岩波文庫『百人一首』を読む(14) 源融
14 陸奥のしのぶもぢずりたれゆゑに 乱れそめにしわれならなくに
河原左大臣
【訳】陸奥の信夫もじずりの乱れ染めした模様さながら、誰かのせいで心乱れはじめたわたしではないのですよ。他ならぬあなたゆえに、心も乱れはじめたのではありませんか。
【出典】古今集・巻十四・恋四・724
(題しらず)
【解釈の要点】
①第四句「乱れそめにし」は古今集の定本である定家本では「みたれむと思」であり、藤原清輔・源家長書写奥書の古今集でも「みたれんと思ふ」とある。『伊勢物語』第一段や『俊頼髄脳』『古来風躰抄』などはすべて「みだれそめにし」である。
②「信夫捩摺り」は陸奥信夫郡で産出される乱れ模様の摺り染め。『吾妻鏡』所引の「毛越寺事」に藤原基衡が仏師運慶に「信夫毛地摺千端」が送ったと記されている。『俊頼髄脳』はこの歌を釈し、父経信が遍照寺の御簾のへりの信夫捩摺りを四、五寸切り取って山荘の御簾のへりにしていたので世人が興じたと語る。
③四句目の「そめ」は「初め」の意だが、「染め」を響かせている。この歌では、「陸奥のしのぶもぢずり」は「乱れそめにし」を導く序詞の働きをしている。
④「たれゆゑに」は、誰のために、誰のせいで。この歌に近い表現の歌に、「しのぶるも誰ゆゑならぬ物なれば今は何かは君に隔てむ」(拾遺・恋一・624・平公誠)がある。
⑤「われならなくに」の「なく」は、打消の助動詞「ず」のク語法(名詞形)。古今集や後撰集にも例がある。
⑥この歌は古今集では「題しらず」であるから、どんな相手に詠み送ったかはわからない。『伊勢物語』第一段では主人公が「春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず」という歌を、春日の里の女はらからに贈っている。
⑦この歌の影響を受けた作品には、大江匡房の「露分けば色かはりなん宮城野はいかがはすべきしのぶもぢずり」や源俊頼の「宮城野のしづくにかへる狩衣しのぶもぢずり乱れしぬらし」がある。
⑧河原左大臣は源融であるが、古今集の融の歌はこの歌の他に、「主や誰問へど白玉いはなくにさらばなべてやあはれと思はむ」(雑上・873)が載る。
⑨源融は、歌そのものよりもその豪奢な庭園「河原院」が後の世の人々に回想される存在で、紀貫之は「君まさで煙絶えにし塩竃のうらさびしくも見えわたるかな」(古今集・哀傷・852)と詠んだ。河原院は融の没後皇室の所有に帰したが、融の霊が現れたという説話が生じ、『江談抄』などに見える。
⑩順徳院は『八雲御抄』第六用意部で、融の歌は藤原冬嗣・道長に並んで長者の風格があると評している。
【蛇足】
さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は、訳に変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈に変更を加える必要はなかったということのようです。その特徴は、「陸奥のしのぶもぢずり」を単なる序詞ではなくて、恋情の比喩として訳出している点と、下の句の修辞疑問文の直訳の後に、下の句の真意を改めて提示している点にあります。こういう訳し方は、注釈書では一般的だと思います。
解釈と称する解説部分では、①の四句目の異文の考証と、②の信夫もぢずりの考証部分、さらに「初め・染め」の指摘が『百人一首必携』から引き継いだものですが、それぞれ記事内容に出入りが見られます。例えば①では、清輔本の古今集の書入れに引用する『伊勢物語』には「みだれむとおもふ」とあったりして混迷の度が深いことを指摘していましたが、書入れのところは今回省いてありました。また②の信夫もぢずりでは、『吾妻鏡』への言及が『百人一首必携』の段階ではありませんでした。
④と⑤の表現に関する部分は新たな書下ろしですが、⑥の『伊勢物語』との比較による歌の送り先の問題や、⑦のこの歌の影響下にある歌の指摘、そして⑧~⑩の源融に関する考証部分などもほぼ新たに付け加えられたものです。
この歌は、「乱れ染め」を導く序詞が、上二句の「陸奥のしのぶもぢずり」でありまして、その序詞を省くと、「誰ゆゑに乱れ初めにし我ならなくに」でありまして、これは歌の相手に対するなぞかけでありまして、その下に趣旨を「汝ゆゑに乱れ初めにし我なり」と補えばよいのかと思います。それでも、分かりにくいところがありますので、「誰ゆゑに」で始まる疑問文を最初に補うといいのかもしれません。つまり、
我は誰ゆゑに乱れ初めにしことか。
誰ゆゑに乱れ初めにし我ならなくに、
汝ゆゑに乱れ初めにし我なり。
ということでありまして、実は河原の左大臣が詠んだ下三句を省いて、補った最初の疑問文と、補った結論部分をくっつけて「我は誰ゆゑに乱れ初めにしことか。汝ゆゑに乱れ初めにし我なり」とすれば、簡潔になってしまうのであります。ここで、江戸時代の尾崎雅嘉『百人一首一夕話』の解釈を引用してみたいと思います。
奥州の信夫郡より出づるもぢ摺りといふものは、髪を乱したるやうに
しどろもどろに模様を摺りつけたる衣なるが、我も誰故に心が乱れ始めしぞ、
皆そこ許故の事にて、我と思ひ乱れたるにはあらず。
二人称を「そこ許(そこもと)」とするところに趣がありまして、序詞の部分を訳出している点にも特色があります。また、分かりにくい「乱れそめにし我ならなくに」の部分を「我と思ひ乱れたるにはあらず」と改めていて、なかなか上手です。これに対して、明治時代の佐佐木信綱『百人一首講義』の解釈も引用してみたいと思います。
誰ゆゑに、思ひみだれそめたる我なるぞ、他の人の為にはあらで、
君ゆゑなるに、なほいつまでも、しかつれなきぞ。
信綱は、序詞をばっさりと切り落とし、最初に疑問文を補い、左大臣の詠んだ下三句を省いて、「君ゆゑ」という答えだけを提示しております。「君ゆゑ(思ひみだれそめたる我なるぞ)」と容易に分かります。これはこれで、大胆で上手なのであります。そして、「なほいつまでもしかつれなきぞ」と相手を責める言葉を補っておりまして、呪文みたいな河原左大臣の歌が、明瞭すぎると思うくらいのメッセージになっております。佐佐木信綱の「なほいつまでもしかつれなきぞ」というのは、訳して見ると「(ずっと口説いているが)それなのにいつまでもそのように冷淡なのか」ということで、成就していない恋のような解釈に取れてしまいそうです。
源氏と言うのはこの人河原左大臣あたりから始まったものです。嵯峨天皇は蔵人制度を作ったり、皇子たちを貴族にしたり、いろいろなアイディアを持っていたようです。左大臣に上り詰めた融というのは、なかなか手ごわい政治家で、藤原氏を困らせていたらしく、陽成天皇が廃帝となった際には、自ら天皇になりたいという意志を表明し、そうなる可能性は高かったのではないでしょうか。藤原基経がそれを阻止しましたが、その言い分は臣下に下ったものが皇位に就いた例はないというもので、それはそれで当時説得力があったようです。その結果、老皇族だった光孝天皇が即位しましたが、後継ぎとなる光孝天皇の子供は源氏になっていたので慌てて皇族に戻ったようです。それが次の宇多天皇ですが、それなら融が天皇になっていてもよかったのです。あれほど恋慕した国王の地位なのに、その場しのぎの藤原氏の言い分が通ってしまったということ。
政治なんてそんなものでありまして、舌の根も乾かぬと言います。
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