岩波文庫『百人一首』を読む(8) 喜撰法師
8 我庵は宮このたつみしかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり 喜撰法師
【訳】わたしの庵は都から東南に当たる方角。鹿と共存して暮らしているのに、世人は世を憂く思う人の住む宇治山というようだ。
【出典】古今集・巻十八・雑下・983
(題しらず)
【解釈の要点】
①「宮このたつみ」は、京の都から東南の意。「しか」は副詞「さ」と同じく、そのようにの意。「鹿」を響かせるか。「世をうぢ山」は「世を憂し」の「う」から、「宇治山」へと続ける。「いふなり」の「なり」は伝聞の意を表す助動詞。
②下河辺長流の『三奥抄』の引く「わたつみはみやここぞりていにけらしよをうぢ山の神もみなくに」(古今六帖)という歌を、契沖の『改観抄』は喜撰が参考にしたとするが、逆ではないか。
③『源氏物語』浮舟巻で浮舟が手習いで書いた「里の名をわが身に知れば山城の宇治のわたりぞいとど住みうき」は、喜撰の歌の影響例といえる。この歌を藤原為明撰『新拾遺和歌集』は紫式部の歌とするのは問題で、撰者の病死を受けて撰進を完成させた頓阿の仕業かもしれない。
④鴨長明は、『無名抄』で三室戸寺の奥にある宇治山の喜撰の住み処について伝聞を記している。京都府宇治市の喜撰山の西側山腹の岩洞が喜撰の庵跡だという。
【蛇足】
さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は、訳に変更がありました。學燈社『百人一首必携』執筆時においては、次のように訳出されていました。
わたしの庵は都の東南に当たる方角。そのように住んでいる世の中なのに、
人は世を憂く思う宇治山というようだ。(『百人一首必携』)
「そのように住んでいる世の中なのに」とあったのを、今回は「鹿と共存して暮らしているのに」とありますから、「しか」を『百人一首必携』執筆時点では指示語として扱っていたものを、今回岩波文庫執筆時点で「鹿」として扱ってみたということのようです。ただ、解釈の項目には、「しか」は副詞「さ」と同じく、そのようにの意。「鹿」を響かせるか、とありますので、解釈と訳で齟齬をきたしているように見えます。念のため、ほるぷ出版「日本の文学 古典編」の『百人一首 秀歌撰』(1987年)も参照すると、「しか」は副詞「然」で、そのようにとか、このようにの意とありまして、「しかぞ住む」を「このように心安らかに住んでいる」と訳出していて、その時点では、「鹿」を解釈に反映していませんでしたので、著者の中でこの歌の解釈は揺れ続けているようです。ともかく解釈の単語の解説を生かして、訳を修正すると、次のようになるのかと、僭越ながら考えました。
わたしの庵は都から東南に当たる方角。庵の周辺には鹿が住んでいる。
そのように鹿と共存して心安らかに暮らしているのに、世人は世を憂く
思う人の住む宇治山というようだ。(粗忽による加筆修正)
なお、『百人一首必携』の解釈部分は、岩波文庫にはまったく踏襲されておりません。どういう内容だったのかと言いますと、この歌に関しては香川景樹が、他の注釈書と違って、喜撰自身も宇治山を「憂き山」と感じていて、そこに侘び住まいをしていると『百首異見』で主張している点について、考察を巡らしたものになっています。景樹は、古今集の雑下の巻の、この歌の前後を分析して、侘び住まいの嘆きが詠まれていると指摘し、さらに五句目の「人は」に他の注釈がこだわって、他人に対して喜撰は住み得たと自負したとすることを浅い読み方として指摘しております。『百首異見』を読んで行くと、景樹の読み方の鋭さに圧倒されることは間違いありません。これに対して、久保田淳氏は景樹の考えの斜め上を行く見方を披露しておりまして、侘び人の喜撰が強がっているとみたらいいのではと提案していたのであります。『百人一首必携』の段階で、世を憂く思う喜撰説は景樹のみの主張でしたから、これにたいして久保田淳氏が、これを正面から取り上げて論破しようとしていたことは非常に面白いと思います。
ここからは、私が思うことを述べたいと思うのですが、次のようなことを指摘したいと思います。
①初句の「我が庵は」を受ける述語は三つあるのではないかと思います。一つは「都の辰巳」にあるという位置関係のことで、二つ目は「鹿ぞ住む」という周辺環境のことであります。そして三つめは「宇治山」という名称であります。これらは、一応客観的な情報でありますから、それにふさわしい述語の結びは、断定の「なり」でありましょう。
我が庵は、都の辰巳(にて)、鹿ぞ住む。(所の名は)宇治山(なり)。
②五句目と言いますか、末尾の表現「と人はいふなり」は、伝聞の助動詞「なり」を使った伝聞形式ですから、伝聞の内容が歌の中に盛り込まれているのであります。それがどこからなのか、というのは日本語の弱点でありまして、伝聞の最後は「と」という助詞で明示されますが、出だしが分らないのは、この歌に限ったことではありません。結論を言うと、伝聞の内容は三つであります。それを示すと次のようになることでしょう。
「(喜撰)が庵は都の辰巳、宇治山」「しかぞ住む(澄む)」「世を憂(んじて)」と人はいふなり
③つまり、「しか」というのは噂の中で使われたとみるのがいいわけですから、それに先行する情報を、「都の辰巳の宇治山」と見るべきだと思います。それから、「すむ」は「住む」と「澄む」でありまして、俗世を捨てて悟りを目指す境地を「しかぞ澄む」と推測しているということです。俗世を捨てていることは、都に距離を置いたということを指していると考えていいでしょう。宇治山との掛詞を従来は「憂し」とみるようですが、そうではなくてここは「憂んじ」(「憂んず」の連用形)ではないのかと思うんですがいかがでしょうか。それから、「しかぞ澄む」は香川景樹のいうように、「世を憂んずる」心境を言うのであって、楽しいとか心安らかというのは、当たらないことでしょう。世間の推測通り、俗世を愁いて侘び住まいに徹していると考えるわけです。
④以上のように見ると、古今集の『仮名序』の「宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、始め終り、たしかならず」や、『真名序』の「宇治山僧喜撰。その詞花麗。而首尾停滞」という批評の意図が分かるのではないでしょうか。伝聞の出だしが不明瞭だという指摘ではないかと思うのであります。これが漢文だったら、「曰」によって出だしは明白なのであります(ただ、あちらは終りがどうか分かりませんが)。
以上をまとめると、どんな解釈になるのか、せっかくなので試してみたいとおもいますけれども、これもまた奇妙奇天烈な解釈に見えることでしょう。
我が庵は、都の東南に位置していて、このあたりには鹿が住むばかりだ。
この土地の名は宇治山である。これを世間の人は噂して、「かの喜撰法師の
庵は都の東南の宇治山よ」「あのように喜撰は悟り澄まして暮らしている」
「さぞや世を憂んじての侘び住まいに違いない」と言っているそうだ。
当たらずと言えども遠からず。俗世を厭い、侘しく暮らしていることだ。
香川景樹と桑田明氏の説に乗っかって、以上のような解釈に辿り着きました。
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