岩波文庫『百人一首』を読む(11) 小野篁

11 わたの原八十島かけて漕ぎ出ぬと 人には告げよ海人の釣舟   参議篁


【訳】大海原のたくさんの島々を目指して船を漕ぎ出していったと、人には告げておくれ、漁師の釣舟よ。

【出典】古今集・巻九・羇旅・407

       隠岐の国に流されける時に、船に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかはしける 小野篁朝臣 


【解釈の要点】

①小野篁は承和五年(838)十二月に流された。遣唐副使だったが大師の藤原常嗣と争い出発せず、遣唐の役を風刺したので嵯峨上皇の逆鱗に触れた。承和七年二月には赦免されている。流されたのは隠岐の国である。

②「八十島」や「海人の釣舟」は万葉集に見られる。下河辺長流の『三奥抄』や契沖の『改観抄』は『伊勢物語』の「みるめ刈る方やいづこぞ竿さして我に教へよ海人の釣舟」を在原業平の歌として引く。

③藤原公任の『和漢朗詠集』には、この歌とともに篁の「渡口郵船風定出 波頭謫処日晴看」という詩句を収める。配流の途上に作り、漢詩の分かる者は誰もが吟唱したという大評判の詩の断片らしい。

④小野篁は豪快な感じの詩人で、これらの歌や詩句からは流謫の人の涙もろさは感じられない。


【蛇足】

さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回も、訳に大きな変更がありませんでした。ただ、學燈社『百人一首必携』執筆時には、四句目の訳が「人には告げてくれよ」とありましたが、今回は「人には告げておくれ」となっていました。さしたる変更ではありませんので、特に解釈に変更を加える必要はなかったということのようです。訳の特徴としては、「八十島かけて」を「たくさんの島々を目指して」とした点ですが、注釈書で訳のゆれるところです。それから五句目の「海人の釣舟」は、本当は「釣舟に乗った海人」に伝言を託すのでしょうけれど、「釣舟の海人」という表現は歌には使われないようです。そのままでも意味が通じるところが面白いと思います。

なお、1987年刊のほるぷ出版「日本の文学 古典編」の『百人一首 秀歌撰』(校注訳・久保田淳氏)では、

  たくさんの島々を目当てに、私は大海原へ船を漕ぎ出していったと、親しい人々には告げておくれ、釣りしている漁師たちよ

とありまして、「八十島かけて」「海人の釣舟」の訳が著者の中では若干揺らいでいるようです。

いろいろ問題がありまして、隠岐に流された原因は本当は何だったのかという問題があります。遣唐副使のときの乗船拒否の外、嵯峨天皇を揶揄した落書だとか、女の事だとか、実は定まりません。それから、この歌をどこで詠んだのかという問題がありまして、陸路で出雲へ行って出雲の千酌という渡し場から出航したのが史実らしいのですが、瀬戸内海を前にした難波からではないかというのが注釈書の主流で、実は決しません。それから、あまり指摘はありませんが、流人として不自由な状態で隠岐への舟に乗せられているはずですが、それなのに自分で船を自由に操って出航するような伝言の諧謔は面白いと思います。さらに、詞書では「京なる人のもとにつかはしける」とありますので、四句目の「人」は京都の人でいいのでしょうけれど、男か女か単数か複数か、妻なのか愛人なのか同僚なのか、誰も突き詰めないんですが、それでいいのでしょうか。末句の問題は、「釣舟の海人」と詠むほうが合理的ですが、これだと音調的に落ち着かないので「海人の釣舟」になっただけで、深い意味がないかもしれないのであります。「流人の護送船」に乗っていることを意識して、平和な日常の営みをしている「海人の釣舟」と対比させたのかもしれませんが、そんなことも誰も指摘はしていません。

古今集の詞書に「京なる人の許へ遣しける」とあるのと、海人の釣舟に伝言を頼む行為は矛盾しているような気がするんですが、どうなんでしょう。「海人の釣舟」が手紙を託すのに当てになるのかというと当てにはならないのではないか、などということを考えてしまいます。哀愁を漂わせるために、手紙を託すに足る存在がいないと詠んでいると、江戸時代の尾崎雅嘉や明治時代の佐々木信綱、昭和初期の北原白秋などは読み解くわけですが、実際には護送した官人などに辞世の歌として託したというようなことでしょうか。おしなべて近年の注釈書は、「自分は流人の身で何のたよりも出来ないから、そこらの釣舟の海人にお願いして京の人に告げる」という解釈には、まったく無関心を決め込んでいるようです。

ふと思いついたのでありますが、この小野篁の歌と言うのは、やはりあの遣唐使船に乗るの乗らないのというトラブルと関係があるような気がしまして、それを巡る処罰の結果流刑になったわけですから、処分した人たちへの皮肉と言うか揶揄と言うか、悔し紛れの強がりと言うか、もっと言うなら篁らしい頓智が込められているのではないか思います。それを織り込んで解釈すると、小野篁のメッセージはこんなことではないのでしょうか。

  (大海原の果てにある唐土の国を目指して行くはずだったけれど、あんなぼろ船に乗せられたら難破して身を亡ぼすと思って出航を拒否したよ。それが気に入らないと隠岐の国に流されるなら本望だ。いっそこの際、日本から逃亡してやろうと考えて、あの小野篁は)大海原のたくさんの島々を目指して船を漕ぎ出していったと、(私の安否を気にする都の)人には告げておくれ、(流人が連れて行かれるのを見て見ぬふりをしている)釣舟の漁師たちよ。(そなたたちに心があるなら。)

もっと言うなら、この歌は遣唐使として派遣される宴会なんかで披露された歌かもしれないのでありまして、それがトラブルでお蔵入りとなっていたのを、流刑の時に詠んだものとして復活させた可能性だってあるんじゃないでしょうか。安倍仲麿の歌にはその手のうがちを見せた注釈書が、この歌に関しては素直に古今集の詞書を受け止めるのは、そのことの方が不審であります。安倍仲麿も小野篁も、一筋縄では行かない凄腕の官僚だったと思うんですが、いかがでございましょうか?

『百人一首』について言うと、作者の実在が不明と言うような歌人と、官人で経歴がよく知れている人が交互に出て来る感じであります。猿丸太夫や喜撰・蝉丸は学者さんが激怒するくらい経歴不明でありますし、それに対して阿倍仲麿や小野篁は資料があり過ぎて面倒臭いようであります。撰者だと言われている藤原定家は、300年くらい後に登場した人でありまして、もちろん活躍時期は平安時代末から鎌倉時代の人でありますけれども、そうすると最初の歌人20人くらいは定家さんだって半信半疑で選抜していたかもしれません。


コメント

このブログの人気の投稿

岩波文庫『百人一首』を読む(81) 藤原実定

岩波文庫『百人一首』を読む(99) 後鳥羽院

足利将軍撰『新百人一首』を読む(6) 藤原菅根