岩波文庫『百人一首』を読む(12) 僧正遍昭

12 天つ風雲のかよひ路吹とぢよ をとめの姿しばしとどめむ


【訳】空吹く風よ、雲の中の通路をふさいでしまっておくれ。空に昇っていこうとする天乙女の姿をしばらくとどめておこう。

【出典】古今集・巻十七・雑上・872

       五節の舞姫を見てよめる  良岑宗貞 


【解釈の要点】

①良岑宗貞は仁明天皇の寵臣であった。嘉祥三年(850)天皇が出家すると宗貞もまもなく出家している。古今集はこの歌を俗名で載せている。

②大江匡房の『江家次第』に五節の舞の起源を伝える記事がある。天武天皇が吉野宮で琴を弾いた時、峰に雲気が立ち、美女が曲に応じて舞ったが、舞は五度変わったので五節という。

③『続日本紀』天平十五年(743)五月五日、聖武天皇が内裏で宴を催し、後の孝謙天皇が五節を舞い、橘諸兄が天皇の詔を承けて天皇に奏上した中で、天武天皇が五節の舞を作ったと述べられている。『古事記』は、雄略天皇が吉野宮で出会った童女と婚し、再会した際に自ら琴を弾いて彼女に舞わせ、「あぐらゐの神のみてもち弾く琴に まひするをみな常世にもがも」と歌ったという。契沖の『古今余材抄』や『改観抄』では、『続日本紀』の説を舞姫の起源と考えて引用している。

④賀茂真淵は、『宇比麻奈備』に『続日本紀』を引くが、天武天皇が吉野宮で琴を弾くと天女が舞ったのを、唐風である点を不審として浮説としている。

⑤『源平盛衰記』巻一の五節始を見ると、起源は国風ではない。天武天皇の代に唐帝から贈られた崑崙山の五つの玉はよく暗い所を照らしたので「豊明」と名付けられた。天皇が吉野に行幸すると神女が天降って舞った時に、この五つの玉について五度歌い舞ったので五節と称したとする。王朝の人々は唐風を受け入れ、神仙譚も柔軟に受け止めていた。

⑥「雲のかよひ路」は、古歌を見ると大空の中や夢の世界に存在した通路で、そういうものを幻視しえた古人がうらやましい。

⑦能の「羽衣」には宗貞の歌が取り入れられており、舞い終えた天女が昇天する場面がある。


【蛇足】

さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回も、訳に大きな変更がありませんでした。ただ、學燈社『百人一首必携』をみると「天乙女」の修飾句は「天に昇っていこうとする」とありましたが、今回の岩波文庫では「空に昇っていこうとする」となっています。「天つ風」を「空吹く風」と訳しておりますので、取り立てて問題にするような差異ではないと考えてよいことでしょう。

解釈と称する解説の部分については、『源平盛衰記』を引用する⑤と「雲のかよひ路」を考察する⑥が『百人一首必携』を転載したものですが、①~④の五節の舞姫の起源に関する考証部分は今回書き下ろされたものです。起源に関しては、契沖や賀茂真淵が江戸時代に指摘していたことが分りますが、天武天皇の吉野での天女との経緯を契沖や真淵が認めない点については、久保田淳氏は同意しておりません。そうした立場から『源平盛衰記』が天武天皇の逸話を取上げていることに、柔軟な姿勢が見えると評価しているようです。以上のように岩波文庫の解釈をまとめましたが、著者の主旨がうまく整理できているのか、あまり自信がありません。学術論文のような文体で書かれておりますし、かなり端折って引用がなされているので、理解しがたい点が多々ありました。なお、ほるぷ出版「日本の文学 古典編」の『百人一首 秀歌撰』では、次のような解説がありました。

  「をとめ」はもとより五節の舞姫であるが、これを天に昇って帰ってしまう

  天女になぞらえて言った。風を擬人化し、これによびかけた歌で、やはり

  在俗時代の作である、

     花の色は霞にこめて見せずとも香をだにぬすめ春の山風(古今集・春下113)

  にも通うところがある。

岩波文庫の解説は、あまり初心者向きではないということが、こうした解説がないことからも分かるのではないかと思います。


五節の舞姫と言うのは、旧暦の十一月に行われる豊明節会で舞を披露する乙女たちですが、それを天女に見立てたのがこの歌の手柄なのでしょう。よって、彼女たちをもう少し鑑賞したいなら、天女の帰り道である雲の通路を閉じる必要があるという理屈なのです。機知溢れる内容を、卒なく和歌にまとめたあたりが、蔵人頭を務めた人物らしい詠み口なのであります。


これに対して、もう一つの詠み口があるとするなら、天女は天の羽衣を着ているはずですから、その羽衣を隠してしまえと詠めばいいのかと思います。羽衣伝説では、羽衣を隠された天女は男の妻となって、子供を産むという展開になります。中国の『捜神記』には、天女が羽衣を取り返して天に帰り、さらにあとで子供たちを迎えに来るという結末の話もございます。

   ひさかたの 天の羽衣 隠してむ おとめの姿 しばし留めむ(粗忽)

僧正遍昭は、六歌仙の一人として有名ですが、晩年は僧正という地位まで昇りまして、仁和二年(886)には輦車(れんしゃ)を許されておりますが、これは轅 (ながえ) を腰の辺に当て、人の手で引く車のことで、 東宮・皇族、また勅許を得た重臣の乗り物なのだそうです。大内裏の中を貴人を乗せて人力で引くんですが、宮城門から宮門までの間を乗るためのものらしく、目を引く特別扱いだったことでしょう。これは、その年の暮れに七十の賀を朝廷で祝ってもらっていますので、その時のためだったようです。祝ってもらった後、遍昭は数年の間は生きていたようで、寛平二年(890)になって亡くなっております。

上田秋成の『春雨物語』の中の「天津処女」には、この僧正遍昭のことが出てきますけれども、そこには、在俗時代の良岑宗貞が提案して、五節の舞姫の人数を四人から五人に増やしたというような話が出てきます。秋成のことですから、遍昭というのはこれほど好色な奴だという皮肉であります。ただ、本当の話なんでしょうか。どこを調べると出て来る情報なのか、見当が付きません。明治時代にも舞われたことがあったらしく、Wikipediaには舞姫の6人の名前が出ております。


コメント

このブログの人気の投稿

岩波文庫『百人一首』を読む(81) 藤原実定

岩波文庫『百人一首』を読む(99) 後鳥羽院

足利将軍撰『新百人一首』を読む(6) 藤原菅根