岩波文庫『百人一首』を読む(15) 光孝天皇
15 君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ 光孝天皇
【訳】あなたに贈ろうと、春浅い野辺に出て若菜を摘むわたしの袖に、雪はしきりに降りかかります。
【出典】古今集・巻一・春上・21
仁和の御門、御子におはしましける時に、人に若菜給ひける御歌
【解釈の要点】
①『仁和御集』の巻頭歌で、詞書に「まだみこにおはしましけるに、わかなひとにたまふとて」とある。光孝天皇は天長七年(830)の誕生以後、陽成天皇が退位する元慶八年(884)三月四日まで時康親王だった。
②若菜は、鎌倉初期成立とされる『年中行事秘抄』正月に、「上子日、内蔵司供若菜事。(中略)七種菜。薺。繁縷。芹。菁。御形。須々代。仏座(かみのねのひ、うちのくらのつかさわかなをきようすること。……ななくさのな。なづな。はこべ。せり。かぶら。ごぎやう。すずしろ。ほとけのざ)」という。
③下河辺長流『三奥抄』「頭書」や契沖『改観抄』は、『大和物語』173段の「君がため衣の裾をぬらしつつ春の野に出て摘める若菜ぞ」を引く。これは五条わたりの女が良岑宗貞(遍昭)に贈った歌。契沖『古今余材抄』は、万葉集巻十1839の「君がため山田の沢に恵具摘むと雪消の水に裳の裾濡れぬ」などを挙げる。光孝天皇の詠に先行することが確かなのは、万葉集の歌である。
④類歌が多いのは、こういう挨拶が一般的であったことを意味している。『改観抄』は恩着せがましくとるようだが、親しい間柄のくつろいだ雰囲気が感じられる。『枕草子』でも、ほととぎすの声を尋ねて賀茂の奥まで出かけた清少納言らに、もてなした高階明順も、「この下蕨は手づから摘みつる」と言って、田舎料理を勧めていた。
【蛇足】
さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は、訳に変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈に変更を加える必要はなかったということのようです。その特徴を見ると、末尾の接続助詞「つつ」を詠嘆の終助詞的に処理をしておりまして、この歌を倒置している歌とは解していません。三句目末の「つむ」は四句目の「衣手」にかかる連体形として解しています。「つむ」を終止形と解して、下の句が倒置していると見る方が、引用されている『大和物語』や万葉集の歌に即した理解に見えますが、そうした三句切れの歌とする注釈書は稀ですが、ないわけではありません。倒置を改めると、これはこれですんなり理解できる内容ではないかと思います。
わが衣手に雪は降りつつ、君がため春の野に出でて若菜つむ。
古今集の詞書の補足になっている①と②は、『百人一首必携』には見えませんので、今回書き下ろされたものです。光孝天皇は陽成天皇の退位のどたばたの結果天皇位に就きましたので、即位する前は年老いた皇子だったことを古今集の詞書は注意喚起のために指摘しているとも言えるわけです。また、詞書の「若菜」は現代にも遺っている「七草がゆ」の風習を指していることが、『年中行事秘抄』の叙述から読み取れるわけです。なお、平仮名の書き下しは私が勝手に施したものです。
今回の③と④は、『百人一首必携』から引き継いだものですが、④にわざわざ契沖の『改観抄』が引用されておりますので、それをここに紹介するとこんな内容です。
歌の心は、そこのためと思ひて余寒を凌ぎ雪の袖にふりかかるを打はらひ、
からくして摘ためたる若菜ぞ。おぼろげに思ふなとのたまふなり
今回は、この引用をしたあとで「別に恩着せがましく言おうというのではあるまい。親しい間柄のくつろいだ雰囲気が感じられる」と、割とあっさりと解説がなされていますが、『百人一首必携』ではもう少し詳しく、「若菜を贈る相手が親しい人だからこそ、そういう心も含ませうるのであろう。(中略)昔の日本にはこのような率直な言い方もあったのである」と解説がありました。率直な恩着せがましさが、親しさの演出であるという指摘で、それが枕草子で補強されていたという文脈があったわけです。『改観抄』を念のため訳してみると、「歌の意図するところは、そなたのためにと思って早春の寒さをこらえて袖に降りかかる雪を払い落とし、やっとのことで摘み集めた若菜だよ。並大抵のことと思うなよ、いや、並々ならぬ大変な厚意だと思うがいいと光孝天皇はおっしゃるのである」などとなるはずで、契沖説では押しつけがましさが全開であります。これをユーモアの滲んだものと解そうと言うのが、久保田淳氏の狙いでありましょう。
この歌は、長寿を願って新春に若菜を摘むという王朝風の儀式めいた風習を、誰もが納得できるように五七五七七の定型に落とし込んでいるわけですから、むしろ詠作主体を男女に特定せず、「君」に関しても詠作主体の大切に思う人と考えてよいはずです。そうした歌を、誰が作ったのかと思えば、親王時代の光孝天皇でありまして、目立たない親王の一人だったこの人の歌が注目されたのは、ずっと後ではないでしょうか。老人になってからはからずも皇位を継承した光孝天皇ですから、面白いのだと思います。急に天皇に担がれてたくさんの人に次の正月には若菜を献上されたはずですが、その帝がよっこいしょと庭に降りて后のために若菜を摘み始め、雪にまみれた袖と若菜を后に見せて、笑いを取ったのではないでしょうか。親王時代と同じ行為をして、古い自らの歌を唱えて見たはずであります。そこには、王者の風格はなく、飄々とした人格者のユーモアだけが漂うような気がいたします。
余計なことを言うと、「君がため」というのは、「あなたのために」という恩着せがましい表現ではありますが、これを「お前様のせいで」というような恨みがましい表現として解釈してはダメなのでありましょうか。自分としたことが若菜を摘みに庭に降りたがために、せっかくの晴れ着を雪によって駄目にしたかもというような、さらに贈り手としてのボヤキだと考えると、ほほえましいだけの光景ではなくなり、より滑稽味が加わるんですが、いかがでしょうか。貧乏を極めた親王時代の、替えの効かない一張羅を駄目にしたら、奥様は怒ることでしょう。もちろんこれは冗談です。ともかく、契沖の言うように解釈したほうが、実は詠作意図に沿う可能性があり、そのことが久保田淳氏が指摘する親しい間の親密な関係を匂わせていて、宮廷和歌として成立するのかもしれません。うらぶれた皇子の歌が、はからずも天皇位に就いてから俄然輝き出した可能性は高いと思います。
ところで、幕末の歌人香川景樹の注釈書『百首異見』に、次のような見解が出て来るので、引用してみましょう。
門人木下幸文云、ある人の為にとて、親王の御身として雪降る野べに出て
御手づから摘み給ふにはあらじ。人に若菜給へる日しも、雪の降りける
によりて、かくは詠みなし給ふならん、といへるはさる事也。
明治時代の注釈書である佐佐木信綱の『百人一首講義』は、これをそのまま引き写しにしているので、信綱が香川景樹の『百首異見』を粉本にしていたことが明らかになるわけです。江戸時代の人々には、徳川幕府の向こうに封じ込められている天皇の姿が分からないために、かってに妄想をたくましくしていて、その結果、平安時代の天皇の生活をずいぶん窮屈に考えていた節があります。天智天皇の「秋の田の」の歌でも、田んぼのなかの仮庵に天皇が行くはずがないというような文言があって驚きましたが、宮中行事の子の日の松の行事なんかも含めて、天皇が何かするということが理解できなかったようです。これに関して、実は『徒然草』第176段に面白いエピソードがあるので紹介してみましょう。
黒戸は、小松御門、位に即かせ給ひて、昔、ただ人にておはしましし時、
まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで、常に営ませ給ひける間なり。
御薪に煤けたれば、黒戸と言ふとぞ。
(訳)(清涼殿の)黒戸は、小松の帝が即位なさってからも、その昔、一人の親王に過ぎない身分でいらっしゃった時に、(ままごとのように)炊事をなさったのをお忘れにならないで、いつでも(炊事を)おやりになった場所である。(炊事のための燃料とした)薪にすすけたので、黒戸というのだと言い伝えられている。
宮中にある黒戸というのは、帝のいる清涼殿から後宮へ行く時に通る場所で、そこで光孝天皇が薪で炊事をしたためにすすけていたという話を、兼好法師が耳にしたようです。清涼殿も火災で焼失したこともありますから、すすけていたのがいつまでかは分かりませんが、天皇の炊事が珍しいのでお仕えする人たちがその場所を「黒戸」と呼んでいるうちに定着したのかもしれません。ともかく、親王時代に炊事をしたことを思い出して、日常的に即位後も続けたと言うんですから、根っからの料理好きの天皇なのであります。その位置から見て、出来立ての料理を后に届けるという算段であったと見てよいかと思います。
光孝天皇は55歳まで親王だった人で、いとこに当たる藤原基経の推挙によって天皇に即位しました。『古今集』では「仁和帝」と呼んでいますが、『大鏡』などでは「小松の帝」と呼ばれておりまして、親王時代は皇子でありまして、呼び名が時康親王であったわけです。即位したのは一説には元慶8年(884)2月1日で、亡くなったのは仁和3年(887)8月26日ですから、在位期間は3年半、崩御したのは58歳の時なのです。この帝には、親王時代から連れ添った班子女王という女御がいて仲良く暮らしていたらしいのです。気ままな親王暮らしがよかったようで、班子女王が市場にでかけて買い物をしていたなどと言う話があります。班子女王は、帝の崩御後も生き、昌泰3年(900)まで生きたということです。親王時代は貧乏で、庶民からいろいろと拝借して暮らしていたらしく、即位したらよってたかって返却を求めに来たという話が、尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』に書かれています。
皇族が庶民から物を借りていたということを、幕末の歌人たちに教えたら、嘘偽りを言うやつだとして糾弾されたかもしれません。そういう点で、尾崎雅嘉という人の博覧強記ぶりが際立ちます。どこの何を見たら、そういう話が出て来るのか、私には分かりません。逸話の出所がしばしば不明であることを、『百人一首一夕話』の欠点と見る向きもあるわけです。
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