の歌に、「直に逢はずあるはうべなり夢にだになにしか人の言の繁けむ 或る本の歌に曰く、現にはうべも逢はなく夢にさへ」(3848)とあり、古今集・恋三に小野小町の「うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人目をよくと見るがわびしさ」の詠が見える。この二首は『三奥抄』や契沖の『改観抄』も引いている。 ⑤賀茂真淵の『宇比麻奈備』は、古今集・恋三小野小町の「限りなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ」(657)の歌を引いて、「昼間に人目をはばかるのみならず、よるの夢路にさへ思ふままに行逢がたきは、それにだに人めを避るにやとわびたる也」と解釈した。香川景樹の『百首異見』はこれを批判するが、その文意を辿るのはかなり忍耐を要する。 ⑥夢は自分が相手を思っていると見るだけではなく、相手が自分を思っていれば自分の夢に現れるはずだと...

岩波文庫『百人一首』を読む(17) 在原業平

 17 ちはやぶる神代も聞かず龍田川 から紅に水くくるとは  在原業平朝臣 【訳】さまざまな不思議なことがあったという神代にも聞いたことはないよ。龍田川の水をこのようにから紅にくくり染めにするとは……。 【出典】古今集・巻五・秋下・294        (二条の后の、春宮の御息所と申ける時に、御屏風に、龍田河にもみぢ流れたるかたを書けりけるを題にてよめる)業平朝臣  【解釈の要点】 ①「ちはやぶる」は「神」、ここでは「神代」にかかる枕詞。「神代」の語は、万葉集巻一13「中大兄の三山の歌」に「香具山は 畝傍を惜しと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」と詠まれ、業平は古今集・雑上871で「大原や小塩の山もけふこそは神世の事も思出づらめ」と詠んでいる。業平の歌の神代は、二条の后に関する歌に出て来る。 ②下河辺長流の『三奥抄』や契沖の『改観抄』は、「神代も聞かず」を「立田川をほめむとて」言ったと考え、古今集・秋下283の「龍田河もみぢ乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ」を本歌という。 ③龍田川は、大和国生駒山に発し、南流して斑鳩町の三室山南方で大和川に注ぐが、古歌に詠まれたのは合流点以西の大和川下流である。 ④二条の后は清和天皇の后妃藤原高子である。清和天皇は嘉祥三年(850)誕生してまもなく東宮となり、天安二年(858)9歳で践祚した。高子が春宮の御息所となったのはこの頃か。この年業平は34歳であるが、高子は17歳。『伊勢物語』で業平と高子は恋人同士とされるが、年齢差は大きい。 ⑤『伊勢物語』106段では、この歌は主人公の男が実際に龍田川のほとりで詠んだことと語られる。 ⑥『伊勢物語』6段、主人公の男は女を盗み出て芥川を渡り、雷鳴も激しい雨夜だったので、荒れ果てた蔵に女を入れていたが、女は蔵の中にいた鬼に食われてしまう。男は「白玉か何ぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを」と詠んだという。この話の種明かしは、二条の后の兄たちが妹を男から取り戻したというものである。 ⑦「から紅」は深紅、岩波古語辞典に「韓から渡来の紅の意」という。古今集にはもう二例あるが、ともに紅涙を意味する。 ⑧「水くくる」は、『顕注密勘』「顕注」で「紅の木の葉の下を水のくぐりてながる」と解し...

岩波文庫『百人一首』を読む(16) 在原行平

16 立ち別れいなばの山の峯におふる 松とし聞かばいま帰りこん   中納言行平 【訳】お別れして因幡国に行ってしまっても、稲羽山の峯に生えている松、そのようにあなたがわたしのことを待っていると聞いたならば、すぐにでも帰ってきましょう。 【出典】古今集・巻八・離別・365        題しらず 在原行平朝臣  【解釈の要点】 ①歌枕「いなばの山」については、因幡か美濃かという、厄介な論がある。『古今六帖』第二「くに」に、但馬国の歌と石見国の歌の間に載る。『和名類聚抄』巻第六因幡郷第百六法美郡に「稲羽(以奈波)」とある。『五代集歌枕』第一・山は「いなば山 美濃」に、この歌を挙げる。『顕注密勘当』で顕昭は「いなばの山は歌枕に、因幡国にありといへり。いなばにあればにあればやがて因幡の山と云歟」と注し、定家は「無不審」とする。『文徳実録』巻七に斉衡二年(855)正月十五日「従四位下在原朝臣行平為因幡守」と見える。行平38歳の時のことである。 ②下河辺長流『三奥抄』やその頭書、契沖の『古今余材抄」や『改観抄』は諸文献を検討して因幡国とし、賀茂真淵や香川景樹も同調する。 ③『公卿補任』によれば、行平は仁寿三年(853)に正五位下になり、翌年備中介、斉衡四年正月に兵部大輔を兼ね、同年の四月に左馬頭となって順調に出世している。ただ、文徳治世の初め頃不興をこうむったのか、摂津の国の須磨にこもって詠んだという「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ」(古今集・雑下962)という、典型的な貴種流離の作が伝わる。 ④下河辺長流の『三奥抄』は、旅立つときに妻に与えたとしつつ、任果てて都へ上るときの歌ともする。賀茂真淵は都へ上るときとする説を否定する。契沖は妻に与えた歌という解釈を『改観抄』で受け継いだが、『古今余材抄』では誰に与えたかは分からないとする。 ⑤契沖は、後撰集・離別の「京に侍ける女子を、いかなる事か侍りけん、心憂しとてとどめおきて、因幡の国へまかりければ、むすめ 打ち捨てて君しいなばの露の身は消えぬばかりぞ有りと頼むな」(1310)を引く。行平の歌の影響例と見なせる。 ⑥「いなば」は「去なば」に「因幡(稲羽)」を「松に「待つ」を掛ける。「いま帰りこん」の句は万葉集に先行例がある。 ⑦南北朝時代の能作者は、「いなばの山の峯にお...

岩波文庫『百人一首』を読む(15) 光孝天皇

15 君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ  光孝天皇 【訳】あなたに贈ろうと、春浅い野辺に出て若菜を摘むわたしの袖に、雪はしきりに降りかかります。 【出典】古今集・巻一・春上・21        仁和の御門、御子におはしましける時に、人に若菜給ひける御歌  【解釈の要点】 ①『仁和御集』の巻頭歌で、詞書に「まだみこにおはしましけるに、わかなひとにたまふとて」とある。光孝天皇は天長七年(830)の誕生以後、陽成天皇が退位する元慶八年(884)三月四日まで時康親王だった。 ②若菜は、鎌倉初期成立とされる『年中行事秘抄』正月に、「上子日、内蔵司供若菜事。(中略)七種菜。薺。繁縷。芹。菁。御形。須々代。仏座(かみのねのひ、うちのくらのつかさわかなをきようすること。……ななくさのな。なづな。はこべ。せり。かぶら。ごぎやう。すずしろ。ほとけのざ)」という。 ③下河辺長流『三奥抄』「頭書」や契沖『改観抄』は、『大和物語』173段の「君がため衣の裾をぬらしつつ春の野に出て摘める若菜ぞ」を引く。これは五条わたりの女が良岑宗貞(遍昭)に贈った歌。契沖『古今余材抄』は、万葉集巻十1839の「君がため山田の沢に恵具摘むと雪消の水に裳の裾濡れぬ」などを挙げる。光孝天皇の詠に先行することが確かなのは、万葉集の歌である。 ④類歌が多いのは、こういう挨拶が一般的であったことを意味している。『改観抄』は恩着せがましくとるようだが、親しい間柄のくつろいだ雰囲気が感じられる。『枕草子』でも、ほととぎすの声を尋ねて賀茂の奥まで出かけた清少納言らに、もてなした高階明順も、「この下蕨は手づから摘みつる」と言って、田舎料理を勧めていた。 【蛇足】 さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと...

岩波文庫『百人一首』を読む(14) 源融

14 陸奥のしのぶもぢずりたれゆゑに 乱れそめにしわれならなくに   河原左大臣 【訳】陸奥の信夫もじずりの乱れ染めした模様さながら、誰かのせいで心乱れはじめたわたしではないのですよ。他ならぬあなたゆえに、心も乱れはじめたのではありませんか。 【出典】古今集・巻十四・恋四・724        (題しらず)  【解釈の要点】 ①第四句「乱れそめにし」は古今集の定本である定家本では「みたれむと思」であり、藤原清輔・源家長書写奥書の古今集でも「みたれんと思ふ」とある。『伊勢物語』第一段や『俊頼髄脳』『古来風躰抄』などはすべて「みだれそめにし」である。 ②「信夫捩摺り」は陸奥信夫郡で産出される乱れ模様の摺り染め。『吾妻鏡』所引の「毛越寺事」に藤原基衡が仏師運慶に「信夫毛地摺千端」が送ったと記されている。『俊頼髄脳』はこの歌を釈し、父経信が遍照寺の御簾のへりの信夫捩摺りを四、五寸切り取って山荘の御簾のへりにしていたので世人が興じたと語る。 ③四句目の「そめ」は「初め」の意だが、「染め」を響かせている。この歌では、「陸奥のしのぶもぢずり」は「乱れそめにし」を導く序詞の働きをしている。 ④「たれゆゑに」は、誰のために、誰のせいで。この歌に近い表現の歌に、「しのぶるも誰ゆゑならぬ物なれば今は何かは君に隔てむ」(拾遺・恋一・624・平公誠)がある。 ⑤「われならなくに」の「なく」は、打消の助動詞「ず」のク語法(名詞形)。古今集や後撰集にも例がある。 ⑥この歌は古今集では「題しらず」であるから、どんな相手に詠み送ったかはわからない。『伊勢物語』第一段では主人公が「春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず」という歌を、春日の里の女はらからに贈っている。 ⑦この歌の影響を受けた作品には、大江匡房の「露分けば色かはりなん宮城野はいかがはすべきしのぶもぢずり」や源俊頼の「宮城野のしづくにかへる狩衣しのぶもぢずり乱れしぬらし」がある。 ⑧河原左大臣は源融であるが、古今集の融の歌はこの歌の他に、「主や誰問へど白玉いはなくにさらばなべてやあはれと思はむ」(雑上・873)が載る。 ⑨源融は、歌そのものよりもその豪奢な庭園「河原院」が後の世の人々に回想される存在で、紀貫之は「君まさで煙絶えにし塩竃のうらさびしくも見えわたるかな」(古今集・哀傷・852)と詠んだ...

岩波文庫『百人一首』を読む(13) 陽成天皇

  13 筑波嶺の峯より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける  陽成院 【訳】筑波山の峰からしたたる水が集まって流れ落ちる水無川は、深い淵となりました。ちょうどそのように、あなたを想いそめたわたしの恋心も積もり積もって淵のように深くなっています。 【出典】後撰集・巻十一・恋三・776        釣殿の皇女につかはしける  【解釈の要点】 ①陽成院は貞観十八年(876)九歳で帝王の座に就いたが、八年後の元慶八年(884)位を退いている。長寿を保ち天暦三年(949)82歳で世を去った。慈円の『愚管抄』は、藤原基経が陽成天皇を退位させ、代りに光孝天皇を戴いたという。史書から見ると、在位中の陽成天皇に粗暴な行動があったのは否定できない。 ②後の宇多天皇は、光孝天皇と班子女王の間に生まれた皇子であるが、二人の間に生まれた皇女が釣殿の皇女である。 ③陽成院のこの歌が釣殿の皇女に送ったのが、帝位にあった時か退位以後かわからない。皇女は、光孝天皇の即位後まもなく臣籍に下り源氏となったが、内親王となったのは寛平三年(891)のことだった。 ④「筑波嶺」は筑波山、男体山と女体山の二峰から成る。「みなの川」は、筑波山の中腹から流れ出て桜川に注ぎ、霞ケ浦に入る。 ⑤下河辺長流の『三奥抄』や契沖の『改観抄』は、「筑波嶺の岩もとどろに落つる水世にもたゆらにわが思はなくに」(万葉集巻十四・3392)を本歌とみなす。 ⑥筑波嶺を詠んだ歌で、「恋」や「積る」などを詠み込んだ歌は、古今集などに見出され、陽成院の歌に先行する。都人にとって、距離的に遠い東国が、かえって関心をそそる地域だった。 【蛇足】 さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。 今回は、訳に変更がありません...

岩波文庫『百人一首』を読む(12) 僧正遍昭

12 天つ風雲のかよひ路吹とぢよ をとめの姿しばしとどめむ 【訳】空吹く風よ、雲の中の通路をふさいでしまっておくれ。空に昇っていこうとする天乙女の姿をしばらくとどめておこう。 【出典】古今集・巻十七・雑上・872        五節の舞姫を見てよめる  良岑宗貞  【解釈の要点】 ①良岑宗貞は仁明天皇の寵臣であった。嘉祥三年(850)天皇が出家すると宗貞もまもなく出家している。古今集はこの歌を俗名で載せている。 ②大江匡房の『江家次第』に五節の舞の起源を伝える記事がある。天武天皇が吉野宮で琴を弾いた時、峰に雲気が立ち、美女が曲に応じて舞ったが、舞は五度変わったので五節という。 ③『続日本紀』天平十五年(743)五月五日、聖武天皇が内裏で宴を催し、後の孝謙天皇が五節を舞い、橘諸兄が天皇の詔を承けて天皇に奏上した中で、天武天皇が五節の舞を作ったと述べられている。『古事記』は、雄略天皇が吉野宮で出会った童女と婚し、再会した際に自ら琴を弾いて彼女に舞わせ、「あぐらゐの神のみてもち弾く琴に まひするをみな常世にもがも」と歌ったという。契沖の『古今余材抄』や『改観抄』では、『続日本紀』の説を舞姫の起源と考えて引用している。 ④賀茂真淵は、『宇比麻奈備』に『続日本紀』を引くが、天武天皇が吉野宮で琴を弾くと天女が舞ったのを、唐風である点を不審として浮説としている。 ⑤『源平盛衰記』巻一の五節始を見ると、起源は国風ではない。天武天皇の代に唐帝から贈られた崑崙山の五つの玉はよく暗い所を照らしたので「豊明」と名付けられた。天皇が吉野に行幸すると神女が天降って舞った時に、この五つの玉について五度歌い舞ったので五節と称したとする。王朝の人々は唐風を受け入れ、神仙譚も柔軟に受け止めていた。 ⑥「雲のかよひ路」は、古歌を見ると大空の中や夢の世界に存在した通路で、そういうものを幻視しえた古人がうらやましい。 ⑦能の「羽衣」には宗貞の歌が取り入れられており、舞い終えた天女が昇天する場面がある。 【蛇足】 さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』...

岩波文庫『百人一首』を読む(11) 小野篁

11 わたの原八十島かけて漕ぎ出ぬと 人には告げよ海人の釣舟   参議篁 【訳】大海原のたくさんの島々を目指して船を漕ぎ出していったと、人には告げておくれ、漁師の釣舟よ。 【出典】古今集・巻九・羇旅・407        隠岐の国に流されける時に、船に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかはしける 小野篁朝臣  【解釈の要点】 ①小野篁は承和五年(838)十二月に流された。遣唐副使だったが大師の藤原常嗣と争い出発せず、遣唐の役を風刺したので嵯峨上皇の逆鱗に触れた。承和七年二月には赦免されている。流されたのは隠岐の国である。 ②「八十島」や「海人の釣舟」は万葉集に見られる。下河辺長流の『三奥抄』や契沖の『改観抄』は『伊勢物語』の「みるめ刈る方やいづこぞ竿さして我に教へよ海人の釣舟」を在原業平の歌として引く。 ③藤原公任の『和漢朗詠集』には、この歌とともに篁の「渡口郵船風定出 波頭謫処日晴看」という詩句を収める。配流の途上に作り、漢詩の分かる者は誰もが吟唱したという大評判の詩の断片らしい。 ④小野篁は豪快な感じの詩人で、これらの歌や詩句からは流謫の人の涙もろさは感じられない。 【蛇足】 さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。 今回も、訳に大きな変更がありませんでした。ただ、學燈社『百人一首必携』執筆時には、四句目の訳が「人には告げてくれよ」とありましたが、今回は「人には告げておくれ」となっていました。さしたる変更ではありませんので、特に解釈に変更を加える必要はなかったということのようです。訳の特徴としては、「八十島かけて」を「たくさんの島々を目指して」とした点ですが、注釈書で訳のゆれるところです。それから五句目の「海人の釣舟」は、本当は「釣舟に乗った海...

岩波文庫『百人一首』を読む(10) 蝉丸

 10 これやこの行も帰るも別ては 知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸  【訳】これがまあ、これから旅立つ人も旅から帰ってきた人も、知っている同士も知らない他人も、別れては逢い、逢っては別れる、逢坂の関なのだなあ。 【出典】後撰集・巻十五・雑一・1089        相坂の関に庵室をつくりてすみ侍けるに、ゆきかふ人を見て  【解釈の要点】 ①第三句「別ては」には異同がある。定家本『後撰集』は「別つつ」とする。『百人秀歌』は「わかれつつ」、冷泉家時雨亭文庫本『百人一首』は「わかれては」である。 ②下河辺長流『三奥抄』の頭書には「これやこの大和にしては我が恋ふる紀伊路にありとといふ名に負ふ背の山」(万葉集・巻一・35)を引く。 ③一首の中に「行も帰るも」「知るも知らぬも」「別ては……逢坂」と対立する言葉を三組も組み合わせた技巧の歌だが、うるさく感じられない。「これやこの」という初句の効果とともに、関を人生の縮図として読み手が了解し、共感するからだろう。 ④「知るも知らぬも」という句をもった歌は、古くから少なくない。「筑波嶺の峯のもみぢ葉落ちつもり知るも知らぬもなべてかなしも」(古今・東歌、1098)は常陸歌である。「知るも知らぬも」という句の背後には、親疎を分かたない人なつかしい感情が働いている。真静法師の「足柄の関の山路をゆく人は知るも知らぬもうとからぬかな」(後撰・羇旅・1361)は蝉丸の歌の影響例だろうか。 【蛇足】 さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。 今回は、訳に大きな変更がありませんでした。ただ學燈社『百人一首必携』のときには、「逢うては別れる」とありましたが、これを「逢っては別れる」とより口語訳を整えた以外には、執筆時から特に解釈に...

岩波文庫『百人一首』を読む(9) 小野小町

 9 花の色はうつりにけりないたづらに 我身世にふるながめせしまに 小野小町 【訳】美しい花もながめられることなくむなしく色あせてしまったのですね。春の長雨が降り続いている間に。私も衰えたこと。なすこともなくこの世に生きてじっと物思いに沈んでいるうちに。 【出典】古今集・巻二・春下・113        (題しらず)  【解釈の要点】 ①古今集の春上のおわりは、まもなく散る桜の花を惜しむ歌群で、春下はうつろう桜の歌で始まり、117番まで散る桜まで続く。小町の歌はうつろう桜の花の色であるが、「我身世にふる」とあるために、小町の容色も連想する。 ②「うつる」は、変色する、あせるの意。「にけりな」は変ったことに気付いて嘆ずる気持。「いたづらに」は、なすことなく。「ふる」は「経る」に「降る」を、「ながめ」は、物思いにふけってじっと見ることの意に、「長雨」を掛ける。下河辺長流の『三奥抄』はこの掛詞の例歌を挙げ、契沖もそれを踏襲する。 ③『三奥抄』や『余材抄』は、「小町が歌に、おもてうらの説有などいふ事不用」として句に容色の衰えを重ねるべきではないとするか。賀茂真淵の『宇比麻奈備』は小町伝説を否定し、香川景樹の『百首異見』は「ながめ」の多義性を長々と論ずる。 ④古今集の中で見せる小町の姿は決して一様ではない。気位の高い、気の強そうな女性が想像される歌もあるが、身体的な衰えを実感している初老の女性の姿が見える歌もある。文屋康秀の誘いに乗る破れかぶれの返事もある一方、『後撰集』では遍昭に挑発的な歌を贈るなど、さまざまな顔をしている。 ⑤この歌はナ行音が多く、嘆きがやわらかく伝わって来る。 ⑥古今集巻十二恋歌二の巻頭から、「題しらず」で三首の小町の歌が並ぶ。「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを」「うたたねに恋しき人を見てしより夢てふ物はたのみそめてき」「いとせめて恋しき時はむば玉の夜の衣を返してぞ着る」、これらには恋しき人への思いが素直に流露している。贈答歌よりも、「花の色はうつりにけりな」の歌やこの三首に小町の本当の姿がある。 【補足】42ページ3行目『百首意見』は、『百首異見』の誤り。 【蛇足】 さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、...

岩波文庫『百人一首』を読む(8) 喜撰法師

8 我庵は宮このたつみしかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり 喜撰法師 【訳】わたしの庵は都から東南に当たる方角。鹿と共存して暮らしているのに、世人は世を憂く思う人の住む宇治山というようだ。 【出典】古今集・巻十八・雑下・983        (題しらず)  【解釈の要点】 ①「宮このたつみ」は、京の都から東南の意。「しか」は副詞「さ」と同じく、そのようにの意。「鹿」を響かせるか。「世をうぢ山」は「世を憂し」の「う」から、「宇治山」へと続ける。「いふなり」の「なり」は伝聞の意を表す助動詞。 ②下河辺長流の『三奥抄』の引く「わたつみはみやここぞりていにけらしよをうぢ山の神もみなくに」(古今六帖)という歌を、契沖の『改観抄』は喜撰が参考にしたとするが、逆ではないか。 ③『源氏物語』浮舟巻で浮舟が手習いで書いた「里の名をわが身に知れば山城の宇治のわたりぞいとど住みうき」は、喜撰の歌の影響例といえる。この歌を藤原為明撰『新拾遺和歌集』は紫式部の歌とするのは問題で、撰者の病死を受けて撰進を完成させた頓阿の仕業かもしれない。 ④鴨長明は、『無名抄』で三室戸寺の奥にある宇治山の喜撰の住み処について伝聞を記している。京都府宇治市の喜撰山の西側山腹の岩洞が喜撰の庵跡だという。 【蛇足】 さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。 今回は、訳に変更がありました。學燈社『百人一首必携』執筆時においては、次のように訳出されていました。   わたしの庵は都の東南に当たる方角。そのように住んでいる世の中なのに、   人は世を憂く思う宇治山というようだ。(『百人一首必携』) 「そのように住んでいる世の中なのに」とあったのを、今回は「鹿と共存して暮らしているのに」とありますから、「しか」...