岩波文庫『百人一首』を読む(16) 在原行平

16 立ち別れいなばの山の峯におふる 松とし聞かばいま帰りこん  

中納言行平

【訳】お別れして因幡国に行ってしまっても、稲羽山の峯に生えている松、そのようにあなたがわたしのことを待っていると聞いたならば、すぐにでも帰ってきましょう。

【出典】古今集・巻八・離別・365

       題しらず 在原行平朝臣 


【解釈の要点】

①歌枕「いなばの山」については、因幡か美濃かという、厄介な論がある。『古今六帖』第二「くに」に、但馬国の歌と石見国の歌の間に載る。『和名類聚抄』巻第六因幡郷第百六法美郡に「稲羽(以奈波)」とある。『五代集歌枕』第一・山は「いなば山 美濃」に、この歌を挙げる。『顕注密勘当』で顕昭は「いなばの山は歌枕に、因幡国にありといへり。いなばにあればにあればやがて因幡の山と云歟」と注し、定家は「無不審」とする。『文徳実録』巻七に斉衡二年(855)正月十五日「従四位下在原朝臣行平為因幡守」と見える。行平38歳の時のことである。

②下河辺長流『三奥抄』やその頭書、契沖の『古今余材抄」や『改観抄』は諸文献を検討して因幡国とし、賀茂真淵や香川景樹も同調する。

③『公卿補任』によれば、行平は仁寿三年(853)に正五位下になり、翌年備中介、斉衡四年正月に兵部大輔を兼ね、同年の四月に左馬頭となって順調に出世している。ただ、文徳治世の初め頃不興をこうむったのか、摂津の国の須磨にこもって詠んだという「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ」(古今集・雑下962)という、典型的な貴種流離の作が伝わる。

④下河辺長流の『三奥抄』は、旅立つときに妻に与えたとしつつ、任果てて都へ上るときの歌ともする。賀茂真淵は都へ上るときとする説を否定する。契沖は妻に与えた歌という解釈を『改観抄』で受け継いだが、『古今余材抄』では誰に与えたかは分からないとする。

⑤契沖は、後撰集・離別の「京に侍ける女子を、いかなる事か侍りけん、心憂しとてとどめおきて、因幡の国へまかりければ、むすめ 打ち捨てて君しいなばの露の身は消えぬばかりぞ有りと頼むな」(1310)を引く。行平の歌の影響例と見なせる。

⑥「いなば」は「去なば」に「因幡(稲羽)」を「松に「待つ」を掛ける。「いま帰りこん」の句は万葉集に先行例がある。

⑦南北朝時代の能作者は、「いなばの山の峯におふる松」と古今集の「わくらばに」の歌の詞書から、松風・村雨という姉妹の海女を創出し、行平が都に帰った後に行平を恋慕する舞を舞わせた。


【蛇足】

さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は、訳に変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈に変更を加える必要はなかったということのようです。その特徴を見ると、解釈部分でも指摘がありますが、「いなば」を「因幡・稲羽」と「去なば」の掛詞、「松」を「待つ」との掛詞として、処理しています。さらに、これから因幡国に赴任するという立場で、見送る人に与えた歌として訳してあります。「いま帰りこん」は、「因幡国から帰って来ましょう」という理解に沿っていると考えてよさそうであります。

この訳出で問題があるとすれば、「去なば」の解釈でありまして、これはナ変動詞「去ぬ(往ぬ)」の未然形に接続助詞「ば」が付いていますから、いわゆる順接の仮定条件として「もし~なら」と訳さなければならないわけですが、訳を見る限り「行ってしまっても」とありますので、逆接仮定条件となってしまっています。同じ著者のほるぷ出版刊『百人一首 秀歌撰』では「行きますが」となっていて、これは接続助詞「ば」を軽い逆接の条件節とした訳となっているように見えます。実は近代の注釈書は、ここと同様に「行ってしまっても」と訳したり、あるいは「行きますが」「行くが」と処理してありまして、文法上の齟齬に関しては無視するのが定番となっているようです。学習参考書的な『百人一首』の解説書も同じでありまして、教育現場ではここをどうしているのか、不思議に思います。

この「いなば」の掛詞の問題について、こうした過ちを回避しているのは、実は尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』だけのようでありますので、その訳を引用してみたいと思います。

  歌の心は京を立ちてそなたに別れて行くその因幡国の、山の峰に生えてある

  松の木の名のやうにそなたが我れを待つといふ事を聞くならば、程なく今の

  まに京へ帰りて来んといふ事なり。立ち別れいなばといふ言葉に、別れて行く

  といふ心を兼ねたり。

微妙ではありますが、接続助詞の「ば」を条件節として訳さないだけでも、かなり良心的な感じがするんですが、いかがでございましょうか。ともかく、この「いなば」については、後で論じて見たいと思います。


解釈と称する解説部分では、①の「いなばの山」がどこの国の歌枕かという点について、『百人一首必携』よりも詳しく論及していて、さらにその点について②を加筆しております。③の行平の経歴に触れた部分や⑥の掛詞の指摘、⑦の能楽への影響についても『百人一首必携』から引き継いだものですが、「立ち別れ」の歌が詠まれた状況を詮索する④⑤は今回新たに追加されておりまして、著者は断言しておりませんけれども、後撰集の影響歌を見る限り、京を旅立つ際の詠とみなすのがよいという結論のようです。


さて、ここからは余計なことを述べたいと思います。通常のこの歌の解釈だと、「いなば」は「往なば」と「因幡」の掛詞、「まつ」が「松」と「待つ」の掛詞でありまして、「因幡の山の峰に生ふる松」が序詞ということになっています。よって、この序詞を除いてしまうと、この歌は次のような内容だけの歌なのであります。

    立ち別れ 往なば、……。 (されど)待つとし聞かば、今帰り来む。

すでに申し上げた通り、「往なば」の順接仮定条件を、逆接仮定条件のように訳している注釈書は少なくないのでありまして、今回もそうなっています。その一方で「ば」を不具合と見て、ここを「行きますが」「行くが」とだけ訳して逆接仮定を単純接続ふうにごまかしている注釈書もあるというような具合です。この点に切れ込むことは、非常に危険なことなのかもしれません。ただ、「往なば」の問題は、補いを工夫すればいいと思いますが、次のような補いをした例は見当たらないようです。

  (我と汝が)立ち別れ(我独り因幡へ)往なば(汝は我を忘れもぞすると思ふ)

  (されど汝が我を)待つとし聞かば(我はとりもあへず)今帰り来む。

「汝は我を忘れもぞすると思ふ」というのは、「もぞ」が危惧の表現で、「そなたが私を忘れたりしたら困るなあと心配だよ」ということです。順接仮定条件が「往なば」「聞かば」と連続するところがこのうたの不審の原因だと思いますが、補いをすれば解決するのではないでしょうか。ただ、このような補いを従来してこなかったとすると、この問題を注釈者は「非常に面倒だ」と感じてスルーしようとしていたかもしれません。実は、「古今伝授」の内容も実態は不明ですし、近世・近代の注釈書も著者のように構造を考えたりはしてこなかったわけです。従来問題にしていたのは、京都で詠んだか因幡で詠んだかということと、「因幡の山」ではなくて「稲羽山」かどうかという点だったわけで、平安時代の初期にどう解釈していたかなんてレベルには到達していなさそうです。ちなみに、古い注釈書は因幡の国で離任時に詠んだというのが定説で、現代でもそちらを支持する徳原茂美氏『百人一首の研究』(和泉書院)の見解もあります。その場合は、先ほどの補いは次のように変化することでしょう。

  (我と汝らが)立ち別れ(前国司の我が京へ)往なば(我は汝らを忘れもやせむ)

  (されど汝らが我を)待つとしきかば(我は因幡へ)今帰り来む。

「因幡の山の峰に生ふる松」という表現は、どこで詠むのがふさわしいかというと、これはもう京都なんかじゃなくて因幡の国の国府の館ということになるはずだと考えるわけです。だいたい、赴任する時に「すぐ帰る」というのでは職務に不熱心でありまして、そんな怠慢官僚の歌なんかを勅撰集に堂々と採用したりはしないことでしょう。そうではなくて、赴任先の現地を上手に統治したら「国守様どうか戻って来て」とラブコールを受けて、「今帰り来む」と歌うのではあるまいかというわけです。かなり説得力があるかもしれません。たしかに、京都で旅立つ時ならば、詠み込む地名は京都にちなむものでなければだめでしょうね。「嵐山」と、不在を意味する「あらじ」の掛詞なら次のような歌になるはずであります。

  立ち別れあらしの山の峰に生ふる 松とし聞かば 今帰り来む(粗忽謹製)


この歌は割と調子のいい歌で、耳にしてもすんなりと入って来るし、唱えてもすらすら読めるのではないでしょうか。日本語としても、安定感のある言葉で構成されていると言えましょう。掛詞もさほど気にならないところがあります。じゃあ、何も問題がないのかというと、以上のように、いろいろと考えるべき点があると思います。


行平が因幡の国守として赴任するときの歌なら、斉衡2年(855)の前年くらいの歌と言うことになります。その時、38歳位でありまして、任期が終わった時なら貞観元年(859)、42歳くらいでありましょうか。行平は弘仁9年(818)に生まれ、平城天皇の第一皇子であった阿保親王の子供の一人です。あの在原業平の異母兄弟ということですが、母の素性が分かりません。在原姓の一族の中では順調に出世した人物でありまして、貞観15年(873)には大宰権帥になり、元慶6年(882)には、なんと中納言に至っておりまして、この地位の別名は黄門ですから、えらい地位だと誰もが察知することでしょう。寛平5年(893)に75歳で亡くなっておりまして、光孝天皇は同時代人です。非常によくできる 官僚であったということですが、須磨に流されたこともあって、この点『源氏物語』光源氏のモデルの一人でもあります。須磨で厨房で使う行平鍋を考案したという話もあり、また対馬を日本に帰属させたという功績もあったらしいのです。『百人一首一夕話』や『百人一首講義』には、詳しくいろいろ書いてありまして、政治家として凄腕だったことはすぐに分かります。現代の日本に復活させたいくらい有能だったようです。


この歌に関しては、通常は「因幡」と「往なば」、「松」と「待つ」の掛詞を含むものとするのが普通の理解ですが、ほんとうにそれだけなんでしょうか。たとえば、「峰」のところに「見ね」が掛かるとするような注釈は桑田明氏以外に見当たりません。さらに余計なことを言うなら、「因幡」のところに「往なば」が掛けてあるとするのは疑わしく、むしろ「立ち別れ」の部分がこの歌では「立ち分かれ」と言うに過ぎず、松の幹の枝分かれの状態を言うのかもしれないと感じます。双子の松とか二本松とか言う、いわゆるランドマークになりやすい松の特徴というものがありますから、それなら、「立ち分かれ因幡の山の峰に生ふる」の部分は、ただ単に「松」と「待つ」を導く、長々とした序詞としてすんなり頭に入るのではないかとも思います。「往なば」を掛けるのは相当の無理があると見てよいのではありませんか。いかが。

もしかして、この歌は国守階級の秘伝の歌でありまして、「いなば」のところに各地の地名を入れて詠み、国守の送別の宴の席で披露される定番の歌を行平の歌だとして採択したかもしれません。京都から近すぎても駄目ですがある程度遠くないと成立しませんので、東は「常陸」「上総」「武蔵」「相模」「駿河」「信濃」「越後」、西は「讃岐」「出雲」「石見」「長門」「周防」「筑紫」くらいでありましょうか。これらを見ると、掛詞になるのは「出雲」くらいだと分かります。つまり、「立ち別れ」の後に掛詞が成立すると見えるのは「因幡」と「出雲」くらいですから、狙って作った遊びの歌かもしれません。ただし、どの国であろうと善政を敷いた人でないと歌えないことでしょうね。

  立ち別れいづもの国の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む(粗忽謹製)

   ※「いづも」は「出雲」と「出づ」の掛詞。

どうしても修辞だらけだと見たい向きに百歩譲ると、序詞の上三句「立ち分かれ」「因幡」「峰」の部分に、「立ち別れ」「往なば」「見ね」を匂わせて、「松」と「待つ」の掛詞を成立させている遊びに満ちた歌と言えばいいのかと思うのですが、どうでしょう。しかし、掛詞のようなものを探し出すと、切りがなく出てくるような気がしまして、やはり「往なば」は過剰反応ではないかと思うのです。そうじゃないと言うなら、「見ね」も認めましょうよ。 

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